家紋というものがある。現代人の目から見ても、かなり洗練されたものが多い。植物・動物・昆虫・天象・器物・文字など、あらゆるモノを図案化している。家紋は、使用する家もしくは人物を象徴している。例えば、近世大名としての里見家は足利家と同じ二引両を使ったが、八犬伝の里見家は新田一門として一引両の一種、大中黒を用いている。「MockingBird」に掲げた通り、幾つかの史料で里見家は新田一門であるし、田畑吉正「断家譜」でも同様だから、中世に於ける里見家は一引両であったが、近世までに二引両を用いるようになったと考えられる。此の転換には、何等かの理由があり、それなりの意味があっただろうが、まぁ此処では立ち入らない。変化した事実だけで十分だ。考証家・馬琴は、近世の紋を採らず中世の紋をこそ引っ張り出したと、一応は解釈しておこうか。
ところで、一引両・二引両は何を意味しているのか? 不明である。例えば古川柳では、新田・足利の戦いを、鍋蓋と釜蓋の戦いと言い換えている。では、一引両とは鍋、二引両は釜を象徴しているのであろうか? 新田はオナベで、足利はオカマだったのであろうか? 多分、違う。「両」は、料・龍・霊などと表記される場合もある。音が近いものは、相通じる。「霊」は「之(ゆ)く」。留まることなく動く。留まれば、死を意味する。ならば、点よりも線の方が、表現として適当であろう。まぁ巴の方が現代人にはソレっぽいが、突き詰めれば直線となる図案化もあり得るし、抑もが「両」からの音写であろうから、意味なんか後からついてくる。棒の何処が「龍」かは悩ましいが、蛇なら一本線で表すことがあるようだから、太くして「龍だ」と言っても、可であろう。そしてまた、一引両を見ていると、「日」の象形文字を思い出す。しかも、それが「大中黒」であったなら、太陽の黒点……ではない、太陽の中に大いなる黒/陰が存在している、と主張しているが如きである。三本足の烏。
さて、八犬士にも紋がある。本文中に明示されているものは、犬川荘介の「雪篠」、赤岩角太郎の「魚葉牡丹」、そして「桐一文字」から犬塚信乃の紋が「桐」であろうことが知れる。ただ、三つとも、若干の注意が必要だ。
まず信乃の「桐」を取り上げる。第四十三回に出てくる「桐一文字(短刀)」の描写は、目貫には金の華桐、中心(なかご)に梵書の一字銘をあしらっている。これが故に「桐一文字」と呼ばれていたという。一方、第百八十回上で、「桐葉」に「一」文字をあしらった金の目貫が登場する。匠作の差料「桐一文字の太刀」に付いていたものだろう。両者には異同がある。華桐は桐紋の中でも特殊で、上部に付いた花軸がヒョロリと長い。対して桐葉は、真っ直ぐな花軸をもつ一般的な桐紋だろう。桐紋は菊紋と同様に高貴なものとされた。羽柴秀吉が織田信長の死後、豊臣姓を朝廷から賜ったときに、桐紋を与えられている。織田信長も桐紋を下賜されていた。そして、足利将軍家も、桐紋を朝廷から与えられている。但し、菊紋ほど使用制限が厳しかったわけでなく、足利氏など自分の臣下に桐紋を与えたりもしている。この結果、十九世紀前半に成立した幕府編纂の系図集「寛政重修諸家譜」に載す一万二千九百十一種の家紋のうち、八百三十九が桐紋だったりする(「寛政重修諸家譜の家紋」新訂寛政重修諸家譜)。六・五%に当たり、最多である。続く月星・曜が六百六十九、三位の引両が四百九十四、大差をつけてのトップだ。格好良く品があって、しかも使用制限が緩かったから、これだけ多くのバリアントが生まれたんだろう。数が多いということは、それだけ武家に人気があった紋だと言え、〈武家らしい紋〉となる。最初に登場する随一の犬士・信乃は、武士らしくないといけない。また、彼と(桐紋も用いた)足利氏との関係も無視できない。
犬川家の定紋「雪篠」は、雪輪の中に五枚葉の篠、もしくは五枚葉の篠の上部にのみ輪雪がある紋(雪持ち篠)を想定できる。間違っても単なる篠竜胆ではなかろう。また、雪持ち篠なら、雪に埋もれながらも耐え、青さを失わず春を待つ風情が、荘介に似合っている。因みに「雪笹」は、豊後杵築藩・松平家の定紋だったりする。……また、豊後だ。さて、赤岩角太郎の「魚葉牡丹」だが、これは通例、「杏葉牡丹」と表記されるものだ。弘前藩・津軽家などで「魚葉牡丹」と書く。差別はない。
ところで八犬伝の挿絵には、馬琴もラフ・スケッチを自ら描いて介入している。勿論、馬琴が挿絵に文句を付けている部分もあることから、全てに目が行き届いているわけではなかったことは判る。しかし或る程度は馬琴の指揮を受け、絵師が挿絵を描いていたようだ。馬琴の意思を強く反映した八犬伝の挿絵は、本文に準ずる。〈文外の文〉としての資料的価値があると考えられる。テクストは、文字だけではないのだ。また馬琴が、家紋を軽視していなかったことは、「ウチの紋は八本矢車だけど、他の家みたいな要(かなめ/纏める部品)がないから、一家離散の憂き目に遭ったんだ」とウジウジ書いてたりすることから解る。自分の不幸を紋のせいにする宿命論は、裏返せば、紋によって家運が決定されるってことであり、紋を重視していることに外ならない。
犬士たちは物語の前半、社会の底辺で苦闘の日々を強いられる。が、後半は或る程度の立場を確立する。余所行きの服や鎧を調達している。まさに後半、挿絵でも犬士の着衣に、紋があしらわれ始める。私の手元にあるものは岩波文庫版だが、これを基に、犬士らの紋を見ていこう。
まず信乃だが、彼の紋は一貫して桐葉であり、五三桐のようだ。華桐ではない。前半/第四十回で華桐であった筈の紋が、後半には葉桐として明示されている。これは、八犬伝の初期設定が徐々に変わったことを示しているように思う。まぁ彼の紋が桐であることに、異同はないのだが。ところで筆者は、父方が五三桐、母方が丸に桔梗なんだが、二男だから桔梗の方を使っても良いのだけれども、信乃が桐紋だから羽織でも着る機会があったら、是非とも桐紋を使おうと心に決めている。
荘介の「雪篠」にも異同がある。挿絵によっては、篠竜胆にも見えるんだが、比較的大きく描かれる時には、雪輪と篠の組み合わせになっている。ただし、最も大きく描かれている鎧上の紋では、完全な雪輪の中に五枚葉の篠、次に大きいものでは、上半分のみ雪輪があって中に五枚葉の篠(雪持ち篠)が見える。雪輪と篠の組み合わせは動かないが、微細に於いて異なる。
赤岩角太郎の家紋は「魚葉牡丹」だが、挿絵に於いて、彼の紋として描かれることは、一度だけ例外があるのだが〈ほぼ無い〉と言って良い。上下なんかに描かれている彼の紋は、蔦紋だ。これは単純な理屈で、挿絵は、彼/赤岩角太郎が犬村大角となった後にのみ紋を明示している(上記例外では明瞭には描かれていない)。赤岩家は魚葉牡丹であったが、犬村家は蔦紋だっただけのことだろう。描かれない紋、文字にのみ明示された「魚葉牡丹」を、犬士のアイデンティファイ、痣と関わらせる論もあるようだ。ソレはソレで別に良いとは思うけど、「牡丹」だからって、そぉいぅ飛び付き方をしなくっても良いのではないか。牡丹にも色々事情があるのだから、一方的な決めつけは、良くない。
ところで「かぐや姫」に於いて、林羅山の「本朝神社考」を取り上げた。彼は近世に於ける、学問的権威であった。子孫の林家(ハヤシ・ケだが漢学の家なのでリン・ケと読むとソレっぽい)は幕末まで存続した。幕府御儒者衆筆頭である。
林家の系譜を、寛政重修諸家譜に見てみよう。寛政時、幕府が諸家に系図を提出させて編んだもので、大名・旗本などの家系を纏めたものだ。巻七百七十、藤原氏利仁流に、林家分がある。ちなみに林羅山は系図のプロで、寛永十八年二月七日から太田備中守資宗の補佐として、中国皇帝、日本の天皇家、諸大名などの系譜を編纂している。徳川家が清和源氏だなんてデッチ挙げも、彼の仕業とされている。豊臣秀吉は征夷大将軍位を望んだが、清和源氏でないからと叙任できなかった。藤原氏の養子となって、漸く関白となるを得た。征夷大将軍になりたかった家康は、嘘でも何でも清和源氏に連なっていなければならなかったのだ。此の寛永諸家系図伝の増補改訂版が、寛政重修諸家譜と言える。
寛政重修諸家譜林家分は、羅山の祖父・正勝から始まっている。「又三郎又右衛門先祖は加賀国の人にしてのち紀伊国にうつり住す」とある。林家の源は、加賀であったらしい。次の吉勝は四歳にして父を失い、それでも学問の道に進んで大坂・京都を遍歴、七十二歳で死ぬ。羅山が跡を継ぐ。但し羅山の実父は吉勝の弟である信時であった。羅山は、吉勝の養子となったのだ。信時の家系は、継嗣なく断絶する。忍岡に屋敷を拝領し民部卿を名乗った林羅山の後を襲ったのは、治部卿・春勝であった。彼は昌平坂の家塾を弘文院と名付けた。後に幕府の官吏養成学校となる昌平坂学問所である。官吏養成学校となったため、近代以降は東京大学へと化けた。春勝の長男・春信は、太田伯耆守資高の妹であったけれども、三代目となった者は、弟・信篤だった。彼は大蔵卿に補せられた。此処迄は林家、太政官を構成する大臣級の官職を受けている。が、信篤は大学頭を兼ねた。以後、信充・信言・信徴・衡……と続くが、何連も「大学頭」を拝命している。そして林家の紋所は、「丸に抱柊」「松葉菱」「林の文字」そして、「杏葉牡丹」である。分家筋も、この「杏葉牡丹」は使っている。
更に言えば、近世には武鑑なるものが時折、公刊された。大名や旗本といった武家を列記、鑓印や定紋、中間などが着る半纏の標章、家老や用人などの有力陪臣の名前まで並べている。武家のみならず町人も購入し、商用などに役立てた。武家は〈権力〉であったから、権力機構のハード部分を示したものである。商人などにとって、処世の為に必要な〈常識〉でもあった。そして、この武鑑に林家は「御儒者衆」の筆頭として掲げられており、載せられている紋は「杏葉牡丹」だけである(武鑑は代表的な紋しか載せない)。武鑑に記されていることから、林家の幾つかの紋のうち、杏葉牡丹が代表紋であり、八犬伝読者、武家だったり町人だったりしたワケだが、当時の「常識」として、林家の紋は、杏葉牡丹であったのだ。
おさらいしよう。犬村大角は、赤岩角太郎だったとき杏葉牡丹を紋所としていた。彼の礼玉は加賀・白山権現社頭で拾われてきたものだ。彼の本質は、加賀と関係があるらしい。彼は他の犬士らと一般に従六位下であるにも拘わらず、従五位相当官の大学頭に補されている。馬琴も無理を承知で、大角を大学頭にしたのだろう。「書言字考節用集」通りの「大学」ならば、正六位下相当の「大学助」で良かった筈だ。一方、林家は杏葉牡丹を家紋とし、加賀を出自として、(途中から)大学頭を世襲した。完全な一致ではないにせよ、ズレながら、かなりダブっている。この呼吸が、馬琴の隠微な筆法である。
何たって近世は、八代将軍・吉宗の下した「御条目」によって出版が統制されていた(「近世大坂出版統制史序説」参照)。人の家筋のことを云々したり、時事や時の幕府要人など支配層を下手に登場させたりしたら、処罰された時代だ。しかし、人は〈現在〉に生きている。現在の情報を共有しているによって、時事を媒介に豊富な内包を文章に籠めることが出来る。こんな有力なツールを使わない手はない。隠微は小説作品としての深み・含蓄の為にも必要ではあるが、当局の目を眩ませる為にも必要であったかもしれない。「馬鹿な官吏どもには解るまい」と舌を出す、馬琴翁の顔が思い浮かぶ。
結局する所、八犬伝に於ける挿絵で大角は蔦紋ばかり使っているが、元はと言えば杏葉牡丹、近世に於ける学問的権威・林家を思い出させる人物であることが判る。恐らく当時の読者は、管々しく知識をひけらかさなくても大角が、犬士随一の学者であることを、すんなり納得しただろう。馬琴の技あり一本、である。
信乃・荘介・大角の三犬士以外は、本文中に紋の描写がない。しかし挿絵には明示されており、その時その時のテキトーなものではなく、ほぼ一貫している。
毛野は月星だ。これは彼の実家・粟飯原が千葉一族に連なっていることから補強できる。妙見信仰に関係のある紋だ。恐らく毛野は妙見信仰と関係した設定を与えられているからこそ、千葉一族として登場するのだろう。
道節は、平家の代表紋と言われる揚羽蝶を使っている。最もオーソドックスな揚羽蝶で、向かって左横向きのものだ……が正面を向いているものもある。何連が馬琴の真意であったか解らないが、揚羽蝶を絵師に指示したことは間違いなかろう。ついでに言えば、彼の燃え上がるようなオバカな資質は火気、蝶は昆虫ではあるけれども羽類だから、火気に配当し得る。火気を示す赤は、平氏の服色でもある。
挿絵に見える大角の紋は、前述の如く、蔦だ。蔦も近世には紋所として繁く使われたようだ。種類が比較的多く、「寛政重修諸家譜の家紋」では二百五十七種を数えている。四位の蝶三百八十八、笹三百十七に次いで六位に当たる多様さだ。元は丸に葵を用いていた松平系の諸家が、憚って蔦紋に流れたとも云う。
此処までは、かなり有名な紋を犬士たちは使っている。しかし、後の三人、親兵衛・小文吾・現八は、特殊だ。いや、特殊と言うか……、親兵衛と小文吾は、これほど解りやすい紋もない。親兵衛は「杣」、小文吾は「古」の字を図案化して紋としている。杣は「杣木朴平」、「古」は那古七郎もしくは実家である古那屋からであろう。第三十五回挿絵に於いて、既に「古」は古那屋の商標として描かれている。「古那屋」は那古の逆転であった。因みに、第二回挿絵、杣木朴平・洲崎無垢三と那古七郎の闘いに於いて、何連の紋も描き込まれていない。朴平・無垢三は良いとして、武士である那古七郎は両胸の紋があるべき部分が白丸になっており、省略されている。馬琴も当初は、特に設定していなかったのだろう。そして現八は、何と「犬」の図案化を紋としている。この点に就いては、後述する。また、親兵衛は、挿絵が小さくて判然とはしないのだが、他に三・四種の紋を使っている。其のうち一つは、里見家の使者として大中黒を用いているので問題はない。そして、雪輪紋に見える挿絵もあるし九曜星輪(白地に小さな九曜/星が円周上に並んでいる←俗に謂う九曜紋ではない)に見える箇所もある。雪輪紋とすれば彼の養父とも言うべき姥雪与四郎と関わりがあろうし、九曜星輪とすれば彼が見出した準犬士・政木大膳孝嗣を加えた九人の勇士を象徴していようか。第百十回、宿直中に居眠りする場面に至っては、何が何だか能く判らない。
これまで見てきた様に、犬士の紋は二つに大別できる。即ち、既存で有名な武家・公家を思い起こさせる信乃・毛野・荘介・道節・大角の紋と、苗字や出自・性質などを文字で示した親兵衛・小文吾・現八の紋だ。前者は作者と読者で共有している情報を用いて八犬伝世界の外部から何らかのイメージを導入するための表徴であろうし、後者は八犬伝世界内で(直接的には)完結しているものだ。
予定の行数に若干足りないので、挿絵に就いて今少し触れておこう。注目すべきは、第二輯口絵のうち「遠泉不救中途渇独木難●大厦傾」である。口語訳すると、「遠くに泉があっても其処まで行く途中の渇きを救いはしない。大きな組織が滅びるとき一人の奮闘で持ち直すことは出来ない」ぐらいだろう。登場人物は、向かって左が一億人の恋人・信乃、そして右が中間奴の格好をして髭面の額蔵(荘介)だ。中央地面には、蝦蟇と亀が死んでおり、虫がたかっている。絵には幅のある枠があり、貝が描かれている。浜のイメージだ。信乃は武家用らしい女駕籠に乗っている。額蔵は供の者か。信乃は柄杓を持っている。「遠泉……」は、水/泉/信乃は不在で危機に於いて助けにならない、豪士・大塚家滅亡に当たって額蔵だけでは如何ともし難い、ぐらいに解しておく。まぁ、此の漢文は余り重要ではなさそうだ。此の絵は、取り敢えず、蝦蟇/蟇六と亀/亀篠が死ぬことを暗示している。しかし必ずしも文明十年の〈犬士始動〉、信乃十九歳、額蔵二十歳のときの絵であるかは疑わしい。信乃に前髪がある。元服前の風俗だ。いや、「風俗」と謂っても、信乃が少年愛の対象たるべき髪型をしているとしても、薩摩屋敷の下級武士や中間たちが御用聞きや配達の少年達に怪しからぬ事を強いていたと江戸の者なら知らぬ者がなかったにせよ、別に額蔵と信乃が妖しい関係だと、挿絵が語っているわけではない。いや、其れも語っているのかもしれないが、私の興味は別の所にある。
此の絵は甚だ芝居がかっており、額蔵が青年以上の年齢に描かれているとしても(顔に隈取りまでしている)、信乃の前髪が存在している所から、信乃・額蔵が出会った文明二年、信乃十一歳・額蔵十二歳ぐらいの時を想定し得る。信乃が十九歳で滸我へ出発した前後ならば、前髪はある筈もない。まぁ元服しても荘介に「前髪があった方が可愛いよ」とか言われて切らずにいた可能性もなくはないが、ソッチ方面の話は疎いし、取り敢えず、信乃は十九歳当時には前髪を落としていたと考えておく。彼は房八でも小文吾でもない。信乃は、前髪を落としても十分に可愛い筈だ……じゃなくって、えぇと、結論だけ言うと、此の絵は直接的には(前の)浜路の縁談に纏わるものでありつつ、貝/甲斐で「浜」路姫に、伏姫と縁のある信乃が出会って「玉の輿」に乗るのだが、其れには龍が絡む玉が関わっていることを予言し浜路の物語が彼女の死によっては完結しないことを密かに囁いている、ぐらいの意味が、少なくとも込められているようだ。理由は、気が向けば後日、書くことにしよう。(お粗末様)