◆
番外編 めっぺらぽんのすっぺらぽん <天保の改革>と謂うのがあった。八犬伝が刊行されていた時代のことだ。十九世紀前半、既に貨幣経済が進展しつつあった。封建制を出自とする幕藩体制は内部に矛盾を蓄積していた。……などと言うと如何にも小難しいが、要するに、幕府や藩によって人々を支配する政治形態が、時代遅れになっていたのだ。改革が必要だった。
改革の断行には、強力なリーダーシップが必要だ。但し、問題は、そのリーダーシップとやらの<質>だ。無能なトンチンカンが、カネコネコビの三種神器を以て、あろうことか権力の中枢に迄食い込み、偉そうにのさばるのも、「リーダーシップ」の一形態なのだ。<天保の改革>は、そういう「リーダーシップ」に引きずられた失政に対する呼称である。この失政が、二十年後に実現する倒幕の遠因となった。
ところで、「侠なれば狂なり」末尾で、悪徳官僚・跡部山城守良弼(アトベヤマシロノカミヨシスケ)の小人ぶりを紹介したが、「長崎の町奉行になりたがり、種々様々に手入せしかとも兄の先生の手にも及はざりし事にや。案外のことに転役す」(『浮世の有様』)とあったことを覚えておられようか。……書いてあったのだ。どうやら、彼の兄は、幕府人事に影響を及ぼし得るほど、権勢を誇っていたらしい。
血は争えない、そりゃぁ、弟が悪徳官僚なのに、兄が清廉潔白ではいられないだろう。そう、良弼の兄こそ、腐敗官僚の中の腐敗官僚、ザ・モースト・トンチンカン・オブ・ジ・エド・エラ、悪政<天保の改革>をリードした御勝手掛(オカッテカカリ)老中、水野匠頭忠邦(ミズノタクミノカミタダクニ)である。
忠邦は元来、九州・唐津藩主であった。此処は所謂、譜代大名の定席である。譜代大名とは、関ヶ原の合戦以前から徳川家に従っていた、即ち未だ徳川家が天下を統べると確実視されていない頃から忠誠を誓っていた連中だ。幕府にとっては、より信頼できる家臣ということになる。その信頼できる家臣に唐津藩を任せていたとは則ち、唐津藩が重要な拠点であったことを意味している。九州は古代から、異国との窓口であった。江戸期、鎖国下でも、長崎は開港していた。唐津藩は、国家防衛の最前線/長崎への駐屯を義務づけられていたのだ。最前線の防衛を任された者が、江戸に居続けする老中にはなれない。理の当然である。しかし、忠邦は、老中になりたかった。
江戸幕府は、ソレはソレで完成した権力体であった。いざとなれば、能力のある者を権力の中枢に据えて、改革を図った。困窮の極みにあった幕府が、寛政の頃に根強い抵抗がありながらも、有能な定信を老中に据えた例がある。老中だけではなく、将軍さえ、先代の長子が就任した例が少なかったりする。母親が身元不明である場合すらあった。何となれば情実やコネを排して、権力体を立て直そうとする動きがあること自体、幕府の<底力>である。そうでなければ、二百五十年も六十年も、保ちはしない。
唐津藩主であっても、能力があれば、まずは他の藩に異動して、老中や大目付など幕閣に就任させる場合はあり得た。しかし、忠邦は、無能だった。そうまでして、老中に据える器量の人物ではなかった。とはいえ、忠邦は、老中になりたかった。最近ハヤリの<自己主張>といぅヤツである。この「自己主張」とは多くの場合、自己を全く客観的に見られない者が、ハッタリや他人への誹謗中傷によって相対的に自己の上昇を図る、即ち己を持てる器量以上に見せようとするエリマキトカゲ、<自己失調>に他ならないが、忠邦が、まさに、そうであった。女々しい兎野郎だ。
忠邦は、賄賂をばら撒いた。まずは唐津から浜松への異動に成功した。更にカネコネコビで、出世街道を進んだ。途中、幕閣への登竜門でもある大坂城代に就任する(文政八年)が、役職をカサに豪商から大金を恐喝、あ、いや一応は借りたのだが、思いっきり踏み倒している。実弟・跡部山城守と同じ事をしている。さて、その金が如何に消えたか? 因みに唐津藩主の頃は、大坂にある蔵屋敷を通じて当地の豪商から矢張り金を借りまくっていたが、ソレは出世の為の賄賂に用いたようだ。勿論、この借金も踏み倒している。そうこうするうち、遂には天保五年、老中にまでなった。
しかし、就任直後は、ネコを被っていた。自分を引き立てた権力者の手前、あまり派手なことは出来なかった。要するに、忠邦は<優等生>、周囲に、特に上位者に迎合する才能を多分に持っていたのだ。その権力者、「大御所」と呼ばれていた人物が死ぬと、自分を引き立ててくれた者達さえ排除し、同じ穴の狢ばかりで周囲を固め、そしてトンチンカンな失政を次々に強行した。それまでバラ撒いた賄賂を回収しようとしたのか如何か知らないが、今度は専ら収賄を重ねた。これを、「天保の改革」と呼ぶのだ。因みに、収賄が後に彼の命取りになる。贈賄側が御丁寧にも賄賂の帳簿をつけてたりしたもんだから、それが証拠となって、失脚を余儀なくされたのだ。ところで、彼は二度死ぬ、ぢゃなかった、二度も失脚する。だいたい失脚は一度と相場が決まっているのだが、二度もするのだ。こんなに失脚したヤツも、そうはいない。実は一度、返り咲く。勿論、贈賄に依ってだ。大奥に贈賄して復帰のキッカケを掴んだと噂になった。馬琴なら、こう云うだろう。「女謁内奏は佞人の資なり(ニョエツナイソウハネイジンノタスケナリ)」。ただ、一度目の失脚が決定的であり、復帰後は権勢が殆どなかった。
一度目の失脚は、庶民にとって朗報だった。突如として御役御免を命じられた忠邦は、夜逃げ同然に官邸から引っ越さなければならなかった。文字通り夜だったのであるが、忠邦の行く手、暗闇の中、何処からともなく数百の群集が現れた。投石してきた。大騒ぎである。しかし、隣の家は、これは親藩大名だったが、騒動を無視した。パラパラっと侍が出てきて、忠邦を助けるかと思えば、屋敷に幕を張って投石を避けただけ。堪らず町奉行所に泣きついた。官邸を攻撃するとは、公儀への反抗である。奉行は大勢を引き連れて、暴徒の鎮圧に向かった。此処で御義理に隣家も鎮圧に手を貸す。印象としては、忠邦ではなく奉行への協力だ。暴徒の鎮圧に協力したのだ。忠邦の救出ではない。
どうにか、忠邦は三田中屋敷に逃げ込んだ。逃げ込んだは良いが、またしても何処からか暴徒が押し掛け投石に及んだ。屋敷はボロボロにされた。しかし、今度は、町奉行が出てこない。当たり前だ。官邸は国家もしくは政府の財産だが、忠邦の私邸まで警備する義理はないのである。コネとかコビとかカネとか、此の世で最も頼りないモノ、まぁ藁をも掴む気持ちだったのかもしれないが、人間関係とかに全てを託した者の、必然的な末路ではある。
水野公去る十三日四つ半、御役御免辰刻御役宅可引払旨、右に付西丸向御役宅より諸道具など多人数にて、芝三田中屋敷へ引払最中の処、何者共不知、夜分数百人相集り、石を打懸候事夥敷、火事場の如く、追々に雑人共馳付の様子壁隣松平玄蕃頭様には、右の次第に付、幕を張、自身用心のみ、何分数百人の義に付、制し方も相成兼、御小人目付衆被罷越候得共、中々制し方聞入不申候に付、御奉行へ御届に相成、則町奉行早速多人数御召連御出馬有之、手に当り次第可召捕様御差図にて、漸々逃去り、隣家敷より抜身鑓等を以追捲り、漸五六人召捕、越前様は右最中に御引払の由、夫より三田中屋敷へ罷越、又々石を打懸、向長屋等打こほたれ候様子、右中屋敷は御役宅と違ひ、丁家同様の所に付、制し方も差控被仰付罷在候故、内よりは不出向、きのふ迄の威勢に引替差控等迄に相成……(『浮世の有様』)とことん庶民に嫌われていたらしい。多分、忠邦も庶民を嫌っていただろうけども。
水野か家老越前守に諫言していへる様は、君の御政事取斗宜しからす、以の外の取沙汰なり、此儘にて居給はば、いかなる御咎有んも斗かたけれは、其御沙汰なき内に早く切腹をなし給ふへしとすゝめしかとも、切腹はいたし、きやうの事はなしかたしといへるゆへ、然らは首縊り給へと云、これも咽〆りては息ならすして痛く苦しかるへし、さやうの事はなしがたしとて、一向に取あへざるゆへ、家老も大にきもをつふせしが、何分にも此人此儘にて居らるゝ時は、水野家の一大事に及ひぬる事なる故、是非共死をいたされ候やうにと、強て諫めるにそ、越前守も詮方なくさやうの事ならは是非に及はし、舌を喰ひ切て死ぬへしと云へるにそ、舌を喰切て死るも腹切て死るも同様の事にて、死るにかはれる事あらされは、同しくは切腹して士らしく死たまふへし、世間の聞へも宜しからんと諫しにそ、越前守いへるやうは、腹を切るはいたし、首くゝれはくるしかるへし、夫故に舌を喰切て死なんと思へる也といはるゝにぞ、家老これをいぶかしく思ひ、腹を切も舌を喰切も其苦るしみは同しかるへきに、さやうなして死んと云給へるは、いかなる思召にや、いふかしき事なりとて、これを尋ねけれは、越前守か答にしたの痛む事をは、われは少しもかまはぬといゝしとそ
「舌を喰ひ切て死ぬへしと云へる」……「したの痛む事をは、われは少しもかまはぬ」である。「舌」は<下>だ。忠邦は、下々の痛みを全く意に介さないのだ。それどころか、切腹をするよう家老に云われ、<下>が死ねばよいと嘯いたのだ。我利我利亡者だ。実話ではなかろうが、忠邦の女々しさと庶民の間の溝、激しい敵対心を表現していよう。とにかく、この数カ月後、忠邦は政治から完全に抹殺される。犯罪者として領地を取り上げられ、軟禁状態のうちに死んだ。<体の良い獄死>である。
まぁ、グダグダと当時の政治課程や「改革」の評価なんかしても面白くないだろうから、史料を掲げる。「四海こんきう」に続いて「浮世の有様」から、当時流行したチョボクレを紹介しよう。
ヤンレー私欲如来――。抑(ソモソモ)、水野が工(タクラ)みを聞ネェ。する事なす事忠臣めかして天下の政事を自(オノ)が気儘にひつかき廻して、なんぞといふとは寛政(カンセ)の倹約、倹約するにも方図(ホウズ)が有(アラ)ふに、どんな目出たひ旦那の祝儀も献上(ケンジョ)の鯛さへお金で納ろ。あんまりいやしひきたない根生(コンジャウ)、御威光(ゴイコ)がなくなる。塩風くらつてねじけた浜松、広ひ世界をちいさい心で、世智弁斗(バカ)りじや中々いけネェ。隠居が死なれて僅半年、立や立ぬに堂寺潰て御朱印取上、あまだなこはして路頭に迷はせ、芝居は追立、素人付合ちつともするなの、千両役者も浄留り太夫も、めつぺらぽんのすつぺらぽんと坊主に仕やうの、奴に仕やうの、あげくのはてには義太夫娘を手鎖で預けておやじやお袋ひぼしで殺て、面白そふなる顔付するのは、どんな魔王の生れ替りか、人面獣心古今の佞姦、扨々(サテサテ)困民世間の有様、老中(ロウジュ)で居ながら論語も読ぬか、よひも悪ひも先の旦那が仕置た事だに、三年所か一年待たずに、あんまり無慈悲の改革呼はり、世の中洗ひや身上直しを出しに遣って下の難儀にや少しも不構(カマハズ)、お坊さんそたちの旦那をあやなし、夜昼かかつて己の邪魔なる桜田、林も美濃部もみじめを見せつけ、初手は自分が握つた親玉、ちよひと乍(ナガ)らひつくりけひつて、尤(モットモ)らしく何処を押へたら、そんな音があるやら。忠臣ぶつても今までお金を取られた諸侯のお臍がびらつく。矢部も最初は道具に遣つて、そろそろすかしてすとんと落して、其跡自分のお部屋のおぢさん、さつさと引出しむやみに立身、一つ穴からむじなや狐が段々はひ出し、とどの詰りはどんな底意が有かもしれねへ。寛政本間の名代の越中ふんどしかつぎにや、よつてもつけねひ、白河気取は見下た大馬鹿、一体生れが違て居るものに。世上の権門、厳敷(キビシク)止させ、自分独でどつさり〆上、強欲非道は日増に増長、あのまま置たら花のお江戸はこもつかぶりと宿なし斗で居処が有めへ。時に水戸さん、どふしたものだよ、面白おかしく賢人めかして、評判させても逆巻水野の勢ひこはいか、闇もやたらに鎧着、獅子狩お山に引込、ためいきばかしてだまつて見ていちや昔のお定(ジャウ)さつぱり違ふぞ。一つふんばりや旦那を諫めて、狐も狸も化けの生体(ショウタイ)直ぐ様顕し、世界の人をば救はニヤなるめへ。今の景色で三年置たら、すてきにたまげたそうどがおころふ。いつか一度はお為になる様(ヨ)な目鼻の揃ふた人が出かけて、押付太田も再勤させます。其の時初て天下泰平天下泰平。(引用終わり)
秀作ラップだ。特に「めっぺらぽんのすっぺらぽん」というフレーズが効果的に使われている。禿頭を表現した擬態語であるが、間抜けな響きの裡に、吐き出したような辛辣さを秘めている。この言葉を投げつけられた者は、己が批判されていることを痛感せずにはいられまい。
言うまでもないが、「塩風」は大塩平八郎の乱、「隠居」「先の旦那」は大御所、「越中ふんどしかつぎ」「白河」は白河藩主だった松平越中守定信であり、他の人名は当時の幕閣である。江戸城で演じられた政治の三文芝居を描写している。興味深いのは、忠邦を非難するに当たって、定信を引き合いに出している点だ。定信は必ずしも万人に愛された政治家ではなかったが、いざ政治が腐敗すると懐かしく思い出される人物であったようだ。
このチョボクレ、かなりの知性を感じさせる筆法、江戸っぽく武士っぽい語彙からして、忠邦に冷や飯を食わされた政敵に連なる旗本・御家人が作ったものかもしれない。また、ほんの十数年後に展開する討幕運動を念頭に置けば、豪農や下級武士、浪人など、庶民とも言えず支配階級とも呼び難い、中間的な存在にも思い当たるが、まぁ作者の詮索は、此処では無意味だ。話を進めよう。
忠邦の失政は枚挙に遑がないけれど、此処で一つだけ挙げる。忠邦は、こともあろうに、暫く行われていなかった、将軍の日光社参を強行した。現職の将軍が、自分の権威の源泉である、初代・家康の墓参りをしたのだ。こう書くと何でもなさそうだが、タダ事ではないのだ。将軍独りが行くのなら良いのだが、大名、旗本、御家人、陪臣、十三万三千の完全武装集団を率いて江戸城から下野国日光まで、パレードしやがるのだ。これに、人足二十六万八百三十人、雑兵六十二万三千九百人、馬が三十二万五千九百四十頭付く。約百万の大軍団だ。ちょっとした戦争ぐらい、金も手間もかかる。
ときに幕府の財政は逼迫していた。幕府最大の財産である、<公儀>としての<権威>もしくは<信頼>もしくは<怖さ>も、徐々に低下していた。上記の如きチョボクレが流行すること自体、既にバカにされている証拠だ。また、それだからこそ忠邦は、一発キラビヤカな墓参りをカマして、権威の復旧を果たそうとしたのかもしれない。
思い付くのは勝手だが、実際に強行した点が、無能の所以である。金も手間もかかる日光社参は、幕府に対してのみ負担を強いるものではない。沿道の住民にも、臨時徴発をかけた。そして最大の問題は、参加する旗本・御家人に対して大きな負担を強いた点だ。幕府は、親藩・譜代・家門の大名と、旗本・御家人によって、直接支えられていた。経済が十二分に発達していた当時、彼らは社会の寄生階級に過ぎなくなっていた。しかも、彼らの収入は領地からの年貢や主君からの扶持米だが、原則として半永久的に据え置かれるものであり、ベースアップは望めない。しかし支出は増えたから、貧乏になる宿命だった。家計がピーピーなのに、その上、負担を強いられたのだ。
日光社参は一種の軍役である。だからこそ、完全武装で参加せねばならない。そして、封建制は、<御恩(領地や扶持米の授与)>と<奉公(軍役)>の交換で成り立っているのだけれども、言い換えれば軍役は、武士階級の自己統一性を保証するものであった。普段着では行かれない。
太郎興邦(オキクニ)という鉄砲組同心がいた。サンピン・レベルの御家人だ。将軍の鉄砲隊を構成する彼は、社参に当たって、新しい十匁(モンメ)銃を欲しがった。値段は五両である。しかし、そんな余裕はなかった。彼は如何したであろうか? 十四歳、紅顔の美少年である彼は、薦(コモ)を抱えて夜道に立ち、通行人の袖を引いて肉体をひさいだであろうか? いや、夜鷹の料金は二十四文、五両といえば二万文に当たるから、延べ八百三十四人を相手にせねばならない。ほとんど<千人斬り>だ。そんな時間はなかった。ならば、芳町の陰間茶屋に身を売ったか? しかし、芳町の陰間は、だいたい十歳かそこらから訓練を受けたプロフェッショナルであるから、十四歳の彼は、既にトウが立っていた。ならば、羽振りの良い念者をタラシ込んで、稚児におさまったか?
正解は、<オジイチャンに、おねだりした>である。このオジイチャン、頑固で有名なのだけれども、どうやら孫には甘かったらしい。大切にしていた世界に一冊しかない本、実は彼が書いたのだけれども、人々が再三求めたにも拘わらず決して手放さなかった本を、五両で売った。孫に十匁銃を買い与えた。五両、大金か否かは意見が分かれるところだ。米なら、だいたい四百キロから八百キロほど買える。しかし、場合によっては、餅を五つしか食えない。上記のように夜鷹なら八百三十四回分だが、吉原の遊郭には十回しか行けない。十回と言っても、最初から遊女と仲良くはなれないから、実質は五六回分だろう。
その後、オジイチャンは売った本を如何しても買い戻したくて色々と工面したようだが、遂に五両を調えることが出来なかったという。元々は蔵書家だったオジイチャンだが、孫のために御家人株を買ったとき、めぼしい本をあらかた売り尽くし、金を作っていた。もう、金目のモノは残っていなかった。そう、太郎は元々町人で、金で御家人の身分を買ったのだ。
何連にせよ、この御家人一家にとって五両は、間違いなく大金であり、日光社参によって、その後の生活に影響を受けたことにもなろう。日光社参というトンチンカンな「改革」は、幕府自らの首を絞めただけではなく、幕府を直接支えている旗本・御家人の生活をも圧迫したのだ。因みに、売り払った本のタイトルは「兎園小説(トエンショウセツ)」、オジイチャンの名は滝沢解(タキザワトク)、曲亭主人や馬琴などのペンネームで知られた、有名作家である。
また、この時、権力の絶頂にいた忠邦は、庶民を舐めきったことをしている。日光の天狗どもに、将軍が参詣している間は、どっか別の所へ行っとけと命ずる札を出したのだ。それだけだったら単なる馬鹿だが、天狗の返事まで捏造した所が庶民を馬鹿にしている。
日光御制札の写
来四月御社参被仰出因コレ●是迄其山住の天狗●ナラビニ降魔神御社参相済候迄其御山可立退もの也
水野越前
右御制札の御請
将軍家日光御社参被仰出候依之執権衆より山中の制被相建候条承り畢依て御参詣中城州鞍馬山愛宕山は勿論遠州秋葉山豊前彦山へ可致分参もの也
隼人
日光住居
大小天狗中
『浮世の有様』の記録者は、次の如く論評している。「江戸表より申来し由にて、ケ様の書付を流布、次には小児女子も諾ひかたき事にして可笑事也、世に将軍の威勢を知らしめんとてかへつてこれを比評するに至る。洒落の中にも尤拙き業と云へし、かゝる用なき事にはあれとも、此節の有様を知るに足れる事なるにそ、筆の序にこゝに記し置ものなり」。定信は、庶民を決して馬鹿にするな、そんなことをしたら必ず逆に馬鹿にされる、との教訓を児孫に与えているが、忠邦は完全に庶民を舐めきっていたようだ。将軍の信任を喪いつつも堂々と退場した定信と、石を投げつけられ尻尾を巻いて逃げ出さざるを得なかった忠邦、末路の差は、寧ろ当然であっただろう。
此処に於いて、権力というものに就いて思い巡らさざるを得ない。ゴロツキ老中・定信は、ゴロツキであるが故に、己の意志にのみ忠実であることを以て、情実を排し綱紀を粛正し、財政でも一定の成果を挙げた。世界を変えられたかもしれない。しかし、ゴロツキであるが故に、その独善性ゆえに、改革半ばにして、老中の座から退かざるを得なかった。結局は、世界を変えるには至らなかった。
一方、忠邦はカネコネコビの三種神器を以て、老中にまで登り詰めた。彼は上位者に迎合する才能を多分にもっていた。定信と対照的な<優等生>であった。そんな優等生だからこそ、無能であるのに、権力の中枢にまで食い込んだのだ。勿論、無能と言うのは、権力を振るう力量に於いてだ。権力を握ることに於いては、この優等生、すこぶる有能であった。何せ、唐津藩主の立場から、器量もないのに老中にまでなったのだから。
権力を握るための才能と、権力を振るう才能は、如何やら全く別物であるようだ。そして、両者を兼備するケースは、極めて稀だろう。ほぼ確実に、存在しないと思えるほどだ。そして、当然、権力を握る才能に恵まれた者が、権力を握るに至る。故に、権力を握った者は、ほぼ確実に、権力を振るう器量を有していないと言える。それが権力の宿命と言えば、それまでなのだけれども、だからこそ、絵空事の中では、理想的な君主、権力を振るう器量に恵まれた者が権力の座に就いている。これは、絵空事でしかないが、絵空事でなければ存在しない事象なのだから、仕方がない。
偉大なる作品は、強い力をもって、読者に夢を見せてしまう。既に庶民の一揆や暴動は、単に目先の経済的な事由、年貢の減免や食い物の強奪を求めるものではなく、政治構造の変革を、<世直し>という漠然とした形ではあったが、指向するようになっていた。大塩平八郎の乱も、権力が<絶対>ではなく、変革し得るものだとの前提に立って、起こされた。
八犬伝中の里見義実は、冒頭近く、安房滝田城主になる過程で何度か、「民は国の基」と語る。これは別に、義実が思い付いた言葉ではない。儒教政治学の基本原則だ。江戸の五代将軍・綱吉が下した或る布告も、このフレーズで始まっている。そして、その布告は、忠邦が天保の改革をスタートさせるに当たって役人達に送付した通達の冒頭に引用されてもいる。江戸期、「民は国の基」は、(建前上)幕府の政治姿勢を示す言葉でもあったのだ。しかし、如何やら現実はそうでなかった。だからこそ、一揆や暴動や平八郎の乱が起こったのだろう。
再び云う、偉大な作品は、強い力をもって、読者に夢を見せてしまうのだ。八犬伝は、字面では、決して幕府を批判するが如き物語ではない。幕府が標榜する建前を、忠実に描いているようにも見える。しかし、幕府の現実は、<天保の改革>を見ても、その建前と懸け離れて、腐敗していた。逆に言えば、八犬伝は、幕府の現実から懸け離れた理想像を描いて見せた。これほど辛辣な、現実への批判はなかろう。ゴロツキの所行である。適当に容認し、適当に逃避する、そんな柔弱な、優等生的な、権力への迎合が欠片も見られない。
当時の読者は、八犬伝を如何に読んだだろうか。作中に描かれた、極めて魅力的な権力を、如何に感じただろうか。ふと目を上げれば、ソコには腐敗した現実があった。読者は、如何に感じたろうか。……解らない。民衆は、寡黙である。ただ、八犬伝が刊行された後、歴史の流れは、たとえ一時期とはいえ、目の前の腐敗した現実を変革しようとする、逞しい力が漲るものとなった。
三度云う、偉大な作品は、強い力をもって、読者に夢を見せてしまう。その作品のタイトルこそ、「南総里見八犬伝」である。
(お粗末様)