◆伊井暇幻読本番外編・南総里見八犬伝「五行マジック」
十二支、子丑寅卯……ってのを御存知だと思う。十二支である。もちろん、動物ではない。「子(ネ)」なんて動物はいないし、「酉(トリ)」なぞという鳥もいない。ましてや、「辰(タツ)」なぞというものには、お目にかかったことがない。しかし、いつの頃からか実在の、もしくは架空の動物を当てるようになった。それもまた、意味のないことではない。現代でも、正月近くになれば、新年にちなんで、「丑(ウシ)」やら「寅(トラ)」やらの張り子が出回り、年賀状の絵柄にも採用される。実際に経済の一部を動かしているのだから、<迷信>だと無視するワケにもいかない。
子はネズミ、丑はウシ、寅はトラ、卯はウサギ、辰はリュウ、巳はヘビ、午はウマ、未はヒツジ、申はサル、酉はトリ、戌はイヌ、亥はイノシシ。御存じの通りである。これら十二字の意味を『五行大義』に求めると、
子は、<陽気に促されて種子から芽が出る状態>、
丑は、<芽生えが続き地表を目指す状態>、
寅は、<地上に芽が出る状態>、
卯は、<地上に多くの芽が出そろう状態>、
辰は、<若葉がもうひとつ成長して成熟した形態に変わろうとする状態>、
巳は、<形態として成熟しきった状態>、
午は、<成熟した形態の植物が大きくなる状態>、
未は、<陰気によって衰えが見え始める状態>、
申は、<衰えつつも更に大きく成長している状態>、
酉は、<成長が完全に止まった状態>、
戌は、<滅び始める状態>、
亥は、<生命は種子に閉じこもり次世代への準備に入った状態>、
だという。最初の「子」は子供の状態、月満ちなんとする胎児である。また、最後の「亥」は木ヘンを付けると「核」即ち「種」である。簡単に云えば、十二支というのは、一年をライフ・サイクルとする植物の一生を十二に区分したもののようだ。
さて、ここに<マジック>が隠されている。この「ライフ・サイクル」は、一個体の発生から死滅までを扱ったものではない。さりげなく、二つの<個体>、母と娘を、断絶なく繋がったものとして一つのサイクルに組み込んでいる。そもそも此処には、完全な<死滅>という概念が存在しない。生命は、次の世代に継承される。このライフ・サイクルは、個体としての回路ではなく、種として循環する道筋を辿ったものだ。止まらず流れ行く時間と、生命は共にある。
八犬伝は、犬士と呼ばれる八人の侍、七人ではない、八人の侍を主人公にした物語である。上に拠ると、「戌(イヌ)」は<滅び始める状態>だ。なんだか、とても縁起が悪そうである。原文では、「戌者滅也殺也(戌とは、滅という意味であり、殺という意味だ)」(『五行大義』「論干支名」)。とても物騒である。ただ、さて、今では「殺」は、「生命を奪う」という意味ぐらいでしか使わないが、「やっつける/勢いをなくす」ぐらいに軽く受け取った方が良い場合もある。
「相殺(そうさい)」という言葉がある。これは<両方から差し引きして規模を小さくする>という意味で使う。その「殺」である。しかし、この「相殺」なんどという言葉は、民事法廷やら何やら、硬い場面でしか使わないが。
ところで、法廷や役所など、お硬い場所では、文書に登場する人物や法人を、「甲(こう)」とか「乙(おつ)」とか、古くさい言葉で表現している。昔の学校の通信簿でも、「甲乙丙丁(こうおつへいてい)」と段階評価していた。
この「甲乙……」は元来、十干(じゅっかん)と言って、五行説に基づいた時間の単位である。十二支の「支」と十干の「干」を合わせて、「干支(かんし)」と謂う。十二支は月、十干は日の単位である。此処では、より一般的に残存している十二支を先に書いたが、本来は「十干十二支(じゅっかんじゅうにし)」と言う如く、十干を優先する。「日」というものが確定して、しかる後に、月を認識する、という順序である。
この甲乙丙丁だが、モロに五行説の産物である。五行説は、世界もしくは宇宙を五気、木、火、土、金、水の五つの気によって構成されていると考える。甲乙丙丁戊己庚辛壬癸。これを訓読みすると、「きのえ(木の兄)」「きのと(木の弟)」「ひのえ(火の兄)」「ひのと(火の弟)」「つちのえ(土の兄)」「つちのと(土の弟)」「かのえ(金の兄)」「かのと(金の弟)」「みずのえ(水の兄)」「みずのと(水の弟)」となる。木火土金水を、それぞれ兄と弟、勢いの強い方と弱い方に分けたのだ。
昔の暦は、この十干十二支を組み合わせていた。一列目に十干を書いていく、二列目に十二支を書いていく。十と十二の最小公倍数は、六十である。だから、十干を六回、十二支を五回書いたところで、初めの組み合わせに戻る。暦は六十年を一まとまりと考える。数えで六十歳になることを、暦が還(かえ)る、「還暦」と謂う。別に六十歳になるとボケて幼児に戻るから、というのではない。六十歳は、まだ若い。
さて、さっき、木、火、土、金、水と書いたが、この順番には意味がある。十干も、この順である。十干と十二支を組み合わせると六十年で一回りする、などと何気なく書いたが、これが甚だ重要なポイントである。何故なら、十と十二の組み合わせなら、百二十ないとオカシい。しかし、六十しかない。十干も十二支も一定の方向性を持った記号である。だから、逆には進まないし、足踏みもしない。「甲子(きのえね)」から始まって、「癸亥(みずのとい)」で終わる。十干十二支は任意に組み合わせることが出来ず、上のように順番に組み合わせなければならない。故に、あり得る可能性のうち半分の組み合わせしか出来ないのだ。
では何故に、この順番なのか。木、火、土、金、水。モッカドゴンスイ。なんか語呂合わせが良い。語路合わせで、決まっているのであろうか? しかし、そうではない。この順番は、「五行相生の理」によって保証されてる。即ち、<木は火を生む><火は土を生む><土は金を生む><金は水を生む><水は木を生む>という五つの定義を繋ぎ合わせた結果であろう。
「生む」と言っては、イメージしにくいかもしれぬ。言い換えると、<木は火を燃やす><火は物を焼いて土にする><土からは金属が産出される><金は水を生じる><水は木を育てる>。このうち、<金は水を生じる>について補足すると、まぁ、金属だけではないが、湿度や温度が変わると、表面に水滴が生じる。そして、金属は水分を吸収しにくい。表面に生じた水滴が、表面に見られ易い。昔の人は、別に雨も降っていないのに金属に水滴が生じているのを見て、「水は金属から生じるんだなぁ」なんぞと考えたのだろう。
電子顕微鏡とかがない時代は、世界に対する大雑把な知覚、認識が元になって、科学/哲学が説明されていたのであろう。まぁ、現代から見れば、<非科学的な迷信>に過ぎないが。しかし、考えてみれば不思議である。近代の自然科学は、昔のソレより、より多く、自然に関する精確な知識を持っていたと言われている。それは確かに、事実だろう。しかし逆に、自然とうまくやっていけなかったことも事実だろう。昔は、知らなくても、いや、知らないからこそ、うまくやっていたのかもしれない。
知らなければ、下手な手出しはしない。神様が怒るから木を切らなかったり、治水しなかったりした。知らない方が、結果的にうまくいくのは、よくある話である。知ったら何とかなると思って知りたい知りたいと努力して、その挙げ句に気付いたら、何とかなるどころか、何だか予想もしなかった場所に行き着いてた。まぁ、知るのは良いが、必要十分な知識を完全に持たないと、知識の意味は半減する。それだけのコトではあるのだけれども。
譬えば、八犬伝の中で最も賢(サカシ)い人間は、犬阪毛野(イヌザカケノ)という年少の武士である。ついでに言うと、美少年である。しかも残忍な部分もある。残忍な美少年……なんだか、退廃的だ。そして、この「智」の玉を持つ天才戦術家は、国土防衛戦争において一挙に膨大な数の人間を焼き殺し、自国を勝利に導いた。勳一等である。しかし、主要登場人物の中で、<第一の学者>と評価されるのは、温厚で無口な犬村大角(イヌムラダイカク>という、「礼」の玉を持つ武士であった。
実は、敵を焼き払う作戦を立案したのは毛野だが実行犯二人のうち一人は大角である。何せ、火を走らせるためには、水の精たる毛野は不適であり、それが故に美少年・毛野は「大角さんじゃなきゃダメなんだもん」と火精・大角を抜擢したのだ。この条(クダリ)は甚だ興味深いため、後に番外編で一編に仕立てる予定がある。
この大角、「姑の陰口」でも書いたが、大型犬とジャレ合って喜ぶ、どちらかといえば、好青年タイプである。犬飼現八(イヌカイゲンパチ)好みの色白美男子でもある。彼はあまり、知識を披露したりはしない。何かと資史料を引用して喜んでいる夢幻亭衒学や伊井暇幻なぞといぅ族(ヤカラ)とは、正反対の人間である。まぁ、<知は力>ではあるが、自らの首を絞めることだってあるものだ……今日の教訓<ホモ・サピエンス(智恵あるヒト)は墓穴を掘り、ホモ・セクシャルはオケツを掘る>……(だから、止めろって、そぉいぅ冗談は!失礼だろぉが、ホモの人たちに)。……ああっまた脱線してしまった。
まぁ、結局、相生の理によって、時間というのは流れているのである。
逆に「相剋の理」といぅのもある。互いに滅ぼし合うのだ。これは<木は土に剋(か)ち><土は水に剋ち><水は火に剋ち><火は金に剋ち><金は木に剋つ>。三竦み、ならぬ<五竦み>である。言い換えるなら<木は土を侵食して根を広げ><土は水を堰き止め><水は火を消し><火は金を溶かし><金は木を断ち切る>。木>(←不等号)土>水>火>金、しかし、金>木。それは無限階段のように怪しくも永遠に続くサークル、<循環>である。
ただ、その剋し方が、それぞれ、ちょっと違う。水が火を消すとは、跡形もなく消すことを意味する。そして、金が木を断ち切るときも、バッサリと後腐れ無い。相手を完全に死滅させてしまったりする。一方、木が土を侵食したとて、土を消滅させるワケではない。金は火に溶けるが、なくなるワケではない。却って、一度は溶かさなければ、人の<用>には立たなかったりする。
死とは陰、生とは陽。水と金が相手を殺し尽くそうとするのは、根が陰だからである。水は冷たく太陰、金はヒンヤリと少陰。火と木が相手を完全には死滅させないのは、生を喜ぶ陽の性質を持っているからである。熱い火は太陽、シットリと温かい木は少陽。ならば、土は? ちょっと狡い言い方だが、よく分からない。両方、と言っておこう。水を堰きとめるだけのときもあれば、埋め尽くすこともある。この土、五気の中で特殊な位置にある。万物を包蔵する可能性を秘めた気なのだ。例えば、春夏秋冬は五気のうち、それぞれ木、火、金、水に配当するが、土は独自の季節を持たない。その代わりに、四季それぞれに十八日ずつ、「土用」を分かち持っている。
しかし単に「土用」と云えば、夏と秋の間の土用を指す場合が多い。鰻を食う、あの「土用」である。「土用」は、ここが一番、据わりが良いのだ。春夏に、木→火と順調に推移した季節は、夏から秋になるために、火→金となる。しかし、相剋の理「火剋金」により、前の季節が次の季節を滅ぼそうとしてしまう。これは、困る! さっき、<時は五行相生の理により進み、循環する>みたいなことを言ったばかりである。昔の人も困った。そこで、土用を思い出した。春にも秋にも冬にもある土用だが、夏の土用を、「これぞホントウの土用」とした。夏と秋の間に土用を挟むと、時の流れがスンナリいくのである。
夏→土用→秋は、火→土→金という、相生の理に保証されることになる。これが、「五行マジック」である。<詐欺>とも言えるかもしれないが……。しかし、まぁ、理屈は通るのである。その苦しい論理の綱渡りに、淫靡じゃなかった隠微な馬琴が目をつけない筈がない。実は、八犬伝は、この矛盾とも見える陰陽五行説のウイーク・ポイントに楔を打ち込み、自らを固定しようとしている。甚だ危うい。その危うさが、八犬伝の妖しい輝きでもある。
ちなみに、日本の天皇も中国の皇帝も、最高の礼服は黄色であった。黄色は、「土気」を象徴する。他の四気を包み込み、そして率いるのは「土気」しかないのである。とはいえ、天皇/皇帝が、黄衣を着することは、天皇/皇帝を「土気」に配当するといぅのではなく、形式として「土気」を纏う、ぐらいの意味しか、実は、ないのである。別に天皇/皇帝が本質として「土気」であると言っているわけではない。
さて、行数も尽きてきた。上では主に、五行の基本原則、<相生><相剋>の理を紹介した。以下は、補足である。
「扶抑(フヨク)」
「扶」は「扶(たす)ける」である。助ける。これは「相生」の理から展開できる。相生の関係を母子に擬(なぞら)える。生む方が母、生まれる方が子。子は母を扶け、母は子を抑(おさ)える。よって、<火は木を扶け><土は火を扶け><金は土を扶け><水は金を扶け><木は水を扶ける>。しかし逆に、<木は火を抑え><火は土を抑え><土は火を抑え><金は水を抑え><水は木を抑える>。「抑」は凶」とも言われている。
「五行と方位」
木は東、火は南、金は西、水は北。土は中央。
「五行と季節」
木は春、火は夏、土は土用、金は秋、水は冬。
「五行と色」
木は青、火は赤、土は黄、金は白、水は黒。里見は源氏であるため白旗を用
い金気。赤旗の平氏は火気。
「五行と徳目(五行)」
木は仁、火は礼、土は信、金は義、水は智。信を水、智を火とする説もあるが、「姑の陰口」で説明したように、馬琴は八犬伝中で、信を土、智を水としていると考えられる。
「官職」
『五行大義』論諸官「周官に云う、天官は冢宰(会計を主ツカサドる)、地官は司徒(土地を主る)、春官は宗伯(礼楽を主る)、夏官は司馬(兵戎を主る)、秋官は司寇(刑罰を主る)、冬官は司空(造作を主る)」。