番外編「結果WholeRight」
 
       ―――海の記憶シリーズ5―――
 
 

  蓬莱は道教のユートピアだ。仙境である。が、八犬伝後半は、仏教的雰囲気が濃厚となっていく。例えば、「尸解」なる者が登場する。この概念が導入されたのは、犬江親兵衛仁に纏わる、画虎実体化事件であった。事件が落着した段階で、唐突に一休禅師が登場する。有名人、風狂で頓知があって徳が高く帝の落胤って噂もあった男色坊主だ。幕末の読者にとって、一休宗純は親しみある名前であろうから、唐突に登場しても、何となく受け入れてしまっただろう。
  其処が馬琴の巧みである。スンナリ受け入れ読むうちに、実は既に一休が死んでいると明かされる。騙し討ちだ。驚く読者に馬琴は、(登場人物の口を借りて)説明する。徳の高い僧は、死んでも死なず何処かに存在し続ける。これを「尸解」という。読者は一応、納得する。余りにも有名な一休によって導入された「尸解」なる概念だが、暫くして丶大も尸解する。
 此処で読者は馬琴の罠に気付く。唐突に登場した一休は、丶大が尸解する前振りだったと。読者は改めて、馬琴の底知れぬ力量に感嘆する。室町期、画虎に纏わるエピソード(画虎を捕らえよと命じられ追い出したら捕まえてやると切り返した)を残した一休を、画虎実体化事件の締め括りに持ってきたってだけでなく、後の展開に必要な概念(尸解)を導入する役割を担わせる。さり気なく、スムーズに話を進めながら、何時の間にか読者を、アヤシイ世界に引き擦り込んでいる。見事と言う外ない。
  そして、記述の上では、丶大尸解の遠からざる後に、八犬士も富山に入り死んだんだか如何だか分からない状態となる。これも、尸解/仏教に於ける<不老不死>っぽく読めてくる。しかし、素直に読めば、また挿し絵を見れば、彼らは道家の桃源郷、いや蓬莱山に遊ぶ仙人っぽい。が、富山は伏姫/観音菩薩の縁地であり、丶大が尸解して岩室に籠もった場所だ。仏教の聖地として表されている。
 抑も八犬伝世界を主宰すると思しき役行者は、一応、仏教者だ。蓬莱なら、元来、仏教と関係がなく、仏様が住んでいる筈はない。いる筈がないんだけれども、仙境っぽい富山に、観音菩薩/伏姫は居る。道教と仏教の混淆だ……と言えば何やら大袈裟に聞こえるけれども、両者の違いは専門家である道士や僧侶もしくは熱心な信者にとって大問題に違いないが、一般人には如何でも良いことだ。何やら有り難そうな霊地に、何やら有り難い仙人やら尸解やら観音様やらが居る。それだけのことだ。道教と仏教を峻別すること自体、さほど意味があるとは思えない。嘗て「仏教」は、生活感覚や倫理に影響を与えていた。「仏教」と名付けた途端に<特別なモノ>みたいに感じるけれども、過去の世界では、まるで空気の如く、当たり前に存在し、人々の心に肉体に、染み付いていたことだろう。空気には、色んなモノが混じる。

 また、仏教と同様に、道教的世界観も日本には早くから、遅くとも聖徳太子の時代には、流入していたようだ。「天皇」なんて語彙は、まさにソレだ。そういう伝統があってこそ、美少女・旦開野こと毛野は、桃の簪を挿し、対牛楼で桃源郷をテーマにした舞を披露する。桃源郷は、道教に於ける<理想郷>だ。馬琴は、中国小説に造詣が深かったという。もとより前近代の中国小説は、道家の影響を強く受けているものが多いようだ。このため、馬琴は、一般の日本人よりも、道教への理解があったと考えられる。馬琴の、道教に関する造詣は、当然、八犬伝にも反映されただろう。ならば、富山は蓬莱であるのか? 蓬莱の雰囲気はある。が、やはり、富山を蓬莱とは呼ぶには抵抗がある。蓬莱に似た世界が、仏教にあれば、ソレが正解だろうが……。
  道家もユートピアを持ったが、仏教にだって理想郷はある。阿弥陀如来が棲む「極楽浄土」、文殊菩薩なら「浄瑠璃世界」、そして、観音菩薩が主宰するのが、「補陀落」である。
 中国の唐代、三蔵法師って坊さんがいた。飛行機もない時代だったが、仏教の本場、印度を目指した。天竺である。猿・雉・犬の三匹……ぢゃなかった、猿・豚・河童の御供を連れ、漫遊した……か如何かは知らないが、とにかく大旅行、いや大冒険を敢行した。運良く生還して、皇帝の勅命に依り、「大唐西域記」を書き上げた。書き直され、日本にも伝来した。南印度の章である巻十に、補陀落に言及した部分がある。

前略……達羅毘荼国(南印度境)……中略……自此南行三千余里至秣羅矩咤国……中略……国南浜海有秣刺耶山……中略……秣刺耶山東有布●(口に旦)洛迦山山径危険巌谷●(奇に敲のヘン)傾山頂有池其水澄鏡流出大河周流繞山二十(匚の中に申)入南海池側有石天宮観自在菩薩往来遊舎其有願見菩薩者不顧身命?水登山忘其艱険能達之者蓋亦寡矣而山下居人祈心請見或作自在天形或為塗灰外道慰喩其人果遂其願従此山東北海畔有城是往南海僧伽羅国路……後略
 ダラビダ国(南印度境)から三千里余りのマラクド国南部海岸にマラヤ山がある。マラヤ山の東にフダラク山がある。山道は危険であり谷は深く切り立っている。山頂には池がある。水は鏡の如く澄み渡り、滔々と流れ出している。大河となって山を巡り、南海に注いでいる。池の側には石造の建物がある。観音が時折訪れ修行した場所だ。水を冒し山をよじ登り其の苦しさを忘れるほどの情熱を持った者のみが、観音に逢うことが出来る。まぁ、達成する者は極少数であろう。山を登れない者は、或いは心に見ることを願い、或いは観音像を作り、或いは酷い呪術を行う。そのような人がいれば、観音は教え諭し、願いを遂げさせる。フダラク山の北東浜には、城がある。此処から南海のソキャラ国へ行くことが出来る。
 ……面倒なので、辞書も引かずにイーカゲンに訳したが、だいたい、こんなモンだろう。面白くない。抑も、三蔵法師の旅なのに、孫悟空が出てこない。こんなのは、詐欺である。ってのは冗談だが、実在の場所だから、詰まらない。いや、此は、まだ印度/天竺であるから許せる。唐代、日本は蘇我馬子やらの時代であった。唐だって遠いのに、其の唐から大冒険を経ねば辿り着けない土地なんて、もぉ想像するしかない。それでなくとも、三国史観といぅのがあって、いや、別に三国志演義にハマった青少年の史観ではなくって、日本・唐土・天竺の三国が(ほぼ日本人に了解し得る)世界の全域であるって考え方が、前近代には蔓延していた。だから、「三国一の果報者」と言えば、<世界一の幸せ者>ぐらいの意味になる。そんな世界観で、印度/天竺といえば、そりゃぁ地の果てって事で、エキゾティシズムを掻き立てる。だから天竺の南端にある補陀落は、実質的に<行けない場所>だ。空想世界と同じである。しかし、此処に「補陀迦山伝」(洞宇封域品第二)がある。ちょっと引こう。
前略……世伝蓬莱方丈在弱水中非飛仙莫能到昔秦皇漢武窮年遠討労神苦体卒如捕風追影終不得其涯●(サンズイに矣)今小白華山距四明不遠為聖賢託跡之地石林水府神光瑞像雖在驚濤駭浪之間航海乗風刻日可至……後略
 此は中国の補陀落である。「蓬莱なんかは空を飛ぶ仙人でなければ行けないが、補陀落は、まぁ荒波の向こうとはいえ、数日で行ける」。暗に、道家が説く蓬莱なんて在るか如何かも分からないし、だいたい仙人でもなけりゃ行けない。其れに比べて仏教の補陀落は、簡単に行ける。行けない聖地・蓬莱か、目の前にある補陀落か、御利益が実際にあるのはドッチだろう? 貴方はドチラを信じるか? と言っている。因みに小白華山が補陀落に比定された由来に、一人の日本人僧侶が関与していたが、詳細は略する。
 補陀落は、幾つもある。って言うか、補陀落に比定される場所は幾多ある。<信じれば其処が補陀落>なのだ。「補陀落」は各地に在る。種明かしは至極単純だ。補陀落は、観音の在所である。特定の場所があって、其処に観音が棲みついているのではない。観音は、衆生を救う為、時々に姿を変えて、神出鬼没、何処へだって化現する。仏教の出前持ちなのだ。だから、数多ある「補陀落」は、観音が嘗て出現した場所に過ぎず、「補陀落」そのものと言うよりも、補陀落出張所なのだ。上記は、印度、中国の補陀落だが、日本にも、補陀落に比定される場所は幾つもある。日本に於ける「補陀落」で最も信仰を集めたのは、熊野那智だろう。
 「熊野の御本地の草子」なる説話がある。熊野の縁起といぅか聖地となった由来を記したものだ。中世に成立した。こういう物語を暗記した尼、熊野比丘尼と呼ばれたが、彼女らが全国を回り、熊野への信仰を掻き立てようとしていた。ついでに名物の熊野午王を売ったりもしたが、近世に於いて、彼女たち、<春>も売ったと言われている。さて、熊野の御本地の草子、タイトルもまだるっこしいが、内容も諄い。口述文学らしく、話の飛躍もあったりするが、要するに悲劇仕立てのオトギバナシである。天竺・摩訶陀国の大王・善財王に纏わる話だ。要約して紹介する。

 善財王は、スケベェだった。千人の女性をハーレムに囲っていた。贅を極める暗愚の王は、後宮三千人、巨大な奥を持つものだが、如何やら善財も同類であったか。しかも、民衆は「貧苦」に喘いでいた。塗炭世界に陥った民衆を見下ろしつつ、千人の女性を侍らせる善財、碌なヤツではない。善財は或る日、宮殿の政務所で庭木を見つめていた。仕事しろよ。庭木には、小鳥が子鳥と睦じく寄り添っていた。詰まらぬ者でも、いや、だからこそか、善財は恩愛に目覚めた。また、彼は老後に自分を世話する者が欲しくなった。子供を作ろうと思いたった。
 彼は後宮の女性を巡った。が、まったく見向きもされぬ側室が居た。五衰殿に住む「弁の宰相の御女せんかう女御」(以下、女御)である。彼女は一杖二尺の十一面観音像を造り祈った。即ち仏教呪術を用いた。六年の時が過ぎた。十月、善財は、宮殿の政務所でボンヤリしていた(だから、仕事しろってば)。ふと大臣に尋ねた。「後宮には千人の女性がいる筈だが九百九十九人としか寝た覚えがない」。数えていたのか、変態め。大臣は答えた「残る一人は女御です」(何故、知ってるんだ)。
 善財は女御が住む五衰殿に赴いた。そして、十八九歳の女御にハマったのである。……待てよ、女御が男を熱烈に欲しがり始めたのが六年前だから……十三歳で色気づきやがったのか、しかも数え年。まぁ良い、話を続けよう。女御に如何な性的魅力があったか、草子は伝えていない。が、後宮に入る以上、一定程度の魅力を有する女性ばかりであったろうに、九百九十九人を袖にしてまで通い詰めねばならない相手とは、いったい。単に肉体的な魅力の持ち主であったか、床上手であったのか。
  だいたい、八犬伝でも、家中の治めをキチンとしていることが、名君の条件だ。仲睦じい里見家みたいに。家畜じゃあるまいし、側室に跡取りの出産を競わせるような犬山家には波乱の起こる必然性があるし、道節みたいなバカも生まれる。道節で思い出したが、八犬伝時代に於ける実在の武将で江戸開拓の功労者とされる太田道灌ってのがいた。文武両道に優れ、特に和歌の道で評価されている。八犬伝にも、名前だけは登場するが、犬士と直接には絡まない。馬琴の時代にも子孫は大名として存続していたし、それどころか老中になったりもした。道灌は、ラインとしては犬士と敵対せねばならぬ立場だし、悲劇の名将、ドッチかってぇと歴史上の<善玉>ってコトになっていただろうから、面倒を避けるために、犬士と絡ませなかったんだろうけども。で、太田道灌には、以下のような説話が残っていたりする。
太田道灌は文武の将たるよし。最愛の美童弐人ありて其寵甲乙なかりしに、或日両童側に有りしに、風来りて落葉の美童の袖に止りしを、道灌扇をもつて是を払ひけるに、壱人の童聊寵を妬める色のありしかば、道灌一首を詠じける。
ひとりには塵をもをかじひとりをばあらき風にもあてじとぞ思ふ
かく詠じけるとや。おもしろき歌故爰に留ぬ。(耳嚢巻三・道灌歌の事)
 太田道灌が文武の良将であったことを伝える話がある。道灌には最愛の美少年二人がいた。偏ることなく愛を分かち与えていた。或る日、道灌に二人が侍っていたところ、一陣の風が吹いた。一人の美少年の袖に落ち葉が掛かった。道灌は扇で落ち葉を払ってやった。愛情溢れる行為に、もう一人の美少年が嫉妬の色を見せた。道灌は其れに気付き、歌を詠んだ。
 私には愛する二人の少年がいる。一人には塵すら付いて欲しくない。一人には塵を払う扇の荒い風にも当てたくない。私は二人を同じように、大切に思っている。
 このような歌であった。興味深い歌なので、此処に書き留めておく。
  ……ザッと、こんな塩梅だ。戦国初期に活躍した武将の、細やかな心遣いが表現されている。まぁ、彼は、八犬伝にも記す如く、出来過ぎて嫌われたのか、暗愚の主君に暗殺されてしまうのだけれども。
 話を戻そう。道灌ほどの器量がなかったんだろう、善財は、考え無しに、女御のもとへのみ通った。内裏を、即ち王宮を、もう一つ造り、女御を据えた。群臣は競って女御の内裏へと日参した。今まで、まったく省みなかった女御のもとへと詣でたのだ。味をしめた女御は、今度は観音に王子を授かるよう願う。妊娠は、殆ど確率の世界って側面もあるから、善財を独占している女御が、当然、子供を産むことになり易い。一方、ほかの九百九十九人には、可能性が無い。果たして、女御は妊娠する。
 残る九百九十九人の女性は、女御を怨んだ。悪鬼と化した女たちは、預言者を呼びつけ、女御が妊娠した子供に就いて占わせた。預言者は答えた。生まれてくる子供は男児で、素晴らしく偉大な資質を持っている。七歳になると、父の跡を継いで、帝となるだろう。女たちは預言者に命じた。王に尋ねられたら、生まれてくる子は悪王の資質を持ち、七歳になると父を殺す、と答えよ。預言者は一旦断るものの、脅迫に屈する。王に言上する。女たちは、五千九百九十四人の女を雇い深夜、女御の住む五衰殿の周りで、悪王が生まれると叫ばせた。人々は、虚偽を信じた。
 女たちは王の意思と偽り、武士たちに女御を殺すよう命じた。武士たちは女御を引き立て、「けこしやう山くれんしほの谷ほくせき」(何処やソレ?)に向かった。山奥に着き、処刑を執行しようとしたが、如何したわけか、女御の首は切れない。女御は宣言する。王子が生まれるまでは、処刑できないと。王子が生まれる。女御は、一時の猶予を願い、自らの黒髪を四束に分ける。一つを梵天・帝釈、一つを父母、一つを山神午王に捧げる、残る一束を山に棲む虎狼に与えると宣し、王子を守護するように願う。女御は王子を左手で引き寄せ右の乳首を含ませる。幾つか遺言を赤子に囁く。首を斬られた女御は、王子を驚かせないように、ゆっくりと崩れ落ちる。武士たちは、都に帰る。
 虎狼が群らがり寄った。女御の死体と王子を食おうとするが、一頭の虎が押し止め、一束の髪を捧げられた以上は、王子を守り通そうと提案する。皆は承知し、王子を守護する。女御は生けるが如く、膚は生気を失い色を変えていたものの、王子に母乳を供給し続けた。が、三年の後、王子が乳離れすると、母乳も出なくなった。王子が母の体を離れると、虎狼は女御の死体を食い平らげた。
 山の麓に一人の聖が住んでいた。いつものように研究しようと机に向かった。見慣れぬ虫食いの跡があった。それは文字であった。山に登り、出会った子供を養育せよと書いてあった。聖は山に登り、王子と出会う。王子は、聖のもとで勉強するようにと、母に遺言されたと言う。聖は王子を引き取って、育てる。
 王子は七歳になると、やはり母の遺言だからと、都に向かい、善財に会う。甚だ話がイーカゲンだが、まぁ良い、王子は善財に会い、何故に女御を殺したのかと詰問する。善財は殺すように命じた覚えは無いと反論し、九百九十九人の女たちのもとへ、それぞれ六百の兵を送って、捜索する。或る女の屋敷の厩舎の下から、女御の頭骸骨が発見される。女御失踪の真相は明らかになったものの、善財は絶望の淵に沈む。漸く自らの愚かさに気付いたようだ。遅いってば。まぁ、気付いただけ善しとしよう。でも、気付いたんなら、せめて王子が幸せになるよう計らうのが罪滅ぼしだと思うんだけど、善財の発想は違った。王子を連れて「飛ぶ車」に乗り、落ち着いた場所を自分の国とする。そう宣し、国を捨てた。こうして善財王が落ち着いた場所こそ、「紀国牟婁郡音無川そなへの里」、日本の熊野だというのだ。実は、善財は阿弥陀如来(熊野の證誠殿)、女御は「大慈大悲の観音」(両所権現)、王子を育てた聖は薬師如来(那智の権現)、王子が熊野の本地・十一面観音(若王子)。また、摩訶不陀国には一万人の大臣がいたが、これが熊野では一万の「金剛童子」となる。九百九十九人の悪役の女性達は「なるかみ」(雷?)であり、三月から七月十五日の期間、「赤虫」(毒蛇?)となって参詣者を悩ませている。
(奥付・弘治二年七月二十六日、日本古典文学大系三八御伽草子から要約)
 ここで、伏姫の悲劇や、富山で伏姫の霊に育てられた親兵衛の話を思い出している読者もいるかもしれない。さて、上記の如き縁起をもつ熊野/補陀落が、日本に於いて如何な展開を見せたかを、次の機会には語ることになろう。
 
お粗末様。
 

  

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