■伊井暇幻読本・南総里見八犬伝「虚花と実花」

 八犬伝を読む限り、馬琴の【血】に対する観念は一見、混乱錯綜している。偽一角との対決を通じ、血が重要な親子の証となった。DNAの塩基配列を調べて云々するのではない。父の髑髏に子の血を流せば凝固する、なぁんて呪術めいた現象が起こる。呪術すなわち不思議である。不可思議にも明らかな関係、それが親子であり、血の繋がりであった。また、匠作・番作の如く、一個人で表現し得た物語を、二世代に分けた背景には、やはり親子がクローン程度に複製された者、いやクローンはmind(ココロ・記憶)を共有しないが、全くココロを一つにできる者だとの綱領が透かし見える。
 にも拘わらず、犬士は二世に資質を譲っていないし、里見家は代を追って天命を失い、滅亡する。血によっては、聖なる資質/天命は、必ずしも相続されていない。血による統治の継承を宣揚しつつ、だが実際には里見家が滅びることを後に馬琴は明示する。隠微である。或いは当時、血の継承を絶対視するムキもあったかもしれない。しかし国史の実際は、権を執る者の血脈をコロコロ変えてきた。平氏を滅ぼした鎌倉源氏将軍は三代で消滅(摂家や親王が将軍位に就きはするが)、平姓北条執権、次ぎに後醍醐が挟まって、室町源氏、それも管領やら戦国大名が入り乱れて……こんな基本的な史実を馬琴が知らぬと思うことこそスットンキョーだ。
 ハッキリとした権力、権力が人格を有つ以上、血による継承は、永続しない。天命は、幾つもの血脈を渡り歩く尻軽だ。天命を革することによって行われる権力の移行を、革命と謂う。……もしかして、「非革命性」とやらを言い募るムキは、革命には、近代に西洋および阿弗利加大陸などで起こった暴力革命しかないと勘違いしているのかもしれない。認識不足に因る誤解だ。そして、対関東管領戦で不殺生を標榜する里見家を革命の主体として理念化するならば、其れは禅譲に依って行われるべきかもしれない。しかし実際は、対関東管領戦は、【イメージ上は革命への可能性を秘めたものであっても物語表記では事実上の独立戦争に留まっている】のであり、一応は戦争をしているから放伐ってことにはなる。なるのだが、其処で不殺生を唱える里見家は、憎悪による残虐な暴力革命の主体では勿論ない。
 付け加えるならば、関東管領に対して里見家が実際の戦争で勝利したと殆ど時を同じうして、室町(変態)管領に対しては、親兵衛による模擬戦争とも言うべき武芸試合や虎退治によって、勝利する。

 「虎、トラ、寅」で「虎、トラ、寅」で「虎は、狸の後身」だと書いた。実社会に於いての祖母・妙真と合わせ鏡であり、八房の子としては養祖母であり、八房の転生たる房八の更なる転生としては養母に当たる妖狸・八百比丘尼を殺した親兵衛仁に、狸/八百比丘尼の後身たる虎が消滅させられる。因みに、虎出現の原因となった竹林巽は、甕襲の玉が発した丹波国桑田に住んだ。また、虎は(主に)悪人を挫く役割が目立つ。洛中を震撼させ、被害を受けた者もあったやに書いてはいるが、被害者の名前も特定されておらず、読者をハラハラさせはするものの、対岸の火事みたいなもんだ。読者の眼前で害される者は、悪徳僧やら何やら、せいぜい(悪役である)管領の雑兵ぐらい迄である。
 巽の妻が「於兎子」であり「於兎」が虎の異名であるとも書いた。そして、虎/寅が木気である所から、木気の親兵衛が変態管領・政元から解放される指標としての役割を、虎が担っているとした。この考えは、未だに変わっていないのだが、より重要な意味が虎にはあることを、付け加えておきたい。

 ところで、「狸おやじ」では、第八十六回、前後の脈絡なく丶大が「知風道人」と名乗り、悪人を退治する挿話があり、中国古典でも狸は雨風を支配していることなどから、これを、丶大が洲崎沖海戦に於いて甕襲の玉を使い巽の風を招く司祭となるための階梯であると断じた。ついでに、丶大が、風を支配するのだから「狸おやじ」だとも述べた。とにかく、風と言ったら「狸」なんである。また、同稿で「虎」にも風はつきものだと述べた。

 虎が風を象徴する動物だと考える。すると、豊後出身ではあるが、丹波国桑田に住んでいた竹林巽風および於兎子(イコール虎子)は、共に風に関わっていることが解る。巽風と於兎子の物語は、虎出現に纏わる話として受け取ることが出来るけれども、虎を風と置き換えれば、此の風/虎によって変態管領・細川政元は失脚し、且つ其の風/虎を里見犬士の随一・親兵衛仁が制したことは、丶大が、丹波国桑田で発見された甕襲玉を使って、風を制御して関東管領軍を撃破したことと、対応していると見ねばならぬ。更にまた言えば、巽の絵の師匠で於兎子に男色の対象として信じられた寅童子/行童は、細川政元の男色相手として熱望された親兵衛のドッペルゲンガー……とは言わぬまでも、寅は木気であるからして、密接な関係にあろう。例えば、高次元に於ける根を同じうし、三次元では別個体として現象しているほどの関係であろうか。片や変装した丶大が関東管領の命令によって甕襲玉を用いて風を起こし関東管領軍を撃破した。片や室町管領の命令によって巽が起こしてしまった虎/風が洛中を吹き荒れ室町管領を失脚させたが其の虎/風を制することで、親兵衛ひいては里見家は室町管領に対し優位に立った。親兵衛に対する鶏姦を賭けた隠微で淫靡な暗闘は、室町管領の完敗に終わった。同様の結果を導く話を、全く同じではなく、或る部分で対称的に描く手法は、八犬伝の他の部分でも見られるものだ。

 例えば、「虚花」で言えば、前後の浜路。八犬伝終盤(第百八十勝回中)、豊島の犬山家から大塚蟇六家へ養女に出された前の浜路は、里見五の姫/後の浜路の「虚花」であったと明かされる。前の浜路は円塚山で、道節の虚花たる網干左母二郎に奪われ惨殺された(「犬士類型」参照)。見ていた義理の兄で、網干左母二郎の【実花】たる道節は、助けるどころか、妹と知っても末期の願いを聞き入れず、奪った村雨を信乃に返すとは答えない。絶望のうち、浜路は自らの血の海に沈む。対牛楼のジェノサイドでも、毛野は自ら手を下さずに馬加大記の妻や幼女を死に至らしめ族滅する。復讐は、完遂されねばならぬ。同様に、自分と母を殺そうとした、いや実は母と道節両人を殺した黒白と共犯者は既に刑戮されているため、せっかく冥府から復讐鬼として甦った道節は、読者の敵に廻らぬよう、仇敵の眷属・浜路を死に至らさねばならない。勿論、道節は【無意識】のうちに、其れを行う。此の円塚山 浜路虐殺の場面、是である。自らの虚花/左母二郎に浜路を殺させた後、徐に現れ、血涙滴る美少女の願いを、勇士の本懐をイーワケに、踏みにじる。この態度自体、(イーワケをして読者に許されるものの)復讐でなくて、何か。
 しかし一方、信州猿石で、後の浜路に対する道節は、救済の使者であった(第七十・七十一回)。いや単純に、神隠し(鷲隠し?)に遭った里見五の姫浜路を救い出すのではない。亀篠を思わせる夏引の奸計によって囚われの身となった信乃を助け出し、二人を添わせる前提となる活躍を見せる(いやまぁ単に土地の役人を騙っただけだが、おバカな彼にしては上出来だろう)。前の浜路に復讐した彼は、其れ故に前の浜路が命を賭してさえ添い遂げられなかった信乃と、後の浜路を結び付ける重要な役回りを与えられる。【同じ浜路】を相手に、復讐を完遂し妹を死という絶望の底へ突き落としながらも、妹本人も恋人も共に救って兄としての恰好よさも演じるのだ。
 このように、「虚花/実花」は、同じき物語を持たなかったりする。単なる繰り返しではない。強いて言えば、両者を並べて初めて平衡するが如き一対である。此の対応を馬琴なら、【照応】とでも呼ぶか。

 対関東管領戦と親兵衛虎退治が、実花/虚花の関係であるとすれば、色々と辻褄が合ってくる。曰く、虎を実体化させた絵師の名が巽風(洲崎沖海戦で吹いた風は巽風)。曰く、巽風が住み着いた土地は但馬国桑田(風を起こす甕襲玉は日本書紀の記述により但馬国桑田と関係付けられている)。曰く、風を象徴する虎の出現・消滅により親兵衛は解放され室町管領は失脚する(風により洲崎沖海戦で兵の多くを失った関東管領は里見家の独立を許す)。かなり能く対応している。しかし一方で、洲崎沖海戦では里見側の毛野が立案し丶大が風を起こすが、虎退治では(やや悪役側の)巽風が虎/風を現象化させる。丶大も(悪役側の)関東管領の命令で風を起こすのだが、飽くまで毛野の策略としてだ。虎すなわち洛中を吹き荒れた暴風を消滅させることこそ、親兵衛の役割であった。室町管領が出来ぬ洛中の治安維持を、男色家好みのムチムチ色白美少年が成し遂げたのである。室町管領と親兵衛/里見家の立場は逆転する。いや、逆転すると言っても、親兵衛が細川政元を犯そうとしたのではない。其れは、【逆転】だ。いやまぁ確かに、親兵衛が実際は政元に何度かは抱かれつつ天井の節目を数えなかったと断言はしないし、節目なんか数えず元々何にでも器用なんだから天賦の才で腰遣い政元を骨抜きにしなかったとも強弁しないし、その時つい膨らんだ部位を政元に捻じ込まなかったと決め付けたりはしないけれども、其処等辺は読者の想像に任せるとして、筆者の言う所は、洲崎沖で風を起こすことにより成功した独立戦争と、風/虎を消し去ることで得た独立、即ち【対称】である。

 親兵衛による虎退治は、里見家による対関東管領戦の虚花として位置づけられる。しかし【本物】に先行する「虚花」が、物語の本質に於いて「虚」なのか、逆に、それこそ本質そのものであるかは、また別次元の話だ。虚たる物語に於いては、「虚花」が本質的な存在だったりもするんぢゃないだろか。虚花/前の浜路と、実花/後の浜路、どちらが読者にとって【真の浜路】か? 勿論、前者であろう。後の浜路/実花は、美しく忘れ難い虚花/前の浜路に対し、斯くあらまほしと願う人々の優しさの生んだイリュージョンだ。イリュージョンを実現するのが、稗史/小説だ。前後浜路の関係は、譬えるならば馬琴の御近所さん、嬬恋稲荷は自分のために犠牲となった吾嬬・弟橘姫を慕い狂い悶える日本武尊の結ぼれの夢が(彼岸に於いてではあろうが)成就すべく近在の者達が建てたというけれども、想い破れた者へのシンパシィを惹き起こす。八犬伝に於いては、虚花こそ真実の存在であり、実花は平衡をとるための者すなわち虚花が(読者の願う)真実に着地する為の【よりしろ】に過ぎぬ場合もあるのだ。

 上記、前後の浜路を引き合いに出し、必ずしも虚花が実花を導き出すためのみの存在ではないと考えた。虚花こそ【本命】である可能性だ。また、親兵衛による虎退治が、対関東管領戦の帰趨を決した洲崎沖海戦の虚花であると仮定した。そして、洲崎沖海戦は、関東管領に対する里見家の独立戦争であり、(五虎を含む)親兵衛の虎退治は、室町管領に対する独立(模擬)戦争であったと指摘した。では、洲崎沖海戦が虎退治の実花であるならば、馬琴は何を言おうとしたのか。

 言うまでもない。関東ローカルで華々しく戦われた洲崎沖役は、室町幕府(全国的中央政権)に対する独立戦争の、矮小化した現実への投影である。ちょっと簡単に言い回そうか。理念は現実に其の儘では現象しない。理念は現実に制約され縮小され或いは歪められ、漸く現象する。高次の存在が、現れる次元に制約された形で像を結ぶようなものだ。まっとう至極の一般人も、その全体像を夢想だに出来ぬバカから見たら、奇妙奇天烈な形にしか見えないだろう。「幕府転覆」なんて、当時の出版統制状況では、明言できる筈もない。
 だが幕府の関東出先で、しかも幕府から兵を向けられ、いやさ実は八犬伝に明記されていないものの朝敵であった関東公方、更にしかも、其の職掌すら空虚となっていた足利成氏ならば、バカにし放題だ。攻め立てても、「幕府転覆」ではない。元の家臣筋であった里見家に完膚なきまで打ちのめされても、文句は出ないよう周到に暗愚さが羅列され続けてもいた。だいたい、既に関東管領が下克上、関東公方を蔑ろにしている。前提として、舞台が戦国時代に置かれてもいる。
 (八犬伝刊行当時は、「革命」なんて言えないんだから)二重三重に里見家を弁護しているが、要するに、上位権力が天命を失い暗愚で社会の為にならないなら、放伐して然るべきだって革命論だ。尤も里見は「仁君」だから、関東公方・管領を丁寧に扱い辱めたりしない。しかし、臣従も決してしない。第十一回で里見家に、鎌倉府を通じて官職が与えられた。しかし第九十七回、直接幕府から官職を与えられるようになっており、遂には第百七十九回中、朝廷から勅使を迎えるようにまでなる。既に「漂う国・南総」で論じたように、八犬伝本文に於ける里見家の地位は、上記の階梯を登るのだ。相手を生かしていようと殺そうと、丁寧に遇そうと如何しようと、過去に上位に在った権力との関係を無化しているなら、革命性を有する。既に相手の天命を認めていないのだから。
 そして、関東管領との決戦を前に、親兵衛による虎退治が何故だか挿入されている。大塩平八郎の乱も関係しているだろう。前後の浜路に見る如く、虚花こそ【八犬伝の真実】ならば、対関東管領軍戦の虚花・虎退治こそ、全国政権の否定、独立、革命性こそ、馬琴が隠微にも読者に幻視させようとしたものではなかったか。根岸鎮衛とか色々、此の「八犬伝の真実」に気付いた読者もいるだろう。しかし馬琴は曲者だ。八犬伝物語が大団円を迎えようとする直前、おっ被せてイーワケを重ねる。「何故に里見家が天下の権を執らぬのか」そんな疑問をはぐらかすのだ。

 第百八十勝回上、政木大全が政木狐龍の墜落石化を目の当たりにしたとき、武田信隆「義実侯少かりし時、結城落城の日に死を免れて、いかで安房へ渡さんとて相模さる三浦の海辺に船を徴め給ふ程に白竜俄然と海より起りて天に登るを見給ひにきといへり。竜は鱗虫の君にして其徳を王者に比す。源氏は素より金徳にて色は白を貴べり(……中略……)天下の連帥たるべき者は必里見氏なるべきに然はなくて東南の一隅へん褊小なる安房上総を領するのみ。下総半国の外に又地を増事を得ず……(後略)」。

 簡単に言えば、「里見は、あれだけ良い領主なのに、何故全国を支配するようにならないのか」。尤もな疑問であり、読者の代弁だろう。此に対し孝嗣の返答は、素っ気なく簡単明瞭かつ不気味だ。

 「天なり命なり……中略……漢は火徳なり。色は赤を貴べり……中略……成敗をもて人を論ずる者は、天命を知らざるなり……中略……我君房総両国の守にして地を増給ふ事あらずとも、良将の御名後世に流芳して御子孫長久ならんには仁義善政の大益あり……後略」。
 「里見が天下の権を執らない理由は、そういう巡り合わせだからだ。現世的結果だけを見て評価するとは、天命というものを知らない証拠だ。限られた領域であっても良い政治を行い栄えれば、正義善政の手本として全国に大きな利益をもたらす」。里見家が全国を支配することはないとしつつも、里見家および犬士が実践した論理が手本として、全国に行き渡ることを期待している。
 言い換えれば孝嗣は、里見家は天命を与えられて然るべき資質を与えられてはいるが、「天なり命なり」時運が合っていないと言っているのだ。簡単に云やぁ、天命というものを語ることで、【革命】へのベクトルを暗示しつつ、革命そのものを完遂させちゃぁ下克上文学/革命文学として弾圧されるだろうから、【寸止め】しているだけの話だろう。八犬伝の論理が行き渡れば、自然と天命が舞い降りる。革命の勃発である。里見家を取り上げた理由だって、史実(江戸初期に改易)も「寸止め」に都合が良いからに違いない。此を革命への指向性/ベクトルと云わずして、何とするか。

 例えば、里見家および犬士が実践した論理の一つは、【一代限りの忠】だ。結城合戦に於ける里見季基および大塚匠作や、祖父・父の主筋と決裂した信乃、いや二世に減俸させた挙げ句に致仕させた犬士全員を見れば明白だ。其れが故に、当主として直接に仕えてもいなかった道節が、滅びた煉馬家に過剰な忠を捧げるが、とことん失敗し、やや揶揄されているかの如く描かれるのだ。彼こそが忠の基準であるならば、当主としてではなくとも結城合戦に参加していた里見義実は不忠者になってしまう。しかも、「一代限りの忠」とて絶対ではない。現八なんて、飛脚の息子だったんだけれども典獄にまで引き立てられたが、其の不条理な職を返上して投獄された挙げ句、出奔している。政木大全などの例もあり、「一代限り」どころか、相手によっては否定することも可能なのだ。
 このことは、馬琴の出自に関係があるかもしれない。筆者は馬琴のプライバシーに立ち入る趣味は余りないんだが、馬琴の家は、江戸の武家を渡り歩いて奉公する階層であった。武士ではあるが、世襲を約束された者ではない。個人の資質によって、待遇される奉公人であった。しかも、馬琴は十八歳の時に、主家を飛び出す。
 主家の息子が馬琴に音曲を奏することを強要したからだという。現代なら別に何ともない要求で、親しい仲なら頼まれもせぬに急に歌いだす輩もいる。上司や先輩のマイクを奪う若者だっていよう。しかし昔は、例えば唄を歌うことは屈辱に庶かったのかもしれない。馬琴は八犬伝の中でも音曲を愛でる網干左母二郎や亀篠、馬加大記を悪役に設定している(小文吾も尺八を吹いたのではないか? ちなみに「尺八を吹く」とは隠語で……いや、止めとこう)。本当に唄が問題であったのか……。床三味線とか、佳い声で泣く、雁が音を吹くとか淫靡な語彙があり、音曲は艶っぽいジャンルでもある。ちなみに全く関係ないが、馬琴の青少年期から八十八年ほど後、東京日々新聞に拠ると、次のような事件が起こったらしい。……と、此処で御約束の制限行数である。どんな事件が起こったか、それは次回に申し上げよう。刮目して待て。(お粗末様)
 

 

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