伊井暇幻読本「狸おやじ」

 赤壁の会戦を前に呉は、黄蓋を曹操軍に潜り込ませた。また、焼き討ちを行った場合に被害が拡大させるため、曹操軍の艦船同士を繋ぐことに成功した(「三国演義」第四十七回「●モンガマエに敢/沢密献詐降書 ●マダレに龍/統巧授連環計」)。水戦に不慣れな曹操軍の船酔い防止策としてだ。しかし火計を行うには風向きが悪い。気に病む周瑜に孔明は、妖しいワザで風を吹かせてやるという。「亮雖不才曾遇異人伝授奇門遁甲書可以呼風喚雨都督若要東南風時可於南屏山建一台名曰七星壇高九尺作三層用一百二十人手執旗旛囲遶亮於台上作法借三日三夜東南大風助都督用兵何如」(「三国演義」第四十八回「七星壇諸葛祭風 三江口周瑜縦火」)。果たして風が吹き、赤壁に曹操の大船団は敗れ去る。曹操は逃げる。黄蓋は「望見穿絳紅袍者下船料是曹操乃催船速進手提利刀高声大叫曹操休走黄蓋在此操叫苦連声」(同上)。しかし此処で「退遼拈弓搭箭▲着黄蓋較近一箭射去此時風声正大黄蓋在火光中那裏聴得弓弦響正中肩窩翻身落水正是火厄盛時遭水厄棒瘡癒後患金瘡未知黄蓋性命如何且看下文分解」(同上)。
 読者をヤキモキさせながらも、黄蓋は生きていた。「韓当細聴但聞高叫義公救我当曰此黄公覆也急教救起見黄蓋負箭着傷咬出箭桿箭頭陥在肉内韓当急脱去湿衣用刀●宛にリットウ/出箭頭●テヘンに止/旗束之脱自己戦袍与黄蓋穿了先令別船送回大塞医治原来黄蓋深知水性故大寒之時和甲堕江也逃得性命」(「三国演義」第五十回「諸葛亮智算華容 関雲長義釈曹操」)。〈水というものを深く理解していたから助かった〉らしい。そういえば八犬伝で仁田山晋六らを討ち船を焼いた音音は、海に飛び込み大森に漂着したが、「武蔵の川畔にて成長たる甲斐ありて水戯自得の老婦にあなれば」(第百七十七回)助かった。黒潮が房総沖を流れているとはいえ、一里を泳ぐなら一時間はかかっているだろうが、真冬の十二月八日未明・早朝に一時間も水に浸かって「水戯自得」で済まされても困るのだけれども、まぁ、良いか。差し当たっては、美少女であったか疑わしいが、元気いっぱいではあったに違いない少女・音音が、若鮎の如き肢体を躍らせて「武蔵の川」で戯れる場面を想像し、理不尽を許すことにしよう。魅力的な女性は、「理不尽」を超越するものだ。

 ちょっと脱線したい。どうも筆者は美少女好きなくせに、豊嶋……じゃなかった、年増の音音に惚れているようだ。結局、筆者はダレ専(見かけの好みはない)らしい。大戦に於ける音音の行動は、並み居る勇士いやさ犬士らにも増して輝かしい。独り敵中にあって、息子の仇を討ち船を焼き払っただけならば、男どもの戦果と同等に過ぎぬ。しかし音音は、自分の戦果が、共に扇谷上杉家に潜入した妙真・曳手・単節を窮地に陥れることを知っていた。救わねばならない。敗残兵に紛れ込み、五十子城へと取って返す。
 五十子城は毛野に落とされた。そして、戦場は、掠奪/Rapeの場だ。人質となっていた妙真・曳手・単節は、自分たちの身の安全よりも、世間知らずの箱鳥・貌姑姫や堀河殿の保護を考える。貌姑姫・堀河殿がレイプされようものなら、里見の仁が疑われる…。この発想自体、理念と勇気を抱く〈女性〉のものだ。言い換えれば、妙真らは、里見の理念を主体的・積極的に奉戴する自律的な〈個人〉であると同時に、「里見」なる範疇を超えて「女性」でもある。同じき女性が危機に瀕しているなら、救う。救うことで、里見の理念も全うすることが出来る。妙真らは貌姑姫らの保護に乗り出す。果たして、Rape/掠奪に現れた者は里見の者ならず、管領家の朝時技太郎・天岩餅九郎であった。彼等は曳手・単節に目を付けていたが、落城のついでに掠奪し、しかも貌姑姫と河堀殿を捕らえて里見に降参する手土産にしようとする。妙真らとの間に緊張が走る。けれども落ち着いて考えると、技太郎・餅九郎の企みは、妙真らを窮地に陥れるものではない。毛野の軍勢が五十子に来ているのだ。技太郎らは降参した途端に、曳手・単節・妙真を取り上げられることになろう。困るのは、人質にされる貌姑姫・河堀殿だけだ。が、陵辱者として立ち現れた男どもに対し、妙真らは、里見方ではなく〈女性〉として瞬時に即ち本能的に敵対の色を見せる。技太郎らは鉄砲を持っている。ジリジリと追い詰められる妙真ら。その時一人の雑兵が現れ、技太郎の首を落とし、餅九浪の右腕を切り取る。第百六十七回前の口絵に河堀殿が三方に切り取った右腕を載せているが、漸く第百七十七回で、関連場面となったのだ。雑兵は、音音であった。〈女の中の女〉鉄火のジャジャ馬ヒノエ午、音音の真面目だ。
 思い起こせば第六回、玉梓は自分の悪行の言い訳に「女はよろづあはあはしくて三界に家なきもの、夫の家を家とすなれば百年の苦も楽も他人によるといはずや」との論理を展開する。巫山戯るんぢゃない! と金碗八郎孝吉ならずとも怒鳴りたくなる。馬琴は時折「女謁内奏は佞人の資なり」と呟く。字面は甚だ性差別主義的だ。が、そうではない。男だろうが女だろうが、権力者に媚び諂って自分に都合のよいことを吹き込もうとする。別に「女謁」だけが「佞人の資」ではない。此のことは、八犬伝では頻出する事象だ。余りに賤しく醜い男どもが、跳梁跋扈している。にも拘わらず、「女謁」を特筆すべきものとするなら、それは男が愚かだからだ。愚かな男と、汚らわしい女が共同正犯となって初めて「女謁内奏は佞人の資なり」なる現象が成立する。故に此の言葉は、単に女性を貶めているのではなく、同時に男性をも貶めている。別に男女は差別していない。ただ、愚かしさと汚らわしさを、差別しているだけ。玉梓は、〈男の愚かさと同罪ではあるが、相殺して違法性を棄却してほしい〉と願っているに過ぎない。
 しかし一方の愚かなる男、神余光弘は、洲崎無垢三・杣木朴平によって、既に断罪されている。ならば玉梓も許される筈がない。いや、無垢三も朴平も光弘を断罪する気は毛頭なかったが、結果的に、断罪した。因果律に支配されている八犬伝で、後に善玉の祖先となる無垢三・朴平が、全く言い訳のしようのない悪行に手を染める筈がない。光弘は、玉梓なる美女の存在に眩惑したとはいえ、人々を苦しめた。八犬伝の中では、殺されて然るべき人物だったのだ。しかし、一応は主君であるから、佞人・山下定包の計略に懸かったことにでもしないと、当時としては大不忠、殺害実行犯たる無垢三・朴平のマイナス点が大きくなり過ぎる。ひいては親兵衛や小文吾への評価に関わる。〈不可抗力〉によって光弘を殺したように見せかけ、現世的な批判を最小限とする。その実、天の采配により、無垢三・朴平の手で光弘は誅されたのだ。此の〈現世的な言い訳〉の為に八犬伝は極めて難解となってはいることは仕方がない。そういう時代だったのだ。
 また、玉梓を一旦は許そうとする里見義実の仁は、正しい態度ではあるが、現世的には間違っているとも言えよう。総てを許す態度は、理念としては正しいのだが、悪しき者を許せば、悪の連鎖は絶対に断てない(許さなくとも絶対には断てない故に、許せば絶対に断てない)。何故なら、「悪しき者」は自らの欲望に照らして、安易の道を選んだ者だからだ。例えば、権力者の座に座ろうとする者がいたとして、其の欲望自体に善悪の差別はない。欲望を実現するため虚勢を張り人を讒すれば、則ち「悪」となる。虚勢を張り人を讒しても権力者にはなれるが、なった所で人を率いる能力がない。ただ虚偽と他者の排除によって昇ったのだから、自身固有の能力は貧弱だし開発することも出来てはいない。権力者になった途端に迷惑を撒き散らす存在となる。このようなシステムを、ただ何となく許していれば結局、とんでもないことになる。例えば、理念として仏は、総てを許し救済する存在ではあるが、現世に現れるとき、悪を蹂躙し踏みにじり喰らい尽くす恐ろしい天王・明王の姿を採る場合がある。総てを許す仏と、許さぬ王は同体である。悪しきは、断ぜよ。数千年鍛え上げられた仏教論理は、理念だけ捧げる空虚なものではない。八郎孝吉が、〈当時は一般的だった男女差別の論理を逆手にとって男を籠絡し以て上昇・安居しようとする女〉玉梓を許さなかった点は、常識的に見て、間違いではない。しかし一方で〈常識〉は、厳正なる処断に抵抗感を示す。何たって男女差別は「一般的/常識的」であり、玉梓を断罪することは、自分たちが払拭しきれていない感覚をも否定することに繋がるからだ。思い切って玉梓を断罪した八郎孝吉は、真実の意味でのフェミニストであったと言い得る。玉梓の処断によって里見家は、安易に許す曖昧な態度/悪の温床を排除することに成功したが、張本人のフェミニスト孝吉は、恐らく女性達にも嫌われただろう。……損な役回りの奴は、どの時代にもいるものだ。
 自分が属する里見家の敵である女性たちが、女性である故の災厄/犯罪被害/掠奪/レイプの危機に晒されている場面で、迷うことなく女性として戦う音音は、正しく〈女の中の女〉だ。逆上した音音姐さんの頭の中に、この時ぁ里見の「さ」の字もなかっただろう。しかし、毛野が完全に五十子城を制圧した後も貌姑姫・河堀殿を警護していた音音らだったが、撤収に当たって河堀殿に衣を贈られたときの態度も良い。河堀殿としては貴女として当たり前の感覚で、「ありがとう」と衣を贈っただけなのだが、音音は、わざわざ里見侯から拝領した衣を、河堀殿から貰った衣の上に被(かづ)く。窮地にあっては〈女性〉であることを優先して河堀殿らを救った音音だが、落ち着けば敵と味方、安易に馴れ合ったりせず、濫(みだ)りにネットワーク化なんてしない、自分の拠って立つ里見の理念を優先する。安易な馴れ合いを排除する音音の態度に、奸佞が付け入る隙はない。実生活ではともかく、傾城水滸伝をも著した馬琴の筆/文学的天才は、現在の言説などより遙かに男女の平等を夢見ている。嫋々たる玉梓、男女差別の世に巣くう佞女と、矍鑠たる音音、女の中の女は、いかにも好対照だ。神に祭り上げられる伏姫は、理念としては玉梓と対称なのだが、玉梓が俗っぽい分、対称すぎて極端に反俗的だ。アッチの世界にまで、突き抜けちゃってるのである。その点、音音は俗な部分を有しているため、より解り易い形で〈反・玉梓性〉を表現している。
 ところで玉梓と云えば狸を思い出すが、馬琴は八犬伝第八輯巻五附録で江戸麻生の狸穴(まみあな)に関する地名考証を行っている。「前略……近来世俗のマミといふ獣はミを訛れるに似たり。是則猯なり。又田舎児は、これをミタヌキといふ。その面の狸に似たればなり。何まれミとのみ唱よからぬ故に或はマミといひ或はミタヌキといふにやあらん。か丶れば麻布なるまみ穴も、むかし猯の棲たる余波なるか。遮莫猯は大獣にあらず。よしやその穴ありとても、地方の名に呼ぶべくもおもほえず。且猯をミタヌキと唱るは本づく所あり。是その頭の狸に似たればなり。又猯をマミと唱るは拠ところなし。何となれば猯に真偽の二種なければなり。因て再案ずるに麻布なるまみ穴は、元来猯の事にはあらで●(鼠に吾)鼠ならんかと思ふよしあり。●(鼠に吾)は和名モミ、一名ムササビなり……後略」。狸穴の「マキ」を猯かムササビだと考えており、八犬伝では此の狸穴に、「真猯(まみ)」が棲んでいた。真猯ら自ら語る所に拠れば「和名は素よりみの一字にて猯てふ獣で候へども、面は狸に似たるをもて、みたぬき{猯狸}と喚ぶものあり。這頭の俗はみなまみ{真猯}とぞいふなる。性鈍ければ狐狸と遊ばず、こ丶をもて髑髏を被ぎて人を魅す霊もなし。形肥たればゆくこと遅かり。この故に人を啖ふ豺狼の悍きに似ず。毎に穴居して他を求ねば園圃を暴さず稲殻を窃ず、可もなく不可もなきものなり」(第八十七回)。
 第八輯まで読み続けてきた読者は、いきなりの麻生・狸穴講釈に面食らっただろう。実は此の考証、同輯巻之七第八十六・八十七回に載す話が麻生・狸穴に関わるものであったために書かれた。如何な話かと云えば、前後と何の脈絡もなく、それまで大人しく坊さんぶっていた丶大法師が突如として大活躍、村人を搾取する悪僧を退治するのだ。悪僧は変な井守を飼っており、雨を降らすことが出来た。「知雨老師」と名乗っていた。村人は知雨老師を恐れ、云うなりに財物を捧げていた。通り掛かった丶大は、知雨老師を退治しようと考える。仏は総てを許す側面と同時に、猛々しい明王の顔も持っているのだ。丶大は村人に、知雨老師の弟子「知風道人」と名乗り、協力させる。知雨老師ら悪党を村人に射殺させ、一件落着。悪党の生き残り「破吹革風九郎」の案内で、知雨老師の隠れ家に行く。奪われていた財物や攫われていた若い娘を、村人に返した。余りにも唐突なエピソード挿入を馬琴は、「前略……(金碗丶大の)その趣を尽すに遑なかりしかば、世の人只等閑に看過したるも多かるべし。因て今這一チ二回あり。丶大の与に演る所、真面目を顕したる、その智慧と勇敢と越に初て瞭然たり。かくの如くあらざれば、伏姫と対するに足らず。又犬士們を郷導の大先達と做すに足らず。這書をいふもの尠からねば、婦幼の与に贅言す」(第八十七回)。余計なことだが、丶大の知勇を判然とさせるため書いた、と言っている。
 筆者は幼稚なので、確かに第八十六・八十七回がなければ、丶大の属性に就いて解らない点が残っていただろう。洲崎沖海戦で、丶大は、孔明の七星壇よろしく、甕襲の玉に念じて巽風/東南の風を吹かせる。此の甕襲の玉に就いては、「上古垂仁天皇のおん時丹波国桑田郡の人と聞えし甕襲が家に飼ける犬の名を足往と喚做すあり。這犬一日狢を見て立地に噬殺し丶に、その狢の腹内に八尺瓊の勾玉ありけり。甕襲このよしを訴稟して玉を朝廷に献りぬ。這玉今は石上の神宮にありとなん書紀垂仁紀に載られたる。垂仁帝のおん時より今{後土御門院の文明十五年}に至て千二百許年、世は戦国になりし悲しさ。恁る珍奇の神宝も馬蹄の塵に埋まれて有と知る人稀なりしに、妙椿狸児が見出して只顧愛玩秘蔵しつ。初甕襲が垂仁帝へ献りける東西なれば名づけて甕襲の玉といふ。狢と狸は等類にて穴居して雨を避けよく風を知る者なれば、昔も今もその皮を鍛匠の吹革に用ひらる。風を出すの理によりて妙椿件の玉をもて呪文を唱え勁風を起すに極めて効験あり」(第百十七回)。
 和漢三才図会にも「風狸」(狸に似ているが叩いても手応えのない風船のような体で鼻を塞ぐと空気が入らないからか死んでしまう)なる変な動物が、「狸」の項目の次に載っているが、これも風と狸の縁の深さから生み出された生物か。また、同じく和漢三才図会には「鞴(ふいご)……(中略)……鞴唐韻云韋嚢吹火也又云所以吹冶火令熾之嚢也△按鞴鍛冶家皆用之吹韋也以狸皮為上」とあり、フイゴ即ち〈火を燃え立たせる為に風を起こすもの〉の材料として、「狸の皮が良い」と推奨されている。
 ところで、古の八犬伝読みは、〈八犬伝では、狐が善玉、狸は悪玉〉と一面的に決め付けていた節がある。確かに、玉面嬢・政木狐の存在は大きいので、ついつい其の様な錯誤に陥ってしまいがちだ。が、八犬伝では善い人間も悪い人間もいる。だったら悪い狸がいる一方で、善い狸がいても良いではないか。筆者は、狸が好きだ。小柄で太め、褐色の滑らかな肌もつ玉面(まるがお)の女性も甚だ好みであって、其の様な女性を密かに〈豆狸〉と呼び惹かれていた。名前は麻美(まみ)嬢、出来すぎの様だが、二十年以上前の本当の話だ。まみ/狸には、きっと善玉もいる筈だ(とは言え、件の麻美嬢に出した恋文は返事も来ず、性格が良かったか否かも定かではないのだが……)。近年でも、そういう女性に惚れてしまい……止めておこう、えぇっと、だから、八犬伝の如き複雑怪奇な小説で、余りに単純な決め付けは、危険だと言いたいのだ。閑話休題。

 狸(真猯)穴を占拠していた「知雨老師」に対抗して丶大は「知風道人」を名乗った。雨や風を「知る」は「領(し)る」であるから「支配する」となり、「制御する」との意味も導かれる。察知から制御までの広い意味を持つ言葉だ。雨風を「知る」るは、神か特殊な動物であった。例えば捜神記にも「董仲舒下帷講誦有客來詣舒知其非常客又云欲雨舒戲之曰巣居知風穴居知雨卿非狐狸則是●鼠に爰/鼠客遂化為老狸」(巻十八)。この場合、「知雨」「知風」ともに「老狸」の機能として認められている。且つ、関係者として「破吹革風九郎」が登場することで、狸(もしくは類似の動物)と風との関係が補強される。「知風/狸」を自称した丶大は、この時すなわち狸となる。犬っぽく走り回っていたかと思えば狸だったなんて、とんでもない「狸おやじ」だ。狸穴で助けてやった真猯の加護もあろう。だからこそ、狸の宝玉たる甕襲玉で風を起こす者は、丶大でなければならなかったのだ。また、里見軍の軍師は、あくまで毛野であり、丶大ではない。洲崎沖海戦は確かに赤壁水戦から幾つかの要素を借りてきてはいるが、孔明の機能は毛野(軍師)と丶大(呪術者)に分化している。毛野は狸ではない。風を起こす術は、「狸おやじ」たる丶大でなければ行えないのだ。だからこそ、毛野は強要する。
 付け加えるなら、狸穴の真猯を救ったぐらいでは、管領の大艦隊を殲滅する程の風は吹かなかったのだろう、上述丶大のエピソード後にも、風に纏わる話がある。親兵衛が京で遭遇する画虎事件だ。和漢三才図会には虎の説明として「虎吼声如雷風従而生」とあり、風を生む動物であると規定されている。また、挿話の終盤で一休宗純が登場するから、禅宗っぽく「龍吟雲起虎嘯風生」(「碧巌録九十九則」)と言い換えようか。画題にも繁く取り上げられている。親兵衛が虎を圧伏するとは、虎の力を手に入れたことをも意味する。もしくは「狸おやじ」丶大が発動する風の力に、対抗し得る虎を消滅させている。何連にせよ、風は里見の専管事項となった。また同時に、「虎、トラ、寅」で述べた如く、画虎事件は、狸なる者が完全に里見と敵対することを止め即ち玉面嬢の呪いの〈余波〉さえ消滅し、却って擁護者の立場へと変ずる画期であった。狸/風を味方につけた里見家は、関東連合艦隊を完膚無きまでに叩きのめすことになる。(お粗末様)

  

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