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番外編 侠なれば狂なり 平八郎、この大ゴロツキでさえ、世界は変えられなかった。跡部の様に無責任だが上役にコビを売る女々しい奴が、良い目を見る。義とか理とか、そんなモノは糞の役にも立たぬのだ。
近世、中斎(チュウサイ)と号した儒者が言った。(当時、幕府公認の学問とされた朱子学を建てた大儒)程朱は当時に在りて、奸人の陳公輔、何若、王淮、陳賈等の讒毀誣妄を免るる能はず。而して曲学偽学の禁、天下に詔諭るに至る、何ぞ其れ悖罔の極まれるや。然り而して天定まれば則ち讒毀して志を一時に逞しくする者、皆虫のごとく滅び草のごとく亡びて、而して程朱の学は天地日月と悠久の光明を争へり。……中略……然れども奸人の曲学偽学を以て之を抹殺するは、何の故ぞや。吾れ請ふ一言を以て其の由を弁ぜん。夫れ聖賢の言行は、大いに俗情に反せり。俗情とは何ぞ。盗跖の云ふ所是れのみ。其の言に曰く、人の情、目は色を視るを欲し、耳は声を聴くを欲し、口は味を察せんと欲し、気は盈たんと欲す。人は上寿百歳、中寿八十下寿六十。病痩死喪憂患を除き、其の中、口を開いて笑ふもの、一月の中、四五日に過ぎざるのみ。天と地と無窮なるに、人の死には時有り。時有るの具を操りて無窮の間に託すること、忽然として騏驥の隙を過ぐるに異なる無きなり。其の志意を説ばし、其の寿命を養ふ能はざる者は、皆道に通ずる者に非ざるなり。丘の言ふ所は、皆吾の棄つる所なりと。此れ荘子の寓言なりと雖も、今古貴賎上下の心口相期する所のものは、斯の数語を出でざるなり。而して聖賢の道は則ち之に反す。……中略……常人の口を開いて笑ふものは、淫戯放逸の事に非ざるは莫きなり。……中略……常人は天地を視て無窮と為し、吾を視て暫しと為す。故に欲を血気の壮なる時に逞しくするを以て務めと為すのみ。而るに聖賢は則ち独り天地を視て無窮と為すのみならず、吾を視るも亦た以て天地と為す。故に身の死するを恨まずして心の死するを恨む。心死せざれば、則ち天地と無窮を争ふ。是の故に一日を以て百年と為し、心は凛乎として深淵に臨むが如く、須臾も放失せざるなり。故に又た嘗て物を以て志を移さず、欲を以て寿を引かず、要は人欲を去つて天理を存するのみ。彼は則ち天理を去り人欲を存するなり。天理を去り人欲を存するは、是れ乃ち常人の期する所なれば、則ち人欲を去り天理を存する教は、安ぞ其の耳に逆はざるを得んや。彼は耳と心とに逆ふを以て自らを揣れば、則ち聖賢の教を以て、必ず人情を矯むと為す。人情を矯むと為せば、則ち其の勢吾に曲と偽とを教ふと謂はざるを得ざるなり。……中略……曲に非ずして曲と為し、偽に非ずして偽と為し、曲にして曲に非ずと為し、偽にして偽に非ずと為す。理と欲と倒置し、是と非と逆為す。……中略……程朱の一時に抑へられて万世に伸びしは、固より大なり。然れども其の身後世に在らば、則ち亦た何ぞ之を尊ばんや。只だ其の之を尊ぶや、死して言はざるを以てなり。如し死すと雖も、理と欲を判ち、是と非を正すこと生前の如くんば、之を厭ひ之を悪んで、誰か敢て之を師とし尚ばんや。何を以て之を知るや。君陳に曰く、凡そ人未だ聖を見ざれば、見る克はざるが如くす。既に聖を見れば、亦た聖に由ること克はず。爾其れ戒めよやと。(岩波書店日本思想体系所収『洗心洞剳記』上)
要するに、あんまり厳しく倫理を振り回していたら、みんなから嫌われる、との謂いだ。人は重力に逆らえないのと一般に、欲の求める所、情の流れる所へ転がっていく。易きに流れる人の性ってヤツだ。
……なるほど、ね。なかなか解った風な口を利くじゃねぇか、え、中斎さんよ。だったら何かい、義を唱える者の敗北は必然だってぇのかい? 天保八年に起った犬のオマワリさん・平八郎は、犬死にしたってぇのかい? なに物分かりの良さそうなコト言って澄ましてんだよ、このヘッポコ学者。そりゃぁ、「世の中こんなモンだよ」と嘯いてりゃぁ安穏無事に過ごせはしようってもんだがな、アンタが言う通りなら、平八郎は犬死にぢゃねぇか。おきゃぁがれってんだ。何とか言ってみろ、アホ中斎!
中斎、又の名を大塩平八郎後素、元大坂町奉行所天満与力にして陽明学者である。……平八郎、自分の行為が無駄だって、頭じゃ解ってた。四十五歳、分別盛りの元官吏、学者である。ソコらの跳ねっ返りと同日に論ずることは出来ない。また『剳記』の中で平八郎は、こうも言っている。孔子の弟子が、さほど多くない事を疑問に思っていた平八郎が、自分なりの回答を見いだした段である。
……子曰く、中行を得て之に与せずんば、必ず狂狷か。狂者は進んで取り、狷者は為さざる所有るなりと。又た曰く、郷原は徳の賊なりと。……。孔子は道を開き教を立て、特に其の晨星よりも鮮なき狂狷を取る。而して其の室に入るを願はざる者は天下滔滔たるの郷原なり。宜なるか乎、当時其の教を受くる者の寥寥たるや。吾れ亦た奚ぞ疑はんや。嗚呼、道の貴き所は此に在り。道の行はれざる所も亦た此に在るかなと。
人間の理想状態は、多方面に強いベクトルを秘めつつ均衡させた原点静止状態/中庸だが、聖人のみが到達できる境地だ。即ち、現実には存在し得ない状態と言い切っても良かろう。倫理に積極的過ぎる者(狂)、倫理の戒めばかり気にして動けない者(狷)は、決して理想の状態ではない。また、世の中に星の数より多くメジャーであるのは、倫理を無視する者達(郷原/偽善者)だ。狂狷の者は、批判されてしかるべき至らぬ者達だが、それとて極めて珍しいマイノリティーだ。このマイノリティーしか孔子は弟子にとらなかった。だからこそ、孔子の門人は少ないのだ。
平八郎は儒者であった。聖人になれないまでも、絶えず中庸を目指し心懸けるべき者である。いくら努力してところで狂狷の域から抜け出せないとしても、中庸をこそ目指すべき者であった。しかし、平八郎は、狂となった。狂っちゃったのである。現世に堯や舜がいるワケではない。この世は偽善者/郷原だらけだ。程朱ほどの大儒でさえ、奸佞の者たちに貶められ苦境に喘いだ。ならば、狂となるしかないではないか。郷原の目を覚ますには、狂とならねばならなかったのだ。
……ゴロツキの陥り易い陥穽に、お約束通り填った平八郎であった。その陥穽とは、単純に「郷原」が此の世の圧倒的多数を占めると考えたことだ。確かに私も含めて世の中、郷原ばかりだが、絵に描いた様な、人格の総体がマルゴト郷原ってのも、逆に珍しいと思っている。世の中、そう捨てたモンじゃない。大坂町奉行・跡部良弼は幕閣にコビを売り、大阪市民を犠牲にした。一方で江戸町奉行・遠山左衛門尉は、庶民経済を滞らせる虞があるほどの厳しい倹約令に抵抗した。跡部と遠山、ドッチもいるのが世の中だ。跡部一人を殺したとて、浜の真砂より多い偽善者が絶滅するワケではない。にも拘わらず平八郎は、世の中の殆どが完くの郷原野郎だと考えた。狂狷すら極少数だと考えたのだ。其処には、自らを、中庸には至らぬまでも極少数派の狂狷と規定しようとする、一種の<特権意識>が仄見える。
確かに、平八郎の言い分に、正義はあった。しかし、平八郎は、標的とした跡部を討ち取ることが出来ぬまま、二百七十人以上と言われる死傷者を出し、一万八千世帯以上の家を焼いた。折からの食糧不足の中、家族を殺されたり怪我を負ったり家を焼かれた者こそ、「こんきう」の極みだ。到底、是認できはしない。
医は仁術、と迄は云わないが、当時の知識層を構成し且つ怪我人の側に立つのは、医家であろう。此処で、天保期の大坂に於ける風聞や事件に関する資料を偏執的な迄に書き残した医家を紹介しよう。名無権兵衛さんだ。……実は、名前は分かっていない。ただ、『浮世の有様』と銘打った、私的な記録集を残した彼は、「大坂の医家」であったらしい。この『浮世の有様』が絶品なのだ。役所の史料と思しきものから姿勢の風説、刊行物まで筆写している。大塩の乱に関しての資料も多く、積極的に関係者を取材してまで、事実を追究しようとしている。タダ者ではない。膨大なエネルギーを要したであろう。……しかし、『和漢三才図会』といい、「大坂の医家」は暇人ぞろいだったのか? まぁ、如何でも良い。オカゲで楽しむことが出来るのだから。
『浮世の有様』、とにかく面白い。大塩の乱に話題を限っても、楽しい情報が満載されている。例えば、大塩一党は、「東照大権現」の旗印を押し立てて乱妨し回ったとか、(大塩家の裏手にあった)東照大権現を攻撃し以て防備責任者の町奉行・跡部山城守を誘き出そうとしたとか、乱後に姿を消した大塩の行方を知るために役人たちが口寄せ(霊媒に死霊を依らせ不知の情報を得ようとするオカルト術)に頼ったとか、平八郎はキリシタンを捕まえた経験があり斯道の知識を有していたのでバテレンの秘術で姿を消しているのだとか、その他ドタバタ劇が枚挙の遑がないほど羅列されているのだ。記録者は、怪しげな風説をも、「馬鹿馬鹿しい」と云いながら、ウヒョヒョと喜びながら書き記したに違いない。
ことほど左様に大きく取り上げられた大塩の乱に対する記録者の態度は、何処となく否定的である。乱は、平八郎の、高慢だとか何だとか、パーソナリティーの特殊性によって、偶々起こったとする立場なのだ。もとより、如何な事件でも、何らかの人格の特殊性に影響はされるのだが、ソコん所を強調する立場だ。しかし、かと云って、暴動の標的となった悪徳官僚らに、擦り寄っているワケでもない。記録者の立場は、より精確に云えば、こうだ。<大塩の馬鹿野郎がハネっ返って騒いだから大迷惑だ。それにしても奉行所は情けない。たかが二三十人の与力・同心が、烏合の衆を引き連れて乱暴したとて、如何程のことやある、即時に鎮圧して然るべきだろうが。奉行所がモタモタビクビクして手を拱き、大塩一党を放置したから、死ななくても良い者が死に傷付かなくても良い者が傷付き、焼け出されなくても良い者が焼け出された。だいたい、武士が権を執っているのは、イザって時に矢面に立って闘い社会を守る筈だったからだ。そうでなくて、なんで偉そうにさせるもんか。臆病者どもめ>。煩雑だから一々原文は掲げない。興味のある人には、三一書房『日本庶民生活史料集成』第十一巻をお読みいただくとして、記録者、かなり激した調子でまくし立てている。近世未曾有の人災を前に、親とはぐれ泣き喚く子供、呻き苦しむ人々を前に、一人の医家が感じた率直な気持ちだろう。暴動の張本たる大塩を批判しつつも、無為無能のまま大坂を燃えるに任せた奉行所の連中、彼らの退廃をこそ、記録者は厳しく糾弾している。そんな記録者だから、乱後も屡々武家官僚たちに批判の矢を向けている。大塩に対する明らかなシンパは見せないが、書いていることは平八郎と似たようなモンだ。結局する所、平八郎の主張は、博く共有さるべきものであったようだ。ただ、遣り方がマヅかったに過ぎない。
あぁ、また行数が予定を超えてしまっている。まぁ、悪徳官僚に心の底までは迎合していない『浮世の有様』の記録者、巷間で流布していた武家官僚に対する悪口雑言を多く記録している。ソレだけ官僚に対する不満が博く流布していた証拠ともなる。大目付への栄転が決まった悪徳官僚・跡部山城守が、大坂を去るときのエピソードだ。
先月被召帰跡部山城守、信濃守と改名し大目付に転役す。此人元来身に徳分多き役なる事ゆへ長崎の町奉行になりたがり、種々様々に手入せしかとも、兄の先生の手にも及はざりし事にや。案外のことに転役す。此人在坂中、灘辺の豪家大坂市中等にて仰山に金子を借入しが、町奉行の役柄を思ひしにや、市中の借財には聊の仕法立なして引取しが、灘辺の豪家の向は悉く踏散して引取しゆへ、何れも大に迷惑すと云事也。自己もまた長崎奉行の心組違ひて聊も賂ひ手に入らざる大目付に転役せしかは、主従共に望を失ひ大に困窮すと云。おかしきことゝ云べし
名誉の職、大目付より袖の下を多く得られる地方官になりたがったというのだ。ここまで腐敗すれば、却って尊敬に値する。人間、なかなか此処まで腐敗できないものだ。何事も、極めれば、道。因みに跡部は、この後も要職を歴任、閣僚級の若年寄に出世、慶応四年すなわち明治維新の年まで生き残る。
確かに組織の枢要に無能腐敗の者が蔓延っていても、何とかなる。却ってマトモな人間ばかりだと組織の小回りが利かなくなる場合だってあるだろう。しかし、それは、慣性の法則のみで時代が動いているときの話だ。動く時代にトンチンカンな奴が組織の枢要に、あろうことか頂点に立ったとき、組織は崩壊の道を辿ることになる。そろそろ次回は、腐敗官僚の御大に、御登場願おう。「めっぺらぽんのすっぺらぽん」、今回書き連ねた番外編の〆である。
(お粗末様)