伊井暇幻読本・南総里見八犬伝「闇からの発生」
 
           ――神々の輪舞シリーズ1――
 
 八犬伝の発端は何かと言えば、伏姫である。「伏姫」に就いては馬琴が明確に説明している。即ち、三伏の頃に生まれた、そして、「人にして犬に従ふ」(第九回)、である。二つの説明は、二つではない。一つである。それ故に、単純に字面通りの理解をすれば良い、というのではない。抑も文章は、字面から遊離してはならぬが、余り素直に解釈しては本質を見誤ることがある。殊に相手は馬琴だ。隠微である。「三伏」に就いては既に述べた。それも確かに「伏姫」のキャラクター設定に不可欠の要素であった。此処では「人にして犬に従ふ」を問題とする。
 
 伏姫が如何な女性かを鑑みるに、……能く解らない。ト書きでは賢(かしこ)い女性となっている。が、本当に彼女は賢いのであろうか。彼女の行為には、確かにフィロソフィー(哲学)もしくはエチカ(倫理)を感じる。賢者ではある。道学先生ってヤツだ。しかし、賢(さか)しいかっていえば、メティス(世智)は感じられない。
 世智介なる人物が八犬伝で登場する。原始共産制だか何だか、かなり理想的で自立した共同社会として描かれる穂北の住人だ。郷士・氷垣残三夏行の老党であった。犬士を謀(たばか)り、文字通り陥穽に掛けた実績がある。馬鹿ではない。やや品下る印象はあるものの、善玉である。如何やら馬琴にとって「世智(メティス)」は、ちょっと揶揄しているキライがないでもないが、ナントカと鋏は使いよう、否定はされていない。少なくとも有用性は認められている。
 
 さて、犬士の中で一番の<学者>は、温厚篤実の美青年、唯一の既婚者、そして恐らくはアニマ(女性性)を多分に有する大角だ。なんたって「学問」とは<人格形成>の為の<道>だったかもしれぬ前近代、学者たる大角は、<最高に善い人>でなければならぬ。でも、最も賢(さか)しいのは、毛野だ。婀娜(あだ)っぽく艶っぽく、天然自然の媚を以って小文吾を誑(たら)し込んだ、あの冷酷非情の美少年である。彼は、深窓の令嬢タイプっぽい信乃とは違って、ややオキャンな印象だ。信乃を吉原の太夫とすれば、毛野は深川女郎あたりだろうか。場合によっては船饅頭、夜鷹の類にも身を窶(やつ)す。彼には悪戯っぽいイメージがあり、その分、良心の呵責を忘れて残忍な火計を立案する。軍師である。彼女……じゃなかった彼は、「智」であり、それが故に「水」である。
 思い出してみよう。毛野は小文吾を誑し込んだ挙句、ドンブラコッコと水に流されて姿を消す。対牛楼で殺戮を繰り広げ、坂東太郎を下っていくのだ。……でも、待てよ。なんか、不自然だ。古典を引くこと掌を指す如く、大兵肥満の小文吾を軽々と抱いて綱渡りを演じ、武芸に秀で、歌も歌い舞も舞い、そして恐らくは馬加大記も蕩かしたであろう床上手の彼が(←一部妄想)、小舟一艘操れないって? 
 彼女……ではない、彼は智であるが故に水である。水は曲がりクネりながら、高い所から低い所へと流れていく。傾斜が急であれば速く、緩やかであれば遅く。状況に、アカラサマには逆らわないが、動くべきとき、動くべき方向へと、動く。華奢な肢体を小文吾の分厚い胸に押し潰されそうになりながら、いや或いは擦り抜けて上に乗るかもしれないが、それなりに受け容れる雰囲気がある。ホロフェルネスだって別嬪後家さんユーディットに絞り取られて腑抜けになったところ、寝首を掻かれた。男の哀しい習性である。変な譬えではあるが、これが「水/智」の典型であろう。相手の刃をガチンコで受け止めたりはしない。受け流し、方向を徐々に変えさせて、破滅へと追い込む。力は其の方向に直角なる力に対しては、全くの無力だ。そのような力を然り気なく相手に及ぼす術と謂える。エチカよりメティスに庶(ちか)い。
 
 こうしてみると、毛野が別に騒ぐ風も無く、流されるに任せたことも納得できる。また彼は、何処に流されても、如何な難局に流れ行こうと、まぁ南極まで流されたら流石に困ったかもしれないが、日本の何処に行き着いても、状況を打開する知的な自信があったろう。こう書くと彼がアッケラカンと明るい美少年のように聞こえるかもしれない。智には明るい印象もある。叡智の光ってヤツだ。反対語に「暗愚」ってのもある。但し、光だからといって、温かいとは限らない。水は冷たいものでもある。譬えるならば、智の光は熱い太陽のソレではなく、暗い闇夜にポッカリ上った玉兎、月のイメージだろう。月とは太陰、水気である。
 
 話題を伏姫に戻そう。両親の制止を振り切って妖犬・八房と共に富山の石窟に篭り、遂には割腹して果てる経緯は、如何ように理解すべきか。為政者が肉親や股肱の臣を犠牲にしてまで法を貫徹する、それは美談ともされてきた。いや、似非ヒューマニズムを振りかざしたりして、そのこと自体を否定する気はサラサラない。権力者としては、至極当然の義務だ。ってぇか、肉親や親しい者を法の埒外に置くほど、濫りがましいことはない。法を守るため自らを人外に堕とす伏姫の決意は、甚だしいとはいえ、ノーブレス・オブリジ、決して間違ってはいない。全く以って艶気がなく、妖艶な毛野とまでは言わない、信乃の十分の一、大角の五分の一ほどでもセクシーであらまほしき伏姫だが、理想に殉ずる場面では、ジャンヌ・ダルクも如斯(かく)やとばかりに華々しい。
 現代の感覚では、抑も里見義実が八房と口約束した伏姫との婚姻は、それこそ法外な契約であって、故に履行の義務はない。違法の契約は、守んなくたって良いのだ。が、契約は果たされた。そして、馬琴も「言の咎」として義実の責任を仄めかせているけれども、当然、それだけではない。また、玉梓もしくは玉面嬢の遺恨によって八房が妖犬になり、悪しき方向へ話が流れたってなことも言っているが、それだけでもない。
 
 馬琴は八犬伝の中で何度か「微生の信」なる故事を引いている。無意味なほど人を信じる、バカ正直ってヤツだ。状況に合わせた判断力こそ智恵ってもんだ。当時の八犬伝読者は女性だったり子供だったり、或いは男性でもあるが、一分の隙もない純粋な論理で凝り固まった伏姫の行為は、ヒロイニズムとしての憧れなら惹起させたろうけど、受け容れがたい、少なくとも「自分ならしない」ってものだっただろう。華麗なる愚挙、輝ける蛮行、ファンタジーだからこそ魅力的であって現実には非難され得る行為、それが伏姫の悲劇に対する率直な感想ではなかったか。
  伏姫は、賢にして愚なる女性であったのだ。そして、この「賢にして愚」なるが故に、彼女は正しく、八犬伝の発端たる資格を有するのである。
 
  ところで、木曽美妙水冠者源義高なる人物が馬琴の小説に登場する。旭将軍・木曽義仲の息子だ。因みに、此の木曽義仲の父が、帯刀先生義賢、即ち保元の乱の張本人・藤原頼長に肉体を差し出し、まぁ男色関係を受け入れて、荘園の上がりを撥ねた武将なんだけど、当時に於いては別に珍しいことではないので特筆には値しないが、この頼長は高貴な美少年も数多犯ったものの、如何やら本当の好みはマッチョ系だったらしく、義賢ら武人に目を付け、まずは風呂に誘って三助を演じさせた挙げ句、色々姦ったようだ。日記に残っている。勿論、犯られる方も官位官職荘園などが目当てだから、体の良い売春である。閑話休題。
 
 義高が登場する小説、「頼豪阿闍梨恠鼠伝」は、源平盛衰記に載すミステリアスな話を題材にしている。義仲の仇は頼朝だが、義高が頼朝殺害を狙って奔走するってストーリーを軸に、鼠と猫が追っ駆けっこを演ずる話だ。ワケ解らない要約だが、興味のある人は読んでください。此処では、ストーリーは関係ない。が、話の組み立てが、伏線張りまくりといぅか、流れが、とても良い。或る種の<必然>を以て、次々に紡ぎ出される字面を追えば、何時の間にやら最終章へと突入する。見事なストーリーとは、言い換えれば、滑らかで魅力的な論理の流れだと思い知らされる。昔の本だから十巻に仕立てられてはいるが、今だったら文庫本の半分にも満たぬ短編だ。一個の作家が、一纏まりの物語を無理なく語るには手頃な分量でもある。
   「頼豪阿闍梨恠鼠伝」巻之五第十套「西行猫を邨童に与ふ 光実竊に悪棍を刺す」末尾に馬琴の自評がある。
 
評に云、この巻すべて楔子あり。この事前に評するが如し。頼朝鶴岡詣を楔子とす。頼朝、西行を出す。西行を楔とす。西行、金猫を出す。金猫を楔す。金猫邨童及風九郎峨々太郎を出す。風九郎、峨々太郎を楔とす。風九郎峨々太郎、猫間光実を出して、其猫本に復。是正楔なり。又文武の評論を楔とす。文武評論、景能重忠を出す。重忠を楔とす。重忠、西行の詠歌を出す。詠歌を楔とす。詠歌義高唐糸を出す。唐糸を楔とす。唐糸●(オンナヘンンに漱のツクリ/ふたば)子を出す。これ奇楔なり。古人云、楔子は無中の有生にして、みな憑空の詞なり。今按ずるに、楔子は蓮を●(イシヘンに欠)るに藕中の糸、その●(イシヘンに欠)るに随って竭ざるが如し。又瞿曇氏に十二因縁の説あり。又、是浮屠家の楔子なり。
 
とある。「頼豪阿闍梨恠鼠伝」の最終回後序が文化五年だから、馬琴も八犬伝執筆時より、かなり若い。八犬伝を読んでいても、なんで読者に小説の書き方まで管々しく説明せねばならぬのか理解に苦しむが、この癖は以前からのものらしい。
 楔とはクサビ、釘ではないが、木造建築などで部品の接合に使う、金属もしくは木製の尖った棒だ。そして「楔子(かっし)」は、このクサビを比喩的に小説作法に使った言葉であろう。故諸橋轍次氏の大漢和辞典に拠れば「【金聖嘆、小説評】楔子者以物出物之謂也」(楔子は物を以て物を出すの謂いなり)。金聖嘆、水滸伝を七十回でチョン切ったため、馬琴に貶されまくった中国の小説家である。馬琴は百二十回本を正当としていたが、晩年になって漸く其の完本を入手して欣喜雀躍したという。逆に言えば、馬琴は百回本を熟読してたんだろう。閑話休題。
 則ち楔子とは、読者に不自然を感じさせぬまま、次から次へと新たな事象を紡ぎ出す術である。八犬伝でも、男色変態和尚・一休宗純が登場する辺りなんか、まことに巧みな「楔子」を用いている。そして、馬琴は「瞿曇氏に十二因縁の説あり。又、是浮屠家の楔子なり」とも言っている。「瞿曇」は釈迦のことだから、楔子は仏教で謂うと「十二因縁」である、と断じている。即ち、仏教の「十二因縁」は、小説作法と同一だと喝破しているのだ。浮き世の夢を写す馬琴読本が、浮き世の夢を規定する仏教/宗教と筆法が同じなのは、全く以て当然である。逆に言えば馬琴の小説作法は、「十二因縁」と無縁ではない。
 
  さて、筆者の理解では「十二因縁」とは、以下の様なモノだ。即ち、仏教に於いては、人間の生に十二の主な側面を見出し、それらが互いに密接な関係にあることを謂う。十二の側面とは、
 
無明(仏教的世界観についての無知)
行(動作・言葉・そのほか心に発し外部に表れた意思/身・口・意/三業)
識(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚・意思/六つの感覚「六識」/認識)
名色(認識たる「識」の対象たる六つのモノ/「六境」)
六処(認識たる「識」の感覚器官/「六根」)
触(一つの場に六識・六境・六根が揃い認識の条件が整うこと)
受(「触」による認識への主観的評価/苦・楽・不苦不楽/「三受」)
愛(欲すること/Desire)
取(「愛」が動作や言動によって表現されること)
有(生きていることの意味/善悪)
生(生まれること)
老死(老衰と死/一切の苦)だ。
 
  仏説では、この十二の側面が、「無明」から順次生成されるとしている。迷界流転、である。逆に、この「無明」が滅することで次々に十二の側面が無化していき、結果、老死など一切の苦から解き放たれる。還滅解脱、である。そして、無明は無知とも言い換えられる。無知なら知りたいとの欲求を持つのが人間だ。この知的もしくは知覚的な欲求が、煩悩の素というのだ。そして、「受」まで至ると、其処に何等かの感情が生まれる。一緒にいて楽しい、嬉しい、落ち着く、或いは見て気持ちが良いなどとの感情が生ずれば、即ち「愛」となる。愛は感情的な煩悩の素となり、最後には「老死」へと行き着く。この苦/煩悩から解脱するために必要なのが、「四諦八正道」とされる。
  四諦とは苦諦(生とは苦であるとの諦)集諦(苦の因は煩悩だとの諦)滅諦(苦を滅した状態が涅槃だとの諦)道諦(「八正道」を実践すれば涅槃に近付くとの諦)であり、八正道とは正見(仏教を肯定的に理解する智恵)正思惟(仏教を志向する意思)正語(虚偽・悪口を言わない)正業(正思惟に基づく好意)正命(猥らな生活をしない)正精進(妨害を破砕する勇気をもって努力する)正念(理性を失わない)正定(邪念を払い心を静める)。ちなみに、四諦の出発点となっている苦諦の「苦」は四苦八苦、シクハックで三十六たす七十二、百八となり、これを煩悩の数だとするのが俗説だ。
  即ち、「無明」を因とした煩悩/苦を持つ人は、四諦によって解決法を見出し、「八正道」によって涅槃の状態を実現する。苦を生み出す「無明」は、まさしく生の根底に横たわる深淵、闇だ。
 
  八犬伝の主宰神が神変大菩薩、役行者であることは、論を俟たぬだろう。役行者は役行者以外の何者でもないが、敢えて分類すれば、仏教者である。山岳仏教もしくは修験道と八犬伝の関わりは、縷々述べてきた。此処で、役行者の教え(の一部)を伝えたと自称するモノを引く。
 
山伏二字義
日陽 宥●(カネヘンにナベブタの下凶その下に友)註
……前略……
山即一合行一合不二衆生所具元初無明名犬衆生所具本有法性名人天地八陽経曰左ノ為正右●(人の右側支え棒)為真常行正真故名為人
(釈云無明癡犬棄人逐塊一犬吠人百犬吠声是皆無明所為也故云煩悩緤所繋縛名犬緤思列切同紲●{馬の右に彊のツクリ}也繋牛馬皆曰緤也繋約束留滞也衆生本有薩●{ツチヘンに垂}為貪●{目に真}癡煩悩之所縛故云々天地八陽神呪経曰夫天地之間為人最勝最上者貴於一切万物人者真也正也心無虚妄身行正真左ノ為真右●{人の右側に支え棒}為正常行正真故名為人是知人能弘道道以潤身依道依人皆成正道玉篇云ノ普折切右戻也●{人の右に支え棒}甫勿切左戻也孔安国云凡生天地間含気之類人最其貴書曰惟人万物霊孔曰天地所生惟人所貴詩曰●{イトヘン、民の下に日}蛮黄鳥止于丘隅子曰於止知其所止可以人而不如鳥乎礼記曰鸚鵡能言不離飛鳥猩々言不離禽獣今人而無礼雖言不亦禽獣心乎)
……中略……
山者三身即一義
(弘一曰二者従体三身相即無暫離時既許法身遍一切処報応未嘗離於法身況法身処二身常在故知三身遍於諸法何独法身法身若遍尚具三身何独法身守護章曰有為報仏夢裡権果無作三身覚前実仏慈覚大師曰無作三身住寂光土云々所謂寂光土者此去不遠故謂豈離伽耶求常寂光非外別有娑婆)
伏者無明法性不二義
(底里三昧経曰無明性住地於諸惑中得自在唯除大菩提心無能伏者止一曰無明劫来癡惑所覆不知無明即是明今開覚之言大意既知無明即是明不復流動故名為止朗然大静呼之為観)
夫無明従法性生
(無明無体全依法性法性無体全依無明金光明経疏曰無明体相本自不有妄想因縁和合而有或偈曰法性如大海不説有是非凡夫賢聖人平等無高下唯罪心垢浄取證如反掌良以法性有二一理法性二事法性也謂理法性者心性事法性者白骨也止観曰依死骸至彼岸妙楽大師受之釈曰死後成白骨見法性{高着眼看})
若有法性無無明色法不現若有無明無法性心法不顕
(以無明為起因得仏果故釈論等亦判無明為師或釈還報無明恩)
……中略……
或判煩悩即菩提生死即涅槃断始知衆生本来成仏即身成仏我即大日
(煩悩即菩提者法相依識唯心三論依八不中道正観天台依三諦即是観門華厳依十玄六相観想真言以表徳実相観門談煩悩即菩提而已敢請不可起悪見而堕邪義者也煩悩六者貪●{目に真}癡疑悪見也此名本惑也随煩悩二十者忿恨悩覆誑諂●{リッシンベンに喬}害嫉慳無慙無愧不信懈怠放逸●{リッシンベンに民の下に日}沈掉挙失念不正知散乱此名随惑也如是二十中忿乃至慳十名小随惑行相互相違必各別起不並起故也無慙無愧二名中随惑此二必倶一切不善心相応故也後八名八大随惑彼八必倶遍一切染心故也所謂忿等小随惑小放逸及妄念不正知皆仮離本惑無別体故也中随二惑無慙無愧及大随惑中五実也有別自体故也)……中略……
然則内證八葉心蓮
(菩提心論曰{取意}凡夫心如合蓮華仏心如満月亦如開蓮華云々一切衆生本有仏性自性清浄雖開蓮華体所繋縛煩悩故為合蓮華心也蓮者妙之義華者法之義一切衆生以妙法蓮華為自心形是名当体蓮華云難解蓮華縦雖処生死淤泥其体清浄微妙故云妙蓮不染也理趣経曰設住諸欲猶如蓮華不為客塵諸苦所染)
……中略……
本有常住月輪照末(梵字)字不生胸(前略……月輪者経曰菩提心相猶如清浄円満月輪於胸臆上明朗而住儀軌曰観心如満月在軽霧中蔵識本非染清浄無瑕穢由具福智故自心如満月謂満月者心識也軽霧煩悩也或二水也則依体也而肉団也……後略)
且分別臥伏之義凡者両義一曰山臥者母胎八分肉団也
(秘記曰山者無明山也無明山者以妄念為本源也謂昔愚癡心行貪●{目に真}邪見放逸無慙等所起煩悩也故止観指煩悩以釈重山妙楽大師受之曰煩悩非一故云重山所謂無明山者即血山也血山者胎内八分肉団也伝教曰一肉団体有八葉蓮華謂即胸中八葉也自性清浄因果果不二也即心法形相也……後略)
是則本有八葉之山也
(八葉者於欲独受慢四乗本有修生二則成八数名之為八葉是加自心則成九数呼之為九尊)
臥者住本有八葉山無相真如位也
(真如有十種一行真如二最勝真如三勝流万四摂受真如五類無別真如六六染浄真如七法無別間所八不増不減真如九智自在不依真如十自在等所依真如也華厳経曰真如離妄恒寂静無生無滅)
是名本覚山臥
……中略……
本覚者父母未生已前本分円地内證也
(山王院釈曰貪則体覚体名本覚理若覚貪則名菩提是始覚理也良以本分者即第九識本分自證極底不二心位也円地者謂一円不二本地也)
   正保二乙酉年六月日
 
 これは修験道の教本だが、「役行者が教えた哲理の、ほんの一部だけ書く」との体裁を採っている。まぁ、眉唾なんだが、ソレはソレでテクストとしては存在しているし、宗教に於いては、其の変遷こそ重要であって、原初形態なんざ、その時だけのモノ、って立場であるから、無視して話を進める。問題は、馬琴の目に触れ得る文物が、如何なモノであったかだけだ。即ち、八犬伝の主宰神・役行者の説に「無明」と「犬」の置換法則があるってぇのに注目せねばならぬ。
  特に、上記の資料中「伏者無明法性不二義、夫無明従法性生、若有法性無無明色法不現若有無明無法性心法不顕」は特筆に値する。無明は法性(譬えるならば「光」を指向する性格/正の走光性)から生じ、法性を根底としつつも、法性の求める<正解>から離れていく特性を有する。「老死」にまで至り<飽和>するけれども、「八正道」を行えば、法性そのものへと帰着する。特定の地点から長い道程を経て、元の場所へと戻る。ベクトルの総和はゼロ/無ではあるが、初めと終わり、同一視は出来ない。とはいえ、やはり同じゼロ/無でもある。
 
  より卑近な例を挙げて言い換えようか。単純皮相の現象面のみ取り上げれば、人間も生まれる直前と、死んだ直後は同一である。前近代の語彙を使えば、「彼岸」と「此岸」の境だ。勿論、境の外側には無限の領域を想定すべきであろうが。この「彼岸」性と「此岸」性の絶対値が共にゼロであるという意味に於いて、同値である。「同じ/不二」といえる。
  しかし、でも、「同じ」と言い切れるかといえば、やっぱり、絶対的に違うともいえる。即ち、無明と明が不二であるとは、レトリック、もしくは言葉のトリックであるし、真理でもある。このような事情が、所謂「翁童信仰」の背景ともなり、男女の入れ替えって仕掛けにも繋がり得るから、八犬伝とも無縁ではない。

  伏姫、即ち、人にして犬に従ふ「人犬姫」は、賢いんだか愚かなんだか、凡夫には判別し難い。無無明/明であり、無明である。人たるが故に明であり、犬であるが故に無明である。そして、富山の石窟に籠もったところ、
 
一日伏姫は、硯に水を滴んとて、出て石滂を掬給ふに、横走せし止水に、うつるわが影を見給へば、その体は人にして、頭は正しく犬なりけり。思ひがけねば堪ぬばかりに、咄嗟と叫びてはしり退きつ。又立よりて見給ふに、その影われに異なることなし。(第十二回)
 
なんてイリュージョンが発する条(くだ)りは、犬士を処女懐胎した瞬間だとして語られている。が、視点を変えれば「明」と「無明」が視覚的に重ね合わされた部分、伏姫が「伏姫」として完成した場面だと見ることが出来る。伏姫が「伏」姫として完成するとは、人たる姫に犬がダブる、明に無明が重ね合わされることを意味する。「無明」が導入され、ステージに上る。これを以て八犬伝は、本格的に始動する。
 
 このように読んで初めて、「伏臥位か? ドッグ・スタイルか? 伏姫のセクシャリティーに迫る!」で触れた如き、記紀神話の天岩戸伝説に対する八犬伝的解釈が可能となる。此処で天岩戸伝説を復習(おさらい)しよう。太陽女神・天照と暴風雨神・素盞鳴は姉弟であった。暴風雨は、太陽の恵みを妨げる。天照が岩戸に籠もる条りだ。が、天照の復活によって、素盞鳴は制圧される。全身の毛を抜かれたとあるから、全裸に剥かれた挙げ句、暴力的側面/男性性を毟り取られ、即ち少なくとも相対的に女性性を強調された。視覚化すれば、神々が寄って集って「へっへっへっ、女にしてやるぅぅ」と素盞鳴の処女を奪い陵辱したってことだ。また、素盞鳴から剥奪された男性性/暴力を洗練した天叢雲剣は、天照によって獲得されるに至る。
 このうち、素盞鳴の暴力的側面が天照を凌駕した、世界が光を失った瞬間が、岩戸籠もりの場面であった。八犬伝に於ける、「柏田(かえた)」「梭織(さおり)」登場の条が、この天岩戸伝説に対応する。光が失われる、即ち、「無明/犬」である。
 
 十二因縁の発端が無明であり、八犬伝も十二因縁の原理に拠っているとするならば、八犬伝の発端は「無明」であろう。そして、「無明/闇」イコール「犬」であるならば、八犬伝が「八犬伝」たる所以も自ずと明らかになってくる。余りにも意味深長な「八」に目を惹かれがちであるが、「犬」も疎かには出来ない。いや、「八猫伝」でも「八鼠伝」でもなく、それどころか「八狐伝」でさえなく、「八犬伝」である所に、正しく、八犬伝の真骨頂がある。そして、それが故に、伏姫は「伏姫」でなければならなかったのだ。
 
  しかし、諸君、賢にして妍なる「伏姫」が、其の名ゆえ無明の闇に陥ったとて、哀しむ必要はない。「伏」は無明と同時に明をも含意する。闇から発生した物語は、光で満ち溢れることを約束されているのだから。
 
(お粗末様)
 

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