■伊井暇幻読本・南総里見八犬伝 「月の世界」−神々の輪舞シリーズ18−
さて史料上の旅で豊後まで来た序(ついで)だ、いま少し当地の話に耳を傾けよう。まず「杵築若宮八幡社棟札銘」(天文拾陸年丁未二月廿九日)だが、「上棟奉修造若宮八幡宮一宇事 抑八幡大菩薩当初者人皇十四代仲哀天皇御后娑伽羅女神功皇后……後略」とある。まぁ別に豊後に限らず、全国的に云われていたことだろうが、神功皇后を娑伽羅龍王の娘だと言い切っている。恐らく、神武天皇の祖母・豊玉姫にダブらせているのだろう。「謹奉造営八坂下庄惣廟若宮四所八幡大菩薩一宇之事」(永禄十一年戊辰三月廿三日)には、
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抑八幡大菩薩者応神天皇御霊行之時遣志賀明神於龍宮城(テ)汝之所姙者女子也吾之所姙者男子也可成夫婦(土)大帯姫熱約(灼カ)之間八幡生長之時成夫婦所生君達(若宮若姫宇礼久礼)也其時自龍宮城彼献黒龍馬二疋也継其旧跡至今于若宮之神馬者所彼用黒龍馬也……後略
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とあるので、応神と龍宮との深い関係も、一般の知る所であったようだ。そして、其の応神/八幡に対する多くの人が持っていた疑惑を、思い切って明言したのが、「河内宮縁起」(寛保三癸亥歳暮冬日)だ。「前略……抑八王子と申奉るは忝くも百王の元祖武門の守護弓矢の祖宗にて霊徳を世界に称えし吾国の武威を異国迄輝かし給ふ事偏に八王子の徳にて座ます……後略」。可能性のレベルでは繁く云われることではあるが、八幡を「八王子」と思いっきり断定していて、清々しい。参観日に元気よく手を挙げ、間違った答えを云ってしまうタイプだろうが、偶然に正解を答えることもあるから、侮れない。続いて上記「大野三社」のうち上津八幡に纏わる文二題では、
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「大野庄上津八幡宮之記」(寛文八申年)
前略……神功皇(ママ)三年十月三日菱形山後に上津山と云ふ峯に数百年を経たる老松有り其老松の元に初免て石社を建立して月読尊を勧請す庶人神慮の堆を信仰なし奉り是より森林の午王社と号す又ハ影向の松ともいふ其後聖武天皇神亀(甲子)年十一月二日応神天皇神功皇后を相殿に宇佐宮より勧請す孝謙天皇天平勝宝年中社号を改めて菱形八幡宮と称す桓武天皇延暦三甲子年正月十一日社号を改めて上津宮と称す内題陣藤原良継勅使也云々……(中略)……一後白河院保元年中鎮西八郎為朝矢の根一筋宝(ママ)納鳥之舌長六寸幅一寸表ニ八幡大菩薩裏ニ一心之二字有り……後略
「本上津八幡宮巨鐘銘」(寛政十二年庚申稔臘月吉辰)
前略……大日本国西海路豊之後州大野郡片嶋邑本上津山八幡大神宮者大野三社第二之宮也……後略
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とある。前者は月読を午王/護王と混淆している。また、前者の後半では、源為朝が奉納したという矢の根を自慢している。そういや、月読は「月弓」とも書く。弓張月……いや、何でもない。午王は云わずもがな、和気清麿・広虫すなわち道鏡事件の折に、道鏡を法王とせよとの宇佐託宣が嘘だと指摘したため残虐な刑を受けた気骨の弟姉である。午王姫なら牛若丸を匿い庇ったために、様々な拷問を受けた挙げ句に獄死した烈女として浄瑠璃に登場するが、類話として結城合戦のとき春王・安王の乳母を主人公にしたモノもある。また、「八坂神社由来書」(天保十二年子ママ年六月二日)では、以下の様に云っている。
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前略……一疫痢(并)諸の病を守護神と奉由訳ハ或書(尓)新羅国の巨旦大王常(尓)我朝を覆さんとす仍(而)是を御退治のため(尓)八将神と云猛勢乃神達を御遣(シ)阿里此八将盤素盞鳴尊能御子奈り数千の軍勢を引卒し大海波濤を越新羅国近ク押寄連とも城郭之境内不相分日本乃神なり疫痢の病を以巨旦大王を殺傷し宣ふ時……後略
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牛頭天王の子・八(神)将を素盞鳴の子と呼んでいる。則ち、午王と素盞鳴を同体だとしているのだ。これは通説に近いが、一応、引用してみた。前に月読イコール素盞鳴の方程式が提示されたが(「大野庄上津八幡宮之記」)、此処で牛頭天王・素盞鳴・月読が重ね合わされる。更にまた、「緒方八幡宮御縁起」(元文五庚申四月)には、次のような話があって、興味深い。
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抑豊後国祖母嶽大明神と申奉るは地神の初天照大神より五代鵜?草葺不合尊の御母海神の娘豊玉姫を神武天皇祖母嶽大明神祝初給ふ
神武天皇は鵜?草葺不合尊の第四子なり故に豊玉姫は神武天皇の祖母たるによりて山を祖母山と号す神武天皇は鵜?草葺不合尊の第四皇子たるによりて亦彼峰を四皇子の峰とも云へり而後豊玉姫の妹玉依姫を葺不合尊の乳母に付け給ひき去れば九域の騒人八紘の佳客崇敬せずといふ事なし其所は豊後国入田郷日田に隣りたる大山有り嶇々として嶮難の路凡三里余なり万木ふかく常に白雲山の腰をまき素雲霊峰を彩る四時の佳景絶えざりき爰に人王五十代桓武天皇の御宇に丁り関白道隆の二男堀川大納言師の内大臣儀同三司伊周公勅命に依りて豊後国緒方荘に配流せらる日小田名宇田村におひて一女出来す華の御本と号す爰に希代の不思議あり祖母嶽大明神和光の塵に交り権に神人に現し夜々密に大納言の息女にかよひ給ふ去れども姓名をいはざれば其所在を知らず故に長絲に針を付是を糺し慕ひ見れば祖母嶽の麓の大なる岩屋において神体を見るに及び神詞(祠?)数多あり此に略し畢之に五十二代嵯峨天皇の御宇弘仁二年(辛卯)三月五日に右の女一男子を産す神勅にまかせ大神朝臣大神惟基と号す福知共に勝り武勇の達人にて九州二嶋を掌に治めりき……後略
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今昔物語なんかにも類話があり、昔話なんかでも繁く聞く類型が含まれているので、ついつい長々と引用してしまったが、要点は冒頭部分の、「豊後国祖母嶽大明神と申奉るは地神の初天照大神より五代鵜?草葺不合尊の御母海神の娘豊玉姫を神武天皇祖母嶽大明神祝初給ふ」だ。神武天皇が祖母(豊玉姫)を祀った場所が、「八幡」になっている。神功が如何の応神が如何のとは全く言っていない。ただ、豊玉姫の存在のみがクローズ・アップされている。そりゃぁ実際には「八幡」になるまで、色々と紆余曲折があったかもしれないが、現在に「八幡」と呼ぶ神社の縁起を最小限にまで約せば、神功も応神も不要、ただ豊玉姫がいれば良いのだ。これは、「もう一人の八幡」こと正八幡の思想に通じる。惟へば「正八幡」、地味ではあるが、八犬伝でも重要な位置にある。
ところで今回は、比較的真面目に話を進めたため、書いている側が物足りない。せっかく(史料の中で)豊後旅行をしている。少しく道草を食おう。平家物語、「緒環」(巻八)だ。
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前略……彼維義はおそろしきものの末なり。たとへば豊後国の片山里に昔をんなありけり。或人のひとりむすめ夫もなかりけるがもとへ母にもしらせず男よな々々かよふ程にとし月もかさなる程に身もただならずなりぬ。母是をあやしむで汝がもとへかよふ者は何者ぞととへば、くるをば見れども帰るをばしらずとぞいひける。さらば男の帰らむときしるしを付てゆかむ先をつなひで見よとをしへければ、むすめ母のをしへにしたがて朝帰する男の水色の狩衣をきたりけるに狩衣の頸かみに針をさししづのをだまきといふものを付てへてゆくかたをつなひでゆけば豊後国にとても日向ざかひ、うばだけといふ嵩のすそ大なる岩屋のうちへぞつなぎいれたる。をんな岩屋のくちにたたずんできけばおほきなるこゑしてよびけり。わらはこそ是まで尋まいりたれ見参せむといひければ我は是人のすがたにはあらず汝すがたを見ては肝たましゐも身にそふまじきなり。とうとう帰れ。汝がはらめる子は男子なるべし。弓矢打物とて九州二嶋にならぶ者もあるまじきぞといひける。女重て申けるは、たとひいかなるすがたにてもあれ此日来のよしみ何とてかわするべき。互にすがたをも見もし見えむといはれて、さらばとて岩屋の内より臥だけは五六尺跡枕べは十四五丈もあるらむとおぼゆる大蛇にて動揺してこそはひ出たれ狩衣のくびかみにさすとおもひつる針はすなはち大蛇ののぶゑにこそさいたりけれ。女是を見て肝たましゐも身にそはず、ひき具したりける所従十余人たふれふためきおめきさけむでにげさりぬ。女帰て程なく産をしたれば男子にてぞありける。母方の祖父太大夫そだてて見むとてそだてたれば、いまだ十歳にもみたざるにせいおほきにかほながくたけたかかりけり。七歳にて元服せさせ母方の祖父を太大夫といふ間是をば大太とこそつけたりけれ。夏も冬も手足におほきなるあかがりひまなくわれければ、あかがり大太とぞいはれける。件の大蛇は日向国にあがめられ給へる高知尾の明神の神体也。此緒方の三郎はあかがり大太には五代の孫なり。……後略
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安徳帝を奉じて西へと走った平家は筑紫に宮を造営しようとする。朝廷は豊後守を通じて在地の武士を束ねる緒方三郎維義に、平家が来たら追い返すよう命じる。一方、平家側は、嘗て維義が平重盛の家人であったツテに縋って、支援を求めてくる。維義は流石に武力で追い払うことを躊躇い、豊後からの退出を要請し、二男・維村を九州統括の太宰府へ送って経緯を報告する。ちょうど太宰府にあった大納言時忠は居丈高に、平家への支援を命ずる。維村に事の次第を聞いた維義は激怒した。「人が下手に出りゃぁ付け上がりやがって。平氏だろぉが瓶子だろぉが構うこたぁねぇ。昔は昔、今は今。思い知らせてやるぅ」と、太宰府に攻め寄せる。
安徳帝は落ち延び、長門国に向かう。慣れぬ歩行に足裏の皮は破れ、足跡に血が滲む。白袴の裾が紅になるほど苦しい逃避行は、しかし、もうすぐ終わりを告げるだろう。オヤジどもの欲望によって弄ばれた年端もいかぬ美少女は、三種神器を抱いたまま、壇ノ浦の水底に沈むのだ。安徳帝には憐憫の情を禁じ得ないが、因果応報、崇徳院の呪いが原因か。
また、伝承に出てくる「高知尾」は高千穂、天忍穂耳と万幡豊秋津師比売の間に生まれた神で、木花之佐久夜毘売との間に彦火火出見をもうけた、皇祖である。更に、女と大蛇の間に生まれた子が年中アカギレだった点は、(大)蛇の鱗を連想させる為の脚色か。因みに、高知尾を蛇神とするは、やや異説の疑いがある。が、牽強付会でも権威ある者が定義として提示すれば、そうなっちゃうのが世の中でもある。もしかしたら、緒方八幡→祖母岳→豊玉姫→海神/龍からの発想か。何連にせよ、正八幡を思い出させる話だ。閑話休題。
ところで此処で、諏訪神を再び取り上げよう。八犬伝終盤、里見義通が蟇田素藤に掠奪(英訳すればRape)される条、八幡・正八幡と並んで諏訪も同等に扱われる。三神が里見家ひいては八犬伝にとって、重要な存在だと、唐突に表明されるのだ。「をざさむら」に於いても若干の考察を試みたが、補足が必要なようだ。前に掲げた「諏訪大明神画詞(縁起)」には、
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天照大神ミコトノリシテ経津主ノ(総州香取社)神武甕槌ノ(常州鹿島社)神二柱ノ神ヲ出雲エ降シ奉テ大己貴ノ(雲州杵築和州三輪)命問テノ玉ハク葦原ノ中津国ハ我御子ノ知ラスヘキ国也汝チ正サニ此国ヲモテ奉天照大神哉大己貴ノ命申ク吾子事代主ノ(摂州長田社神祇官■■)問若神ニ返事申ント申事代主神申ク我カ父宜ク正サニ去リ奉ルヘシ我タカフヘカラスト申又申ヘキ我子アリヤ又我子建御名方(諏訪社)神千引ノ石ヲ手末ニ捧来テ申サク是我国ニ来テ忍ニカク云ハシカウシテ力ヲクラヘセント思フ先ツ其ノ御手ヲ取テ即氷ヲ成立又剣ヲ取来科野ノ国洲羽ノ海ニ至時建御名方ノ神申サク我此国ヲ除ヒテハ他処ニ不行云々是則垂跡ノ本縁也
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とあった。これは古事記系の国譲神話がベースになっているようだ。「其建御名方神千引石フ手末而来言誰来我国而忍忍如此物言然欲為力競故我先欲取其御手故令取其御手者即取成立氷亦取成剣刀故爾懼而退居爾欲取其建御名方神之手乞帰而取者如取若葦●テヘンに益/批而投離者即逃去故追往而迫到科野国之州羽海将殺時建御名方神白恐莫殺我除此地者不行他処亦不違我父大国主神之命不違八重事代主神之言此葦原中国者随天神御子之命献」である。日本書紀(神代下巻)に、此の様な話はない。
また、諏訪には奇妙な慣習があって、神主が祭神として扱われる。そして、上記の契約、「決して諏訪から出ない」に悖ることが許されないため、神主は在任中、諏訪の郡から出られない定めであった。更に、俗説ってぇか御伽噺では、建御名神の実家である出雲で、十月に神々が縁結び会議を開くため結集する。故に十月は神無月、出雲では神有月と謂うのだけれども、これにも諏訪神と他一神のみは出席しないことになっている。諏訪神の場合、俗説は「余りにも蛇の如き体が長すぎて、諏訪を出発したものの、頭が出雲に着いても尻尾が諏訪に居た」から出席を諦めたと言うけれども、やはり天神との契約によって、諏訪を出られないのだろう。諏訪/信濃とは、日本で唯一、駆逐された筈の原住神・大己貴の系譜が支配する領域なのである。これは、天照を陵辱し得るほど強力で、陰神でありながらも男性神である素盞鳴が支配していると云うに等しい。信乃と深い関わりがあると考えられるだけでなく、諏訪は、利根川を下って姿を消した相模小猴子/毛野が、突如として現れる場所でもある(第七十九回)。信乃と毛野は、キャラクター設定が陰陽の如く対照的であるが、女装癖があるなど共通する部分も確かに存在する。「篠」なる字は、信乃なら亀篠や小篠村の語彙、毛野なら名刀・小篠で関わってくる。今までの考察では、両者共に水気の犬士であった。それ故に、各々濃度の差こそあれ、両者は共に諏訪と縁があるのだ。
此処で読者に疑問が生ずるかもしれない。では、毛野こそが諏訪に最短の位置に在るのではないか? 信乃よりも毛野こそ、諏訪に深く関わっているのではないか? そうではなかろう。水気故に諏訪との親近性が大きいものの、毛野は諏訪小猴子ではなく、「相模小猴子」をこそ名乗っている。諏訪に在りながら「相模」を名乗ることで、彼の特質が諏訪と全きには重なるものではないことを示している。
そして、下野ではなく「相模」を名乗る意味は、下野小猴子なんて名付けたら毛野だとバレしてまうことを恐れ、しかし無関係な名前は付けたくなかった馬琴苦肉の策であったろう。相模とくれば江ノ島・弁天だが、弁天小僧ならぬ「相模小猴子」を毛野が名乗ることは、無意味ではなかろう。即ち、毛野の特質を考える上で、相模も無視は出来ないだろうが、後に「毛野」と名乗ることからすると、第一義に重要な側面は、「下野」によって表現されている筈だ。八犬士の元ネタであるとされてきた「書言字考節用集」では、犬士の名は「犬山道節・犬塚信濃・犬田豊後・犬坂上野・犬飼源八・犬川荘助・犬江新兵衛・犬村大学」であった。他の犬士が、ほぼ忠実に名前を撫ぞっているに対し、毛野だけ上野→下野の変換が見られる。これは、取りも直さず、他の犬士の名は、馬琴が構想した枠内で整合性を持たせられたが、毛野のみは「下野」に変換せねばならなかったのだろう。やはり、毛野、はみ出し者らしい。
一方、信乃は「信濃」であることを変更せず、しかも八犬伝中では実際に信濃と密接に関わらせられていることから、馬琴が物語を発想した時に〈定点〉であった疑いがある。恐らく、〈八犬伝神話〉は、信濃を発祥として広がり、構築されていったのだ。だからこそ、信乃は最年長ではない/最初に生まれたワケではないにも拘わらず、初出の犬士として、かなり詳細な生い立ちが記述されている。そのように考えれば、小文吾もまた、馬琴によって「豊後」なる語彙で象徴される何かを負わされていることになろう。本稿では、其れを「月/陰」と考えることにし、後に論理を展開したいと思っている。
さて、更なる余談ではあるが、日本書紀の国譲神話に、気になる箇所がある。本文に大己貴が国譲りを承知した後、天から下った武甕槌と経津主が帰順せぬ神々を滅ぼしていくのだけれども、最後まで抵抗した者こそ「星神香香背男耳」であった。しかし彼も、遂には倭文神建葉槌に下る。此の星神征伐が一書では、国譲神話の前に挿入されており「天有悪神名曰天津甕星亦名天香香背男請先誅此神然後下撥葦原中国是時斎主神号斎之大人此神今在于東国楫取之地也」となっている。
現在、経津主を祀る香取、武甕槌を祀る鹿島は利根川を挟んで対峙している。日本書紀を素直に読めば、香取は元々星神である香香背男耳の根拠であったが、侵略軍の経津主・武甕槌が鹿島に陣取り、戦闘の結果、香取の香香背男耳を討って占拠、経津主の社となった、ぐらいだろうか。まぁんなこたぁ如何でも良いのだが、星の神を祀っていた香取と、其れと対峙する鹿島、間に流れる利根川を、或いは天の川に擬することも可能か。そうすれば、星の神・毛野が下って行く利根川が、天の川に見えてくるではないか。また、これは完全に妄想なのだが、千葉氏は星の神・妙見を信仰したのだけれども、東国に仏教以前から星辰信仰があったとしたら、仏教普及後に妙見へと乗り換えたとしたら……? なぁんてストーリーも思い浮かぶ。安房出身の日蓮も、妙見を信仰していた。勿論、星辰信仰の痕跡は全国に見られるのだが、東国と星辰信仰は、相性が良いかも知れない。閑話休題。
ちょっと寄り道が過ぎた。毎度ながらの制限行数が近付いてきている。次回は月と関係の深い「かくや姫」に話を振ろう。今回は、これまで。
(お粗末様)