◆伊井暇幻読本本編・南総里見八犬伝「MockingBird」

 ここでMockingBirdと謂うのは、<(読者を)愚弄して囀(サエズ)る鳥>、ぐらいの意味である。モッキンバード。狂言回し、トリック・スター。八犬伝の前半で、なんだかんだと故事蘊蓄を振り回し、読者を煙に巻く人物が登場する。里見治部少輔源季基(サトミヂブショウユウミナモトノスエモト)の嫡男・又太郎冠者御曹司(マタタロウカジャオンゾウシ)こと里見義実(ヨシザネ)である。いや、本人としては眼前の事象を、自分なりに解釈して読者に披露しているのだが、度々的を外す。蓋を開けてみると、彼の精密なる推測とは、まったく逆の結果だったりする。読者を右往左往させるのだ。この右往左往が実は、読者にとっても楽しい。何故なら其処に、<意外性>が生まれるからだ。緻密な論理で読者を一応は納得させる。しかし、現実は、彼が描いて見せたモノとは、まったく違う様相を呈する。結局、これは彼が<捏造した意外性>に過ぎない。だが、読者は「またかよ」と言いながら、彼の狂言を楽しむのだ。
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 官位官職というものがある。官位とは、官人すなわち天皇制国家において朝廷もしくは地方(国、郡)の役人の、身分。皇族と非皇族では、やや異なる点もあるが、非皇族は正一位、従一位……正四位上、正四位下……従八位下、大初位上、大初位下、少初位上、少初位下の三十階となっている。数字は天皇からの<距離>と考えても良い。五位以上は各種の恩典があり、いはば<貴族>、三位以上は更に特権があり<上級貴族>と言える。
 官位官職については、岩波書店の日本思想体系『律令』と講談社学術文庫の『官職要解』が便宜である。この二冊は、多くの図書館にあろうし、大きな書店にも置いている筈。特に『官職要解』は安価でコンパクトなため座右の参考本として重宝である。ただし、何分、とても古い本なので、使用するに当たっては、新しい参考書、例えば吉川弘文館や山川出版社が出している辞典類で確認しながら用いた方が良いとは思う。マジに研究するなら、膨大な研究史の蓄積があるので、とても大変そうな気がする。
 官職は、役職である。法制と個々の実質的な機能は、此処では殆ど扱わない。或る時代から、官職は、ほぼ実質的な意味を失う。官職は律令もしくは慣例によって職掌が決まっていたのだが、古代後半になると、天皇を頂点とした、いわゆる律令(リツリョウ)体制は、秩序を失った。十分に機能しなくなるのだ。また古代末期になると、地方で、いわゆる武士階級が現れた。中央(京都)から派遣された地方官の親類や子孫が土着した場合もあり、また地元の人間が力を付けた場合もあったようだ。この武士たちも中央貴族や朝廷と関係を結んで、官職を手に入れた。武士たちは地元で、近隣の武士たちと「一所懸命(イッショケンメイ)」に争うこともあった。土地の奪い合いである。その場合の箔を付けるため官職を求めることもあっただろう。また、中央貴族の側も、収入は地方の荘園から得ていた。そこからの収穫の徴収を武士に任せるたりしていた。武士の忠誠心を持たせるために、官職を与えることもあっただろう。しかし、武士は地方の土地に本拠を置いていたため、官職を受けても、その仕事を果たせない。また、そんな期待もされていなかっただろう。また、武家は公家と同じ官位官職でも、格下とされた。
 もちろん、一部には機能していた官職もあったが、機能しない官職も多かった。天皇自体の機能が律令体制時と変わってしまったのだから、当然といえば当然である。元服と同時に親の官職を勝手に名乗ることもあったやに思う。また、近世に於いては、大名や旗本なども官職を名乗るけれども、それらは一括して幕府が朝廷に申請、希望通りに与えられていた。あ、いや、「希望通り」と言っても、好き放題に希望するのではなく、家によって越前守(エチゼンノカミ)とか侍従(ジジュウ)とか代々決まっていて、ソレを希望する。ただし、慣例として認められ得る官職であっても、同時に何人も同じ官職がいたら流石にマヅイので、「アンタ、伊予守を申請してるけど、豊後守に変えない?」とか調整したりした。テキトーなんである。こうなると、既に「官職」は、一種の<称号>に過ぎない。本稿が対象としているのは、八犬伝の時代、中世である。もしくは、八犬伝が書かれた近世である。此処では官職を、実質的意味を失い、せいぜい家格を表す、イメージの表徴ほどに、考えてほしい。また、馬琴が八犬伝を書いた江戸時代、読本や講談や落語などの文芸では、登場人物を官職で表す場合もあった。実質的な意味を失った官職は、称号として特定人物を示すこともあったのだ。
 また、官位官職に就いては、両者が「相当」した点も覚えておいてほしい。これを、「官位相当制」と言う。ある官職に就くためには、一定の官位に就いていることを要件とする、という制度である。従五位下の人が、いきなり官人の常設最高職である左大臣(サダイジン)にはならない。これは律令の「官位令」で、厳密に定められている。多少の幅はあったようだが。
 結局、ここでは、官位も官職も、天皇を頂点とする体制において、身分や格式を表す指標と考えてほしい。付言すれば、水平平面上で天皇を中心とする同心円が官位、天皇を始点とする放射線が官職のラインなのである。官位と官職で、天皇とのイメージ上の位置関係を表すのだ。
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 さて、八犬伝は、里見家という大名家に、生前からの因縁に導かれて八人の優れた武士が集まって同家を盛り立てる、という話だ。とても乱暴な要約だが。この里見家は中世後期、実際に千葉県南部に勢力を張った武士である。いわゆる「戦国大名」。南北朝時代の動乱を描いた『太平記』でも、後醍醐天皇の系譜(南朝ナンチョウ)の有力武士であった新田義貞(ニッタヨシサダ)の一族として活躍している。

 馬琴は八犬伝の中で、この『太平記』から幾つかのエピソードを紹介している。里見家のイメージを語る上で、この『太平記』は重要である。また後日、この点に就いては言及する機会があろう。

 安房里見家は、戦国時代に千葉県南部、旧国名で安房(アワ)上総(カズサ)に勢力を持ち、江戸幕府の時代が始まっても、暫くの間は同地方の大名として生き残っていた。江戸初期に、ある事件に連座、実質的に取り潰されて、断絶する。

 冒頭で出した里見義実は、後に「治部大輔」となり、最終的に「治部卿(ヂブキョウ)」となる。治部卿は、治部省の長官、大輔は上席次官、少輔は次官である。治部省は、神官や僧侶の人事なども扱った役所であるが、楽(雅楽など)を司る。「五行マジック」の末尾に挙げた『五行大義』「論諸官」の一節を再掲する。「周官に云う、天官は冢宰(会計を主ツカサドる)、地官は司徒(土地を主る)、春官は宗伯(礼楽を主る)、夏官は司馬(兵戎を主る)、秋官は司寇(刑罰を主る)、冬官は司空(造作を主る)」。このうち「宗伯」が、治部卿に当たる。「春官」である。くどい様だが、春は五行のうちの木気である。重要なのは、治部省が木徳を以てする役所であることだ。因みに「宗伯」は、夭逝した馬琴の息子の名前だったりもするが、作品を論ずるに当たって作者の個人的事情に余り深く踏み込む趣味を、私は有たない。また、分を超えもする。「宗伯」は単純に、「宗伯」とのみ考えておく。
さて、義実のフルネームは、里見治部卿源又太郎義実(朝臣)サトミヂブキョウミナモトノマタタロウヨシザネ(アソン)とでもなろうか。里見を名字とする治部卿で姓は源の生まれた時に付けられた名前もしくは呼び名は又太郎だが本当の名前は義実。長い名前である。

ところで現代では、名字と姓は同じモノとされているが、昔は違った。姓とは、簡言すれば<天皇を頂点とする社会で天皇/朝廷に認知された血統を示す標識>である。この姓を持っている家は、<血統書付き>なのだ。犬にもある、あの血統書である。ただし、犬ほど厳密ではなく、雑種になっても構わない。姓で代表的なモノは、源平藤橘(ゲンペイトウキツ)といって、ミナモト、タイラ、フジワラ、タチバナである。このうち藤原だけ、ちょっと違う。他は、天皇の子供が皇族の籍を離れ、即ち「臣籍降下(シンセキコウカ)」したときに天皇/朝廷から与えられたものだ。藤原だけは、元々臣である。ただ、藤原氏は歴代天皇家の外戚となったので、皇族に限りなく近いのだが。姓は天皇/朝廷から与えられるものであり、勝手に名乗るモノではない。これに対して名字は、勝手に名乗っても良い。新田という土地に住む源氏が新田を名乗り、足利(アシカガ)に住む源氏が足利を名乗った。

 『尊卑分脈(ソンピブンミャク)』という系図を集めた本がある。これがない図書館は、まずなかろう。開架している図書館も多い筈だ。大昔の貴族というか学者が、上の四姓の氏族を中心に系図を集め注釈を施したものだ。これまた、古い本なので、史実と違う部分もあるようだが、前近代においては、権威ある家系の参考書として大名家に秘蔵されていたりした。
 里見が属するのは源氏である。源氏といっても色々ある。村上天皇の皇子から派生したのは村上源氏、醍醐天皇の皇子から出たのが醍醐源氏、他にもある。そして清和天皇の皇子を祖とするのが、後世に最も勢力を広げた清和源氏(セイワゲンジ)である。この清和源氏から、「八幡太郎(ハチマンタロウ)」と呼ばれた義家(ヨシイエ)、「鎮西八郎(チンゼイハチロウ)」と呼ばれ馬琴の傑作『椿説弓張月(チンセツユミハリヅキ)』の主人公でもある為朝(タメトモ)など有名な武人が輩出した。また、この源氏は真っ白な旗印を使った。<源氏の白旗>である。白は五行のうち、金気を象徴する。里見家は、この清和源氏に連なっている。

 清和源氏も苦汁を嘗(ナ)めた時代があった。桓武天皇の後胤(コウイン)桓武平氏(カンムヘイシ)の台頭である。平治(ヘイジ)の乱という元天皇/上皇が現天皇に対し企てた反乱で、反乱に与した清和源氏の主立った者が、ほぼ全滅した。平清盛(タイラノキヨモリ)らが権勢を振るった。清和源氏で、どうにか生き残ったのは、頼政(ヨリマサ)など一部に過ぎなかった。この頼政も以仁王(モチヒトオウ)という皇族を擁立して平氏を討とうとしたが失敗、死亡した。
 しかし、この頼政の挙兵によって、全国に散らばった清和源氏の関係者が、それぞれに反平氏の兵を起こすことになった。東国にいた頼朝(ヨリトモ)も、その一人だ。反乱を起こしたときに「前右衛門権佐(サキノウエモンゴンノスケ:王城の門を守る右衛門府ウエモンフの定員外次官の前任者)」であったが、後に「征夷大将軍(セイイタイショウグン)」として、<鎌倉幕府>を開いた、あの頼朝である。

 頼朝は、緒戦で敗北する。「石橋山の合戦」である。頼朝は、挫けなかった。戦場近くの山に逃げ込み、追っ手の前から姿を消した。『源平盛衰記』では、ここで頼朝が「臥木(フセギ)」のウロに隠れ、それからウジャウジャあって、どうにか落ち延びたことになっている。事実かどうかは別として、ありそうなエピソードに仕立てられている。
 しかし、このエピソードに関して馬琴は、八犬伝の登場人物の口を借りて、<頼朝は木遁(モクトン)の術で姿を隠した>と言っている(第二十八回)。八犬伝中で火遁(カトン)の術を使う火精・犬山道節(イヌヤマドウセツ)によると、姿を隠す「隠形(オンギョウ)」の術には「木遁」「火遁」「土遁」「金遁」「水遁」の五つがあって、それぞれ木に火に土に金に水に、姿を隠す。
 まぁ、ここは道節の言に従って、頼朝は木遁の術で追っ手の目から逃れたということにしておこう。頼朝は三浦半島から海路、安房を目指す。そこで勢力を立て直し、再び平家方の武士に戦いを挑む。やがて勝利を収めて、後には<武家の棟梁トウリョウ>として天下に号令を下す。

 八犬伝中で里見義実は、下総国の結城で戦い敗れ、三浦半島から海路、安房へ渡った。そのとき偶々現地の最大勢力だった大名家で御家騒動が起こっていた。混乱に乗じて義実は、<源氏の白旗>を押し立て、兵を起こした。所領を横領、やがて勢力を伸ばして、安房の国主(コクシュ)となった。また、その過程で八犬伝は、義実を頼朝に度々擬している。まるで、義実を頼朝の再来だと言いたげに。 

 さて、頼朝は源氏であるから、氏族としては金気である。里見も源氏である。だから白旗を押し立てて戦場に赴いた。金気である。また、頼朝は「木遁の術」を使った。木気を帯びていたと考えられる。義実は<木徳を以てする春官>こと「治部卿」となった。木気を帯びていたと考えられる。また、義実は「仁君」である。何度も馬琴は、そう書いている。「仁」は木徳である。理想的な仁君は、金気だけでは不足だ。木気を帯びなければならない。故に、木徳を以てする官職/治部卿を宛い、木気を注入せねばならなかったのだ。
 頼朝と義実、両者はともに、金気と木気を融合させていた。木と金、続けて言えば、もくきん、モッキン……MockingBird……

 ……またも余談なのだが、此処で読者は首を傾げているのではなかろうか? 白旗を用いる源氏が金気なら、赤旗を用いる平家は火気だろう。火気を滅ぼすべきは、<水克火>の理に拠り、水気だ。話が噛み合わない。北条氏は平家で火気、故に木気を帯びた頼朝を助けることは、<木生火>から演繹される<火扶木>の理から肯定すべきにしても、平家を滅ぼすとは、理屈に合わない。……確かに、そうなのである。ただ、平家を滅ぼしたのは、頼朝ではなかったりする。頼朝は、平家が滅んだ後に、実権を握っただけなのだ。平家を滅ぼしたのは、頼朝の弟である判官義経(ハンガンヨシツネ)だ。そして、私は義経を、水気を帯びた者だと理解すべきだと考えている。何故なら、近世に於ける義経像とは、美少年なんである。美少年を痴漢することは、あ、いや、美少年を美少女に置換できると考えることこそ、前近代の感覚だったかもしれない。中世に成立した義経の伝記小説、『義経記(ギケイキ)』なんか見ても、義経は中国の「楊貴妃(ヨウキヒ)」とか「李夫人(リフジン)」に擬せられる程の別嬪で、女装する場面もある。しかも、近世の民衆は、義経と弁慶が同性愛関係にあると決めつけていたフシもある。勿論、義経が女性役だ。そして、馬琴は八犬伝の前半で、<女性は水気>だと何度か繰り返している。このフレーズを、一見して、女性とは確固たる意思もなく周囲の状況に<水の如く流される>存在だ、と解釈するムキもあるかもしれない。しかし、残念ながら、八犬伝中の女性は、伏姫も(初代)浜路も蟹目上も音音も船虫も、自己の意思に基づいて活躍する。少なくとも八犬伝世界に於いては、一般論として、女性は「水の如く流される」存在ではない。やはり、五行説に於ける「水気」の意味をも含ませていると解釈せざるを得ない。だからこそ、水気に配当される智の玉を持つ犬士・毛野は、女装せねばならなかった。彼は別に、好きで女装していたワケではないのである。信乃は好きで女装していたのかもしれないが……。まぁ、そんなこんなで、女装が似合い院の寵愛を受けて不細工な兄・頼朝に嫌われる義経は、水気を帯びていたかもしれないのだ。だからこそ、毛野と同様に天才軍師であり、其の軍略を以て平家を滅ぼしたのだろう。水克火。五行相克の理は、貫徹される。

 あぁ、話を戻そう。八犬伝中で華々しい活躍を見せる義実、現代の史家からは<頼朝の行動を倣う理想化された架空の人物>との説も提出されている。そうだったかもしれない。そうであるならば、馬琴は、理想化された人物を更に理想化して、八犬伝を書いたことになる。ここで馬琴が参考にしたと思われる、幾つかの史料、「里見九代記」「里見軍記」「房総里見軍記」「里見代々記」いずれも、『房総叢書』所収だが、安房里見家の祖を「義実」としてはいるが、あまり詳しい記述はない。
 これらの史料は、多くは里見家を、源氏から派生した「新田氏」の分家であると言っている。しかし、「里見代々記」は義実を「足利刑部大輔義実」と表記し、「安房里見元祖(の)足利尊氏」と書いている。史実ではなかろうが、南北朝の争乱で負けに回った新田義貞(ニッタヨシサダ)の親戚だと言うより、後に幕府を開いた足利尊氏の末裔だと主張した方が、何かと便利が良かったかもしれないし、近世初頭まで続いた安房里見家は二両引き、即ち足利家の紋所を用いていた。まぁ、<義実尊氏子孫説>は、馬琴の耳に入ったかもしれぬ一つの<情報>ではある。もとより足利氏は源氏であり、新田氏の支流であると言い得る血脈だ。互いに全く関係ではないし……。実は『太平記』に登場する人物で、「治部大輔」「治部卿」の官職を有する武士がいる。この人物こそ、足利高氏(アシカガタカウジ)、後の尊氏である。ただ、高氏→義実と考えることには、躊躇ってしまう。八犬伝中で馬琴が示す同情は、『太平記』の南朝側、新田義貞や楠正成らに向けられている。足利尊氏は、南朝とは別の天皇を奉戴した北朝の有力武将だ。馬琴は八犬伝中、里見家は、南北朝の争乱において、一族でもある新田義貞と共に南朝側として活躍したと、記してもいる。しかし、全く無関係でもないような気が……。この点については、まだ判断を下せない。

 「里見九代記」などでは、いずれも、義実の官職は「刑部少輔(ギョウブショウユウ)」もしくは「刑部大輔」だとしている。刑部省は司法関係の部署だ。「治部少輔」もしくは「治部大輔」、「治部卿」としているものはない。また、いずれも義実の父を「季基」ではなく、「家基(イエモト)」としている。そして、『断家譜』(文化六年、田畑吉正:既に断絶した武家の家系を編集して考察を加えた本)では、義実の官職を「刑部少輔」そして父の名を「家基」とする説を採用している。これらの史料は、いずれも家基の官職を「刑部少輔」としている。因みに、刑部省は文字通り司法を職掌とし、司法は金気に配当されるから、金気たる源氏に相応しい官職だったりもする。
 どうも、義実の官職を治部省系のものとし、父の名を季基としたのは、馬琴の作為のような気がしてならないのだ。確かに、「刑」と「治」、一字の差違という些末な事は、如何でも良いかもしれない。そうも思う。しかし逆に、些末なことなら、馬琴は残存する史料の通りに「刑」の字を使ったとも思うのだ。やはり、これは、些末なことではなさそうだ。馬琴には、義実の官職を「治部卿」に、父の名を「季基」にする、積極的な意図があったと考えられる。そして、他でもない「治部卿」である所以は、上に縷々(ルル)述べた。では、父の名を「季基」とした理由は?……申し訳ないが、この件に関しては考えがまとまっていない。また、今回予定していた行数も尽きた。
  慌てることはない。義実、このMockingBird/狂言回しに就いて語りたいことは、まだまだあるのだから。

(お粗末様)
 

                                                   

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