■伊井暇幻読本・南総里見八犬伝「南総七十万石」

 富山に隠棲した犬士は、富山に尸解する折、二世達に妙なことを云う(第百八十勝回下編大団円)。「安房は僅に四郡にて九万貫文の小地なり。然を先君臣等八人に秩禄八万貫文を賜りしは、是軍功の恩賞なれども、君臣其禄を等しくするに似たり。王制に大夫は士の禄に倍す、君は卿の禄を十にす、といふに当らず。然ば若們が五千貫文も猶過たり。折もあらば辞ひまつりて三千貫文にて事足るべし。君子は周くして党せず、小人は党して周からずといへり。若們八人は倶に周くすべし。善悪に就て党すべからず」。
 なるほど和漢三才図会には各国の石高を表示しているが、其れに拠れば、安房は九万千百七十九石だ。安房だけ見れば、確かに君臣九等分である。しかし他ならぬ馬琴は、第九輯下帙之上附言に於いて、次のように云っている。

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有人云在昔里見氏は安房に起りて後に上総を略し又下総をも半分討従たりき。有恁ば安房は小国なれども其発迹し地なるをもて今も世の人推並て安房の里見といふにあらずや。然るを叟は這書に名つけて南総里見とす。便是本を捨て只その末を取るに似たり。故あることか、いかにぞや。と詰問れしに予答て云否、子が今論ずるよしは後の称呼に従ふのみ。上れる代の制度を考るに安房は素是総国の郡名なり。▲(シンニョウに貌)古天富命更求沃壌分阿波斎部率往東土播殖麻穀好麻所生故謂之総国{古語麻謂之総也今為上総下総二国是也}阿波忌部所居便名安房郡{今安房国是也}と古語拾遺に見え古事記並に書紀景行紀に東の淡水門を定め給ふよし見え且景行五十三年冬十月天皇上総国に到給ひて淡水門を渡り給ふよし見えたり。しかるに元正天皇の養老二年五月乙未上総なる平群安房朝夷長狭四郡を割て安房国を置給ひしに聖武天皇の天平十二年十二月丙戌安房国を元のごとく上総国に併せ給ひき。かくて孝謙天皇の天平宝字元年五月乙卯安房国旧に依て分立らる丶よし書紀又続紀に見えたり。是よりして後は安房と上総と二国たるに論なし。さばれ安房も初は総国なり。当時里見氏の威徳を思料るに土人相伝へてその封域をいへる者二百二十七万石とす。房総志料第五巻安房の附録に是を否して里見九代記に拠るに里見の領地は義尭より義弘へ伝へし所、安房上総並に下総半国是に加るに三浦四十余郷あり。此彼を合しても七十万石には尚充ざるべきに土人の口碑に伝る所は何等に本づきていへるにか、といへり。縦七十万石に充ずとも大諸侯と称するに足れり。然れば起本の国といふともかくの如き小説には褊小の安房をもて里見の二字に冠すべからず。▲(しか)りとて又房総と倡へなばなほ三浦四十余郷あり。因て南総といふときは、その地広大に相聞えて唯上総にのみ限るにあらず。這書に載する里見父子は賢明当時に無双なれば南方藩屏第一の大諸侯たるよしを看官にしもおもはせんとす。作者の用意素よりかくの如し。知ず僻言ならんかも(栗鼠の頬袋より修正転載)。
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 此処で馬琴は、「南総里見八犬伝」の「南総」に込めた意味を、上総・安房に下総半国および三浦(相模国)四十余郷を併せた領域だと規定しており、戦国大名としての石高(貫高)を七十万石足らずだと推定している。里見家の支配領域は九万石ではない。だったら八万石ぐらい、親戚なんだから、くれてやれよ、何処が「君臣其禄を等しくする」なんだ。だいたい馬琴は、第一回冒頭で里見家を、「房総の国主」と云っている。また、第九十七回冒頭で里見義実は「安房上総二州の守」となっており、室町幕府は里見義成を安房守に任じ、「房総二州の国司」としている。第百五十七回までに於いて義成は、幕府のみならず朝廷にも「里見安房守兼上総介」を追認/信任されている(上総は律令上「大国」すなわち親王を守に据えるため介が事実上の最高官)。下総・相模は国全体を支配していないので国司とはなっていないけれども、里見家領国は、上総・安房を中核としつつ下総・相模へも跨る区域であった。

 此処で、ちょっと脱線して、江戸期の将軍と大名の石高比率を見てみよう。何故に個々の大名家に於ける君臣比率を考えないかといえば、面倒だから……ではなくって、八犬伝に登場する理想王国たる南総里見領国は、日本全国の縮図と考えた方が良いからだ(でも、やっぱり面倒なのが大きな理由)。
 太閤検地で全国の総石高は約千八百五十万石であった。元禄期に約二千五百万石、幕末には三千万石規模にまで拡大したと見られている。増収の大きな理由は新田開発であった。耕地が拡大した。一方、和漢三才図会表記の各国石高を累計すると、約二千二百二十万石だ。上総は三十七万八千八百九十石だから安房・上総合わせて四十七万石、図会で下総は三十九万三千二百九十石だから、この半分として十九万六千六百四十五石を足すと六十六万六千七百十四石、此に「三浦四十余郷」を加えて、まぁ七十万石といったところか。馬琴は七十万石足らずとしているが、計算の簡便化のため此処では七十万石と考えておく。また馬琴も、だいたい三才図会程度の見積もりなので、全国石高を二千二百二十万石と想定する(八犬伝の舞台は近世新田開発以前の状態だから、もっと少ない筈だが、其処まで小五月蠅く馬琴も考えてはいなかっただろう)。ところで、馬琴と若干の通交があった松平定信が老中となる以前、正徳の治ってのをやった新井白石は、幕府支配地を約七百万石としている。うち旗本領分が二百六十万石ほどだ。
 あくまで上記の仮定に於いてではあるが、幕府支配地は全国の三割一分五厘、旗本領分を除いた直轄領が四百四十万石で二割程度だ。この割合で里見領国を配分すれば、直属の使用人俸給を含めた里見家支配分は七十万石中の二十二万七百二十石七升二合…。対して犬士は一万石、決して小さい差ではなく、「君は卿の禄を十にす」にも逆らわない。また、里見家と犬士を合わせて三十万石を超すものの、残りは三十九万九千二百七十九石二升七合…で、一人当たり五千貫文(石)の家老たちやら何やらも、まぁ養えるんだろう。それでも足らなかったら褒美としては、武具なり金なり馬なり書画なり菓子なり感状(表彰状)もしくは年賀謁見の席次の上昇って手もある。
対して、実際の幕府体制は(初期は織豊時代から続く大大名が割拠していたが次々露骨に潰されていき比較的安定する元禄以降で考えると)、まぁ次のような感じだった。加賀前田家百二万石は、幕府領の七分の一に匹敵する。他に仙台伊達六十三万石、御三家では尾張六十二万石、和歌山五十六万石、水戸三十五万石だったし、島津が七十七万石であった。これらの六大諸侯だけで三百九十五万石、幕府領の半分をゆうに超える。これに肥後細川五十四万石・福岡黒田五十二万石を加えた八大諸侯となれば五百一万石、幕府領の七割を超す。考え方を変えて、【犬士のように石高面で最も優遇されている】加賀前田家が八つあれば、実は幕府領を百万石ほど超過してしまう。故に、里見家の体制は、別に馬琴が心配するような、【君臣等しい】形ではない(尤も名目石高と実際には乖離があり、上記は数字上の遊びに過ぎない)。ところで、また、馬琴は上の「第九輯下帙之上附言」で「七十万石でも大諸侯」と云っているが、確かに前田には及ばぬものの伊達・尾張を超え、島津と並ぶことになる。幕府転覆も、或いは可能だ(鸚鵡を飼っていたり、異国と全く接触していないわけでもない)。
 また、里見家に於ける犬士の位置を全国に拡大投影すると、それぞれ三十五万七千石。里見家当主/義成の甥だから御三家レベルとすれば、まさしく水戸の肛門痔瘻……もとい黄門侍郎なみとなる。更に言えば、江戸期の大名は、改易されたり新設されたりで変動するが、俗に二百六十余家と云われ、だいたい其の位の数があった。即ち一大名平均は、五万石弱。但し、上記の如く大大名の寡占状態だし、他にも浅野やら池田やら鍋島やらの三十万石級、南部やら保科やら山内やらの二十万石級もいて、実際には数万石の大名が最も多かった。十万石もあれば、堂々たる大名である。犬士も確かに里見家の中で優遇されているとは言えるが、せいぜい水戸家ほどの相対的地位だと考えられ、犬士の特殊性を考えれば、驚くほどではない。

 とはいえ、読者には疑問が起こるかもしれない。あくまで安房だけに限れば九万石(実在の江戸期里見家の名目石高は十二万石)であって、里見家支配地の殆どが上総に分布していては危急の時に不安はないか? 逆だろう。戦闘は、兵士の質・数が同じなら、指揮官の質に左右されよう。安房に九万石しかなければ、安房国内で動員できる兵は、それに見合ったものでしかない。石高(貫高)は、軍事と一体化した数字だ。毛野のような有能な軍師、親兵衛のような化け物じみた最前線指揮官がいる方が良い。義成一人より、八犬士が各々の手勢を率いて戦った方が、高い効果を期待できる。八犬伝の舞台背景は、一応は封建制であり、封建制は君主もしくは中央政府が軍事力を独占するものではない。領地を与えられた家臣が、それぞれの領地から兵力を捻出し手勢を率いて馳せ参じることこそ基本だ。何たって、八犬伝で犬士が、叔父である義成を裏切る筈がないのだから、義成にとっても、此の方が安心だ。第百八十回中「第一番に八犬士を召出して這回の軍功の賞として各一城の主に做されて采邑各一万貫文を賜ふべし、と仰らる。但し上総は郡県広く且富饒の地なれども稲村に遠ければ股肱の臣を置べからず。この故に故意当国に宛行はる」に、上記の事情が込められていよう。
 また、江戸期には、此の「一万貫(石)」ってなぁ幕府に臣従しつつ、共に【直参】である大名と旗本を分けるラインだった。大名の方が独立性が強い。譬えるならば、幕府は大名にとって盟主、旗本にとっては主人、ぐらいにイメージの差がある。そして大名の家臣は、大名が将軍に臣従しているのだから、臣の復た臣、陪臣(またもの)と謂ぅんだが、そういぅ陪臣に、「大名」並の一万石を里見家は、与えた。もっとも江戸期、大大名家の重臣は万石を軽く超えていたし、仙台伊達の家老・片倉家なんて、(一藩一城制/俗に言う一国一城令があるにも拘わらず)城持ちだったりした。
 でもまぁ、やっぱり、近世には、陪臣で万石以上かつ城持ちは、特殊なんである。勿論、八犬伝は戦国初期の物語だから、万石以上が大名で未満が旗本だとか、大名の家臣は通常なら城を持てないとか、そういう制限は全くない筈でもある。が、挿絵を含み、八犬伝に登場する風俗は明らかに近世の其れであり、近世の読者に親(ちか)しいものでもあった。出版統制もあり、物語は【現在と切り離されたもの】として書かれ其の様に振る舞うが、実は【現在と繋がっているもの】でしかない。描かれているものは、一種のエキゾティシズム(異国情緒)、日本人なら眼鏡出っ歯でカメラをぶら下げ、ヤンキーならば紅毛碧眼カウボーイハットを被らねばならぬ。異国/異時代の現実ではなく、飽くまで当時の読者の思い込みにこそ忠実でなければならぬ。
 所詮は大名家の家臣でありながら、万石以上で城持ちの犬士たちは、戦国期には別に珍しくもないけれども、近世の読者であれば、片倉家の如き現在の実例はあれ、やはり特異な存在として映ったろう。或いは、「徳川の御代には珍しいけれども、戦国時代には、こうだったのかなぁ」ぐらいに感じたかもしれない。此の彼此のギャップ(異国情緒)こそ八犬伝の、隠微の根元かもしれない。ギャップを認識する瞬間、人は彼此を実は混淆している。異質な者が混ざり合う瞬間に生じるココロの【泡立ち】が、エキゾティシズムだろう。エロティシズムにも庶(ちか)い。なりなりてなりあまれる者が、なりあわざる者との差を認識したが故に、合一の衝動に駆られる。エロティシズムである。……では、強烈なる【同化】の衝動によって、心性からして取り込まれ/同化してしまった読者にとって、犬士の如く例外的存在は、常識的存在へと変貌するのではないか。「んな奴ぁいねぇよ」から「斯くあるべし」への移行である。そう思わせるのが、稗官の腕の見せ所だ。馬琴は、成功したか? 私の見るところ、成功している。八犬伝を読めば読むほど、馬琴の手管に絡め取られてしまう。まぁ「読む」とは「同化」の道筋であるかもしれず、当然といえば当然なのだが。馬琴の手柄である。
 また一方、犬士の位置を確認するため補助となる人物が、政木大全孝嗣である。犬士と同等の資質を、伏姫ならぬ政木狐に与えられたと思しき彼は、「今よりして犬士等と倶に当家の股肱たるべしとて、名刀一口を賜りける」(第百七十八回下)と準犬士に列する。四家老の次席として五千貫文を領し、城主となる。また、犬士は、(従兄妹ぢゃないかとも思うんだが)里見の姫たちと婚姻するけれども、孝嗣は親戚筋の葛羅姫と娶せられる。何処から見ても「準犬士」だ。そして「準犬士・政木大全」で書いたように、此の大田木・政木(正木)大全(大膳)家は里見家から嫡子を迎えたりして長く存続、江戸期半ばの八代から幕末に至るまで将軍家を継いだ紀州流徳川家の血の根源となった女性を輩出した家である(諸説あるが、そぉいぅ説も確かに在った。家康側室お万の方である〈養珠院殿/←「珠を養う」ですぜ、奥さん!←誰に言っとるんだ〉大滝城主正木左近太夫頼忠の娘である)。物語前半に於ける八犬士による冒険を、縮小しながらも一身に集中した孝嗣は、犬士消滅後も(史実でも)居残り、主家が改易した後も、血の源泉として日本の権に関わっていく。則ち、犬士の何等かの特殊性は、血を以て(全く活躍しない)二世・三世に無意味に継承されたのではなく、何時の間にやら政木(正木)家に移譲されたと見るべきだろう。何が移譲されたか、当然、此の国を導く論理を体現することだ。八犬伝は、馬琴が八犬伝を書いている時まで、日本を支配した【血】紀州流徳川家の根源(いや実は水戸家も……)を、それとなく示し、且つ、聖別された血も、実は長くは世襲できないことを明示している。犬士自身、二世にすら資質を譲り渡せていない。里見家も、代を重ねる毎に天命を失っている。【(易姓)革命性】は、八犬伝に於いて、全く自明である。
 裏から語れば、例えば史実の、三浦支族であった正木時綱は、安房安西氏を頼って房総半島に来たんだが、里見義通の近臣となり、義通の妹と婚姻したことになっている。義通の妹とは(いやまぁ姉でもあるが)、犬士が婚姻した相手である。八犬伝では犬士が義通の姉妹、政木孝嗣が親戚筋と婚姻しているが、如何やら実際には、正木(政木)が義通の姉妹と結婚しちゃっている。犬士と孝嗣の置換法則は、やはり成立しそうだ。また、お万の方は、熱心な日蓮宗徒として知られているが、此の事と、里見義実が日蓮宗徒を糾合して国盗りを実現した事は、あながち無関係ではないだろう。
 正木/里見から、馬琴生存時の日本の権は継がれていたのである。其れが故の「縮小しながらも一身に凝縮」である。物語上では、其れには政木狐が深く関わっていよう。奇しくも幼き孝嗣が睡眼朦朧「狗子(わんわん)」と表現した政木狐だ(孝嗣は幼児だったので筆者の如き酔眼ではなかったろぉ)。移譲は、特に政木狐が龍となって、しかも石化して墜落した時点ではないかと疑ってはいるのだが(其れを確認するのが小文吾と孝嗣の鯛を廻る歌争いか←犬士と対等に争える即ち同格だと確認できる)、現時点では此を説明する、説得力ある論理を構築できてはいない。飲んだくれ筆者の怠惰まことに忸怩たる所がある。

 しかし、馬琴が否定的なニュアンスで、「君臣其禄を等しくする」と書いているには変わりがない。此れは即ち馬琴が、八犬伝に於ける里見領国を安房・上総両国を中核とする領域と規定しつつも、理念/イメージ的本拠は、あくまで安房であることを示していよう。役行者に与えられ伏姫を通じて犬士に渡った霊玉は最後に、里見家を守護する四天王像の目に変わる。四天王像は、安房・上総を中核とした里見領国全体に分置されたのではなく、安房の四隅に配された。また、安房・上総の国境である鋸山に、実際に現存する千五百羅漢を髣髴とさせる、五十体の仏像が安置された。【房総随一の仏地】であるという理由で。
 私は軍事に疎いが、現在の海軍航空隊が安房館山に駐屯しているとは知っている。そして鋸山全体が太平洋戦争時には帝都を守る重要な拠点として基地に変えられたことも知っている。以前に里見家を、江戸を守る(イメージ上の)任務を帯びた藩塀だと延べたが、加えて、江戸の喉仏に匕首を突き付けている不気味な存在でもあることを指摘しよう。江戸を守る最前線は、瞬時に江戸を攻める最前線に豹変し得る。そして、房総随一の仏地であり安房の国境でもある鋸山に五十体もの仏像を配備したことも、結界を構築して外敵を守るためとすれば、其の仮想敵は太平洋から来る黒船か? それとも江戸湾もしくは三浦半島から漕ぎ出してくるのか? 日本の中で日本的理念を純化し、独立なる王権を建てた国は、さて、「日本」なのか、「日本」でないのか? 理念を奉じ、濁世と闘う犬士の、里見家の、物語が、現実の「日本」に対するアンチ・テーゼであるならば、「国境/結界」たる鋸山の「外」は、「日本」である可能性もある。

 里見家の本拠である安房アワ/総フサ/扶桑は、日本であって日本ではない。扶桑/総/安房は、泡沫(あわ)のように儚く消え去る、日本の夢か。其の「日本の夢/馬琴の夢」は、「君臣等し」い世であろう。臣の資質/民度高くて初めて、共和制は成り立つ。そうでなければ衆愚に堕する。近世村落の自治は、形式的な制度を無視して、馬琴眼前の現実であったわけだし、江戸の大変態・馬琴の射程を、実はテキトーで維新前とにかくイカン酷かった史観に毒されたテレビ時代劇レベルの認識(坪内逍遙も此の一派ですな)に追従させる必要は、全くない。そうでなければ明治前期に、極めて民主的かつ合理的な憲法制定建白が存在する筈もないではないか。国史は前代が何故に滅びて現体制が出現したかを説明しようとする者だが、其処に若干の、現体制に対する御追従、前体制への必要以上の非難が鏤められたりもするんだが、明治体制に於ける史学には、まぁ、そんな内股軟膏な論もある。強きに靡く論は、既に士(読書人)の史ではない。明治の史論自体が当時の世相を語る史料であって、別に鵜呑みにする必要はサラサラないんである。
 また若干の怪奇味を望むならば、五十体の仏像を、古代平安京を守るべく将軍塚に埋められたホムンクルスと重ねればよい。宝剣を手に闕起し、舞うが如く血塗られた防御戦を展開する美しき童顔の仏像群に、毛野の面影を映しても可だ。毛野のような美少女に殺されるなら、文句の言いようもない。せめてもの、仏の情けだろう。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。(お粗末様)

 

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