★伊井暇幻読本・南総里見八犬伝「尻軽もしくはSillyGirl」/頂点を突き抜けて★
お約束通り、頼朝のゲス振りだ。まずは静御前帰洛から一カ月後の事件。
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【第六・文治二年十月】廿三日丙申長門江太景国蒙御台所御気色是奉扶持御妾若公(去二月誕生)事依令顕露也今日景国抱若公隠居深沢辺(云々)
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子供までつくっていたから政子は許すものではない。一方、頼朝は息子を守ることも出来ず、長門景国は、自身の孫でもあっただろうか、若公を抱いて隠居せざるを得なかった。哀れである。しかし、まだ良い方だ。政子が本気で怒ったら、こんなものでは済まぬ。
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【第二・寿永元年六月】一日庚子武衛以御寵妾女(号亀前)招請于小中太家小窪宅給御中通之際依有外聞之憚被構居於遠境(云々)且此所為御濱出便宜地(云々)是妾良橋太郎入道息女也自豆州御旅居奉昵近匪顔皃之濃心操殊柔和也自去春之比御密通追日御寵甚(云々)
【第二・寿永元年十一月】十日丁丑此間御寵女(亀前)住于伏見冠者広綱飯島家也而此事露顕御台所殊令憤給是北条殿室家牧御方密々令申之給故也仍今日仰牧三郎宗親破却広綱之宅頗及耻辱広綱奉相伴彼人希有而遁出到于大多和五郎義久鐙摺宅(云々)○十二日己卯武衛寄事於御遊興渡御義久鐙摺家召出牧三郎宗親被具御共於彼所召広綱被尋仰一昨日勝事広綱具令言上其次第仍被召決宗親之処陳謝巻舌垂面於泥沙武衛御鬱念之余手自切宗親之髻給此間被仰含云於奉重御台所事者尤神妙但雖順彼御命如此事者内々盍告申哉忽以与耻辱之条所存企甚以奇恠(云々)宗親泣逃亡武衛今夜止宿給
【第十一・建久二年正月】廿三日壬申女房大進局沿恩沢是伊達常陸入道念西息女幕下御寵也奉生若公之後縡露顕御台所殊怨思給之間可令在京之由内々被仰含仍就近国便宜被充伊勢国歟(云々)
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寿永元年六月・十一月の両記事は続いている。亀前は、性格の良い女性ということになっている。一年余りをかけて、頼朝との関係を深めている。亀前の性格が良いならば、悪いのは頼朝に決まっている。事が露見した時に行った政子の仕打ちが余りに酷い所を見ると、案外、亀前は政子の信頼を得ていたのかもしれない。可愛さ剰って、憎さ百倍。北条政子は直情径行で、衆人環視の中で相手を面罵したようだし、或いは、それ以上の恥辱を与えたか。
……しかし、何だか不自然だ。六月の段階で、正史が「密通」と明記しているが、密通だったら隠しておけよ。どうも吾妻鏡、六月時点では、さほど深刻に「密通」を隠蔽しようと思っていたか、甚だ怪しい。まるで十一月に政子がとった行動を、全く予見していなかったとしか思えない。頼朝幕下の中枢が、政子の性格を把握できていなかったとは思いにくい。だいたい権力の一角は政子の父親だ。ならば、六月と十一月の間に、政子の性格が変わったと考えた方が良いだろう。それは次の事情によって引き起こされたのではないか。
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【寿永元年七月】十四日壬午新田冠者義重主蒙御気色是彼息女者悪源太殿(武衛舎兄)後室也而武衛此間以伏見冠者広綱潜被通御艶書更無御許容気之間直被仰父主之処義重元自於廻思慮憚御台所御後聞俄以令嫁件女子於帥六郎之故也
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此処で頼朝の不倫は、未遂に終わっている。亀前を寵愛しつつも、舎兄の未亡人を狙った頼朝は、人に頼んで艶書を届けた。しかし未亡人は、靡かない。遂に頼朝は父・新田冠者義重に、娘を差し出せと迫る。しかし義重は、政子にバレたときのことを慮って、拒否する。義重は「主」敬称が付けられているけれども、此は特別待遇とでも言うべき扱いであった。強力だったので、拒むことが出来たのだろう。しかし政子には遠慮している。翌月十二日、政子は男子を出産している。頼朝が舎兄の未亡人を狙ったとき、政子は臨月であったのだ。政子に煩いなく源家の跡取りを産んで欲しいと、義重が気を遣ったようにも思える。新田は東国源氏の中で重きを為していたので、一族の一員として責任感・義務感もあっただろう。一方、気遣われた政子は、有り難がったに違いない。それに引き替えウチの宿六は……殺意を抱いても仕方がない。そして三カ月後に、亀前らに対する蛮行があった。新田の筋から話を聞いた政子が、頼朝に不倫をせぬよう迫ってもいたか(どうせ頼朝のことだ、不倫をせぬと誓約させられただろう)。とにかく此の不倫未遂事件の前後で、頼朝の性的放埒に対する政子の態度が豹変しているように見える。やはり、頼朝は、最低だ。
頼朝の愛人は次々と政子に見つかり、一族を巻き込んで不幸になった。デカ頭の三枚目、性格は最悪の忘八者、権力を握っているというだけで頼朝に惹かれたのなら、SillyGirl別に不幸に陥っても同情なんざしないのだが、権力をカサに着て強制されたのなら、甚だ哀れだ。その「哀れ」に関する責任の一半は政子にあるけれども、はなから頼朝が、流人風情で実質的な婿養子であったにも拘わらず無節操な下半身を晒して律することがなかったこと自体、十分罪するに足る。だいたい政子が怖いなら、相手の女性のことを慮って自粛する方向だってあり得るのだが、忘八者には思いもつかなかったらしい。暗愚の御手本みたいなヤツだ。そういえば、頼朝は、西行法師とも会っている。まだ鎌倉に静御前が抑留されていた文治二年八月であった。
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【第六・文治二年八月】十五日己丑二品御参詣鶴岡宮而老僧一人徘徊鳥居辺恠之以景季令問名字給之処佐藤兵衛尉憲清法師也今号西行(云々)仍奉幣以後心静遂謁見可談和歌事之由被仰遣西行令申承之由廻宮寺奉法施二品為召彼人早速還御則招引営中及御芳談此間就歌道并弓馬事条々由被尋仰事西行申云弓馬事者在俗之当初愁雖伝家風保延三年八月遁世之時秀郷朝臣以来九代嫡家相承兵法焼失依為罪業因其事曾以不残留心底皆忘却了詠歌者対花月動感之折節僅作三十一字許也全不知奥旨然者是彼無所欲報申(云々)然而恩問不等閑之間於弓馬事者具以申之即令俊兼記置其詞給縡被専終夜(云々)○十六日庚寅午剋西行上人退出頻雖抑留敢不拘之二品以銀作猫被充贈物上人乍拝領之於門外与放遊嬰児(云々)是請重源上人約諾東大寺料為勧進沙金赴奥州以此便路巡礼鶴岡(云々)陸奥守秀衡入道者上人一族也
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頼朝が和歌などに就いて「芳談」したとはあるが、別れ際に西行へ銀の猫を渡す。此の猫に就いて色々と面白い説はあるが、取り敢えずは、単純な俗物野郎・頼朝が与えた贈り物を、西行が「はいはい、ありがとうございます」と拝領しておきながら、外で遊んでいた幼児に与えた、とだけ考える。これでも両者の対比が鮮やかで、十分に面白い。
因みに、頼朝は文治五年七月に奥州藤原泰衡を討つため軍を起こす。珍しく自身で出馬した。八月二十二日には、既に逐電した泰衡の館に入った。焼け落ちた一角、坤に一宇の蔵が残っていた。中には「沈紫檀以下唐木厨子数脚在之其内所納者牛玉犀角象牙笛水牛角紺瑠璃等笏金沓玉幡金花鬘(以玉餝之)蜀江錦直垂不縫帷金造鶴銀造猫瑠璃燈炉南庭百(各盛金器)等也其外錦繍綾羅禹筆……後略」、此処にも銀の猫がある。
ついでに云えば、主が主なら臣も臣だ。
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【第六・文治二年五月】十四日辛卯左衛門尉祐経梶原三郎景茂千葉平次常秀八田太郎朝重藤判官代邦通等面々相具下若等向静旅宿玩酒催宴郢曲尽妙静母礒禅師又施芸(云々)景茂傾数盃聊一酔此間通艶言於静静頗落涙云予州者鎌倉殿御連枝吾者彼妾也為御家人身争存普通男女哉予州不牢籠者対面于和主猶不可有事也(云々)……後略
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甚だしいセクハラだ。梶原三郎景茂は、景時の三男だ。景時は、軍船に逆櫓を付ける付けないから発し、義経を目の敵にした。景時の讒言に依って、頼朝は義経を憎むようになったともいう。真に受ける暗愚な頼朝の存在なかりせば、如何でも良い存在ではあるけれども、互いに補強し合ったから堪らない。梶原家は、鎌倉で勢力を持つに至る。此の様な背景があって、三郎景茂は「義経の妾」を我が者にし、義経を更に辱めようとしたのだろう。全く以て、ゲス野郎だ。梶原景時で思い出したが、こんなのもある。
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【第十三・建久四年十一月】廿八日辛卯奏上被帰洛今夕越後守義資依女事梟首所被仰付于加藤次景廉也其父遠江守義定就件縁座蒙御気色(云々)是昨日御堂供養之間義資投艶書於女房聴聞所訖而顧後害敢無披露之処梶原源太郎左衛門景季妾(号龍樹前)語夫景季又通父景時景時言上将軍家仍被糾明真偽之時女房等申詞符号之間如此(云々)三年不窺東家之蝉髪者一日豈遭白刃之梟首哉
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密告魔人・梶原景時の面目躍如だ。確かに非は義資にあったかもしれぬ。しかし、別段、実害があったようにも書いていない。自分たちのことは棚に上げて、人様を云々する卑しい趣味は、如何にかしろよ。勿論、破廉恥な頼朝−梶原体制は早晩、破綻するのだが。……待てよ、臣下ばかりでなく息子も変なことしてなかったかと吾妻鏡を捲れば、こんなのがあった。
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【第十六・正治元年七月】廿日庚戌申尅以後雷鳴甚雨及深更月明至暁鐘之期中将家遣中野五郎能成猥召景盛妾女点小笠原弥太郎宅被居置之御寵愛殊以甚(云々)是日来重色之御志依難禁被通御書御使往復雖及数度敢以不諾申之間如此(云々)
【同】廿六日丙辰甚雨雷一声及晩属晴入夜召件好女(景盛妾)於北向御所(石壺在北方也)自今以後可候此所(云々)是御寵愛甚故也又小笠原弥太郎長経比企三郎和田三郎朝盛中野五郎能成細野四郎已上五人之外不可参当所之由被定(云々)
【同八月】十九日己卯晴有讒佞之族依妾女事景盛貽怨恨之由訴申之仍召聚小笠原弥太郎和田三郎比企三郎中野五郎細野四郎已下軍士等於石御壺可誅景盛之由有沙汰及晩小笠原揚旗赴藤九郎入道蓮西之甘縄宅至此時鎌倉中壮士等争鉾競集依之尼御台所俄以渡御于盛長宅以行光為御使被申羽林云幕下薨御之後不歴幾程姫君又早世悲歎非一之処今被好闘戦是乱世之源也就中景盛有其寄先人殊令憐愍給令聞罪科給者我早可尋成敗不事問被加誅戮者定令招後悔給歟若猶可被追罰者我先可中其箭(云々)然問乍渋被止軍兵発向畢凡鎌倉中騒動也万人莫不恐怖広元朝臣云如此事非無先規鳥羽院御寵愛祇園女御者源仲宗妻也而召仙洞之後被配流仲宗於隠岐国(云々)
【同】廿日庚辰陰尼御台所御逗留于盛長入道宅召景盛被仰云昨日加計議一旦雖止羽林之張行我已老耄也難抑後昆之宿意汝不存野心之由可献起請文於羽林然者即任御旨捧之尼御台所還御令献彼状於羽林給以此被申云昨日擬被誅景盛楚忽之至不義甚也凡奉見当時之形勢敢難用海内之守倦政道而不知民愁娯倡楼而不顧人謗之故也又所召仕更非賢哲之輩多為邪之属何況源氏等者幕下一族北条者我親戚也仍先人頻被施芳情常令招座右給而今於彼輩等無優賞剰皆令喚実名給之間各以貽恨之由有其聞所詮於事令用意給者雖末代不可有濫吹儀之旨被尽諷諌之御詞(云々)佐々木三郎兵衛入道為御使
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結論を言えば、此の事件に、北条政子の不幸が凝縮しているよう思う。総て頼朝のセイだ。夫に不満を抱く女性が、子供を溺愛し過大な期待を懸けつつも甘やかす、なんて、よく・ある・話、だ。甘やかせば、子供は易きに流れる。此処までは、まぁ、ありがちだし、筆者だって御立派な人間に育ったわけでないから、不問に付す。しかし、まだしも頼朝がマトモな奴なら被害は最小限だったろうが、縷々述べてきた如く、最低野郎だ。子は親の背を見て育つ。政子には頭の上がらぬ頼朝も、息子の前では、自由濫望に敢えて振る舞い、「これが男らしさだ!」なんて、恐妻症状の典型例に過ぎぬが、気取って見せたんぢゃないか。
如何にか息子の暴虐な愚挙を制止した政子であったが、膨れ面をして引き下がった愚息の顔が忘れられない。「あの子は、きっと又、何かしでかす」。当事者の景盛を呼び寄せ、懇願する。妾を奪われたとしても、自分に反逆の志がないという証文を、馬鹿息子に出しておきなさい。次は、きっと、何でもない事に言いがかりをつけ、反逆者として攻撃してきますよ。そうなったら鎌倉は大騒動になって、幕府が転覆するかもしれないのです。景盛は、こう反論したかもしれない。反逆者の汚名を着ても、アイツだけは許せない、詫び証文なんて誰が書くか。アベコベぢゃないか。対する政子の口調も鋭かった。あの子に触れることは、誰にも許しません。……私以外の誰にも。景盛も口答えは出来なかった。恐らく、政子の真意が伝わったのだ。自分以外の誰にも手を出させないということは、いざとなれば自分が手を下すとの謂いだ。この母親の決意に、誰が反論できようか。しかし、母の悲壮な決意は、裏切られる。
こんな妄想を働かせる足掛かりは、馬鹿ボン二代・三代将軍が横死した事実に拠る。将軍三代の変死の陰には、政子の実家、北条家があったともいう。だいたい此の年の一月に頼朝は死に、頼家が継いだのだが、吾妻鏡に拠れば、三カ月後の四月、既に政子は頼家を政務から放し、有力御家人で構成する評定衆を決定機関とした。息子のことを理解していた母親は、権力を握っているとボロが出て、総てを失うと判断したのだろう。実権はなくとも、何不自由なく暮らす方が良い。も一つ妄想に輪をかけて云えば、政子の発想は、優れたものだった。中世、南北朝期なんかを経るうちに、天皇の権力は空洞化していく。しかし権威の源泉としては存在し続ける。天皇の名の下に、しかし天皇の責任から離れて、権力を行使する者が存在するようになる。鎌倉将軍三代の後には北条氏があり、室町幕府があり、織田信長・豊臣秀吉、江戸幕府、そして近代の内閣・議会がある。実際の権限を下位の者にソックリ譲っておけば、失敗があっても切り捨てれば済む。後は知らん顔して、次なる実力者を迎えれば良い。
だいたいからして、頼朝をはじめ全国の源氏が蜂起する契機となった事件は、源三位頼政の軍事行動だ。頼政は、以仁王の綸旨を奉戴していた。形式上は、皇族の命令だったのである。平家が朝敵に類する者となった。でも蜂起した頼朝に対して、追討の宣旨が出される。追討しちまえば良かったのだが、何時の間にやら頼朝と敵対していた平家追討の宣旨が出され、義経追討の宣旨が下され、奥州追討の宣旨まで頼朝は出させようとした。天皇/上皇/法皇は、最終的には制度的責任を追及されることなく、入れ替わり立ち替わり、無責任を続けた。朝廷は、御神籤の自動販売機と一般に、金なり圧力なりを積んできた者に対し、オートマチックに都合の良い詔勅を下す。文面は同様、ただ宛先と討伐対象が書き換えられるだけ、だから結果的に間違った詔勅が発給されたとしても、自動販売機には罪がない。金を入れボタンを押した者にのみ、責任が掛かってくる。象徴制/無責任制である。此の無責任制を、政子は幕府に導入しようとしたのではないか。唯一無二の存在・将軍に全権を委ねていれば、失敗したとき幕府もろともコケる。実権を評定所に移管し合議制として責任を分散、且つ北条氏が評定所を操れば良い。まぁ北条一族の入れ知恵かもしれんが……。
しかし、落ち着いて考えると、自動販売機のボタンを押した者にのみ責任があるとすれば、何故に発給された詔勅に、ボタンを押した者自身の命令書より高い効果があるのかが、解らなくなる。しかも、其の差が、結果に及ぼす影響は甚大である。八犬伝の舞台となった中世後半で有名な例を挙げると、北近江・北陸の浅井・朝倉勢によって織田信長が絶体絶命の危機を迎えたが、天皇に和睦詔勅を出させることで切り抜けた。信長の実力が十、浅井・朝倉が十一とすれば、詔勅の力は二に過ぎなかったかもしれない。でも、責任が信長の五分の一だからって不問に付す、とは決して言えない。十は小なり十一、信長だけでは浅井・朝倉に絶対値的に敵わなかった。朝廷が介入して信長に二を足すと、十二は大なり十一、浅井・朝倉を結果的に亡ぼすことになる。「五分の一の責任」どころではなく、時局に決定的な影響を与えた、大きな責任があると云わねばならぬ。極めて単純な理屈だが、歴史の中で、此の偉大なる矛盾は、何となく見逃されてきた。此の矛盾を矛盾とせぬ所が前近代性ってヤツなのだが、前近代に生きた政子の「前近代性」を論っても無意味だ。当時としては、卓見であったろう。頼朝の浮気を許さない、義経に対して操を守った静と深く共鳴する、そんな政子だったからこそ、通常なら何となく見過ごす此の矛盾を、明らかに認識したのだろう。自分の夫・頼朝に追討宣旨が下ったと思ったら、次には夫の敵が、そのまま朝敵となる。「単なる忘八者、尻軽ぢゃん!」。
其処で「尻軽」にも得な面があると悟ったのだろう。生まれついての尻軽に、尻軽の制度的論理は解らない。彼女だからこそ、論理として受け止め、利用出来たのだ。そのうち起こった、承久の乱。鎌倉幕府側は、幕府追討軍大将・廷尉胤義(三浦義村弟)の行為を「叛逆」と呼び、政子は宣旨を「依逆臣之讒被下非義綸旨」と詰る(承久三年五月十九日条)。
これで負けたら単なる逆賊だが、勝っちゃったから、「謀叛」の名目で幕府追討の命に従った者達を次々討ち、捕らえ、所領を没官し、挙げ句の果てに上皇たちまで配流、践位したばかりの帝も廃した。天皇だろうが太上天皇だろうが、征夷大将軍は治安を乱す者(っていうか自分に敵対する者)を「謀叛」の名目で処罰できるのだ。〈天皇御謀叛〉である。政子は当時六十五歳ぐらいだったか、健在であった。「天皇御謀反」、相手の正体を見切っていなきゃ、この発想は生まれない。(お粗末様)