◆伊井暇幻読本・南総里見八犬伝「本編 農事の功」

 八犬伝で最初に登場する犬士は、犬塚信乃戍孝(イヌヅカシノモリタカ)である。その父は、大塚あらため犬塚番作一戍(バンサクカズモリ)。芝居がかったほど渋いキャラクターだ。番作は、足利持氏の子・春王、安王の側近である父と共に結城合戦に参加、戦い敗れて落ち延びる。里見義実(サトミヨシザネ)らと轡を並べて戦った縁もあり、それだけで重要人物である資格は十分だ。その<重要人物>のキャラクター及び事績は、馬琴が思い入れタップリに描いたものだろう。浪人の彼に対し、馬琴が郷士であった先祖を重ね合わせたという説もあるが、やや説得力に欠ける。番作は、馬琴の個人的な事情というより、社会に求められるべき人格として描かれた、と考えたい。
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 番作さんは良い人だ。先端農業技術の本を書いて、地元産業に貢献しようとした。十五世紀のことだ。とても偉い。何せ、日本初の農書(農業技術啓蒙書)は愛媛県北宇和郡三間町の豪族・土居清良(ドイキヨヨシ)の事績を描いた「清良記(セイリョウキ)」の巻七、通称「親民鑑月集」だと言われている。成立は十六世紀末から十七世紀前半である。この日本初の農書に先駈けること一世紀以上、番作さんは、農書を著したのだ! ……あれ?

 実は、「清良記」、あくまで土居清良の伝記であって、全体としては農書ではない。伝記の一部に、戦国領主らしく農業を振興し富国強兵を図ろうとする清良に諮問を受けた或る登場人物が、農業に就いて蘊蓄を垂れているだけなのである。しかし、蘊蓄の垂れ方が半端ではなく、品種ごとに種蒔きや刈り入れを時期、留意点を詳細に亘って列記している。立派な「農書」だ。ちょっと面白いのは、清良が富国強兵策を諮問するために呼びつけた三人の庶民というのは、プロフェッショナルな農民(作意ある百姓)「宮下村宗案」、とても真面目な男(正直にして功の入たる者)「黒井地村久兵衛」、そして、イーカゲンな男(盗人心ありて横着成る者)「無田五郎左衛門」、だった。清良には、優れたバランス感覚があったようだ。惜しむらくは、生まれた家が小さすぎて、地の利にも恵まれず不遇であった。太平の世に生まれたら、君主にはなれないが、能吏にはなれた人物である。そういう清良の伝記に、実用的な農業技術啓蒙書の性格があることは、、まことに以て、尤もなことだ。この「七巻」を切り離し、便宜上、先人たちは独立した「農書」として扱ってきた。

 本格的な農書は、十七世紀後半以降から書かれ始める。宮崎安貞の『農業全書』などである。因みに、安貞は浪人だった。「農書」が書かれるためには、条件がある。まず、<農業技術が発展すると良いことがある><現在の農業技術に改善の余地があり、それは比較的容易に実現できる><農業に携わる者が、本を読める>などだ。

 農業技術が発展すれば、良いことがあるとしか思えない、なんて言うなかれ。例えば、「百姓は生かさぬよう、殺さぬよう」年貢を絞り取ろうとした徳川家康みたいな奴もいる。江戸初期は、農業の余剰生産を、ほぼすべて収奪するため、税率は六公四民程度だったと言われる。収穫の六割が税だということだ。これでは、農業を営む者は、いくら技術を発達させても、良いことなんかない。そして、次第に税率は下がる。十八世紀には、収穫の四割、則ち四公六民と、「公」と「民」の取り分が逆転してしまう。こうなると、農業に従事する者は、自分たちの食い扶持以外の剰余を手にすることが出来る。

 しかし、剰余があるというだけでは、嬉しくない。一日に五合しか米を食わないのに、一日当たり七合の米があっても、あまり嬉しくはない。残った二合の米が、旨い酒だったら、ちょっと嬉しい。旨い酒は、そう簡単に自分では作れない。ならば、旨い酒を作る者から貰ってこなくてはならない。タダというわけにはいかない。剰余の米と交換するしかない。……結局、物資の流通という前提がなければ、一般に、剰余があっても仕方がない。則ち、それだけ経済が発展した段階にないと、剰余を求める気にもならないということだ。また、農業技術の普及と一口に言っても、それは、新肥料や新農具の使用を要請する。これらも、経済流通なくして入手できないものだ。そして、農書が育て方を教える米以外の多様な作物、タバコだったり楮だったり藍だったり紅花だったり綿花だったりするが、それらの作物を作っても、流通しなければ意味がない。生産者が豊かにならない。農書というのは、一定以上、経済流通が発展していないと、意味のない書物なのだ。

 そして、読者である農業関係者が農書を読めないと、意味がない。農業関係者が文字を読み書きできるようになるのは、近世以降であると言われている。犬塚さんが書いた農書は、大塚村の内部で複数人に貸借されている。多分、借りた人は、この農書を書き写し、これを写本と言うけれども、次の読者にリレーしていったことだろう。しかも、村長(ムラオサ)である大塚蟇六には、みんなでイヂワルをして回してやんないのである。

 則ち、<一村という限られた範囲の農業関係者の中で村長以外に本を読める者が複数いる>ということだ。まぁ、この「村長」という語彙も近世っぽいというかアヤシイと言えばアヤシイが、それはさて措き、こんなにリテラシー(識字率)の高い農村というのは、やはり、近世以降という時代設定でないと不自然だ。
 付言するなら、八犬伝の始め辺りで、里見義実が安房滝田城を攻めた時、一種の情報作戦を試みる。鳩の足に自己の正当性を書き連ね、城中に落とすのだ。六十年ほど以前に敵国が日本本土にすら飛行機でばらまいた、「デンタン」と呼ばれる政治宣伝ビラを思い起こせば良い。このデンタンが効いた。滝田城中には、農業従事者が臨時の兵として多く徴用されていたのだが、彼らは、デンタンを読んで、里見義実の呼びかけに応じて反乱を企てた。これが引き金となって、滝田は落城する。しかも、このデンタン、漢文で書かれていた。十五世紀半ばに、農業従事者たちが、こぞって漢文を読み下すとは、なかなかに不自然だ。このような状況になるためには、少なくとも馬琴が生きていた時代まで待たねばならないだろう。いや、それでも早すぎるかもしれない。

 ウジャウジャ言ってきたが、要するに、農書が成立するためには、経済、文化の両面で上記のような条件が揃わなければならない。なのに犬塚番作さんは、十五世紀に<農村で読まれる筈がない>農書を書いた。
 そしてまた、もう一つ、農書成立のために第一の前提となるのは、<筆者が農業知識を持っている>である。この番作さん、子供の頃に父親に連れられて戦場に赴き、結城の城に籠城していた。戦いに明け暮れていたのである。落城後は逃亡生活を送った。ケガを治すため、サナトリウムというか温泉宿でボオーとしていた時期も長かった。大塚村に来てからは、村人に養ってもらったが、子供たちに勉強を教えて暮らしていた。
 番作さんは一貫して、武士もしくは浪人として生きている。農業には従事していない。もしかしたら、サナトリウムで暮らしていたとき、農業従事者の同宿者から技術について教わったり話を聞いて回ったのかもしれない。でも、馬琴は、そんなことは書いていない。だいたい、番作さんが農書を著そうと考えたのは、村人に養って貰う恩返しとしてだ。サナトリウムに居たときは、そんなことなんか、コレっぽっちも考えていなかった。また、まぁ大塚村に来てからは農業に接することもあっただろうし、村民から、農業の知識を伝授されたこともあっただろう。しかし、そのレベルなら、<村民が知っている>程度の話だ。わざわざ本にする程のモノではない。

 でも、番作さんは、農書を著した。農業のノの字も知らぬ筈の番作さんが、農村で読まれる筈のない農書を著す意味は? やはり、農書は読まれたのである。八犬伝には、そう書いてある。八犬伝は、大まかな史実を採り考証めかして書いてはいるが、近世、まさに馬琴が八犬伝を書いていた時代を背景にしている。だからこそ、十五世紀の物語だというのに、登場人物たちは、十六世紀に伝来した筈の鉄砲を派手にブッ放す。観光地の喫茶店には望遠鏡が置いてあり、挿し絵では眼鏡をかけた老人が描かれている。女性の髪型は近世に流行した島田髷だし、人々は近世から用いられた木綿の服を着ている。木綿は、近世になって中国から入ってきた繊維だ。中世まで、庶民は麻を、貴人は絹を用いていた。これは如何いう状況かというと、<江戸時代の捕物帖>と銘打った時代小説で、ポリエステル製のスーツを纏った大岡越前守(オオオカエチゼンノカミ)や、警官の制服を着た長谷川平蔵が登場し、拳銃を派手にブッ放したり、髪の毛を茶色に染めた別嬪さんと絡む、というのと一般である。

 しかし、これを噴飯モノと断ずるは野暮というものだ。別に良いではないか。読者は<いま>を生きている。時代考証が違う、とか指摘しても、自慢にしかならぬ。八犬伝では「京都の将軍」(室町幕府の足利将軍)が登場するが、これが<江戸幕府の徳川将軍>になっていないだけでも、オンの字だ。もっとも、そんなことを書いたら、馬琴は処罰され、我々は完結した八犬伝を読めなかったであろうが。

 馬琴は八犬伝中、庶民に対して深い信頼を寄せている。それは、庶民が読者層であったためかもしれない。しかし、読者である庶民に対し媚びを売っているとしたら、尚更に、庶民の価値観に迎合、即ち、馬琴の庶民観が投影されているという事であり、馬琴の作品がベストセラーになったことは、件の庶民観が、ある程度、正確だったことを示している。この場合、馬琴の「庶民観」とは、庶民が庶民に対して如何に思っていたか、即ち、一定程度以上の数、<多くの庶民>が如何に自己規定し理想像を描いていたか、という問題である。「多くの庶民」とは、数ある読本のうち、馬琴の著作、就中、八犬伝をベストセラーに押し上げる程の割合、であろう。

 名もない庶民が前面に登場するのが、番作さんが落ち延びた大塚村の場面だ。大塚村の人々は、戦い敗れ脚に障害を負った番作さんを、扶ける。既に姉の亀篠(カメザサ)が蟇六(ヒキロク)という碌でもない婿を入れ、村長にしていた。番作さんは、その不義の姉と絶交していた。言うなれば、番作さんは、<村長の敵>みたいなモンである。しかし、村民たちは、銭を出し合って番作さんが住む家を購入、更に番作さん一家の食料を確保するため、幾らかの田を「番作田」として設定した。領主もしくは、氏神扱いである。とても良い人たちだ。馬琴なら、こう表現するだろう。「訥朴たれば仁に庶(チカ)し」。

 もっとも、村民たちの態度は、<イヤらしい村長>蟇六に対する、当て付けでもあった。だからこそ、村民たちはイヂワルをして、番作さんが書いた農書を蟇六に見せてやらなかったのだし、機会があれば蟇六を愚弄した。蟇六主催の宴会で、主人を嗤ったこともある。近世の村長は、いわゆる豪農であり武士身分ではないが、<村役人>すなわち役人、村政や徴税に権限を持つ者だった。その権限をもつ村長を、村民たちは苛め、愚弄したのだ。何故に、そんなことをしたのか? <したかったから>である。そして、したかったからした、というのは、一定程度以上の<自由な心>があったということだ。いくら良心が命じても、状況が許さなければ、何も出来ない。彼らは「仁に庶い」者ではあるが、スーパーマンでも英雄でもない。そして、「イヤらしい」村長に対立したということは、彼らが「良心」を持っていたということだ。何が「イヤらしい」か、「良心」か、という問題は、ひとまず措く。馬琴も再三に亘り、<善悪は拠って立つ所によって変わる>というような事を言っているし、此処で定義することは出来ない。馬琴は、一般的もしくは伝統的な善悪の逆を言って<自由>を連呼するような、単純で軽薄なステレオタイプ作家ではない。ただ、馬琴が蟇六を悪役として、村民を善玉として描いていることは確かだ。

 雑兵たちも清々しい。犬阪毛野は河鯉権佐守如(カワコイゴンノスケモリユキ)に秘密を打ち明けられ、協力することになる。相談に先立ち、毛野は雑兵たちに襲われた。武勇の程を試されたのだ。このとき雑兵らは十手で打ってかかるのだが、かすりもせずに全員が投げ飛ばされた。毛野は、本気で襲ってきたのではなく河鯉の命で自分を試したのだと知ると、雑兵たちに、手荒な真似をして悪かったと謝る。雑兵たちは冗談口を叩き、大笑いしながら毛野と仲直りする。爽やかなヤツらだ。キチンとした態度をとる人物を、彼らは正当に評価する。雑兵といえば、武士ではない。武家の下働きをさせられていた者や、臨時に徴発された庶民だ。

 庶民、彼らこそ、八犬伝世界の倫理を支える者だった。抑も里見義実が滝田城を奪ったとき、家来は三人だった。兵力となったのは、領民だった。家来ではなく、まさに領民が義実を奉戴したのだ。その意味で義実は城を奪ったのではなく、迎えられたのである。悪逆非道の、というより重い税負担を領民に求める領主・山下柵左衞門定包は見捨てられ、代わって義実が選ばれたのだ。

 結局、庶民の為になる誰かが、待望されていた。それは、英雄的な活動で、既存の何かを打破する者である。庶民は、自らアクションを起こさないが、英雄が登場すれば、喜んで協力する。そういう、一種<理想的な庶民>が、八犬伝世界を支えているのだ。理想的な庶民には、<理想的な英雄>である。別に英雄と言っても総身に知恵の回りかねる武断の者ではない。英雄とは、国の規模で言えば仁政を布いた義実だし、大塚村のレベルで言えば番作さんだった。世は江戸後期、封建制を出自とする幕藩体制は、進みゆく経済に追い付けず、徐々に破綻の度を深めていった。農耕地の拡大のため、大規模な干拓を図ったりもした。篤農家らが経世済民を説いた。例えば、やや時代は下るが、薪を背負ったまま其処らの小学校で本を読んでいる二宮尊徳(ニノミヤソントク)らが、もてはやされた。義実と番作さん、方や源氏の嫡流で国主、方や障害を持つ素浪人、その人生の色彩やスケールこそ違うものの、二人は相似形だ。結城合戦を戦い抜いたという共通点は、二人の親近性を暗示するものだと、思い当たる。

 八犬伝、その作品世界は一見、古くさい倫理体系によって構築されているように見える。しかし、それは、罠だ。当時の倫理体系では、権力者を見捨てて新たな権力を戴く、最悪の場合、幕府の転覆すら肯定し得る論理が、主流となる筈はなかった。しかし、その論理は、表面化している論理としては主流ではなかったかもしれないが、人々の思い、底流としては、<主流>ではなかったか。権力者の放逐もしくは放伐という夢想が、言い換えれば激化した矛盾を無化するためには、世界全体の更新、リセットボタン、<世直し>が求められていたのではないか。

 因みに、「世直し」という言葉が、例えば百姓一揆もしくは打ち壊し即ち庶民による暴動に於いて使われだした時代というのは、どうやら十八世紀後半から十九世紀前半辺りだったようだ。八犬伝が書かれていた時代に近い。専ら年貢減免など経済的な要求を掲げて闘争していた庶民が、「世直し」という、より構造的な課題を、単に名目のみかもしれないが、掲げ始めたのだ。即ち、そのころ社会矛盾が激化し庶民の許容値を超えつつあったか、それとも庶民の欲望が膨脹したか、または、その両方か、とにかく庶民の不満が社会の枠を溢れようとしていた。
 しかし、彼らの求めた「世直し」は、時代への逆行を意味していたかもしれない。暴動の鉾先は、成長しつつあった商業資本にも向けられた。庶民、それは全国的には農業従事者が殆どであった。都市には非農業従事者が集まっていたが、郊外には田圃が広がっていた。商業資本は、農業従事者から作物を買い上げ金を貸し付け作物を取り上げ、資本を蓄積しつつあった。自作農は借金のカタに耕地を奪われ、小作農に転落していった。江戸幕府の改革は、農業生産の収奪により成立する封建制度政体としては当然のことだが、いつも農業の改革もしくは振興を図った。少なくとも幕藩と農業従事者にとっては、それは殆ど日本全体なのだけれども、農業の振興は目指すべき目標点だった。

 此処に於いて漸く、<大塚村の英雄>番作が農書を書く意味を、明かすことが出来る。単純なことだ。馬琴は、腐敗し退廃した封建制の「世直し」を夢想したのだ。農業従事者が活き活きと働き豊かに暮らし、理想的な君主を戴く。大衆小説なんだから、別に複雑な哲理とか理論は必要としない。馬琴の意図は、概ね其の程度のモノであったろう。しかし、そこは江戸の大変態ぢゃなかった天才・馬琴、人々の心を見透かしてはいた。それは、単に封建制の再編強化に留まらない、時の流れへと結果するのである。

(お粗末様)

                                                   

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