前回まで〈因果〉を軸に八犬伝に於ける禍福の論理を見た。親もしくは同名の年長者の「因」が、〈天の理〉を通して変換され、後生に〈果〉として表れる。f(x)がyとなる。
犬士らの前半生は、不幸だ。何処に何時生まれ如何なる状態で如何なる順番に出会いがあるかで、人の禍福は影響を受ける。それらは必ずしも、個人の〈意思〉に依るとは限らない。大局から見れば必然かもしれないが、本人の認識では〈偶然〉の連続にも見える。次々に襲いかかってくる不幸は、犬士から見ると「なんで俺が…」、理不尽の連続だ。しかし彼等は、「なんで俺が…」とは考えない。何故だか解らないが、とにかく自分に災厄が降りかかる以上、そぉいぅことになってるんだろう、ぐらいの落ち着きで対処する。「そぉいぅことになっている」とは〈因果〉である。本人の認知しない領域での事象が変換され眼前に降りかかることもあり得る、との達観である。人は総てを、如何な権力者であれ、総てを認知/支配/所有することは出来ない。
犬士らの前半生は不幸だ。ならば本人たちが与り知らぬこととはいえ、「因」がなければならぬ。彼等は何故、不幸にならなければならなかったのか。彼等が犬士となった理由は、前回までに述べた。彼等は父母・祖父母らが英雄的な行為を遂げるか、理不尽に酷い目に遭うか、聖地に生まれた故に、犬士たる資質を与えられた。彼等は苦境にあっても勉励し、高度な能力を得た。
彼等は犬士である。彼等の〈霊的な母親〉が伏姫である点を強調する論者は多い。ならば、〈霊的な父親〉が八房であることを忘れてはならない筈だ。狸なる悪しき精霊・玉面嬢に玉梓怨霊が働きかけて育てた犬が、八房だ。八房は政木狐の説明に拠れば玉梓の後身であるが、第一輯口絵、定包が牡丹柄の着物を纏っているのだから、定包の転生でもあろう。簒奪者の転生に怨霊が組み合った八房の子である以上、「因果」によって犬士らは呪われた存在でなければならぬ。霊的父親/玉梓・定包の負債を返済せねばならない。負債の返済が、不幸な前半生だ。此の因果律も役行者が云う「天機」に含まれていよう。また、「天機」は即ち八犬伝に於ける絶対神/作者・馬琴の信念でもある筈だ。
読者には、或いは上記の如き定式化に矛盾を感ずるムキもあろうか。親兵衛の存在だ。親兵衛は唯一、里見家見参以前の時期を、伏姫に直接擁護されながら富山で温々と育つ。彼は負債を返済していないのではないか。……確かに一見、そうも思える。仰る通りだ。が、彼の返済は里見家見参以後に果たされている。チョイと話が複雑になる。
親兵衛は、市川の水運業者・山林房八の独子だ。房八が八房の倒置であることは、八犬伝本文中に明言されている。犬士らは総て八房の息子であるが、此の点を最も強調されている人物が、親兵衛であることが解る。
神余光弘の側室・玉梓と通じる佞臣・山下定包を諸悪の根元と目した義農・杣木朴平は、親友・洲崎無垢三と共に起った。暗殺を強行するが予め察知していた定包の策謀により、光弘を殺してしまう。光弘の近習・那古七郎と戦い、殺し合った。房八が八房の倒置であり、八房が玉梓・定包の転生であるならば、房八を、何等かの関数によって変換されていたとはいえ玉梓・定包が転生した者、と言い得る。朴平にとって不倶戴天の仇・玉梓・定包が、朴平の孫として生まれ変わったことになる。玉梓・定包の罪を、まさに孫として朴平に返済せねばならず、同時に朴平の孫であるによって妻・沼藺の大伯父・那古七郎にも債務を負っている。二重の債務は、房八自らの血と命によって贖われねばならなかった。八房にとって一度目の死は、自分たちを死に追い遣った仇・金碗八郎を死に追い遣ったために、八郎の息子・大輔によってもたらされた。二度目の死は、自分が死に追い遣った杣木朴平が死に追い遣った那古七郎の甥・小文吾によってもたらされたが、小文吾は自分の(霊的な)息子でもあった。そして「八房」が「房八」と倒置していることから明白である様に、既に存在は〈逆像〉となっている。妖犬・八房は義侠の徒へと変換されている。……此の眩惑しそうな複雑さも、八犬伝の味わいだ。また、既に精神は浄化済みの八房を撃ち殺した男が、自らの意思で精神を浄化した房八が死ぬときにも登場する。丶大である。八犬伝で最も呪われた男は、此奴かもしれない。
霊的には息子である小文吾に、二度目の死を突き付けられた八房/房八こそ、「犬士の隊(むれ)」に入るべき者であった。が、死を以てしてしか贖えぬ負債が犬士の条件であったという最悪の矛盾によって、犬士たる資格は独子・親兵衛に相続される。この様な事情は、親兵衛の曾祖父・杣木朴平と同じく横死した親友・洲崎無垢三の外孫・荒磯南弥六の贖罪的義挙が中途半端に終わった為に息子・増松を容器として入り込み、洲崎沖海戦で英雄的行為を完遂した条と通じる。肉体は容器、想いが中身。此が故に、親兵衛自身は、他犬士と違って玉梓・定包の負債を免除されている。が、一方で、他犬士を代表して親兵衛は、〈もう一つの負債〉の返済に奔走する。何故なら、彼は房八/八房の息子であると同時に、「中身」は房八/八房本人としての性格を持っているからだ。
それは、〈祖母殺し〉だ。「親兵衛は妙真を殺してなんかない」と言う勿れ。確かに親兵衛は妙真(みょうしん)を殺していない。しかし、妙椿(みょうちん)を殺している。妙真と妙椿の名が相通じていること、似而非なるモノであることは伊達や酔狂ではない。そうでなくて、妙椿なんて珍妙な名前を付けるものか。八百比丘尼・妙椿は玉面嬢であり、玉面嬢は八房の乳母もしくは養母である。母に準ずる者であるによって、八房の息子たる犬士にとっては祖母みたいなもんだ。そして、房八の息子であるによって、〈八房の息子〉であることを最も強調されている親兵衛の祖母としてこそ、「妙真」が登場する。但し勿論、(音音ほど英雄的ではないにせよ)善良なる妙真は、玉面嬢・妙椿の〈逆像〉であり、玉面嬢→八房の関係性は逆転して妙真→房八に写されている。そして、親兵衛の「中身」が房八/八房でもあるならば、玉面嬢は乳母もしくは義母であるから、実は親兵衛の館山城攻略、〈母殺し〉の様相を帯びてくる。負債を〈遺産〉として相続したのならば、自分で逆転した形の返済も可能となろう。しかし、母・玉面嬢は生きて今だに負債を撒き散らしている。母に、自ら返済する意思は、さらさら無い。ならば息子たる(浄化済みの)八房もしくは房八が、母に返済させる義務を負う。八犬士とも玉面嬢にとっては孫に庶(ちか)いが、其の中で最も親(ちか)い関係にある者が親兵衛だ。親兵衛が独り館山城攻略に挑み、玉面嬢を退治しなければならぬ理由だ。
八犬伝がパラダイムとして採用している五行説に於いて、相生の理に於ける〈尊属〉を「母」と謂う。金なら土、土なら火、火なら木、木なら水、水なら金が母だ。母なくして子は成らぬ。親和性は高い。が、一方で「扶者以輔助為義抑者以止退立名五行既成盛衰有時尊卑代易故有相扶抑者義其相遇也母得子為扶子遇母為抑子有孝養順助之理所以て為扶母有尊厳訓制之道所以為抑……(中略)……柳世隆亀経云扶者寿抑者否扶者起抑者止扶者仰抑者俛扶者進抑者退扶者行抑者停扶者吉抑者凶」(「五行大義」第九論扶抑)。母は「抑」であり、抑は「凶」なのだ。尤も「五行大義」は続けて、「前略……所以扶者必善抑者為悪……(中略)……若遇合徳雖抑非害若逢刑剋為凶……(中略)……当訓之時於子交不遂心亦是留礙況逢刑剋」とフォローしてはいるが、母が「凶」たり得る点は翻していない。
そうなると妙真と妙椿は、房八/八房/親兵衛にとって、母の二面性、観音の如き慈母/絶対的庇護者すなわち良心によって整序された人間的側面と、子に纏わりつき絡みつく一方で女としての業を有する抑圧者/凶すなわち獣的部分とを分解している。両者は互いに〈逆像〉、合わせ鏡である。しかし慈母観音も女性としての肉体を有する以上、性的/獣的な部分は宿命として持っている。伏姫に依る親兵衛掠奪、「神隠し」に至ったプロセスは妙真の性的魅力故に舵九郎が言い寄った事件を、直接の端緒としている。本人が意識的もしくは積極的に発動しなくとも他者に影響を与える、其れが〈業〉といふものだ。此の事件ははしなくも、親兵衛の祖母もしくは母たる者(妙真)も、意思的人間的な部分だけでなく、宿命として獣的凶的部分(妙椿)を背後に隠していることを暗示している。此処に於いて、八百比丘尼・妙椿、殺すべき母の存在が、予告されていると見るべきかもしれない。犬士らは例外なく、早く実母を亡くしている。
さて八犬伝終盤近くなって登場する霊狐の申し子・河鯉佐太郎孝嗣の存在は、極めて大きい。「準犬士・政木大全」で述べた如くだ。彼を媒介に、里見家は徳川将軍家と繋がり得る。彼は若しかしたら、犬士の誰よりも、高い資質を持っているかもしれない。日本武尊の弟橘姫への想いを祀った嬬恋稲荷の守護を受けている。しかも彼は一度、暗愚の君主によって殺されそうになるのだが、霊狐に助けられる。場所は忍岡付近だ。忍岡は江戸城の鬼門に当たるため、三代将軍・家光の時に天海僧正が寛永寺を建てて守りとした。俗説では、寛永寺建立の折に現地の狐を追い払うことになるため、特別に「狐の間」を設けたと云う。現在の「花園稲荷」境内に、如何にも狐穴を連想させる「穴稲荷」がある。寛永寺のある上野忍岡は、単なる鬼門封じではなく、徳川家の聖地であると目されていた。此のため、八犬伝終了後四半世紀、江戸開城に反対する幕臣たちが最後の抵抗を試み、正に「穴稲荷」付近で全滅した。上野彰義隊事件である。江戸に於ける幕府最高の聖地であった忍岡に縁ある河鯉孝嗣あらため政木大全が、近世小説・八犬伝で軽輩である筈もない。
第百十六回乃至百十七回、政木狐が身の上話をする中で、孝嗣の生い立ちが明かされる一方、玉面嬢や甕襲の玉など、本文に表れてこなかった霊的世界の事情が語られる。かなり重要な情報が、政木狐の口から、いとも簡単に繰り出されるのだ。彼女の存在は、かなり謎めいていて、しかも意味深長である。まずは、孝嗣の生い立ちを復習しよう。孝嗣は、忍岡城代・河鯉権佐守如と慈悲深い女性の間に生まれた。二歳の時、乳母の政木が密通していた若党・掛田和奈三と逐電した。殺生を好む掛田が夫の雄狐を罠に掛け殺し食った上に皮を売ったことを恨んだ雌狐は、盗賊に化けて逐電する二人を脅し、結果として、川に転落死せしめた。しかし此まで守如の妻に慈善を与えられた恩を忘れてはおらず、孝嗣が乳母が居なくなったために人見知りをして乳を飲まなくなってはと、政木に化けて忍岡城中に入った。誰にも怪しまれず乳母を勤めていた。翌年、孝嗣の母は死んだ。孝嗣は益々政木狐に懐き、側を離れなくなった。政木狐も孝嗣のことを実の子ども同様に愛した。守如は人に勧められても再婚しなかったので、政木狐が孝嗣にとって実母同然であったろう。此の状態が二年続いた夏、昼の添い寝で迂闊にも正体を現したとき偶々孝嗣に見られてしまった。此の時、孝嗣は政木狐を「狗」と表現している。政木狐は姿を消す。五歳になっていた孝嗣に乳母は不要であると、以後は老女が育てる。因みに忍岡城の鎮守は日本武尊ゆかりの嬬恋稲荷であった。
父・守如と主君・扇谷定正の室・蟹目上が毛野に協力したことで五十子城が落とされたと誤解し自殺、二十歳ほどとなっていた孝嗣は河鯉家当主として出仕した筈だが佞人ばらに疎まれ誣いられて、遂に刑死を命じられた。孝嗣は讒訴され死なんとするに当たって、「冤魂必天雷となりて讒臣們を撃殺さん」と御霊信仰、就中、天満天神を想起させる言葉を吐く。
一方、妙椿の計略で里見家から半追放となっていた親兵衛が上野の原を通り掛かり、茶屋の老女から孝嗣が将に刑死せんとする事情を聞く。親兵衛は、刑場へと赴く。其処に丁度、蟹目上の母・箙大刀自が通り掛かり、孝嗣を解き放つよう命じる。救い出された孝嗣は、路傍で狸寝入りをする親兵衛の白く豊満な胸に手を伸ばした。孝嗣と親兵衛は争うが、却って契りを結ぶに至る。茶屋の老女も孝嗣の危難を救った箙大刀自も、政木狐が化けたものであった。政木狐は孝嗣で救った人間が千人目になったと悦び、天に昇って龍となった。後に里見家の重臣となって領内を巡検する孝嗣の目前に石となって落下した。孝嗣は石を寺に葬った。
因みに政木狐は語りの中で、玉藻前が狐の最高形態・九尾狐であったことから、俗説が九尾狐を悪しき存在と捉えていることに反論、其の聖性を強調する。元々「陰獣」である狐が最終形態では陽の最大数「九」によって象徴されることを示すが如き口調だ。白狐は、白なるが故に金気との解釈も成立する。白に象徴される少陰たる金の生数は四であるが、成数は九となる。また、金気は義を徳とし、司法を掌る。誤った判決により冤罪を着せられた孝嗣を救い、正義を復旧するには填り役だ。ところで八は陰の最大数だが木気の成数であり、仁を象徴する。また玉梓が梓の美称とするなら、梓は「木王」であり、牡丹は「花王」である。まぁ、此処では政木狐のことを考えよう。
或いは犬士それぞれよりも高い資質を持つ孝嗣が登場する必然性とは何か。歴史上の人物・正木大膳は里見家の重要人物であったが、孝嗣は架空の人物だし「河鯉」なんて耳慣れない苗字で登場するのだから、其処には馬琴の積極性がなければならぬ。「鯉」はサカナヘンに里だから里見に通じる。また、瀧を登って龍となる百魚の王である。第一輯口絵には、巨大な鯉に乗る里見義実が描かれ、「浪中得上龍門去不歎江河歳月深」と賛が寄せられている。帯は雲に昇りつつある龍だ。左には予譲スタイルの金碗八郎孝吉が描かれ、妙な歌が添えてある。表記は現代風に開く。「碓子につきおしてるや難波江の葉たれも辛し蟹掻く(かにかく云々)に世は 著作堂」。此は勿論、万葉集巻第十五由縁有る雑歌「蟹のために痛みを述べて作る」(角川文庫版三九〇八。従来三八八六)を元にしている。天皇の宴会に呼び出された蟹が宮に行き縛り上げられ、楡の葉を搗いたものと塩汁を塗りたくられ目にも擦り込まれ、美味い旨いと食われる様を蟹の側から歌ったものだ。万葉集には此の手の歌も多い。幼稚純朴な笑いが其処にあったか、何かの事件の被害者側の気持ちを蟹に仮託して代弁したものだととるかは、読者の精神状態に依る。いつも鬱屈している筆者は後者だ。馬琴も自分の歌で下の句、「世知辛いものだ、色々あって世の中は」と換えて歌っているから、後者の立場だろう。また、第四回、全身漆で爛れた孝吉に蟹の汁を塗り服用させ、治癒に成功する里見義実のエピソードを暗示してもいる。
閑話休題。孝吉のエピソードと孝嗣のエピソードを比較すると、類似点は、共に暗愚の君主を諌め却って身の置き場がなくなったこと、「仁」を標榜する者に拾われること、前者は鯉を求めて彷徨う義実と出会い後者は「鯉」を苗字に持つこと。但し孝吉は霊狐に育てられ、狸を乳母とする八房/房八/親兵衛に拾われた。親兵衛も此の時は、結城敗将だった義実と立場は類似している。しかし孝吉と孝嗣の話が決定的に違う点は、前者は里見家南総支配の端緒となるが、後者は里見家に殆ど影響を与えない。孝嗣は国府台戦に馳せ参じるが、まぁ親兵衛さえいれば大丈夫であったろう。孝吉が鯉だとすれば口絵の如く義実をレベルアップさせるための存在であり、孝嗣は自らが登竜門を潜ってレベルアップするために親兵衛と出会っている。即ち孝吉は物語の流れに必須の存在だが、孝嗣は居なくても大勢に影響がない。如何やら孝嗣、誰か他者に影響を与えるため登場したのではなく、独立して存在意義があるようだ。
孝嗣は当初、親兵衛べったりであったが、毛野に乗り換える。孝嗣の父・守如に湯島天神で見出され仇討ちの便宜を得た毛野が対管領戦で定正の居城・五十子を落とした折、墓石も建てず葬られていた守如を手厚く供養したことが、孝嗣と毛野の密接な関係を築いた。後に孝嗣は、毛野を兄貴分として扱っている。
また、犬士らの物語が一応のケジメをつけた後の第百八十回勝回中で、孝嗣の物語も終焉を迎える。大木田城を与えられ領内を巡検していた孝嗣が普善村を通ったとき、政木狐が天から降ってきた。狐龍の化石となって。この時分に政木狐の命数が尽きることは予言されていたが、孝嗣が里見家での立場を確保して漸く成仏したとも受け取れる。孝嗣は鉄砲に撃たれて川に転落しても何故だか無事だったが、恐らく政木狐の加護があったのだろう。……最早、行数がない。回り諄い言い方は止めよう。
孝嗣の物語は、「準犬士・政木大全」で述べた如く、徳川家との接点となる正木大膳家の出自に言及する必要から捏造されたものであろうし、稲荷との関係および其処から導き出される日本武尊との関係性を、八犬伝に取り入れる必要から設定されたものであろう。更に一歩進めば、孝嗣は「河鯉」なる苗字から水気であろう。故に水気の兄(え)毛野を兄貴分としている。また、守如が最期を迎え毛野が墓を建てた五十子城は、伏姫の母と名を同じくし、扇谷定正の居城でありながら、信乃・毛野二人の水犬士に各一回攻略された。「五十子」は如何やら水気と関係があるらしい。孝嗣は、五十子の実家・万里谷/鞠谷から葛羅姫を娶る。限りなく犬士と庶しい存在として描かれる孝嗣だが、飽くまで犬士の隊からは離されており、差別化されている。孝嗣の物語は、八犬士のエッセンスだけ抽出し、スケールを縮小した八犬士物語のズラしたリフレインと解釈すべきだろう。以前にも持ち出したと思うが、「渓嵐拾葉集」には、
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前略……
尋云天照大神天岩戸閉籠玉フ相貌如何
答凡天照大神者日神在上月輪形天岩戸籠給云也云々又相伝云天照大神転化玉フ■(欠/後カ)天岩戸籠給云者辰狐形籠玉ケリ諸畜類中辰狐者自身放光明神也故其形現玉ケル也云々
尋云何故辰狐必放光明耶
答辰狐者如意輪観音化現也以如意宝珠為其体故辰陀摩尼王名也宝珠者必夜光故諸真言供養法時以摩尼為焼云旁々可思合也云々又云辰狐之尾有三鈷々々上如意宝珠アリ三鈷則是三角之火形也宝珠又摩尼焼火也故此神現成光明法界也云々又云一伝云未曾有経説云辰狐アカメテ成国王意是(天照大神以百皇元神習也今辰狐王以)天照大神之応現習合也(深可思之)……後略
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とある。狐もしくは辰狐、龍狐と書き換えようか、政木は如意輪観音であり、観音であるなら伏姫と同根だ。しかも狐観音は、天照が天磐戸に隠れた時の姿でもある。伏姫が天照の要素を有していることは、縷々述べてきた。政木狐と伏姫は近似値である。そして実の親から引き離され伏姫に暫く育てられた親兵衛が、政木狐に暫く育てられた孝嗣を見出し里見家に引き入れる。犬士らの父・八房は母を殺され狸を乳母にするが、孝嗣は乳母を殺され狐を乳母にする。妙真と妙椿は、親兵衛にとって母/祖母たる存在の、陽なる部分と陰なる部分だ。孝嗣にとっての、後の政木と前の政木が、此に当たる。後の政木は文字通り観音と称されるべき母たる者の慈悲広大なる側面であり、前の政木は獣的側面を示す。此の様な関係で親兵衛と接触した孝嗣は、陰獣たる狐の申し子であるによって太陰・水気の犬士・毛野と関わりを深めていく。勿論、稲荷と妙見の親和性が背後に在る。以上の事どもを鑑みるに、八犬士が構成する宇宙と関わりながら、瓜二つではあるが異なる恒星を巡る相似の小惑星、犬士らとパラレルの関係にある者が、政木大全孝嗣ということになる。「大全」とは現在でも書名などに用いられる如く、〈全体が一単位の内に集められている〉ことを意味する。
陰陽が陽数たる七・七のバランスをとりつつ、陰の極とは即ち北極であるが、総体として陰の極数・八によって象徴される宇宙は、凝縮されたが故に省略された相似の小宇宙/政木大全を有する。それぞれの宇宙が中心とする相似の恒星が、伏姫と政木狐である。恒星/太陽は、実は太陽でありつつ太陰でもある。混沌如鶏子(まろかれたることとりのこのごとし)。八犬伝は、陰と陽が未分化な混沌、天地開闢/記紀神話以前のイマジネーション世界へと、読者を導いていく。(お粗末様)