◆伊井暇幻読本・南総里見八犬伝「番外編 お狸様
                                                                                         -日本ちゃちゃちゃっシリーズ5-
 

 文政元年の序がある蘊蓄集・玄同放言は、馬琴の紀・神話・五行理解を示すモノとして、興味深い。少しく引こう。

 按ずるに蛭児は日子なり。天慶六年日本紀竟宴の歌に、蛭児をひるの子と詠めり。毘留能古即日之子也。ひほ音通へり。日子は星なり。星をほしと読まするは後の和訓にして、当初星をひる子とも、約めてひこともいへるなるべし。かかれば蛭児は星の神なり。星といふともその員多かり。是を何の星ぞといふに、蛭児は則北極なり。この故にすでに三歳まで脚猶立たず。故乗之於天盤橡樟船而順風といへり。論語陽貨篇、孔子曰く、子生三年然後免父母之懐。その三歳まで立たざるものは、必●弱不具なるをいふなり。為政篇に又云う、譬如北辰居其所而衆星共之。註に朱子曰く、北辰北極天之枢也居其所不動也。げに北極は、人にして足立たざるものの如し。又天磐橡樟船に乗せて順風放棄といふよしは、易に??__??坎を水とし北とす。事文類聚前集天部、三五暦紀に載せて云う、星水之精也、といへるを攷据とすべし。古事記に、鳥之石楠船神見えたり。樟も楠も、船に造るに勝へたるものなり。石は木性の堅きをいふ。鳥は鷁首をいふなるべし。本草綱目木之一、樟集解、陳蔵器曰く、江東攷船多用樟木県名豫章因木得名、又楠集解に、●宗●曰く、江南造船、皆用之其木性堅而善居水、といへり。天磐橡樟船には、樟字を仮借し、鳥之石楠船神には楠字を配当たる、記者の用心亦思ふべし。かくて日の神を天下の主とす。天子は一人の爵称なり。猶天従一従大也。皇は君なり。その徳、天つ日の如し。よりて皇子及皇臣、すべてこれを日子と唱へ、皇女皇后及皇臣の妻子を、すべて日女と唱ふ。例せば書紀神代巻に、天津彦彦火瓊々杵尊とあるを、古事記には天津日高日子番能爾々芸命に作り、天稚彦を天若日子と書けるが如し。加以古事記には甕主日子神、阿遲志貴高日子根神、日子穂穂手見命等、みな日子に作りて彦と書けるは稀なり。彦は日子の仮字なれば、これらは古事記を正しとすべし。亦書紀神武紀に、日臣命あり。ひる子日臣、並に臣子の義なり。後世に至りては彦及姫とのみ書けども、罕には古義の存するあり。続紀高野天皇後紀に、多可連浄日女あり。又光仁紀に安曇宿禰日女虫あり。この他なほあるべし。(中略)されば人の世となりても、宝位を天日嗣と唱ふ。古歌に至尊を神としよめるも同一理なり。今の俗は、姫を貴人の称呼なりとしれるのみ。彦にもこの義あるよしをしらず。日女は大日靈尊にはじまり、日子は蛭児を権輿とす。日靈も日女も、その義異なることなし。万葉集第二、日並皇子尊、殯宮之時、柿本人麻呂歌に、天照日女之命云々と詠みたる是なり。かかれば姫と書き彦と書けるは、後に漢字を配当たるのみ。字義に和訓を被て見るべし。又宋邵康節言いて曰く、天昼夜見、日見于昼月見于夜而半不見星半見半不見尊卑之等也天為父日為子、といへり。これらは彼処の博士さへ亦日子の義をいふに似たり。又按ずるに素盞鳴尊は、辰の神なり。風俗通、賈逵の説を引いて云う、辰之神為靈星故以壬辰日祀靈星金勝木為土相也。よりておもへらく、素盞は布佐なり。通と布と横音かよへり。古人すとつを打ちまかせて用ひたる例多かり。布佐は房なり。房は房星、星の名なり。礼記月令に曰く、十月日在房、これなり。爾雅釈天に曰く、天駟房也註龍為天馬故房四星謂之天駟、又云う、大辰房心尾也、註火心也、在中最明故時候主焉。説文巻二●下に云う、震也三月陽気動来電振農時也、又曰く、辰房星天之時也。これらによりて辰を時とし、星の名とす。辰は日月の交会する所なり。説文巻四に又云う、星万物之精也。その万物の精なる故に参戦草木化生て後に四象の神たちは化生給ひしといふ。理、よく合へり。かかれば素盞鳴を、房雄の義とせんも、亦よしなきにあらずかし。この神化生たまひしとき、有勇悍以安忍且常以哭泣為行といへり。かかれば辰の震なるよしにも、進雄々しき義にも称へり。陽は声を発し、陰は声なし。飛鳥混虫みな如此なり。故に斑固曰く、喜在西方怒在東方、又曰く、東方物之生故怒、とへり。亦是彼神化生給ひしとき、常以哭泣為行、いふにかなへり。書紀一書の説には神素盞鳴尊とし或は速素盞鳴尊とす。古事記には建速須左之男命とす。神は神速、建は勇悍、速は勁捷の義なり。彼漢土の東方房辰は、民の田時たり。季春には陽気動き来電振ひ草木怒生といふに合へり。書紀に、日の神と素盞鳴尊と、おのおのその御田頃に播種し給ふ事あり。これらも右に引くところの文を照て考ふべし。同書に、素盞鳴尊、結束青草以為笠乞宿於衆神、といふこと見えたり。こは書紀一書の説なり。宿は星のやどりなり。又止宿の義とす。宋永享捜採異聞録巻二に云う、二十八宿宿音秀若考其義則止当読如本義若記前人有説如此、説苑弁物篇に曰く天之五星運気於五行所謂宿者日月五星之所宿也其義照然。又五雑組天部にも星宿の宿、音夙なるべきよしをいへり。今按ずるに、史記天官書に、房為天府、といへり。亦是止宿の義あり。かかれば或は播種し、或は乞宿の事、辰の神の所行にかなへり。将、角●亢房心箕尾の七星は、東方の星なり。火を心とす。心は東方の星といへども、辰巳に位せざることを得ず。辰巳は龍蛇なり。八岐大蛇の事亦おもふべし。故に史記天官書に曰く、大星天王也前後星子属。索隠曰く、洪範五行伝曰、心之大星天王也前星太子後星庶子。これ心星療星あり。大蛇に八岐の頭尾あり。二は偶の首。八は偶の尾なり。二にを四とし、二四を八とす。その義、是おなじ。太史公曰く、大星不欲直直則天王失計房為府曰天駟其陰右驂旁有両星曰矜北一星曰●大蛇之段。すべてこれらの文義に合へり。八岐大蛇がきられしは、件の心の大星が計を失ふといふもの是歟。かくてその尾頭より天叢雲の剣出でしは、彼天王と太子は亡せて、その庶子が継ぐに似たり。又房の旁なる両星、矜は奇稲田姫、●はおん子大巳貴神にこそおはすめれ。正義星経を引いて曰く、鍵閉一星在房東北掌管籥也、といへり。こは大巳貴神、且く天下を管領し給ひし事に合へり。亦日の神と素盞鳴尊と、御中わろかりしよしは、これも亦史の天官書に、火犯守角則有戦房心王者悪之、といへるにかなへり。曾氏十八史略宋紀仁宗紀に曰く、真宗得皇子已晩始生昼夜啼不止有道人言能止児啼召入則曰莫叫何似当初莫笑啼即止盖謂真宗嘗●上帝祈嗣問群仙誰当往者皆不応独赤脚大仙一笑遂命降為真宗子在宮中好赤脚其験也、といへり。この事小説に係りるといへども、素盞鳴尊生まししとき常に哭泣給ひしこと粗相似たり。この他なほ和漢の書を引きつけて、とくべきよしなきにあらねども、余りに細しからんはいともかしこし。抑諾册両尊、日の神月の神を生み、次に星と辰の神を生み給ひつ。於是日月星辰の四象の神たち化生給ひき。易に曰く、大極生両儀両儀生四象、とは是をいふなりけり。抑この一編は、とし来秘蔵の説なれども、目を賤むるもの多かるべし。

 幾つか伏せ字があるけど、JISにないから御容赦を。ただ、幸運なことに、何連も文脈には関係ない。

 最も重要な点は、素戔鳴尊を、東方の「房」星を象徴するものだと言っている。「房」とは「東」の星なのである。「房」は「安房」の「房」であり、また「八房」の「房」でもある。因みに「房」とか何とかは、所謂「二十八宿」に於ける星の名称だ。二十八宿は、古代印度で発生し、中国を経て日本にも移入された占星術で、密教では「宿曜経(スクヨウキョウ)」で説かれている。この二十八宿を四方に配した曼陀羅も描かれている。ただし、印度で発生した当初は「二十八宿」ではなく、「二十七宿」であったらしい。中国では、印度にはなかった牛さんを宿に数えている。まぁ、そんなことは如何でも良い。

 八犬伝で「房」と言えば、「安房」であり、「八房」だろう。「房」星は東に位置し、「安房」は「東海の辺」だ。問題は「八房」だが、この説明には、チョイと補助線が必要となる。上記『玄同放言』に於いて、房星は「駟」と表現されている。駟とは、八犬伝に拠れば、四肢だけが白い馬の毛並みを謂う。この毛並み、読者は御存知の筈だ。手束に拾われた子犬は、四肢だけが白かった。駟(ヨツシロ)である。このため、「与四郎」と名付けられた。四肢が尋常よりも大きめになるを、末端肥大症と謂うが如く、四肢とは末端である。故に、駟は、本体は黒もしくは何か色が付いており、端っこだけが白い模様だ。翻って、「八房」は、体に八つの斑があることから名付けられた。即ち、与四郎は、八房の斑の一つを受け継いだ形とも言える。馬琴は、信乃の生い立ちを描くに当たって、「これからも主人公たる犬士は登場するけれども、文章のことなので、皆を皆、詳述するわけにもいかない。自ずと、粗密がある」みたいな事を言っている。そして、最初に登場する信乃は、確かに他の犬士よりも詳しく誕生から少年期から描写されている。明らかに信乃は、八犬士の代表であり、それ故に、彼に関する描写には、犬士共通の事柄が含まれている。一つが、犬の与四郎であろう。筆者が、数回に亘ってウジウジウジウジ、素戔鳴尊や大己貴に拘った所以である。

 また、馬琴が参考書とした房総志料には、次のような表記がある。「里見氏の印は三面の大黒なりと。按に、九世同印にてもあらじ」。累代同一ではなかったかも、と一定の留保を設けながら、顔が三つある大黒を里見家が旗印として用いたと云っている。大黒、大己貴である(馬琴は玄同放言中で「大国主」なりる表記でもオホムナチと読むよう主張している)。神田明神の主祭神だ。

 さて、記紀は、現在残っているうちでは最古の纏まった国史である。が、当然のこと乍ら、記紀以前にも史料は存在した。今は失われて久しいが、それらは引用の形で現在に伝わっている。「あわあわアワー」で引いた「古語拾遺」(岩波文庫所収)も其の一つだ。此は、忌部の或る自慰が……もとい、爺が、自ら慰める為に書いた。当時は藤原氏が権力を恣にしていた。元はと言えば藤原氏、「吾嬬者耶」で紹介した天智の蘇我馬子に対するテロの協力者というか参謀というか若しかしたら黒幕だったかもしれない男・中臣鎌子(ナカトミノカマコ)を祖とする一族だ。中臣氏は、朝廷の祭祀に関わっていた。平たく言えば、神官の家系だ。紀の天磐戸伝説で、太陽復活呪術を主宰する者として描かれている、天児屋命の子孫である。蘇我氏が仏教を我が国に大々的に導入したため、神様なんて放ったらかしにされ、神官・中臣氏は、冷や飯を食わされていたともいう。蘇我氏を恨んでいたから、暗殺に加わったのかもしれない。まぁ、んなこたぁ如何でも良い。

 忌部氏も、神官の家系であった。天磐戸説話にも登場する、太陽復活儀式の、<もう一人の呪術者>、天太玉命(アマフトタマノミコト)を祖とする一族だ。「太玉」……、何やら、浅草観音近くにある「お狸様」の壮大なる陰嚢を思い出させる名前だけど、だったら彼の奥さんは<牝狸>とも考えられるが、まぁ(半分)冗談だ。話を戻そう。

 古語拾遺が書かれた時代、天児屋命を祖とする藤原氏は、徐々に実力を蓄えつつあった。紀を編纂した者も、藤原不等人(フヒト)なる人物であった。そして、紀の天磐戸伝説では、まさに天児屋命が司祭として登場する。が、此に異を唱える者がいた。前に挙げた忌部の爺、斎部広成である。広成は、紀に載せる天太玉命が、天磐戸の儀式でアシスタント役をさせられていることに、我慢できなかったのだ。「ウチに残っている文書では、ウチの先祖の天太玉命の方が司祭で、天児屋命がアシスタント役だ!」。まぁ、結局は、藤原氏と忌部氏が、互いに自分の先祖の方が偉かったと書いただけの話だ。藤原氏が書いた方が、偶々「正史」だっただけのことだ。そして、「正史」とは、時の権力が編纂するものだが、必ずしも史実に忠実であるとは限らない。正史が忠実であるのは、時の権力に対してのみである。権力が正当であり、史実をこそ尚ぶならば、正しい史が生まれようが、必ずしも「正史」が正しいとは限らない。少なくとも、「日本」では、ね。勿論、藤原氏と忌部氏の主張、ドチラが正しいかは、闇の中だ。今でも分からないのだから、近世、例えば馬琴の時代にも、分からなかっただろう。両論併記された状態、読む者こそが、それぞれにジャッジを下すアヤフヤな状態だ。だから、ドッチを信じようと、即ち紀に載す如く天児屋命を司祭と考えず、天太玉命をこそ玉を使う太陽復活呪術の主役だと考えたって、別に良かった筈なのだ。

 また、記紀よりも古い時代の史料を用いて書かれたとされるモノには、他に「高橋氏文(タカハシノウジブミ)」なんてのもある。コッチは、如何やら朝廷から、お墨付きを与えられた。内容が、朝廷に残っていた古記録と一致したのだ。紀を補強する材料とされている。原文は失われているものの、年中行事秘抄などに引用されている。

 高橋氏は膳部、天皇のコック長を務めた家系だ。彼らが其の職に就任した経緯を語るのが氏文だが、本朝月令から引用してみよう。

 (景行天皇五十三年、景行天皇は)冬十月到干上総国安房浮島宮。爾時磐鹿六▲命(←高橋氏の祖:▲はケモノヘンに葛)従駕仕奉▲。天皇行幸於葛飾野。令御▲矣。(そんで●が鳥の鳴き声を追って船で海に入り渚を見つけ其処で)掘出止為爾得八尺白蛤一貝。(其れと堅魚を料理したら太后と景行に褒められ褒美を貰って天皇の料理人を命じられ、一族は大伴部と号する様になる。そして、)是時上総国安房大神乎御食都神止■(←欠字)奉天(後略:但し割註に「安房大神為御食神者今大膳職祭神也」とある)。

 此の条は、景行紀中、天皇が浜路で「白蛤」を得た話の元になった史料と同様内容であることが知られている。紀では白蛤を拾ったのが天皇であるに対して、高橋氏の祖先が拾ったと相違点もある。しかし、此処で重要なことは、天太玉命(アマフトタマノミコト)が保食神として宮中に祀られていた点だ。「黒き衣の神」で述べたように、大黒は日本の密教寺院で保食神として、食堂に祀られていた。太玉命と大黒には、共通点があるようだ。本来は玉を使って太陽復活の呪術を行っていた太玉命が、「白蛤」の一件をキッカケに、何故だか食物の神になってしまったのだ。
 

 折角、日本武尊が登場したのだ。彼に就いて語ろう。だって、筆者は彼が気に入っているのだ。

 古代、風土記なる地誌が全国各地で編纂され、朝廷に献じられた。知るとは、領(シ)る。各国の情報を集積することは、領有の確認でもあった。が、何分、古い話なので、全国で一斉に書き上げた筈なのだけれども、殆どが失われている。東国のものでは、僅かに常陸一国分が辛くも残っているに過ぎない。

 此の常陸国風土記(日本古典文学大系版)に、日本武尊は十一度、登場する。しかも表記は、「日本武尊天皇」だ。東国に於いて、後世の人々は、神器の一・天叢雲剣を携え征服しに来た武尊を、「天皇」として扱っていたのだ。勿論、筆者は、景行時代に(少なくとも正式には)「天皇」号は採用されていなかったと考えているので、此は<とっても偉い人>ぐらいの意味だとは思う。若しくは、武尊が当時の「天皇」に当たる「大王」とか何とか、東国で名乗っていた可能性は認める。紀を読めば、彼が「天皇」に準じた扱いを受けた事は明瞭であるし、抑も、「尊」は同じミコトでも「命」とは違って、後に天皇号を認められた者ぐらいにしか使わない表記であるのだから、彼が凡百の皇子と違っていたことは、解る。彼が「天皇」であったか否かは、本稿の視野外だ。此処では、後世の人々、例えば馬琴の関心を惹くほどに、彼が東国に於いて重要な人物だったことを、指摘できれば良い。

 また、常陸国風土記で、武尊は「后」の「大橘姫」と山海に遊び、獲物を競い合ったりしている。……記紀に於いて、日本武尊の妻(の一人)は「弟橘姫」であり、「大橘姫」ではない。しかも、「弟橘姫」は、武尊が常陸に辿り着く前、海へ飛び込んで死んだ。此処ら辺、記紀の表記と齟齬するのだが、まぁ、ドチラが正しいかは解らない。或いは、武尊に同情する心性が、弟橘姫が実は死んでおらず、二人で幸せに暮らす様を思い描いたのかもしれないし、また、単なる勘違いであったかもしれない。ドッチにしろ、本稿に於いては、余り重要な事柄ではなさそうだ。

 天皇だとか何だとかいう事よりも、重大な問題がある。常陸国風土記に於ける、武尊の行動だ。彼は、掘る。掘りまくる。そう、西征に於いて熊襲の族長に、掘られた(と思える)彼が、今度は掘りまくるのだ。何をって? 井戸だ。いや、オイドではない。彼は(命じて)三カ所で井戸を掘る。また、武尊の面影を追って東国を巡幸した景行も、一つ掘っている。此を合わせれば、武尊関連の井戸掘り話は、四つになる。現存する常陸国風土記に於いて、井戸掘り話は八箇所だが、うち半分が武尊関連なのだ。このことから、東国での武尊が、<水>と関わる何者かであったことが了解されよう。更に言えば、金生水、彼が水を掘り当てる名人であることは、東国の人々が、武尊を<金>なる者だと考えていたを示しているかもしれない。

 さて、金なる日本武尊、弟橘姫の悲劇は、現在よりも近世、有名であったことだろう。常識とさえ言えるかもしれない。大己貴も大黒も素戔鳴尊も、人々にとっては、馴染み深い名であったろう。次の機会には、もう一人、マイナーではあるが、甚だ重要な女性を紹介する。「火にして水なる者」である。

(お粗末様)
 
 
 
 

                                                   

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