番外編「南に続く血脈」
 
       ―――海の記憶シリーズ4―――
 

 愛は哀より出て、哀よりBlue。限りなく蒼い海を見ていると、とめどない郷愁に呵責される。やはり、我々は、此の蒼い海の彼方から流され、列島に辿り着いたのかもしれない。

 海と言えば……南の海から来た者たち、では、実はなかったが、西暦十六世紀、所謂、欧州の大航海時代、せめて彼らには後悔ぐらいして欲しい非行の時代であったのだが、南蛮人が、日本にもやってきた。時に戦国時代、大名は以後、予算を鉄砲に回したり(戦国大名は予算制を採っておったかのぉ?)、八犬伝にも名前だけ登場する九州・大友氏が以後よくキリスト教を信じた、時代であった。
 日本に居座ったキリスト教徒は旧教系のイエズス会、耶蘇会であった。ミッションである。彼らは、我が邦の内情を詳細に欧州教会へと報せた。スパイ活動である。其の報告は、時にスットンキョー、時にトンチンカンではあるが、読んでみると、仲々楽しい。当時、あまりにも当たり前のことだった為に、国内史料に記録されなかったであろう事どもが、新鮮な驚きを以て、叙述されていたりする。例えば、こんなのがある。
一五九六年十二月十日付・ゴア発・フランシスコ・カブラルのイエズス会総会長補佐ジョアン・アルヴァレス宛書翰
前略……日本人たちについて、次の二つのことに期待しうるだけだ、ということを導師に了解していただきたい。第一(に期待するもの)は、彼らが一般的にそなえている本性や邪悪な性癖を帰ることが出来る神の恩寵と聖霊の偉大なる力である。ことに、彼らは子供の時から肉欲のいまわしい事柄(男色)や罪の中で養育されている。さらに悪いことに、日本ではそれが名誉なことと考えられており、領主たちは息子たちを仏僧に与えて教育をつけてもらう。同時に彼らは仏たちに対してけだものに類する奉仕をする。これは、もうこれ以上私が述べつづけるようなことではないので、これで筆をおく。後略………(イエズス会士日本通信2から)
 周知の如く、切支丹は男色を嫌う。私だって好きじゃないが、彼らのように、闇雲に毛嫌いする程ではない。双方の合意にさえ基づけば、多様な愛は、其の存在を許される、と思う。で、上記引用文では、武将が子供を仏僧に「与え」、行儀作法や学問の他に、男色を仕込んで貰って、「誇り」にしていた、とある。
 世の中には、色んな人がいる。例えば先人の知見に拠れば、パプア・ニューギニアのサンビア族は、こう考えるという。女性は放っといても女性として育つが、男性は、女性の中から生まれ女性の乳を飲み女性に育てられるによって<汚染>され、何らかの措置を講じないと十全な男性にはならない。また、男性を男性たらしめるものは、精液であるが、精液を作る能力が男性にはない。ただ、貯蔵する器官が体内にあるのみだ。このため、男性は七歳乃至十歳ほどの間に、女性の家族から隔離され、村共有の<若者宿(←前近代日本に於ける同様趣旨の小屋)>で大人になるまで過ごさなければならない。若者宿に於いて少年たちは、日夜、大人の男性から精液を供給され続ける。口唇性交によって、精液を体内に取り込み、貯蔵する。十分に溜まると、少年は大人の男性になる。儀式に於いて、彼らは諭される。「男たちと交合するときに、彼らのペニスを食べるのを、こわがってはならない。じきにそれを食べるのが、お前たちの楽しみになるだろう……中略……お前たちがもっと大きくなれば、お前たちのペニスも大きくなるだろう。そうすればお前たちはもう、年上の男たちと交合したがらなくなるだろう。その時にはお前たちは今度は、年下の少年たちと交合したがるようになるだろう」。
 面白いのは、このとき、他人の妻に欲情すると、羅切の上、死刑に処せられると教わる。象徴的な儀式によって、不倫への恐怖を植え付けられるのだ。彼らの意図は如何であれ、このことで、村落秩序を乱し得る他人の妻との不倫が、結果的に、起こにくそうなのだ。欲望の存在を前提とすれば、大人の男性が、何かの拍子に他人の妻に対して劣情を催すことは、十分に想定し得る。が、其れは幼い頃、苦痛と死の恐怖を以て禁じられている。禁じられていても、ヤリたかったらヤルのが人間だが、危険を回避できるなら其れに越したことはない。惟ふに、不倫だの何だのは、結局する所、心に油断があるために生じる。例えば天命に拠っての如く、<運命の人>に出会った所が、彼女は既に人妻、堪えようとしても失敗し、ついつい惹き付けられて狼藉に及ぶ……なんてのは、単なる迷信だ。潜在的にでも、とくかくヤリたい状態に在るとき、偶々出会って其れなりに好みに合ったか其の欲望排泄が可能っぽいか、そういう相手に、溜まった欲望を向けるだけのことだ。<愛すべき対象>があって欲望を掻き立てられるのでは、実は、ない。欲望が在って対象として選択されたのが<愛すべき相手>なのだ。其処ん所を誤解すると、トンチンカンなことになる。まず、欲望ありき。
 そうであるならば、サンビア族の男性が、幼少の砌より男性同性行為に対し抵抗感がなく、いや積極的に行うことを強いられ、やがて大人になると今度は年下の少年に対し同性愛行為を行いたがり、いや行わねばならなくなることは、結果的に村落社会を平穏に保つ機能を有つ、かもしれない。欲望が高じたとき、彼らの目の前には、少年がいる。「君が早く大人になるよう、精液を提供しよう」とオタメゴカシを言えば、それで排泄は可能だ。男性の欲望排泄が円滑に行われたら、女性が不倫の対象として狙われることが少なくなる。このため、家族間もしくは部族間のイザコザが発生する可能性は低くなる。社会秩序を保つ機能もあるからこそ、二十世紀後半になっても、サンビア族は男性同性愛行為義務化の体制を放棄しなかったのだろう。
 また、西ニューギニアのコレボム島キムマ族は、男性が十歳乃至十四歳頃になると、父ではない大人の男性を養父とする。養父は少年を傷つけ精液を擦り込む。そして、鶏姦に及び精液を少年の体内に注入する。ちなみに大人の男性が少年を傷つける際、精液を絞り出すのは少年の婚約者である。婚約者は、当然ながら少女だが、初潮を迎えていてはならない。大人の男性は初潮を迎えてもいない少女を姦することで精液を分泌し、少年に塗りたくる。彼らは、年端もいかぬ少女を姦するロリコン行為を、こうイーワケする。成熟した女性の経水は、少年の成長を阻害するから遠ざけねばならない、と。少年は、婚約者の少女が強制的な奉仕により絞り出した精液に塗れ、鶏姦を強いられるのだ。ちなみに、少年が大人になり、妻と性交する折には、予め妻の全身に精液を塗らねばならない。女性が男性に与える<悪い影響>を防ぐためだ。
 更に、マリンド・アニム族は、バナナと月に関する以下の如き伝説を有しているという。少年ゲブは独りで海の幸を採って暮らしていた。余りに海に潜る時間が長かったため、全身にフジツボが生えた。或る日の浜辺、ゲブは娘たちと行き会った。ゲブはフジツボに覆われた醜い膚を見られまいと素早く砂に潜った。娘たちは貝を掘るため砂地を竹で突ついて廻っていたが、ゲブを見つけた。娘たちは驚き、村に知らせた。武装した男たちが大勢駆けつけ、ゲブを押さえ付けた。石斧などでフジツボを削ぎ落とした。ゲブは全身の皮膚を剥がれる痛みに泣き喚いた。すっかりフジツボを取り除くと、大勢の男たちはゲブを林の中に連れ込み、GangRapeした。注ぎ込まれ呑み込まされ塗りたくられたゲブの膚は、何故だか再生し、綺麗になった。男たちは綺麗になったゲブを監禁した。知らぬ間にゲブの首から大きなバナナの木が生えた。最初のバナナである。そしてゲブは屋根から逃れ、天から降りてきた蔓を伝って、昇っていった。月となった。そう、夜空に輝くLunaは、昔々男たちの群に性的虐待を受けた可哀相な少年なのである。勿論、この伝説は、バナナと月の起源を説明するのみならず、精液の不思議で強力な力を、さりげなく宣伝している。
 これら、男性同性愛行為を義務化する体制は、上記の種族に留まらず、ニューギニアやメラネシア全域に痕跡を残すという。この体制を、宗教から眺めると、精液信仰とでも言うか、同性愛行為のウケを以て、成人となる人生観もあるってことだ。日本では破瓜を「(大人の)女になる」と言い回すことがある。<姦られて女になる>のだ。此は、女性との初めての性交を以て<男になる>との発想と表裏一体である。が、上記の如く<姦られて男になる>という発想だって、人類にはあるのだ。性差が、生殖のためにのみあるのならば、精によって、男は男たり得る。故に、其の精を成人男性から体内に注入されるを以て、新たに成人男性となる。御尤もな論理だ。間違っちゃいない。男色を誇りとする民族がいたって、別に構わない。しかも、メラネシアは、若しかしたら<原日本人>の起源かもしれない民族だったりする。奥羽のナマハゲの起源をメラネシアに求める論者だっている。そう、「日本人」は、<海上の道>を通って、南方から列島へと辿り着いた者たちかもしれないのだ。何が言いたいのかって? さぁ?、別にいぃぃ?。
 因みに<犯られて男になる>って発想は、勿論、日本にもあった。十七世紀前半に、九州は佐賀・鍋島藩の山本常朝朝「葉隠聞書」には、<(男の)愛人のいない少年なんて、碌なモンじゃないからヒトとして恥ずかしい>ってな表記がある。男に掘られる、もとい、惚れられる魅力がなければならないとの謂だ。男色を誇りとする態度である。やはり、「日本人」は、メラネシアやニューギニアに起源を持つのであろうか? 
 少年たちは、ミツバチを待つ花の如くに、ただ待っていただけではない。井原西鶴の「男色大鑑」には、色々と積極的な少年たちの話が載っている。……そういえば、男色大鑑も、前半を悲劇で彩り、後半は有名な男色系美少年の評判記だったりするので、好色一代男や八犬伝と構造が似てなくもない。初めは不幸で、後に明るくなる。<末広がり>ってヤツだ。ツイデだから、男色大鑑から、喜劇を一つ要約して引用しよう。タイトルは……原題は詰まらぬから、「SomeLikeItHot」とでもしておこうか。意訳である。
 昔、京の都に、吉弥なる歌舞伎役者がいた。容貌に優れ、演技力を兼ね備えた名優だった。其の風俗が、庶民風俗の手本となった。副業で化粧品店を経営、其処でしか買えない「吉弥白粉」には、女性が長蛇の列を成した、という。……そう、吉弥は美貌であったため、おやまを務めていたのだ。
 そんな吉弥に、御座敷への御呼びがかかった。とある高貴な女性が、「舞台姿のままで家へ遊びに来るよう」使いを寄越した。これも役者の重要な<営業活動>だった。役者は会話を愉しむために、客と逢うワケではない。交際は交際でも、援助交際なのだ。今回取り上げた本の中には、戸川早之丞なる役者も登場する。早之丞は美貌かつ諸芸、特に武道に通じていて、凛とした風情が人気の若者役だった。注釈垂れると、近世の男色に於いては、嫋々とした美少年より、少年らしく純真かつ可愛く凛としたウケが賞賛された。ピンと張り詰めた所があってこその、美少年なのである。これは遊女の評判でも同様であり、気っ風の良さも重視された。早之丞は、その筋(どの筋?)の欲望を掻き立てる美少年だったのだ。早之丞は<御座敷>に呼ばれて、「情ふかく人の言葉をあだにはなさずして名の出ぬ程よろこばしけるは其かぎりしれざりき」、情も濃まやかで、相手が誰であろうと、邪慳にしなかった。大胆かつ頻繁に逢瀬を重ねて評判になる、というほどでもなく、チョイと良ぃ事をして、悦ばせた相手は数限りない。「良ぃ事」とは、まぁ、場合によっては「いけない事」でもあるが、其の精密なる描写は筆者の任ではないし、此の場にそぐわない。読者銘々が、好みの場面を思い浮かべられたし。で、まめに御座敷を勤めていた頃は羽振りも良かったが、そのうち特定の愛人をつくった。愛人に操を立てるため、御座敷に呼ばれても、手さえ握らせない、と誓った。このため、客たちは、御座敷の報酬でもある付届けを、寄越さなくなった。早之丞は困窮し、舞台衣装まですべて借金のカタに取られてしまった。そうこうするうちに芝居の日となり、美々しい舞台衣装を持たない早之丞は、恥をかくぐらいならと自殺してしまう。どうやら実際に起こった事件だったらしい。ことほど左様に、当時の役者はプライドが高かった、といぅ話ではなく、早之丞レベルの人気俳優ともなれば、本来は自前で華美な舞台衣装を揃えるが、其の収入は御座敷に呼ばれたときの<報酬>もしくは、支持者の援助なんである。そして、其の報酬/援助の対称となった何かは、セクシャルな肉体接触を含むものであった。役者の収入源には、御座敷/援助交際が含まれていた。御座敷は、重要な営業活動なんである。
 吉弥に話を戻そう。女装して、彼にとっては仕事着でもあったが、吉弥は客の家に向かった。家と言うより、御殿だった。門には紋をあしらった提灯が掲げられ、番所が設けられていた。番所の役人は吉弥を見ると、「女一人」と呼ばわって帳面に何か書き付けた。警戒は厳重で、客が、かなりの身分であることが分かる。此処で、読者にも、客が吉弥に女装させた理由が御解りであろう。客は女性であるが、高貴な女性が美男子俳優を家に引っ張り込み、これも仕事のうちだからと相手が抵抗できないことを良いことに、ぐふぐふ賤しい笑いを浮かべつつ、肉体を弄ぶなのだ。当時の女性は、けっこうヤルのである。
 門に入って、きれいな砂を撒いた道を二百メートルほど進むと、中門があった。見回すと、美しい石や手入れされた庭木、釣灯籠に明かりが灯り、遣水が流れていた。庭に据えた大きな駕籠には、オウムなどの珍しい鳥たちが、或いは囀り、或いは梢で体を動かしていた。既に武家の世となり、多くの官人(朝廷に仕える人)や貴族の収入は、多くなかった。藤原摂関家ですら、旗本か下級大名レベルの収入しかなかった。武家との関わりで副収入があり得たとはいえ、これだけ立派な屋敷で豊かな生活をするのは、限られた上級貴族であることは明らかだ。貴族どころか或いは……いや、何でもない。
吉弥は座敷に通される。上座には、やんごとなき姫君が座っている。侍女たちがワラワラと宴会の準備を行う。さて、宴を始めようといぅときに、ドタバタ一人の侍女が駆け込んできて「殿様の御帰り」。そりゃもぉみんな大慌て。食器や箱をひっくり返しながら立ち騒ぎ、吉弥を屋敷から出そうとするが、逸早く殿様が現場に到着する。「何を騒いでいる」侍女たちはシドロモドロに「えっ、あの、女芸人を呼んできましてぇぇ、いえ、一座が終わったんで帰す所でしてぇ」「ふぅん……」と殿様は女装の吉弥を見つめていたが、「下賤の者にしては美しい。一晩、泊まっていけ」吉弥はビクリとして「あ、あのぉ……泊まっていけって……」「ぐふふふふ、未通女でもあるまいし……いや、未通女でも良いんだけども、まぁ、良いから泊まっていけ」「いえ、あの……これから、ちょっと用事が……」「まぁまぁ良いではないか。悪いようにはせん」「悪いようにはしないってことは、良いようにも、してくださらないんでしょ!」「そんなことはないぞよ。くっくっく、良いよぉに……良いよぉに弄んでやるのぢゃぁぁぁ」襲いかかる殿様「あ?れ?」逃れようとする吉弥。
 とうとう寝所に連れ込まれた吉弥は、あああっ、姫君とナニをするために呼びつけられたなんて言ったら口封じだとかで殺されるかもしんない、女芸人だと言い張るしかないんだけども、脱いだら男だってバレちゃうし、女を演じ続けたら脱がなきゃなんないし、脱いだら男だってバレちゃうし、あぁ如何しよぉ如何しよぉ如何しよぉ如何しよぉ……えぇいっ、ママよ! Oh,MyMother
 「ぐふふふふふふ、めんこいのぉ」和服の上からスレンダーな吉弥の肢体をまさぐる殿様に「あ、あのぉ、とっても言いにくいんですがぁ?」「なんぢゃ、うむうむ、勿論、タダとは言わん。オマエの床の芸に応じて褒美はとらせるぞよ」「いや、そぉじゃなくって……」「なに、タダで良いって?」「そんなことは言っとらんわい!」「……言っとらんわい?」急に乱暴な言葉遣いになった吉弥に驚く殿様、「僕は男なんだ」吉弥は叫んで鬘を取る。丁髷頭が露出する。殿様はポカンとして「お、男……」「そう、男なんだ。だから、帰らせてもらうよっ」顎をしゃくって立ち上がる吉弥、立ち上がるんだけれども、前に進めない。殿様が帯を掴んで引き倒す。吉弥は姐さん座りに倒れ込みながら「きゃぁ」。さすが女形、常住坐臥、女らしい。女性には出来ない芸当だ。殿様が熱っぽい瞳で覗き込み「美しい……サッキより良いじゃないか」「で、でも、僕は男……」「なに? 男だから資格がないと申すか。いやいや、人間、誰にだって欠点はある。女でないからと言って、ナニが出来ぬワケではない。遠慮することはないぞよ」殿様は吉弥の帯を解きにかかる「え、あの、えと、いったい何を……」「ナニをするのじゃ」「いやあああぁぁぁぁぁぁ」(第七巻「忍盤男女の床違い」から)
 勿論、このような男色愛好が当時、<一般的>であったとか<積極的に肯定されていた>と言う積もりは、毛頭ない。が、少なくとも、其の性向を、表現を、社会が許容していたことは確かだ。だからこそ、日本で葉隠が書かれ、好色一代男が書かれたのだ。そして、多分、八犬伝も……。
 ……何の話をしてたんだっけ。そうそう、海の話をしていたのだ。ごめんなさい、次の機会には、ちゃんと海の話をしますんで。
 
お粗末様。
 

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