★伊井暇幻読本・南総里見八犬伝「忘八者」/頂点を突き抜けて★

 八犬伝第百五十一回、安房里見家が軍事演習を兼ねた大規模な狩りを催す。それ自体では面白い場面でないものの、様々な関連事項があって、無視できぬ重要な部分となっている。
 里見義成は狩りを始めるに当たって、殺生を最小限に留めよと命じる。その言葉の中に、「在昔建久四年五月二十七日、鎌倉の右幕下(頼朝)の畋猟に工藤荘司景光は(工藤景光を或は下河辺行光に作る。しかれども東鑑を正しとすべし)山鬼の大鹿に変見れるを射ける祟にて那身は暴に疫死けり(東鑑)」がある。良い機会だ、暫く東鑑/吾妻鏡で遊ぼうか。
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【吾妻鏡第十三・建久四年五月】廿七日壬辰未明催立勢子等終日有御狩射手等面々顕芸莫不風毛雨血爰無双大鹿一頭走来于御駕前工藤庄司景光(着作与美水干駕鹿毛馬)兼有御馬左方此鹿者景光分也可射取之由申請之被仰可然之旨本自究竟之射手也人皆控駕見之景光聊相開而通懸于弓手発射一矢不令中鹿抜于一段許之前景光押懸打鞭二三矢又以同前鹿入本山畢景光棄弓安駕云景光十一歳以来以狩猟為業而已七旬余莫未獲弓手物而今心神惘然太迷惑是則為山神駕之条無疑歟運命縮畢後日諸人可思合(云々)各又成奇異思之処晩鐘之程景光発病(云々)仰云此事尤恠異也止狩可有還御歟(云々)宿老等申不可然之由仍自明日七日可有巻狩(云々)
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 厭だろうが如何だろうが、記紀に載せる日本武尊神話を思い出してしまうだろう。ただし、この話が記紀を基にしたのか、或いは記紀説話の基になった伝承が記紀とは独立に東国で伝わっていたのかは、これだけで判ずることは出来ない。とにかく、関東武士たちの間で、日本武尊関連まがいの説話が流通していたことが窺えるのみだ。因みに、頼朝が主張したように狩りを止めて帰れば平穏無事に過ごせたかもしれぬ、運の悪い御家人がいるのだが、そりゃまぁ後回し。で、此の部分、甚だ出来が良い。ちゃんと伏線っていぅか前段がある。二日分前の五月十六日条だ。
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十六日辛巳富士野御狩之間将軍家督若君始令射鹿給候愛甲三郎季隆本自存物達故実之上折節候近々殊勝追合之間忽有此飲羽(云々)尤可及優賞之由将軍家以大友左近将監能直内々被感仰季隆(云々)此後被止今日御狩訖属晩於其所被祭山神矢口等江間殿令献餅給此餅三色也折敷一枚九置之以黒色餅三置左方以赤色三置中白色三居右方其長八寸広三寸厚一寸也以上三枚折敷如此被調進之狩野介進勢子餅将軍家并若公敷御行騰於篠上令座給上総介江間殿三浦介以下多以参候此中令獲鹿給之時候而在御眼路之輩中可然射手三人被召出之賜矢口餅所謂一口工藤庄司景光二口愛甲三郎季隆三口曾我太郎祐信等也梶原源太左衛門景季工藤左衛門尉祐経海野小太郎幸氏為餅陪膳持参御前相並而置之先景光依召参蹲居取白餅置中取赤置右方其後三色各一取重之(黒上赤中白下)置于座左臥木之上是供山神(云々)次又如先三色重之三口食之(始中次左廉次右廉)発矢叫声太徴音也次召季隆作法同于景光但餅置様任本体不改之次召出祐信仰云一二口撰殊射手賜之三口事可為何様哉者祐信不能申是非則食三口其所作如以前式於仰含之処無左右令自由之条頗無念之由被仰(云々)次三人皆賜鞍馬御直垂等三人又献馬弓野矢行騰沓等於若公次列座衆預盃酒悉乗酔(云々)次召蹈馬勢子輩各賜十字被励列卒(云々)
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 わざわざ山の神を祀っている。記述を事実と信ずれば、景光が病で急死したとの事件があって、此に先立ち偶々ベテラン射手(っていぅか耄碌してただけだと思うんだが)景光が射損じた。或いは景光は失敗のショックで体調を崩し、抵抗力を失って病死または老衰死したのかもしれない。でも景光は負け惜しみから、山の神を射たから射損じたし体調が悪くなったのだと主張したのだろう。それ故に景光の死と山の神の存在に因果関係が生じて、常時なら記述されることもなかったであろう山の神を祀る儀式が、詳細に書き残されることになったのだと思う。因みに、此の時の狩りは「富士野巻狩」、即ち曾我物語の基となった、曾我十郎祐成と弟・五郎時致による幕府重臣・工藤祐経暗殺事件(五月二十八日)の舞台だ。ちょっと語りたい所だが、我慢して話を進めよう。
 馬琴が引いた上記建久四年五月二十七日条の三日分前が五月十五日条だ。既に頼朝一行は、「富士野旅館」へ到着している。頼朝は時々御家人らを連れて大規模な狩りを行っているが、言ってみりゃぁこれは幕府主催のスポーツ大会であった。しかも健全な青少年が参加するものではく、ゴロツキ集団・鎌倉幕府のレクリエーション大会だ。獲物の猪や鹿・兎を捌き、酒宴となる。不良中年の群れなんだから、当然、〈色〉も付く。後述するが、天下のエロオヤジ・頼朝が狩りをするのだ。遊女が集められた。
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十五日庚辰藍沢御狩事終入御富士野旅館当南面立五間仮屋御家人同連・狩野介者参会路次北条殿者予被参候其所令献駄●(ジキヘンに向)給今日者依為斎日無御狩終日酒宴也手越黄瀬河已下近辺遊女令群参列候御前而召里見冠者義成向後可為遊君別当只今即彼等群集頗物●(公のしたに心)也相卒于傍撰置芸能者可随召之由被仰付(云々)其後遊女事等至訴論等義成一向執申之(云々)
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 家元制度というものが現在でも残存している。権威を持った家元が認知することで、其の流派での立場を得る。中近世には特定業種の団体があって、左官なら左官、鋳物師なら鋳物師で、弟子を従え「大工」と呼ばれる独立性の強い主体的な存在を、更に纏める「総大工職」とかが、年頭八朔の祝儀や運上金などを義務づけ統率していた。総大工職は国毎にいたりした。そして、全国規模で統括する者は、「本所」とか呼ばれた。
 「本所」は、荘園領主の関係なんかでも使う言葉だ。元々の領主「本所」は京都の貴族だったり寺院だったりしたが、年貢取り立ての責任を負う「預所」なんかが間に入る。また、その下に「下司」とかが介入して実際に取り立てを行う。農民が納めた年貢は各層の中間段階でマージンを抜かれる。いや、「抜かれる」だけなら良いが、実力を持つ武士が下司だったりすると、「押領」、上級管理者には鐚一文届かない。天皇などから土地の権利書は与えられていても、中世以降、実際に収入が上がらない状況となる。
 此れと同様に、理念的には特定業種に従事する免許権は「本所」が握っているのだが、多くは天皇などから裁許された京都の公家であり、時代が下ると形骸化していく。だいたい同じ国の中で複数が「総大工職」を名乗ったりする。裁判になって双方が証拠文書を提出しても、偽文書が混じってたりして、紛糾する。「本所」を名乗る公家だって、怪しいものだ。
 で、近世でも、遊女の「本所」は源頼朝とする説があった。でも、中世の「遊女」と近世の其れは性格が異なるし、幾ら「本所」といっても、嫡流は三代で断絶しているので、如何しようもない。結局、江戸府内及び天領の場合、江戸幕府/徳川将軍家の統制にかかるのだから、「頼朝」で権威付けしつつ、将軍同士で其の関係をも暗示したか。とにかく、東鑑の記述では、「里見義成」が「遊君別当(管理者)」であったのに、其の権能を、近世に存在する「遊女」一般にまで広げ、且つ管理者を任命する権限が頼朝にあったと強弁している。遊女の本所として頼朝を祭り上げ、遊女に権威づけしたのだ。閑話休題。

 一体、遊女を支配する者は廓主すなわち忘八者(仁義八行を忘れた最低野郎)の親玉だと決まっている。頼朝、確かに「忘八者の親玉」みたいなヤツだ。自分はヌクヌク鎌倉にいたくせに、義仲や平家を実戦で討った弟・源伊予守九郎義経を、死に追い遣る。吾妻鏡は鎌倉幕府の正史といえるものであるが、正史は其れを書かせた権力者に媚びを売る。故に吾妻鏡は、鎌倉幕府の敵に回った義経を悪役じみて表現している。が、例えば、
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【吾妻鏡第九・文治五年六月】十三日辛丑泰衡使者新田冠者高平持参予州首於腰越浦言上事由仍為加実検遣和田太郎義盛梶原平三景時等於彼所各着甲直垂相具甲冑郎従二十騎件首納黒漆櫃浸美酒高平僕従二人荷擔之昔蘇公者自擔其(米に侯)今高平者令人荷彼首観者皆拭双涙湿両衫(云々)
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 幕府の重臣たちが、義経の首を見て泣いている。少なくとも義経を「死後に軽く扱われて当然もしくは嬉しい」相手と思ってなかった証拠となりはすまいか。まぁ、梶原景時は嘘泣きで和田義盛に調子を合わせているだけだろうが、とにかく反義経の立場にならざるを得ない正史・東鑑にして、義経に対し、ポロリと同情を覗かせているのだ。
 ついでに言うと、義経の愛人・静御前は、京から逃れる途中、義経から多くの金銀を与えられる。供の雑色を属けられ、別れる。其の男どもが金銀を奪って、静御前を雪深い山中に置き去りにした。如何にか吉野藤尾坂蔵王堂まで辿り着き、衆徒に保護された(第五・文治元年十一月十七日条)。静御前が吉野執行の虜となった情報は十二月十五日に鎌倉へ届く(同日条。以下同様)。北条時政は翌年二月十三日に、静御前を鎌倉に連れてくるよう京へ命令書を発信した。三月一日、静御前が母と共に鎌倉に到着した。安達新三郎の宅に預ける。六日、義経の行方を尋問。静御前は、別れた後のことは知らないと答える。二十二日にも詳しく尋問された静御前は、既に妊娠していた。子供の処分は、生まれてから決めることとなった。
 四月八日、頼朝は妻・政子と鶴岡八幡に詣でる。静御前を呼び、廻廊で舞わせようとする。これまでも静御前は病を口実に召しを断ってきた。実は恥辱に耐えられなかったのだ。執拗に呼び出そうとしたのは、政子の方であった。遂に根負けした静御前が此の日、登場する。演奏は、楽曲に巧みな工藤左衛門尉祐経が鼓、銅拍子を畠山二郎重忠が担当した。静御前は歌う「よし野山みねのしら雪ふみ分ていりにし人のあとそこいしき」もちろん義経を歌ったものだ。別の曲を歌った後、更に口ずさむ「しつやしつ しつのをたまきくり返し昔を今になすよしもかな」。列席していた者は、心動かされる。しかし頼朝は云う、「せっかく儂が言い付けたのだから、関東万歳と歌うべきなのに。愚痴りやがって……」こら、愚痴っているのは、オマエの方だ、とばかりに政子が遮る。「私も石橋山合戦の時は、伊豆の山に隠れて生死も知れぬアンタのことを心配したもんさ。静さんも長年愛してくれた義経さんのことを忘れるような女じゃないってことだよ。それにしたって素晴らしい歌じゃないか。解るわぁー。指の先まで義経さんへの愛が張り詰め滲んでいるじゃぁない。……だいたいアンタの其のデカ頭には何が詰まってるんだい。脳ミソなんて蟻ん子なみなんだから。ほら、大人しく鑑賞(原文「賞翫」)してな!(意訳)」。原文では頼朝は「于時休御憤」、ニュートラルな表現だが、単に政子へ口答え出来ずに黙り込んだだけだろう。しかし百日ばかり経って、根に持ったのか頼朝は、政子の反対を退け、静御前に残酷な仕打ちをする。
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【第六・文治二年七月】二十九日庚戌静産生男子是予州息男也依被待件期于今所被抑留帰洛也而其父奉背関東企謀逆逐電其子若為女子者早可給母於為男子者今雖在襁褓内争不怖畏将来哉未熟時断命条可宜之由治定仍今日仰安達新三郎令棄由比浦先之新三郎御使欲請取彼赤子静敢不出之纏衣抱臥叫喚及数剋之間安達頻譴責礒禅師殊恐申押取赤子与御使此事御台所御愁歎雖宥申之不叶(云々)
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 理屈は解るが、男児だったら殺せとは、とことん自分に自信がないんだろう。そんなヤツがリーダーシップを執ること自体が何かの間違いと云うか、組織の不幸なのだが、これだけ醜く足掻いておいて源家将軍は三代で断絶した。母の常磐御前が体を張って守り抜いた頼朝・義経兄弟は、許した清盛の甘さを逆手にとって、遂には平氏を潰滅し、幼女帝・安徳を海の藻屑と消した。皆殺しだ。ついでに弟まで殺して維持しようとした王権だが、世の中そんなに甘くない。跡継ぎは二代続けて殺されて、断絶した。
 ところで、読者をして暗鬱たらしむる上記・悲劇の二カ月前、しんみりする話が東鑑には載っている。五月十七日から南御堂に参籠していた大姫君が、参籠明けの前日二十七日、夜になって静御前を招いた。静御前は芸を施し、大姫から禄を賜った。
 実は大姫、頼朝の長女だが、幼い頃に源義仲の息子・志水冠者義高と婚約した。数年の後、義高は殺される。此の参籠の時分で大姫の年齢は、十歳ほどか。志水冠者が五歳年上として、殺されたのが十二歳の頃、大姫は七歳ばかりだったろうか。ドロドロした欲情とは恐らく無縁であった。ただ互いに自分にとって特別な存在である許嫁……いや兄妹の関係に庶かったか。物心つく頃に大姫は、人質の如く頼朝の元に送られた義高と、数年を共に過ごした。最も純粋な愛の形を夢想する時期であろうか。参籠も、或いは許嫁であった〈お兄さま〉を偲ぶものであったか。純粋な頃の記憶は増幅し、変形し美化されて、却って確固たるものへと成長していく。……武蔵大塚の或る土豪の娘(アレでは養女の設定)を思い出す。
 元暦元年四月二十一日、先に義仲が勅勘を蒙り義経らに討たれ、事態は変わった。頼朝は志水冠者を殺そうとする。察知した義高は、いつも一緒に遊んでいた親友・海野小太郎幸氏を身代わりとして布団の中に残し、自分は女房姿となって館を逃げ出す。「姫君御方女房囲之出郭内畢隠置馬於他所令乗之為不令人聞以綿包蹄(云々)」、政子・大姫に仕えた女性達が体を張って逃がしたのだ。十代前半の志水冠者と七歳ほどの大姫、きっと大姫は冠者に懐いていただろうし、まるで、雛人形の如き一対だったか。二人の存在は、女房たちの夢そのものだっかもしれない。女房たちが懸命に守ろうとした気持ちも解る。ところで義高は常に、海野幸氏と双六を「賞翫」していた。朝になると幸氏は独りで双六を弄び、義高に化け続けた。家臣たちは、今に出てくるだろうと待っていたが、義高こと幸氏は籠もったまま。晩になって露見したというから、晩飯で呼びに行ったか。
 怒った頼朝は、すぐさま追っ手を差し向ける。捕まえるためではない。「被仰可討止之由(云々)」。それを聞いた大姫は、「周章令銷魂給」。結局、義高は逃げおおせなかった。二十六日に、「堀藤次親家郎従藤内光澄皈参於入間河原誅志水冠者之由申之此事雖為密儀姫公已令漏聞之給愁歎之余令断漿水給可謂理運御台所又依察彼御心中御哀傷殊太然間殿中男女多以含歎色(云々)」。首実検の記事もないので、案外、堀藤次もグルで逃がしてたりするかも、と思いたいのだが……。
 五月一日、義高の縁者が甲斐・信濃などで蜂起したとの知らせに、頼朝は軍勢を催した。足利義兼など有力御家人が派遣された。翌二日には頼朝の催促に応じた御家人が、諸国から続々と集まってきた。そうこうするうち、志水冠者を喪った大姫は憔悴していく。治まらないのは女の味方・北条政子である。女性に対して「女の味方」とはオカシイかもしれないが、大丈夫、彼女は頼朝なんかより遙かに雄々しい。
 六月二十七日、堀藤次親家の郎従が梟首された。「是依御台所御憤也去四月之比為御使討志水冠者之故也其事已後姫公御哀傷之余已沈病床給追日憔悴諸人莫不驚騒依志水誅戮事有此御病偏起於彼男之不儀縦雖奉仰内々不啓子細於姫公御方哉之由御台所強憤申給之間武衛不能遁逃還以被処斬罪(云々)」。斬られた郎従は哀れだが、守りきれなかった頼朝が情けない。また政子も、命令を遂行しただけの郎従の命なぞ、取る積もりは元々なかっただろう。これは頼朝に対する脅迫攻撃であったに違いない。当然、「郎従を殺せ」要求の真意は「本当は、アンタを殺してやりたいんだよ」だ。頼朝が、責任逃れのために、件の郎党を差し出したに違いない。
 郎従が斬刑に行われ、十歳以前であったろう大姫は、鬱を晴らしただろうか。そして一年半後、またしても父のために美青年の叔父・義経が生死不明の行方不明。愛人で、恐らくは大姫より十歳ばかり年長、麗しき憧れの〈お姉さま〉静御前が捕らえられ、鎌倉に護送されて来た。四月、もしかしたら静御前を励ますと共に、あわよくばバカ・スケベェの頼朝を懐柔させることも期待してか、北条政子は静御前に強要して、歌を披露させる。上述の通りだ。或いは「関東万歳」とでも歌えば、頼朝は、義経を許さないまでも其の子の命まで奪うことは思い止まったかも知れない。静御前も、恐らく二十歳代前半であったろうが、耐え難きを耐える、屈従の途を選ぶ可能性だってあった。しかし、静御前は、既に数人の子の母であった常磐御前とは違う。彼女には、義経しかいなかったのだ。頼朝を、怒らせた。
 それから五十日ばかり経った五月二十七日、前に掲げた大姫と静御前の密会があった。会話の内容は東鑑に無い。しかし、四月八日に見られたような頑なさが、静御前にはなくなっている。この夜の密会あるいは以前に、共に頼朝への憎悪を秘めた静御前と大姫との間に、何等かの交感があったのではないか。そして、此の憎悪の輪に、もう一人の女性も繋がっていたかもしれない。女達の憎悪の輪が結ばれたかに見える五月二十七日から百日余りを過ぎた九月十六日、静御前は母と共に京へと帰る。此の時、政子と大姫は「依憐愍御多賜重宝」。やはり三人の心は繋がっていたようだ。

 前に源二代・三代は無残に殺されたと書いた。頼朝自身も急死している。暗殺疑惑は根強い。容疑者の一人は妻の北条政子である。この糟糠の妻は、まぁ殺人は犯しちゃいけないと思うのだけれども、確かに「殺したい」ほど頼朝を憎んでいて当然だ。ゲスの中のゲス頼朝でも、下半身の無節操さだけは一人前だった。次回は、頼朝のゲス振りを紹介しよう。(お粗末様)
 

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