■伊井暇幻読本.南総里見八犬伝 「豊満なるかな望月」−神々の輪舞シリーズ17−
前回は「西寒田神社縁起」を引いて、無責任に話を終えた。解釈に移ろう。同史料は、幾つかの興味深い説を主張している。即ち、一〈神功皇后が三韓征伐の帰途に御幸した場所に武内宿祢が社を建てた〉二〈西寒田神社に於ける原初の祭神は天照・月読・天忍穂であった〉三〈汐の干満に関わる奇瑞が神社の神聖性を保証している〉四〈上記三神が或る時に神功皇后・応神天皇・武内宿祢に置き換わった〉五〈原初も後世も三神は共に「三星」で象徴されている〉などだ。この五は、「三神」が天体・気象に関係していることを示しているか。
まず三に就いてだが、汐の干満が月と密接に関わっていることは旧くから知られていた。月の満ち欠けを現象から捉える術は、農業を営むに必須の知識であった。汐の干満は、漁業に欠かせない情報だった。実生活に重要な位置を占める汐と月は共に、慎重な観察の対象であって、それらに関する情報・分析・考察は豊富にあった。ただ、何故に月の満ち欠けが起こるかなど、「科学的」な解明が為されていなかったに過ぎぬ。実用上は、NoProblemだ。
ことほど左様に、汐と月が密接に関わっていることを知っていた昔の日本人が、山奥に潮水をワザワザ持って上がって「奇瑞」の存在を証明した。月浮かぶ天空に出来るだけ近く、潮水を持ち上がったのだ。ならば、其れは月に関わっていなければならぬ。このことは、西寒田で最重要な神が月神であることを示していよう。また、前掲日本書紀一書には、月神である月読尊が伊弉諾尊から海の支配を命ぜられたとの記述がある。「月」と「海」が深く関わることを書紀時代の日本人が知っていた証左だろう。
次に二だが、天照・月読・天忍穂の組み合わせは、或いは違和感を覚えさせるかもしれない。払拭するためには、「天忍穂」に多少、解説を加えねばならぬ。日本書紀に於ける本名は長たらしく、「正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊」だ。彼は天照の養子である。前に素盞鳴が天照の国へと赴き各種の狼藉を働き遂に天照を岩戸に隠れさしむるに至り、色々あって捕らえられ、全身の毛髪と爪を抜かれ、則ち暴力性/男性性を剥奪され、即ち女性/性的受動の地位に強制的に置かれ、つまり八百万柱の神々に無理遣り陵辱され最悪の屈辱を与えられて、追放された神話を紹介した。元々そんな乱暴な奴を天照の国に入れるなよ、と思う方もおられるかもしれないが、天照は入国に当たり彼に試験を課した。彼らほど格上の神は、其の気になって何か行為するだけで、子を産める。だいたい天照は、伊弉諾が穢れし国から帰って禊ぎ/穢れを祓うに当たって、左眼を洗うことによって生まれた(月読は右目、素盞鳴は鼻を洗ったときの子)。則ち天照は黄泉国の穢れが原料なのかとも思うが、そりゃ措いといて、話を進めよう。
天照は、素盞鳴が国を侵略しようとはしていないのならば、男の子を産んで誠を表せ、と迫った。女の子が生まれたら、下心がある証拠だと決め付けた。かなり無理な論理だが、素盞鳴は、試験を承知した。試験と謂うよりは、〈賭け〉だ。結果、素盞鳴は天照の身に着けていた玉を噛み砕き、五人の男の子を産んだ。素盞鳴が、賭けに勝ったのである。
さて、このとき素盞鳴が産んだ長男が、「正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊」である。「吾勝」だから、此の名は素盞鳴が賭けに勝ったことを示す。「勝佐備(かちさび/古事記)」である。素盞鳴の、〈天照に対する勝利〉そのものが、天照の後を襲った(いや、狼藉少年・吾勝が伯母の豊満なバックを襲ったのではなく、天照の後を継いだって意味の「襲った」であるから誤解しないよぉに)。天照にとっては或る意味で弟・素盞鳴に対する屈辱的な記憶を呼び覚ます吾勝、養子に過ぎない吾勝、素盞鳴の実子である天忍穂耳尊の血が、後に龍王のソレと合わさり、神武天皇へと続く。此れが、国史・日本書紀の事実である。神武天皇は、伊弉諾の子孫ではあるかもしれないが、天照の血脈では全くない。寧ろ八百万柱の神々に無理遣り陵辱され尽くされた素盞鳴の子孫としか書いていない……のだが実は、此処等辺が微妙なんである。天忍穂耳を産んだ者は確かに素盞鳴である。が、その〈原料〉は、天照が身に着けていた玉であった。そして両者とも〈原料〉をクチュクチュして真名井にはき出した。男女八神が発生した。
惟へば、伊弉諾・伊弉册は、海に棒を突っ込み掻き回して、日本を産んだ。伊弉册は陰神(めがみ)だが、此処では〈入れる側〉である。天照と素盞鳴は共に、クチュクチュした挙げ句、真名井に放出し、八神を成した。海も井戸も、共に女胎の隠喩だろう。水気は陰であるによって、女性である。しかし此の時、陰神・天照は〈放出する側〉であった。では、真名井なる女性は、何者であったか。いや、若しかすると、真名井は一般名詞としての隠喩であり、女性器一般を示すのかも知れぬ。ならば、この場面で登場人物は天照と素盞鳴しかいないわけだから、信乃と荘介の如く、互いに能動となり受動となったとしか思えない。そうなると、三女神は素盞鳴が産んだのだから父は天照だ。五男神は天照が母親となるが、この場合、弟・素盞鳴が「吾勝」と姉の天照を近親相姦したことになる。このように考えて初めて、天忍穂は天照の実子たる資格を有する。それを例えば、真名井を〈大いなる絶対母〉と想定し、天神が精を放つに応じて子神を製造する何者かだと考えれば、五男神に対して、天照は玉以外の接点を失う。ただ、真名井を天照の生殖器だと考えた場合には、ソレに素盞鳴を受け止め、且つ己の精をも呑み込んだことにでもすれば、辛うじて五男神を天照の実子と呼ぶに足る。が、日本書紀の当該部分は、構図の対称性を失って、無意味化する。皇家の発生を語る此の部分は、正しく神話に於ける核の一つだ。其れが故に、フェアな記述でなければ、皇家は正当性を失う。片務的な神話は、受け容れられる余地が無いのだ。日本書紀が、皇家の正当性・正統性をデッチ上げようとする以上、嘘でも何でも、核の部分では、フェアでなければならぬ。
故に、素盞鳴と天照が互いに能動となり受動となって媾合したとしか、考えるべきではない。天照・素盞鳴なる二つの神格が、ただ交わっただけの話だ。何連にせよ、天照は陰神でありながら、能動的資質をも有していたことが知れる。私が執拗に、天照が「女好き」だと言い募っていた所以である。両性具有神は、別に珍しいモノぢゃない。古代神を、現在の(通常のイメージに於ける)人間の枠に嵌め込もうとする方が、如何かしている。彼ら古代神は、陽神も陰神も互いに気の向く儘、能動となり受動となって、交歓していた……かもしれないのだ。
つらつら考えると、西寒多神社の祭神が、天照・月読・天忍穂である理由が浮かび上がってくる。だいたい、古事記にも日本書紀にも数カ所しか登場しない月読尊を最重要の神として、天照らの上位に置いて祀るとは、何事ぞ。月神を信仰していて朝廷の神話に自らを組み込んだか、朝廷の主張する神話から最重要だと感じた神を抜き出し就中月読神を選んだってことではないか。何連にせよ背景には、古事記・日本書紀神話がある。そして此の神話で、伊弉諾・伊弉册の子のうち聖別されているのは三貴子、天照・月読・素盞鳴だ。勿論、天忍穂耳だって神武天皇の直系祖先に当たるのだから、凡百の存在ではない。が、天照・月読と組み合わせる理由が、思い浮かばない。神としてのレベルが、懸け離れているからだ。やはり、此の場合、天忍穂耳は素盞鳴の〈代理〉なんだろう。天忍穂耳は、上記の如く、素盞鳴の子であるから、其の資格を有している。素盞鳴を、天照・月読と併せ祀ることを憚った為に、まだしも当たり障りのない天忍穂耳を挿入したのではないか。
そうすると、天照・月読・天忍穂(素盞鳴)が、神功・応神・武内に置き換わったことになる。女性繋がりで天照→神功とするならば、月読→応神、天忍穂(素盞鳴)→武内となる。日継御子の端くれたる応神が「月」であることに不都合はないか? まぁ、そぉかもしれない。通常の天皇なら、「日」を象徴する。勿論、応神だって天皇である以上「日」であることを辞められない。が、伊勢に祀られる天照は太陽そのものでありながら「陰神(めがみ)」であり、素盞鳴の暴力的側面/草薙剣を献上されることによって最強の「陰」力を手に入れた。陰陽併せ持つ天照の伊勢と、応神を祀る宇佐が「二所宗廟」と呼ばれ、共に皇室の祖と仰がれたは、伊達ぢゃない。両者は共通していなければならぬ。即ち、応神は日継御子であるによって陽の資質を継承しているが、同時に陰をも持っている。そのことが解るのが、神功皇后の「三韓征伐」である。
神功皇后は、朝鮮半島を侵略するため発とうとしたが、言わずもがなのことを言って神に誅殺された、お馬鹿な夫・仲哀の子を宿していた。彼女は胎児に命じた。「侵略から帰ってくるまで、出てくるな」。胎児は命に服した。
此処は伝説のファンタジー性を高めてはいるが、凡人には納得できない部分だ。いや別に、子は親を選べないから、こんな乱暴な母親の子として生まれたくはない、といぅだけではない。産んじまった方が、(休養を要するけれども)ずいぶんと動き易い筈なのだ。それをワザワザ苦しい道を選ぶ気持ちが解らない。しかし結果として神功皇后は、殆ど戦わずして、朝鮮半島を征服することに成功した。胎児は生まれ、応神天皇となった。
天照に擬せられる神功が、女性/陰でありながらソレを上回る陽気を有していることは、即座に諒解せられる。神功は、太陽なのだ。でないと、天照との置換が成立しない。そして、極めて不自然であるのに、普通に考えたら出しちまった方が楽であろう応神を、胎内に蔵(かく)したまま戦ったことには、意味がなければならない。
月は太陰であるのだが、太陽が其の能力を満度に発揮しようとするとき、陰は少ない方が良い。太陽である神功皇后が能力を発揮しようとするとき、不自然にも蔵された者・応神、彼は陰なる者でなければならぬ。月は太陰、太陽と月は同時には照り輝かない。応神が胎内に蔵されることで、神功は太陽としての力を満度に発揮、東の国/日本から朝鮮半島へと攻め入って、侵略に成功した。応神が月読尊と混淆することは、天を統べる者・天皇が、要件として、日/陽だけでなく月/陰とも繋がらねばならなかったことを示していよう。陽を祀る伊勢と陰を祀る宇佐を併せて「二所宗廟」と呼びたくなる気持ちは、解る。ところで、縁起に於いて騎馬神すなわち軍神として登場する諏訪神は、男なのに「陰神/陰性の神/殺戮を好む神」と謂い得る。そして、近世、江戸でも大いに流通した、伊勢神宮略縁起の如き性格を帯びた「倭姫命世記」には、「月夜見命二座(形馬乗男形也一書曰御形馬乗男形著紫御衣金作帯大刀●/ニンベンに風/也)」とあって、何時の間にやら月読は、軍神っぽくなってしまっている。実際、月読を軍神と考え祀った武士もいたようだ。月→星→北辰→武神、との流れかもしれないが、何連にせよ、月読が陰性であったため、軍神に祭り上げられたのだろう。
ところで読者は、月読尊→豊後との連想には納得できないかもしれない。出羽月山神社だって月読尊を祀っているし、ソチラの方が有名かもしれない。いや、上記の如く応神を月読と置き換えれば、宇佐八幡のある豊前こそ、月読尊の国ではないか? また、伊勢神宮だって、天照の近くに月読を置いている。
が、〈国〉といぅレベルで考えれば、やはり月読は豊後だろう。理論的な根拠はない。事実があるだけだ。理論は事実を繋いで人間が理解するために構築されたものに過ぎず、事実を前提とせねばならぬ。事実は、理論を前提としなくとも、存在し得る。事実は、理論に、優先する。此処で、中世に成立した「神道集」(第一神道由来之事)を引用する。全国の有名な神社に関わる神仏混淆説話集で、見るべきところが多い。上下毛野国の記述に詳しく、逆に西国の有名な神社が漏れていたりして、東国の宗教関係者が書いたことは、まず間違いないだろう。
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前略……其次伊弉諾尊出此陽神男其次伊弉册尊出世此陰神女亦妹此二神始夫婦義顕此天神七代云国造山河草木作大八祖嶋造此二神相語言此下有国天逆鉾差下捜其鉾滴凝嶋成今淡路山是此世中主無一女三男産其三男者日神月神素盞鳴尊是一女者蛭児尊是也仍幽宮淡路国構住此則群品神宜哉世間人常諺昔祖父母有人種放云実次地神五代者伊弉諾伊弉册尊太子天照太神宮始即日神是父母此子生喜美此児是霊異子此国久留即天下授其次正哉吾勝々速日天忍穂耳尊世出此天照太神御子天照神御弟素盞鳴尊倶契約而令化生処已上二神天在其次天津彦彦火瓊々杵尊出世正哉吾勝々速日天忍穂耳尊太子……(中略)……此国日本名事日天子天下神成故依之日本云其次彦火々出見尊世出此天津彦々火瓊々杵尊太子御母木花開耶姫太山祇神娘天下治六十三万七千八百九十二年太陵日向国高尾山在其次彦並激(ママ)●(鳥に櫨のツクリ)●(鳥に茲)萱葺不合尊世出彦火々出見尊太子御母豊玉姫是海童第二姫天下治事八十三万六千四百十二年日向国吾平山上在已上此地神五代云此尊第四太子世出此神武天皇申也抑伊弉諾伊弉册尊御子三男一女者素盞鳴尊悪神嫡子(不が欠?)立給出雲国被流也今代出雲大社申是二者日神今伊勢太神宮是亦日霊尊号今伊勢国度会郡五十鈴河源上宮柱太敷立住三者月神亦(月が欠?)弓霊尊号今鎮西豊後国跡垂本満宮是一女者蛭児尊是此御子三歳身打蛭如在此成長何楠椌船入大海被流此船波被漂自然龍宮下龍神取此養程自然事由尋天神七代末御神伊弉諾伊弉册尊御子言佐々龍宮非留御年七八歳比亦楠椌船乗此国返但龍宮年来有其無験第八外海引出物給龍宮言我大海領陸無所領仍与外海上住此故付住吉洋留今代西宮申是海人共大営秋祭成即是恵美酒申……(中略)……内宮外宮両部大日天岩戸都率天也高天原云神代事皆有故事真言意都率天天内證法界宮殿密厳浄土云也彼内證都出日域跡垂故内宮胎蔵界大日四種曼陀羅方取囲垣玉垣水垣重々勝雄木雄九胎蔵九尊方取外宮金剛界大日或阿弥陀云金剛界五智方取月輪有五胎金両部陰陽官陰女陽男故胎蔵方取八人女有八人金剛界五智官五人神楽男云是也
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「是二者日神今伊勢太神宮是亦日霊尊号今伊勢国度会郡五十鈴河源上宮柱太敷立住三者月神亦(月が欠?)弓霊尊号今鎮西豊後国跡垂本満宮」。是である。「本満宮」が現在の何に当たるか私は比定できていないけれども、とにかく月弓(読)尊は、豊後にいるらしい。そして全国の「一の宮」、各国を代表する神社で、月読を最重要の神であると考えている者は、西寒多神社の他に無い。私が、豊後を象徴する神は月読だ、と考える所以である。また、豊後国の史料には、「深山神社記」(享保三年)もある。
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豊後国大野郡深山 八幡宮奉祭祀三座
景行天皇
神功皇后
応神天皇
忝深山神社者
神武天皇東国を征伐なし給ふ其勅に御兄弟四人清浄の地を求め給ふに高千穂の嶽の東所に高く嶮しき山あり其嶺に登り天地神祇を祭祀奉終りて北に望視給へハ奇しき雲の太虚にうつまきいるあり遙に其地を尋求給に山深く路かすかなり漸く到り着か(ママ)給ひて嗚呼深き山かなと宣ひしより深山と唱へしと云て其所の人を招き此は何と云ふそと問わせ給■■流る丶水の田を繞りて輪を成しけるゆへに輪田の里と答へ奉りける時に眉も髪もゆきの如き翁のいつく共なく来りて告奉りけるハ諸王子は天神の御末にて天か下をしろしめす■のおわします今東国を征伐し給の先西州を従わす■■東征し給はん事難かるへし此地ハ往古より月読の神の住給へる所なるそ此神を祭り給ハ丶西州の者とも征伐を待すして従ひ奉り不日の功を■し給ハんと諌め奉りけるにより如何なる者にやと問せ給へハ我は是地神のはしめより此所に住める者なりと云いつ丶行方しらすなりぬ四王子翁の教にまかせ奇しき雲の棚引起れる小高き丘に榊をきり立て月読の神を祭り給へるに四王子の御軍のさかんなるを聞西州の人一月を経ぬうちに尽く来従ひ奉りけるにより天皇日向に帰り舟軍を起し東国を征伐し給ふついて大和国に都を立て天下を治め給へり其後土人月読の神を祭れり第十二代景行天皇くま野(熊襲?)を征せん為に当国に来り大野の原に至り給に南にあやしき光の空に立登れるを見給ひて人を遣わし尋問せ給へハ輪田の里深山の峯に起る此由を告奉りけるに天皇行幸ましまして里人をめし其地を問わせられけるに答て申しけるは神武天皇の月読の神を祭りて東征し給ひける由緒を述けれハ天皇よろこはせ給ひ神社をツ作り賊徒退治の事を祈誓あり神宝を納め給ふすなわち今に伝へて御神体と崇め奉る所なり天皇はそれより久民の里に越給へり是より世〃祭祀の事怠りなく神威時〃あらたにて里人尊崇し奉る事息事なし……(中略)……淳和天皇天長十年異僧の来りて社壇にこもりて八幡大菩薩を勧請し法華経を読誦する事三七日こ丶におひて相殿に八幡大菩薩を祀り奉る……後略
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此処でも豊後国(大野郡)は「往古より月読の神の住給へる所なるそ」となっている。これは、月読豊後現住論が、なかなかに勢いのある説であったことを示しているか。豊後国大野郡には大野三社と呼ばれた代表的な神社があったが、其の一宮が前掲史料を縁起として有つ深山八幡である。二宮は上津神社、三宮が浅茅八幡だ。共に月読と応神/八幡を祀っている。此地で、月読信仰もしくは月読・八幡混淆論が有力であったことは確かだろう。一方、東国で成立したためか、西国もしくは中央の有力神社を時々抜かしてしまっている「神道集」が、月読が豊後に垂迹しているとの情報を、しっかり書き込んでいる。遙か遠い東国でも、地元でも、月読と云ったら豊後、だったのである。因みに、豊後大野郡には、犬飼・犬飼川なんてソソる地名もある。
豊後の南、日向国は東面しているによって天孫が降臨した。取り敢えず神話上、皇家が出発した場所は、日向だ。北隣、陰の方角にある豊後に、月読が住んでいた、と考えたか。もしくは、東征し大和に移動してしまった皇家にとって、西は太陽が沈む方角、太陽が沈めば月の勢いが旺んになる、大和から西に当たる豊後を月の方位と考えたか。伊弉諾は左の目を洗い天照を、右目を洗って月読を産した。天子は南面する。南を向いて左は東、右は西である。東は、太陽の方位である。そうすると、西は月の方位、と言えなくもない。どうやら、豊後は月の世界、妖しいルナティック・ワールドであるらしい。
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