◆伊井暇幻読本・南総里見八犬伝「本編 東照宮の牡丹と犬と梅」
牡丹は美しい。派手というか、<華>がある。花だから当たり前か……。美しい花だから、遅くとも中世から、紋章として用いられてきた。藤原姓鷹司家の紋として有名だ。鷹司家は上級公家の家柄で、その家紋・牡丹は特別な扱いを受けた。下々の者が勝手に使ってはならなかったのだ。格の高い紋には他に、天皇と近親のみに許された十六弁菊花、皇族一般の十四弁菊花、藤原姓近衛家の桐、徳川家の三ツ葉葵などがある。
紋章というだけでなく、服の模様にも用いられた。十二世紀末に征夷大将軍として天下に号令を下した武家の棟梁・源頼朝(ミナモトノヨリトモ)という人物の肖像画として最も有名な<神護寺蔵伝源頼朝像(国宝)>にも牡丹が表れている。この頼朝は、上級貴族の礼服である黒い衣冠束帯を着けているのだが、その袍(ホウ/上着)の模様が牡丹なのである。中学校の歴史教科書などにも掲載されている肖像だ。如何でも良い話だが、この伝頼朝像(裏書きがないため慣例に従い「伝(……と伝えられている)」と表記するが、ほぼ間違いないとされている)は、はっきり言うと不細工だ。この頼朝は、上級貴族の礼服を纏ってはいるが、下卑た顔をしている。目は野蛮そうで鼻が大きく、唇は厚めで大きい。大型犬を連想させるような、顔だったりする。いや、コリーとかシェパードの方が上品な顔をしている。雑種の大型犬あたりか。
この頼朝像を蔵している神護寺は、弘法大師空海がいたこともある真言密教の名刹だが、密教と言えば、曼陀羅である。仏様やら何やらかにやらを、或る規則に則って配置したものだが、この曼陀羅にも牡丹が描かれている場合がある。曼陀羅には、宇宙の法則そのものを表した金剛界と、動態を表した胎蔵界の両部があるが、その胎蔵界を象徴するのが、牡丹唐草である。金剛界は宝生草を象徴とする。また、両界曼陀羅鈔など、曼陀羅を解釈した本には「牡丹草獅子食之。故余毒虫等不近此牡丹(牡丹草、獅子は之を食す。故に余の毒虫等は、此の牡丹に近づかず)」とか書いてある。牡丹は獅子の好物なのだ。ただし、この場合の「獅子」とは、ライオンのことではない。仏の智恵を象徴する空想上の動物であり、<仏母>ともされる。「唐獅子(カラジシ)」というヤツだ。
刺青や家紋などには、この獅子と牡丹を組み合わせた「唐獅子牡丹」という図案がある。八犬伝中でも、里見義実が安房国滝田城を押領するに当たって大功を挙げた金碗孝吉が七夕の夕べに切腹して果てるが、その挿し絵の背景となる襖にも、この唐獅子牡丹が描かれている。また、この仏教で謂う所の唐獅子が、神社にも居座っている。この場合は、「狛犬(コマイヌ)」と呼ぶが、形態として何等差別はない。言うなれば、「唐獅子」が種を指す名詞であり、それが神社という特定の場所に置かれたとき、「狛犬」の名が与えられるのだろう。唐獅子は<犬>の一種、というか獅子という具体的な概念を持たなかった日本人にとっては<似たようなモノ>だったのかもしれない。
また、牡丹といえば、日光東照宮を思い浮かべる人もいるかもしれない。多分、いないだろうけれども。しかし、東照宮に於いて、牡丹はアダオロソカに出来ない花だと、私は思っている。徳川家の家紋が三ツ葉葵であると、前に述べた。しかし、東照宮では、葵なんかより、牡丹の方が幅を利かせているのだ。
「日光を見ずして結構と云う勿れ」と俚諺にあるように、徳川初代将軍・家康(イエヤス)を祀った東照宮は、まことに結構な神社だ。白色を基調とした陽明門や神厩舎、朱塗りの本殿など、ド派手この上ない。三河出身の田舎大名が成金趣味を爆発させた建築物群は、十把一絡げで国宝に指定されている。庶民が戦争協力の名の下に、金属供出を半ば義務化され生活必需品でさえ失った時代、その華美な装飾を守るために時の文部省が国宝に指定して保護したのだ。
日光の何処が素晴らしいかと言えば、建築物を飾る何千という彫刻群だ。名工・左甚五郎作と伝えられる奥の院入り口の「眠り猫」や、神厩舎に彫られた見ザル聞かザル言わザルの「三猿」など、適度な抽象化と適度なリアリズムを以て、見る者の心を和ませる。絶品である。
この彫刻群の中で数が多いのが、牡丹である。本殿および周辺だけでも千作を超えると言われている。夥しい数だ。それだけだったら「綺麗だから飾りにしているだけ」と言うことも出来よう。しかし、東照宮で最高の聖域は、家康を葬った奥の院だろうが、此処に通ずる門は白色で、そしてデッカく牡丹をあしらっている。石畳を登ると狛犬が守護する区域に出る。拝殿があり、その奧に、家康を葬った墓地がある。約二十メートル四方だろうか、玉砂利を敷き詰めた浄域、江戸幕府二百六十余年にわたり<権力の源泉>だった場所だ。
この浄域を外界から仕切る門、それは銅製で「鋳抜き門」と呼ばれているが、そこにもデッカく牡丹がレリーフされている。実は、この鋳抜き門、東照宮創建当時のものではない。江戸前期に作り替えられた。創建当時は石門であり、鋳抜き門に於いて牡丹があしらわれている場所に、三ツ葉葵の定紋が浮き彫りにされている。
創建当初から改築に至る間、何等かの変化があったことが窺われる。それは、この聖域を象徴するに、<三ツ葉葵より牡丹が適当>だという考え方への移行である。ただ、此処で其の変遷の理由を語ることは出来ない。山王一実神道(サンノウイチジツシントウ)あたりと関係があるやにも思うが、明かではない。とにかく、近世を通じて最も重要な聖域が、牡丹によって象徴され得たことを、窺えるのみだ。
尤も、東照宮は特別な神社であり、庶民は陽明門までしか入ることが出来なかった。そして、鋳抜き門まで行けるのは、公的には将軍すなわち徳川宗家の当主のみであった。しかし、浄域は野ざらしで放置されていたワケではない。掃除もされただろうし、管理もせねばならない。また、鋳抜き門まで辿り着けなくても、奥の院入り口までなら、一定以上の身分の武士、公家なら入ることが出来た。其処で既に、牡丹の文様を拝むことが出来る。私は夢想する、最高の聖域が牡丹によって象徴されることは、<公然の秘密>だったかもしれない、と。秘密は秘密であるが故に密かに、そして確実に伝播する。
日光の彫刻に就いて述べたついでに、東照宮の神輿に就いても触れよう。東照宮の祭りでは、神輿が三体担ぎ出される。実は東照宮は、家康一人を祀った神社ではない。もう二人の<天下人>、源頼朝と豊臣秀吉を副祭神としている。この三人それぞれに神輿があるのだ。三体とも立派な神輿だ。共通した特徴は、大きさは同じ、どれも白色を基調として、金色の金具で彩りを添えている、などがある。相違している点は、家康と秀吉の神輿は屋根の頂点に鳳凰が飾られ、前後左右の四面をレリーフを施した金属板によって装飾しているが、頼朝の神輿のみ頂点は葱坊主で、四面の装飾は鳥居である。
そして、この前後左右を装飾する四面のレリーフ板が問題である。秀吉のレリーフ板は左右が麒麟、前後が<猿>である。秀吉の渾名が猿であったことと関係があるか否かは別として、彼の幼名は日吉丸(ヒヨシマル)であった。そして日吉神社(ヒエジンジャ)の神獣は猿であるから、あまり不自然ではない。また、この日吉神社は、東照宮の拠って立つ神道教義・山王一実神道と、密接な関係にある。家康の神輿のレリーフは、左右を唐獅子によって飾り、前後は……何が何だか分からない未確認生命体を彫り込んでいる。
「何が何だか分からない」と言ったが、まったく分からないワケではない。犬に見えるのである。ただ、家康は寅年の寅日に生まれ、生まれた瞬間に近所の寺に安置していた十二神将のうち虎神将が消失したという言い伝えもあり、則ち家康は虎神将の生まれ変わりだという伝説もあるから、まぁ前のレリーフ板は百歩譲って<虎かもしれない>。虎なら、とてもスッキリする。だから、虎だと思い込もうとしたのだが、やはり犬に見えて仕方がない。虎は架空の動物ではないが、日本人にとっては実見する機会の少ない動物だ。レリーフを作った匠が、犬や猫など身近な動物しか知らず、「虎って、こんなモンかなぁ」と悩みつつ彫ったら、こういう犬じみた虎になるかもしれない。しかし、後部は、どんなに「虎だ虎だ虎だ」と思い込もうとしても、犬にしか見えない。事実は如何であれ、見る者の過半は、これを犬だと信ずるであろう。家康の神輿は、左右を唐獅子/狛犬、前を虎だか犬だか分からないモノ、後を犬によって飾られている。言い換えれば、<犬みたいなモノ>に取り囲まれているのだ。
徳川家康は、<牡丹と犬>によって象徴される、かもしれない。そして、<牡丹と犬>とは八犬士の身分証明、「犬」という字を冠した苗字と「牡丹」の形をした痣を、思い起こさせる。東照宮は、どうやら八犬伝と深い関係がありそうだ。ただ、惜しむらくは、梅、<八房の梅>の存在である。「八房の梅」の初見は、犬塚信乃が故郷を旅立つ直前、同志の犬川荘助とともに、旧宅を訪れる場面だ。庭に梅が咲いていた。八房の梅である。勿論、昔から梅は生えていた。普通の梅だった。そのとき見ると、いきなり八房の梅になっていたのだ。実は、此の梅の根本には、信乃が(女装の美)少年だったころ可愛がっていた犬・与四郎(ヨシロウ)を葬っていた。どうやら、犬の養分を吸って梅が進化したらしいのだ。
与四郎は、特別な犬だった。信乃の両親は遅くまで子宝に恵まれなかったのだが、日頃、弁財天に子供を授かるよう祈願していた。ある日、いつものように祈願しに行った母・手束(タヅカ)は、子犬に出会った。纏わり付くのを不憫に思い、飼うことにした。これが、与四郎である。与四郎を連れ帰ろうとした所へ、巨犬に跨った美女が飛来した。書いてはないが、伏姫に違いない。伏姫は一つの玉を手束に投げ寄越し、そのまま飛び去った。玉は地に落ち、行方知れずとなった。後に玉は、与四郎の体内から飛び出す。どうやら、与四郎が飲み込んでいたらしい。
与四郎を手束が拾ったのは、長禄三年九月、即ち、伏姫が富山で自殺した翌年だ。やがて信乃が生まれるが、女装の美少年である彼は幼い頃から武芸に志し、剣術、柔は言うに及ばず、馬術まで学ぼうとした。しかし馬はいない。そこで信乃は、与四郎を馬に見立てて、馬術の稽古をした。挿し絵では、気の強そうな美少女が犬に跨っている。犬に跨る美少女、その姿は伏姫とダブる。「伏姫のセクシャリティーに迫る!」では、伏姫は形(ナリ)こそ女性だが、極めて男性性が強いと述べた。信乃は、形こそ女性だが、男性性が強い、どころではなく本当に男性だったりする。
伏姫の死後、一番最初に誕生する犬士は、犬山道節(イヌヤマドウセツ)である。しかし、物語の中で最初に登場する犬士は、信乃である。信乃は特別扱いされているのだ。生い立ちが最も詳しく述べられ、見せ場も多く、最後の最後まで<主人公>として扱われる。表面上は、犬江親兵衛仁(イヌエシンベエマサシ)が、特別扱いされている場面もあるが、その仁を後見するのが、信乃である。これは当たり前で、仁が犬士となった理由は仁の父・房八と信乃が密接な関係を持ったためだし、何より房八と信乃は「瓜二つ」と言われるほど似ているのだ。
伏姫・八房・与四郎・信乃・房八は、密接に繋がっている。そのループの中から、仁が犬士たる資格を得る。信乃は、自分の身代わりになって死んだ房八に代わって、仁の後見をする。仁の父親代わりだ。だからこそ、挿し絵でも他の犬士の夢の中でも、仁を抱くのは信乃だけだ。そして、両親を喪った仁は神隠しに遭うのだが、実は富山に連れ去られ、伏姫(の霊)に養育される。伏姫は、仁の母親代わりなのだ。伏姫と、最も密接に繋がっている犬士、それは信乃と仁、就中、信乃であろう。信乃は<特別>なのだ。だから、最初に登場する。<特別な犬士>であり<第一番の犬士>である信乃が、<八房の梅>と関係がある。これは非常に重要な点だ。<八房の梅>は八犬士の存在そのものに、深い関係がありそうだ。
ところで全国的に有名な「八房の梅」がある。日光東照宮・三神庫の前に佇んでいる梅、これが「八房の梅」である。現代では、日光土産に「八房の梅まんじゅう」とか「名菓 八房の梅」などというものもある。この梅は、家康が愛した梅だと言われている。実は、今ある梅は、江戸時代から生えている梅ではないのだが……。元の梅は、とっくの昔に枯れちゃっているのである。しかし、元の梅から株分けされた梅が健在だったので、昭和の後半に再び枝分けして<本家>を継いでもらったのだ。まぁ、一応は、元の梅と無関係ではない。地元の人に聞くと、現在は八房の花を付けることはなく、せいぜい五房か六房らしい。
<牡丹><犬><梅>と、日光東照宮と八犬伝は、重要なイコンが共通している。ならば、東照宮と八犬伝は、無関係ではないだろう。東照宮として祀られた家康は、神であり幕府権威の源泉であった。今でも行政というのは先例を重視するが、当時は神君の先例と言えば<絶対>であった。それは既に人間ではなく、鬼神/抽象概念であった。<理想>と同義である。幕府の改革は先例、特に「東照大権現様」の時代に戻すことを建て前とした。神君の時代から下れば、それだけ世の中が乱れるという、一種の下降史観である。「昔は良かった」。それは脳髄の詐術、ドグラマグラに過ぎないのだが。
仏教でも、釈迦が生きていた、もしくは教えが正しく守られていた<正法>の時代から<像法>の時代を経て、如何しようもない<末法>の時代へと、世の中が下降していくという史観があった。Getting worse all the timeである。これは端的に言えば、<釈迦の神通力が薄れたために世の中が悪くなっていく>とも解釈できる。偉大なる人物が新しい時代を拓いたとしても、それは徐々に凡俗の手垢に塗れ、薄汚れていく……。そんな権威主義者の囁きが聞こえてくるような史観ではないか。
八犬伝が刊行された十九世紀前半、日本は嘗てない大変動を迎えようとしていた。二百年以上も一応の平和を保った幕藩体制の矛盾は、極大値にまで増大しつつあった。水は、留まれば、澱む。澱んだ空気の中で、人々の不満は限界値を示そうとしていた。そのような社会の中で、八犬伝はベストセラーとなった。八犬伝のイコンは、東照大権現・家康を彷彿させるものであった。では、人々は、幕藩体制の強化再編を望んでいたのか? 多分、そうではない。八犬伝は、薄っぺらい<道徳小説>ではない。寧ろ、<不良の文学>もしくは、<ごろつきの文学>だろう。だからこそ、売れた。それは……紙幅が尽きてしまった。残念ながら、今回は、このへんで。
(お粗末様)