■伊井暇幻読本・南総里見八犬伝「犬士類型」七・七バランス2

 前回までに解り易い犬士、現八・小文吾・親兵衛・信乃・荘介を取り上げた。続いて大角・毛野・道節を考えよう。
 大角の場合は難しい。何せ彼の父は、猫であった。確かに彼は温厚で、育ちがよい。攻められる側、ネコ系みたいな気はするんだが、それは犬士としての資質とは無関係だろう。彼の実の父(本物の)一角は、英雄的な冒険を試みたものの失敗しているし、冒険の動機は庚申山の開拓であったが、行為自体は蛮勇に庶い。安房とは無関係だ。また、大角の痣は、先天的なものであった。玉は幼いときに知人が加賀・白山から持ち帰ったものだ。一角の失敗した冒険、猫と一角が入れ替わった時点で、既に大角は犬士となっている。父の積極的行為も非業の死も関係ないとすれば、大角が犬士となった原因は、赤岩家・犬村家の属性に求められるだろう。残るは、赤岩家・犬村家の所在しかない。赤岩家の住む地域は「下野」に属し、「返璧」があり、「庚申山」があり、「二荒山」がある。返璧は架空の地名っぽいから考えないとして、下野は毛野に関わる国であり、庚申は八犬伝の中で何度か登場する語彙、二荒は日光で観音/補陀落信仰と深く関わっており神君・徳川家康を祀った土地だ。庚申は金気/陰の神であるによって、殺に関わり、人を断罪する。司法の神なる印象もあって、〈正義〉とも関わろう。素藤の父・但鳥跖六業因が捕らえられた挿話も、庚申信仰と関わっていた。また、信乃の母・手束が伏姫に手づから玉を渡された場所は、庚申塚であった。また、越後で石亀屋に罪せられ、船虫が吊され打擲された場所は、庚申堂であった。事情を知らない荘介が救う。金気は源氏と関わりが深く里見家も金気の一族であろう。二荒山は伏姫の正体、観音の聖地であるによって、やはり八犬伝と関係が深い。これらの諸事情から大角は、庚申、観音の霊を享けた者と見ることが出来る。因みに、もう一つの観音霊場・白山は、甚だ強力な存在である。彼が犬士たる所以だ。また、生まれながらの犬士・大角が猫に痛ぶられる話は、最後に登場する犬士としてのケジメだろう。初出の犬士・信乃が苦況に陥る原因は、紀二郎猫の存在であった。此は抑も、里見家に仇為す者、八房を育てた狸が、「野猫」と置換可能である論理から導かれた話だろう。後に狸の化身・玉面嬢が素藤と組んで、やはり里見家を悩ませる。狸/猫と犬との敵対関係は、最後に登場する犬士・大角も経験せねばならなかったのだ。如何やら大角、安房ではないが、〈庚申・二荒山近くで生まれた〉ことを犬士たる原因としている。此を第三の類型とする。

 まだ毛野と道節が残っている。此の二人、雰囲気は似通っていながら、実際に行うことは対称的だ。
 犬士第四類型は、〈父母を謀殺された〉者だ。毛野と道節が、此に当たる。二人とも父は、まぁ立派で善良な武士だったようだが、自ら積極的に英雄的行為をしていない。戦闘で死ぬことは時の運だろうし、政敵に謀殺されることは本人の都合ではない。まず毛野の場合、母の調布は懐胎三年、相模足柄に隠れていた時、南方から飛んできた玉を懐に受けて産気づいた。此以前の毛野に関する情報は、父たちが謀殺されたことしかない。故に、父たちが謀殺されたことが、犬士となる原因だったのだろう。道節の場合は、もっと鮮烈だ。彼は母を毒殺され自身も首を絞められ、埋葬された。腐乱する母の横、暗黒に泣き悶える幼児・道節。甦ったときに、痣は出来ていた。但し、肩の瘤は生来あって後に忠玉が出てくることから、或いは生まれながら玉を体内に有っていたとも言えるのだけれども、玉と痣の二つ共が揃ったときこそ、犬士となる瞬間であろう。よって、道節が犬士となった原因は、母を謀殺された悲劇だ。玉と痣二つ共揃ったときが、犬士誕生の瞬間となる事情は、親兵衛・信乃にも見られる。親兵衛は仁玉を握り締めて生まれたが、それだけでは犬士とはならない。良心から発露したものではあっても誤って神余光弘を殺した祖父・朴平の罪が残っている。其れが無化される為に房八が義死せねばならなかった事情は、彼本人の口説から明らかだ。房八が覚悟の死を遂げる直前、息子・親兵衛の脇腹を蹴って痣を作る。一旦は死んだ親兵衛が、犬士として生まれ変わる。
 信乃の場合も似た事情がある。孝玉は彼が生まれる以前、手束が受胎する以前に、伏姫本人から手束に渡された。約束の日が来るまで玉の〈容器〉となる犬の与四郎と一緒に、手束に渡された、と読むべきだろう。しかし信乃は生まれた時に痣を有っていない。白く滑らかな膚には、一点の汚れもなかったのだ。時満ちて、番作は切腹する。信乃は傷ついた与四郎を介錯する。OpenHisHead、容器が開かれ玉は飛び出した。このとき信乃の腕に痣が出来る。彼は犬士となる。「淫らに喘ぐ美少女」で述べたように、信乃が犬士となる初動原因は、匠作の行為である。が、番作の切腹によって、条件が総て揃ったことが解る。
 ただ、小文吾の場合は、玉こそ得られており、痣は生後に遊びの中で出来たことになっている。那古七郎の行為、即ち小文吾の与り知らぬ生前の事象が犬士たる原因だ。痣は後天的なものである。痣が出来た経緯には特段の理由は考えられない。上記のセオリーから外れるのだけれども、馬琴は小文吾が相撲の得意なヤンチャ坊主であったことを強調したかったのか。
 第四類型に就いて補足する。何故に彼等が犬士たるかを考える。彼等、毛野・道節は単に、父母を謀殺されたに過ぎず、大塚匠作・番作・犬川衛士ほどの積極的もしくは派手な行為をしていない。〈過剰〉ではないのだ。大塚匠作・番作の預金が信乃へ、犬川衛士の遺産が荘介へと相続されたことが、二人の犬士たる所以だ。「過剰」である。しかし毛野・道節の場合、父母は単なる善い人であり、積極的な意味で何かを遺してくれてはいない。が、預金だけが遺産ではない。借金/債務も債権も、相続の対象となる。
 毛野の父・道節の母は、大した預金がなかったものの、大きな債権を遺した。悪人に生きる権利を奪われたのだ。奪われたら、取り返さなければならない。此は一種の債権である。普通の、ほぼゼロの位置にいた毛野の父・粟飯原首胤度と道節の母・阿是非は、生命を理不尽に奪われた。即ち、大きなマイナスを押し付けられた。父母が理不尽に大きなマイナスに終わった以上、子供たちに大きなプラスを与えて均衡させねばならない。均衡/バランスは遅くとも、「目には目を」と唱えたハムラビ法典の時代から、人々に説得力を与え続けた概念だ。この概念がなければ(正当な)経済行為すら行えなくなる。獣の如く奪い盗み、何等罪せられることがない、そんな世界になってしまう。均衡の概念は、人としての要件とも言える。ただ近代に於いては、親子たりとも個々人は別物として扱う。故に、相続そのものを放棄すれば、親の債務が襲いかかってくることはない。遺産/負債の面では、親子の断絶が公的に許される。一方、前近代日本では、古今東西共通である「均衡」の概念を〈因果応報〉と呼んでいたが、此は親子どころか世代を越えて債務履行が求められる(尤も御成敗式目なんかでは年紀法が規定されており、二十年間我が物にしておけば取り返されないことになっていた)。が、貯金と違って、債権は、取り立てなければならない。預金ならば、金融機関の窓口で簡単に引き出せるのだが、債権は取り立てるとき、債務者の抵抗があり得る。此の「取り立て」が、〈仇討ち〉となろう。
 理不尽な剥奪を、次世代に於いて復旧する権利/債権を有することが、犬士となる理由に繋がる。即ち、善良な父母を謀殺されたことで毛野・道節は極めて高い資質を与えられた。高い資質を持つことで、犬士たる資格を与えられた。また、此の資質は、債権取り立てにも活用できる。だからこそ、毛野の仇討ちは華々しいし、確実に履行されねばならなかった。しかし、道節は如何だろう。道節の「仇討ち」は失敗の連続で、結果として扇谷定正を討つことが出来ない。完全勝利した洲崎沖海戦のドサクサに紛れて定正の庶長子・朝寧を射たが殺せなかった。しかも、漂流していた朝寧を仲間の犬士が助けるオマケ付きだ。因みに、定正を追い詰め兜に矢を的中させたときも朝寧を射て命中したときも、共に兜・鎧が強固だったから仇討ちに失敗したことになっている。「帯刀先生」に補せられる道節の武芸に傷がつかないよう配慮されているようだが、逆から見れば、いくら道節が頑張っても、見えない何かの手によって扇谷家が守られているように見える。八犬伝の中で少なくとも馬琴が、救いの手をさしのべたことは確かだ。
 まぁ、八犬伝は稗史であり必ずしも史実をなぞらなくても良いのだが、差し支えもあるので定正を討たせなかったのだとも考えられる。しかし、物語に必須のことならば、恐らく馬琴は何等かの形で定正を殺しただろうし、抑も作中で仇討ち可能な他の人物を設定しただろう。例えば、架空の人物なら殺し放題だ。
 定正は、別に殺される必要がなかったのだ。定正は確かに、道節に言わせれば「仇」なんだが、八犬伝全体の構想から見れば、別に如何だって良い敵なんである。執拗に定正を狙うが、極論すれば此、道節の〈趣味〉に過ぎない。奇襲だったとか何とか、豊島家が脆弱ではなかったと言いたいのは解るが、戦国の習いとして攻撃を受け滅びるならば、天運として諦める他はないだろう。仇討ちをしちゃぁイケナイとは言わないが、何が何でも仇討ちしなくちゃイケナイってもんでもない。信乃にとって祖父の敵は足利将軍とも言えるのだが、信乃はそんなことオクビにも出さない。定正も道節にとって、あそこまで執拗く付け狙わねばならぬ相手ではない筈だ。だから「趣味の仇討ち」なのだ。絶対に犬士として為さねばならぬ仇討ちではないから、失敗も許される。また、成さなくとも良い仇討ちに血道を上げる〈過剰な執念〉こそ〈忠〉たる表現とも見える。成功するしないは関係ない。ただ、「仇討ち」を行おうと努めることこそ、「忠」なんである。不必要/過剰が、忠の特性だ。忠そのものもオマケの徳である観が強い。其処等辺の事情を、馬琴は巧みに描いているのだ。
 豊嶋そのものの滅亡自体、八犬伝にとって実は置換可能な事象に過ぎないと、筆者は考えている。史実に於いて文明九(一四七七)年、偶々豊島一族は大田道灌のため滅亡している。馬琴は八犬伝執筆のため結城合戦から里見家滅亡までの関東史を弄ぶうち、上記の如き忠玉たる道節が豊島家中である設定を思い付いたのではないか。或いは、上士の嫡男としてヌクヌク育った道節に、「主家が滅亡でもすりゃ、少しは苦労するだろう」と、犬士らしい成長を期すべく苦行としての仇討ちが課せられたのか。主宰神・役行者の差し金だ。即ち、馬琴の深慮である。
 ところで前述した如く、道節が犬士たる原因となった「謀殺」は、飽くまで母・阿是非の毒殺だ。此の意味に於いて、道節の〈真の仇〉は、道策の側室たる黒白だし毒殺の手引きをした今坂錠庵である。しかし黒白と錠庵は既に処刑されている。せっかく復讐鬼として闇から甦った道節だが、既に仇は不在だ。巡る巡る巡る因果は糸車……の空回り人生である。道節の、何かに焦っている様な燥状態、言わずもがなの乱暴な言動、怒りっぽい過敏症は、一度殺された恨みを晴らそうにも、其の債権は既に父が黒白・錠庵の処刑によって一応回収しており均衡が復旧しており道節本人の気持ちは空回りせざるを得ない、点に原因を求められよう。此の空回り、胸にポッカリ穴が空いた如き虚しさを埋めるため、遣らずもがなの「仇討ち」、関東管領なる強大な相手を付け狙ったのではなかったか。空回り人生を送る彼は、ちょっぴり不憫である。
 ところで道節は定正の庶長子・朝寧まで仇に数えている。仇は、謀殺の首謀者本人だけでなく子供達も含むらしい。毛野も自ら手を下さないものの、馬加大記の娘・鈴子まで死に至らしめている。ならば、道節の〈真の仇〉には、黒白の娘・浜路も含まれなければならない。毛野と同様に道節が直接に手を下す必要こそないし、道節は浜路を憎んだりはしていない。しかし道節が許しても、八犬伝は許さない。親の因果が子に報い、浜路は非業の死を遂げねばならない。非業の死は、処罰に当たる。
 網乾左母二郎に嬲り殺される途中、浜路は異母兄・道節と邂逅する。左母二郎を討ち村雨を奪った道節に、浜路は村雨を信乃に返すよう懇願する。言い様に依っては浜路も納得したと思うのだが、おバカな道節は単純に拒絶する。浜路は絶望の裡に自らの血の海に沈んでいく。此の場面は、道節が薄情もしくは「仇討ち」なる武士らしい目的のため女子の願いを退ける、即ち、道節は必ずしも悪くはないが、浜路はとても可哀想……ぐらいにも解釈し得るだろうが、実は浜路が道節に復讐されていると読んだ方が、八犬伝の全体的な構成に忠実だと思う。惟へば対牛楼に於いて毛野が馬加大記を討ったとき、息子は簡単に殺しているが、娘と妻の死は、毛野に責任のない形で記述されている。別に鈴子たちが生き残ったところで、ストーリーには余り影響はないだろう。にも拘わらず殺されなければならなかった理由は、毛野側も父・胤度のみならず一家を皆殺しにされているからだろう。道節も、母のみならず自分まで殺されている。黒白・錠庵だけでなく、浜路も殺して、おあいこだ。そうでなくては、均衡が完全には回復されない。え、道節の場合は生き返ったから浜路に恨みを抱くべきではないって? いや大丈夫、浜路も里見五の姫として復活しているから、やはり、おあいこなのだ。バランスは、とれている。ツイデに言えば、網乾左母二郎、恐らく道節と無関係ではない。いや、実際に二人の間に現実世界に於ける関係があったと言うワケではないが、少なくとも同気ではないかと思う。道節が音音率いる「音楽一家」の強力なサポートを得る事情は、既に書いた(「火の玉! 音楽一家」)。左母二郎は歌舞音曲を生業にしていた。また「二」は火の生数だ。彼の苗字、「網乾」は「浜」に縁があり且つ日/火気とも縁がある。本来、水が火を克するのだが、網乾なる状況は、水に濡れた網を乾かしてしまうのだから、火気が水気を克してしまうことを意味していようか。水気の犬士・信乃の村雨を盗み結果として苦しめ、信乃の許嫁おそらくは水気の浜路を掠奪し嬲り殺す。名詮自性を論理として採用している八犬伝の面目躍如だ。則ち、道節は信乃の仲間で同じ犬士だから読者に後ろ指を差されることは出来ない。彼に代わって村雨を盗み浜路を殺す者が登場せねばならない。其れが網乾左母二郎ではなかったか。道節の、暗黒面を代行する虚花・左母二郎は、実花・道節登場と同時に他ならぬ道節によって排除される。実花にとって虚花は邪魔者に過ぎない。そして、だからこそ甲斐国で(後の)浜路が信乃によって発見されたとき、彼女の臣下として恭しく迎える者は、道節でなければならなかったのだ。既に道節の「真の仇討ち」は円塚山で完遂されており、債権を完全に回収した後は、「浜路」なる存在に含むモノが何もないことが明示される。
 ……と、まぁ其れはソォなのだが、(前の)浜路の行為は、英雄的だ。非力なため志を遂げられないものの、愛する信乃の村雨を取り返すべく網乾左母二郎に突き掛かる。操を全うする為に自死を試みた部分も、十分に英雄的だ。最期の時を迎えつつ彼女は、ただ信乃のことを思い遣っている。八犬伝中、七烈女に挙げられ八犬女に列する所以である。彼女は母の負債を命で支払わなければならないが、同時に報いられなければならない。彼女は報いられ、(後の)浜路として信乃と添い遂げる。彼女の場合は、母・黒白の悪行によって酷い最期を迎えるが、此で滅罪が為され、本人の英雄的行為が後身・浜路の幸福に繋がる。いや、「後身」と言うべきではないかもしれない。浜路は、浜路だ。前後の浜路を断絶した存在だと考えない方が良い。
 一方、同じ「仇討ち」関係者でも、毛野の場合は事情が異なる。八犬伝中、長らく毛野は他犬士と合流せず、只管、篭山逸東太縁連を付け狙う。「仇討ちするんだ」と喚きつつも他犬士と中途半端に合流し過ごしてしまう道節とは対称的だ。此の違いは、毛野にとって莫大な債権の存在が、犬士たる必要条件であったことに依る。道節の定正狙いは、趣味に過ぎない。毛野が犬士たる原因は、父・粟飯原胤度の謀殺にまで遡る。馬加大記や篭山縁連から債権を取り立てることが、彼の犬士たる要件と関わっているからこそ、彼は成就するまで里見の犬士としての振る舞いをせず、独立して彷徨い続ける。野良の犬士である。仇討ちを完遂して初めて彼は、里見犬士として自ら認める。道節にとって仇討ちは単なる趣味に過ぎないが、毛野にとっては自己同一性を保証するものなのだ。故に、失敗も許されないし、自らの完成形態・里見犬士となる以前に完遂しておかねばならない。物心ついたとき彼の債権は、全く回収されていなかった。しかも相手は、浜路と違って同情の余地がない者達ばかりだ。自分の力で、総てを回収せねばならなかった。言い換えれば、彼は仇討ちを自ら存分に行う環境に在ったのだ。
 また、彼が天満天神と深く関わっていることは「黒き星」シリーズで述べた。彼が妙見信仰と深く関わっており、妙見と天満天神との密接な関係から自然と導き出せる論理だ。だから余り管々しく述べなかった。また、余りに当たり前であったため言わなかったが、話の流れで書くと、彼が天満天神と深い関係を示す点は、やはり彼が〈生粋の復讐者〉であり、智玉だからだろう。天満として祀られている菅原道真は、希代の詩人で学問の神様、しかも御霊(復讐神)だ。学問神であるけれども復讐神なんて、何かちょっと矛盾している。学問を究めれば人格者になる筈なのだけれども、復讐鬼の儘である所が、大角と違って毛野の可愛い所であり、天満神に似た部分である。更に毛野の愛人は、お相撲さん小文吾で間違いないが、天満神の祖先・野見宿弥は相撲人の元祖である。……馬琴が八犬伝の中に張り巡らせた網の目の如き相関には、何時もながら眩惑される。次回から少しく、挿絵をヒントに犬士たちの性格を考えてみたい。(お粗末様)

  
  

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