近世大坂出版統制史序説(93年8月18日PCVAN−AWC掲載)
     夢幻亭衒学

    ・はじめに・

 大阪の本屋仲間を例に江戸期の出版統制を見ていきます。体裁は、歴史の論文のフリをしていますが、大雑把なノンフィクションとでも思って戴ければ幸いです。前半は全体的な鳥瞰図を描いています。統制の制度の側面です。後半は、大阪の出版統制事件の面白そうなものを取り上げます。まずマクロ、そいでもってミクロを見て、最後にマクロにフィードバックします。合い言葉は「日本人は昔から日本人だった!」。

 大阪府立中之島図書館編纂の「大坂本屋仲間記録 八、九巻」所収「差定帳」、「鑑定録」、「裁定帳」と「大阪編年史」所収「大阪書籍商旧記類纂」、必要に応じて、「徳川禁令考」などを使用します。
 参考文献は宮武外骨の「筆禍史」、「江戸の出版資本」今田洋三(「江戸町人の研究 三巻」西山松之助編 吉川弘文館 昭和五一所収)、「江戸の禁書」今田洋三(シリーズ江戸選書 吉川弘文館 昭和六〇)、「歴史公論」(八五年四月号・特集・江戸のマスメディア 雄山閣)、「出版事始め」諏訪春男(シリーズ江戸 毎日新聞社 昭和五三年)など。

 ここで史料紹介をしておきます。「差定帳」とは、「仲間」(同業者組合)の扱った訴訟等について規矩となるもの(重要判例など)が掲載されている「大坂本屋仲間」の“公的文書”。「鑑定録」とは、「差定帳」から更に重要と思われるものを抜粋し編集しものです。「裁定帳」とは、規矩とはならないが証拠とはなる程度の事件記録で「仲間」の参考資料のような性格をもっています。これらも本文中で詳しく説明します。
 なお「差定帳」、「裁定帳」は元文四(一七三九)年正月起筆し明治まで続くのですが、大坂本屋仲間創設(享保一一/一七二六年)以前の古証文も写しおかれています。「鑑定録」は天明四(一七八四)年起筆しましたが文化五(一八〇八)年以降は白紙。ただし、文化五年以降も他二書の記述には登場するので、あるにはあったと思うんですが……。「大阪書籍商旧記類纂」は「大阪編年史」や「筆禍史」には載っていますが、本物の所在は解りませんでした。よって孫引きになります。

    ・「本屋仲間」以前の出版・

 日本に於ける印刷の歴史は古く、孝謙天皇の宝亀元(七七〇)年に天皇の発願によって作られた「百万塔陀羅尼」だったようです。以後、寺などで出版は行なわれましたが(「五山版」など)、「同人誌」的なものや美術工芸的なもの、教育的なもの(「天草版」など)で、商売としての出版は、だいたい江戸に入ってからだったようです。
 出版資本が最も早く成立したのは京都でした。ほぼ時を同じうして大坂でも成長が始まったようです。江戸でも、ちょっと遅れて始まりますが、初めのうちは京都や大坂の出張所程度のものでした。江戸の本屋が自立し、いわゆる「地本問屋」(京や大坂の店の出張所ではなく「地元の本屋」)になるのは寛延年間だったようです。また出版活動が飛躍的に発展したのは元禄期ですが、背景には庶民の生活水準と識字率の向上があったのでしょう。
 
 

    一、私はカモメ 若しくは 出版統制の鳥瞰図

 ここでは法令のレベルに於ける考察を中心に、行政側が出版活動に対し、どのような対応をしようとしたかをみていきまふ。

  イ、享保以前の統制(臭いニオイは元から断たなきゃダメ)

 「徳川禁令考」中の史料によると、出版統制関係のものとしては、まず延宝元(一六七三)年五月のものがあります。これには「此以前も板木屋共へ仰せつけらる如く」とあり以前にも、ある程度の統制があったことが窺えます。それは、「本屋」ではなく、板木を作る板木屋を通して行なわれていました。また同じ史料中には、「御公儀の儀は申すに及ばず諸人迷惑仕り候儀 其外何にても珍しき事を新板に開き候はば両御番所へ其意申し上げ 御差図受け」とあり、具体的なものではないが、統制の対象がボンヤリ浮かんできます。
  空想を逞しうすれば、本屋でなく板木屋ってのが面白くて、ボロボロある
  くせに仲間組織を作っていない本屋を統制するのは、権力にとっては砂を
  ザルで掬うようなもんで、現代でもボロボロある出版社を統制するより、
  大手印刷所を抑えちゃえば、日本の出版の殆どを抑えられるんだから、ウ
  マイといえば、ウマイ方法だったと思います。

  ロ、いわゆる「御条目」(出版統制基本法といへよう)

 出版統制の規定が具体化され、かつ整備されたのは享保七(一七二二)年十一月に公布され、その後「御条目」と呼ばれたた法令です。これによると、統制される対象は「儒書仏書神書医書歌書」など「一通り」の(まともな)もの以外の「猥り成義異説等を取交え作出し候」ものでした。勿論、今で言う小説は、この「猥り」なるもの。そして、「好色本の類」や「人の家筋先祖の事件杯を彼是相違の儀共」を書いたもの。後者については「其子孫より訴え出づるに於いては急度吟味之有る筈」と補足的な規定もあります。今で言う「親告罪」規定。また、「権現様の御儀は勿論 惣て御当家の御事」(家康はじめ将軍家に関する叙述)も規制の対象となっていました。
  当たり前といえば当たり前。名誉毀損とは別に不敬罪が規定されてるよう
  なもの。なお同法令には以後出版される書物には作者、版元が実名で奥書
  せよ、とも言ってます。これは責任の所在を明らかにするための措置と考
  えられます。以後の法令は御条目に必ずと言っていいほど言及しており、
  おおまかには、以後これを踏襲することになる。そんなこんなで、同法令
  が江戸期の出版統制基本法と考えることができます。

  ハ、徳川家に関する規制の変化

 ここで規定のうち、徳川家に関する項目を取り上げる。享保七年の段階では、このことに関する記述は全面的に禁止されていました。享保二〇(一七三五)年五月の法令では「只今迄諸書物に権現様御名書き候儀相除き候へども 向後急度いたしたる諸書物の内押し立て候儀は 御名書き入れ苦しからず候 御身上の儀且つ御物語等の類は相除くべく候 御代々様御名諸書物に出で候儀も右の格に相心得申すべく候」となり、天保一三(一八四二)年六月の法令では「都て明白に押し出し世上に申し伝え人々存じ居り候儀は 仮令御身上御物語たりとも向後相除き候には及ばず候」となっています。ちなみに、ここで「急度致したる諸書物」とされているのは享保七年法令の「儒書仏書……」を指しているらしく、当時「まともな本」と認められていなかった草紙本については、相変わらず全面禁止だったのでしょう。
 勿論この変化は、近代的な言論の自由へと社会が動き支配側が認めていった、というものではなく、それ迄の異説を許さないという一種消極的な姿勢から「世上に申し伝え人々存じ居り候儀」(都合のイイこと?)を固定化しようという一種積極的姿勢への転換とも考えらます。情報操作ってヤツ。
 天保一三年は水野忠邦の改革の最中で、人情本の出版が禁止され為永春水、柳亭種彦らが処罰された年でもあります。こうした流れから考えると、この変化が統制緩和であるとは思えない。なんたって法令に具体的な限定がない以上、「世上に申し伝え人々存じ居り候儀」は、支配層の「常識」によってのみ判断されるものなのだから。

   二、迷惑ってったら迷惑なんだよっ!(讒謗律……)

 幕府は寛政二(一七九〇)年二月には同基本法に、新たに時事を一枚絵などにして出版すること、子供向け草紙や絵本で昔のことによそえて「不届き」な事を作り出すのを禁じ、風説の類を仮名書本などにつくり見料を取って貸し出すのを禁じる項目を付加しました。更に作者不明の書物を扱うことを禁じた法令を出しています。
 これは大きな変化ではありません。先に述べた「諸人迷惑仕る儀」もしくは「猥り成儀異説等を取交え」という規定に包含され得るものに過ぎない。ただ一枚絵(後の読売、瓦版)は印刷が最低一枚の板木(整版)があれば出版が可能で、出版資本ではない素人でも出すことができ(DTP?)、統制の目をくぐることも容易でした。だからこそ敏感に反応し禁止を言い出したのでしょう。後述しますが草紙も、一般書物とは区別され、より単純な検閲機構でした。つまり法令の面から見て活発で、ある程度自由な活動を行なっていたとも思えます。
 これらの媒体に共通することはまず、そのレベルが庶民の様に、それ程漢字を知らなかったと思われる階層でも読むことができたものであったこと。次に比較的安価に入手可能だったこと。最後に検閲機構がそれ程厳しくはなかったこと、です。
 出版物が多く流布する条件である前二者と後者は今の常識では一見、齟齬するようにも思えます。多く目に触れるものの方が検閲の必要性が高い筈だからです。ただ、その主な対象が“頭数”は多いが社会的発言力が弱く、軽んじられていたであろう女子供が読者だったために検閲が比較的緩かったのでしょう。

      二、出版統制機構

 出版統制の末端に位置していたのは、本屋仲間自身でした。ちなみに「本屋」は単なる本屋ではなく出版業も行なっていたんです。三省堂とか紀伊国屋なんかの本屋も出版もしてるけど、あんな感じ。

   イ、自分で自分を縛る……独りSM……(遠大なる寄り道)

 SMは大脳の遊びだそうです。Sは自分が積極的行為者として相手のMを絶対的支配に組み敷いている、と考えることによって喜びを得、Mは「積極的に受動的になる」ことにより自分が望む情況に自分を連れていってもらう。つまり相手のSが懸命に奉仕(労働)してくれることによって悦びを得るそうです。結局、Sを自分の快楽のため奉仕させ利用しています。その前提には、良識を無視して相手を好き勝手に弄び悦ぶ心と、常識を無視して弄ばれる自分を意識することによって悦ぶ心が出会わなければなりません。そして行為は目的語となる対象を必要とします。
 SはMがいなければSMはできません。しかしMは自分を対象にしちまえばSMはできます。独りSMです。その時、Mは同時にSでもあります。どうやらMの方が、お得なようです。
 支配する側は被支配者がいなければ支配者たりえません。被支配者は、自分を支配しちちまえば、支配者にもなり得ます。しかし、そういう支配は欺瞞ではないのか? そうかもしれません。しかし、彼らにとっては、それは最高の支配です。支配に安住し、もしくは、その支配体制に組み込まれることによって、自らも支配者の側に身を寄せ実際に社会の、ある部分を支配し、より上層の部分に支配されることを積極的に肯定する。それは位置的に中間であると同時に支配体制の、現実の中核であるといえましょう。支配の源泉(根拠)ではありません。中核です。

 あだしごとはさておき、出版統制に関しては当時、まず本屋の同業者組合によって新版の書物が審査され、その後に行政側の審査を受けることになっていました。

   ロ、本屋仲間成立

  本屋仲間は、京都では正徳六(一七一六)年、江戸では享保六(一七二一)年、そして大坂では享保八(一七二三)年十二月に公認され、幕府から新版書物の審査権が与えられた。ただし、公的なものではなかったが、これ以前、早くは寛永期から元禄までには三都に同業者組合が存在していました。
 本屋仲間の成立理由は、重版(勝手に自分とこと同じ本を売り出す著作権の侵害)と類版(似たようなのを出版すること)を防止するためでした。少なくとも元禄十一年以前から大坂でも二十四軒からなる仲間組織があり、自主的に、そして私的に重、類版に対して検閲を行なっていたと考えられます。また、今でいう版権が認められたのは元禄十一年でした。
 鑑定録の「享保八癸卯年八月十七日御願申し上げ候訴状の控」に、「私共商売体に古来より在り来たり候板行物に重版類版仕つり候儀 前方数多之有り 元板所持の者難儀に及び出入り罷り成り候に付き 元禄十一年寅八月七日に重版類版仕つり候儀御停止成し下させられ候様に 願い奉り候処に聞こし召し上げさせられ同二十一日に 御停止仰せつけなさせられ有り難く存知奉り候 其の後我々共仲間の内にて諸事相改め出入り之無き様に相守り罷り有り候」とあります。
 ここからは重、類版は以前からあり、元禄一一年八月二十一日の判決で仲間側の主張が通った、などのことが窺えます。またこの年(元禄一一年)に重、類版は絶版に処すという法令が出されています。元禄一一年の「出入り」(訴訟)とは、鑑定禄によれば、池田屋三郎右衛門が出した「弁々惑指南」という書物を三人の者が重版したためにおきたのです。その訴えとあわせて仲間たちから重、類版を取り締まって欲しい、との願いが奉行に出されます。そして重、類版禁止令が出されることになるのです。

   ハ、統制機構

 明暦三(一六五七)年、京都で和本の軍書類を出版する際には奉行の許可が必要となりました。その検閲には本屋仲間が協力していたのです。元禄一一年には、許可制は一般書にまで拡大されました。この京都の動向を考慮すれば、大坂での統制についても一つの仮説が導き出されます。
 本屋側から見れば、自分達の権利を守るために重類版の審査権を獲得したのだが、幕府側から見れば、そのことで、統制機構に本屋を組み入れたのではなかったか。三都の本屋達は重類版を防ぐため、互いに連絡を取り合っていました。京都で出版統制(許可制)が始まった以上、大坂の本屋も新版書物の発行に慎重たらざるを得ません。しかも、それ以前とは違い重類版の審査権を得たのだから、その既得権の確保が重要な課題となるでしょう。
 差定帳の享保八年の史料には、「当地にて新作の書物板行致し候節 本屋共より惣年寄へ相達し 奉行所へ相伺い候」とあり、大坂では本屋仲間の行事(当番制の世話役)がまず、作者から提出された新作の下書に目を通します。このうち幕府の禁忌に触れるものについては、惣年寄に報告し、奉行所に伺いを立て、指示をあおぐことになっています。
 このように出版統制は、仲間レベル、行政レベルの二段階で行なわれていましたが、これは本屋仲間に審査権を与えることにより、行政の審査の煩雑を避けようとしたのでしょう。
 何ゆえの煩雑か。それは出版業の発展、書物流通の活発化でしょう。出版業発展の要因としては、まず印刷技術の進歩が挙げられます。近世に入ると一度作ったら磨耗のため百部程度しか印刷できなかった木活字から、一度彫り込んだら三千ー五千部の印刷が可能な整板印刷に移行しました。
  木活字は木の活字。一つの書物で、何度も同じ字を使うから磨耗が激しか
  たんです。整版印刷は、一枚の板を彫って一丁(袋とじの頁裏表)を印刷
  する方法。この方法では、つづけ字表現、挿し絵、ルビが可能となる。す
  なわち、より読みやすい書物が簡単に作れるようになった。ともいえます。
 次に寺小屋などの普及により、識字率が向上したこと。庶民の経済力、所得が向上し出版市場が拡大してきたこと。物資の全国的流通に触発された全国的視野の開眼(例えば旅行記の出版)、それに伴う知識欲もしくは好奇心の惹起も考えられます。
 また本屋は、京都においては寛永期、大坂、江戸では寛永、延宝期の創立が多いことから、それぞれの地域はそれらの時期に出版が盛んになったと思料されます。
 
 

   二、出版統制マニュアル

 まず新版書物が本屋仲間行事に、仲間の定期集会で提出されます。行事はそれを審査し法度に抵触する虞のある場合には惣年寄に届け、大坂町奉行所の寺社役に伺いを立てます。もしそれが禁令に抵触すると判断されれば、絶版もしくは改訂を命じられます。絶版には史料中、板そのものを焼いたり削ったり打ち壊したりする場合と、特定の本屋や惣会所で預かる場合とが出てくる。その差は明らかではないが、前者の方が重かったのでしょう。
 重類版の審査権は、独り本屋側にありました。行事は新版書物が重類版の虞がある場合に関係の本屋に回覧し、その判断を任せていました。たとえば、ある地方の紀行物を出版する場合、それと同様の地方を紹介する書物を先に出版している本屋に回覧しました。
  利害訴訟は当事者の意見が最大限尊重されるってのは、近代以前の訴訟の
  特徴? 重類版と判断された場合にも、絶版を命ぜられたのです。仲間レ
  ベルで問題なし、とされたら行事の連印を付し役所に申請し許可を受けま
  した。
 江戸期に本屋を営んでいた三木佐助が明治に著わした懐古談「玉淵叢話」によると、「年行事が羽織袴着用で開板願書へ原稿を添へ御番所へ出しますと、一、二年程経ってから原稿の袋綴の処へ継印を押し、御免許と成りました」とあり、役所に申請してから原本が本屋に戻されるまでに、年単位の時間がかかったことがわかります。これは、「お役所仕事」が当時も驚く程遅かったことを示すのみではないでしょう。時事に関する出版を幕府が嫌っていたことに関係があるように思えます。
 人の噂も七十五日、ではありませんが、ある程度の期間、出版を遅らせることによって一見して解らないように書いてある時事に関することの、時事ゆえの効果を減少させるためのものではなかったか。一応全ての書物が許可制であったとはいえ、仲間によって、フルイにかけられた後に審査するのですから、それほど煩雑であったと思えません。むしろ、その煩雑さを避けるために、仲間に統制の一端を担わせたのでしょうから。
 以上、近世大坂の出版統制を大まかに、法令、制度の面から見てきました。近世における出版統制は、「御条目」に示される法理念を一貫して持ちつつも、時代の出版情況によって、ある程度は変化してきました。草紙や、いわゆる瓦版の類については、ここでは触れませんでしたが(だって、この事については本、論文が多く出てるから)、再三禁止令が出され、その度毎に厳しくなっていく傾向があります。一般書物に対する統制が、見方によっては緩和とも思える変化を見せたのと、対象的であろう。これは、一般書物に対する統制が、非常にうまくいっていたことを示しています。

          三、本屋仲間、再び……

   イ、はじめに

 大坂における出版統制は、

   本屋仲間−惣年寄−町奉行所(寺社役)

というラインで行われていました。

   ロ、本屋仲間内の統制−アウトライン−

 まず「鑑定録」所収、享保9年1月13日付けの「定」を見てみましょう。その第1条は、公儀の法度遵守が定められています。▼第2条は、三都一体の取り締まりを謳っており、「付り」として、素人直願を禁止。▼第3条は、無許可出版の禁止。▼第4条は、行事の秘密主義の禁止。▼第5条は、仲間外書商をも支配する宣言。▼第6条は、雇人(従業員)の違法行為禁止。▼第7条は、暇を出された者と取り引きするには、元の主人へ届ける義務がある。
 また、「差定帳」所収の元文五年一月十七日付けには、仲間定細則とでもいうべき史料が載せられています。その第1条は、絵図の類の吟味料の規定。第▼2条は、禁止書物を取り引きした場合、「見付次第もぎ取過料銀五枚」。▼第3条は、「素人板行書物寺板宮板等、本屋行事相改上願書ニ加印形」。仲間行事は、本屋以外の行う出版についても改める権利をもつ、ことが解ります。▼第4条は、正月の寄合時、差定帳、裁配帳に、その年の年号を記すことを定
め、▼第5条は、「仲間出入付、証文御取締被成候節、差定帳ニ手形印形印判御取可被成候」と、差定帳の性格を明らかにしています。▼第6条は、京都、江戸から送られてきた新版書物で添状の無いものは、以前から売買が禁止されているが、それが最近は守られていないようなので、今後は「其本拾部ツゝ仲間江取申、其上売買急度差留」と罰則を明確にしています。

 定の第三条については、裁定帳所収、享保一九年十二月二日付の史料に、その実際の適応例を見ることができます。
 「狂歌置土産」という書物を田原屋平兵衛他二人との本屋が出版しようとして、その旨を願い出ました。そして「御免之無之内彫かけもうされ候段、格外ニ存候旨行事より申渡」し、「誤り証文」を差し出したのです。すなわち、定の第三条は、無許可出版が、版木の完成ではなく彫り始めの時点で成立することが解ります。
 諏訪春男氏の「出版事始め」によると当時、草稿が出来上がってから本が出来る迄に七、八年の歳月を要することも珍しくはなかったらしく、印刷にはかなりの手間が掛かったことが窺えます。だからこそ、御免のないうちから版木づくりにとりかかったのでしょう。もし、そうなら、仲間の定の厳格な適用が、仲間の権利を保護しつつも、その商業活動を阻害していたことになります。
 同じく定の第五条にある、仲間外本やの支配は如何に行われていたのでしょうか。天明六年十二月十五日の史料で、奉行所が仲間に次のような質問をしています。「本や仲間に入っていない本屋を行事は放っているのか」行事は次のように答えました。「本屋仲間に入らず商売をする者は、仲間内に「売親」を定め、その売親の名前を以て取り引きさせるように申し合わせている」と。また「少々宛商売仕候者、或者近頃より本商売ニ取付未売親も不究候者も折節
者御座候」とし、そういう者も分り次第、行事から糺し、売親を決めさせていたことが併せ述べられています。売親とは、発行元に対する発売元ともいえます。
 寛政元年八月七日付の史料によると本屋仲間は、素人や寺等に対しても検閲権を有していたが彼らにも限界がありました。この史料からは、絵草紙や壱文売りの商売はレッキとした書物商売ではないと理由で売親を定めない場合もありました。そして、「都而絵草紙類者、行司共江不相届、売出し候ニ付、仲間外ニ而絵尽壱文之板行等売出し候而茂差構不申」とあり、絵草紙や壱文売(瓦版等か?)と、一般書物は違ったものと見なされ、扱いも異なっていたのです。
 文政一三年十月二十三日付の史料には、浄瑠璃本の検閲機構が変わったことが記されています。これによると「浄るり本の儀は、元来芝居より御申上在之候事故、別段行司共より御願申上候ニハ不及儀、往年より承伝罷在候」とあり、その芝居を打つ者から願いが出されていたことが解ります。
 そして享和三年十一月三日の史料では芝居根本絵入りの書は、以前は役所に願い上げることも恐れ多い(下らないモノだから)という論理で、行司独断で許可していたが、この史料が書かれた時点では、「近来は御願申上開板致させ候」という状況になっていました。そのうち、惣会所から「芝居根本絵入之類」は以後、行司独断で許可することを、行司の方から申し出よ、との「内意」を伝えられました。これにより願書を差し出し、実際にそうなったようです。
 その検閲基準は、「御公儀は不申及、諸侯方其外御役人衆中御名前、ならびに世間風俗之為不宜義は相除キ、何方へも差支無之書ニ候ハハ、年行司勘弁ヲ以」て判断する、というものでした。
 ちなみに史料によれば仲間外本屋から仲間に加入することも可能で、仲間本屋の件数はよく、変動しています。仲間に納入する金も、さほど過酷に徴収していたワケではなく、なかなか柔軟な組織だったようです。組織は篤組、慎組、明組、博組、審組の五つに分かれており毎年、持ち回りで一つの組から年行司が出ていた。そのうち審組は人数不足となり、文化五年には他の四組から二人宛出て、その仕事に当たっています。
 株仲間を解散させ自由競争による商業活性化を目指した天保の改革中には、本屋仲間も停止されました。その間は本屋行司は差し止められ、素人直売買が勝手次第として許されました。この点では他仲間と同様です。
 しかし、本屋については公儀としては全くの勝手に任せるワケにもいきませんでした。「以来新規に右商売相初候者者、月番の奉行所へ可届出、其砌委細取締之廉可申渡候、且新作之書物等致板行候節も前同様奉行所へ下書差出改受可申候」と、版元から直に奉行所へ申し出ることになりました。この仲間の禁止されている間に如何様なことが起こったか解りません。
 嘉永四年に本屋仲間は再興許可を得たが、その時点では検閲権は仲間に与えられていません。翌五年八月、ようやく仲間行司から奉行所へ新版書物を改める権利を与えるよう、文書が出されました。以後、明治初年まで続きます。
 

          四、統制の実態

 ここでは特徴的な絶版事件などを取り上げ、統制の実際を見てみましょう。

      ケースA

 文化八(一八〇七)年六月の史料から、大蔵永常の著わした「農家益」の後半がチェックを受けたことが解ります。惣年寄から、この本の中の「油之部」は油仲間に差し支えるか否かを問い合わせているか尋ねられました。版元は、油屋年行事(油仲間の世話役)への「懸合」は済んでおり差し支えない、と答えています。この「油之部」の何が問題となったのでしょうか。
 狩野文庫には、この「農家益」前、後、続編が収められています。しかし後編には「油之部」なる章はありません。あるのは「生蝋之部」でする。ここは、生蝋の製法や流通過程の取り決めが記されています。この製法の記述が、技術の独占にでも差し障ったのでしょうか。しかし、それは前編にも載せられており、こちらは問題となっていません。よって、この場合は、生蝋仲間で作っていたゑびす講の定や売人口銭の定などを七通りほど載せていますが、こちらが問題となったようです。組織の内部文書ともいえる「定」が載っていることに、町役人は神経と尖らせたのでしょう。特権者たちが手の内を晒したくないのは、昔から変わりません。なにせ外面を取り繕うことによって暴力以外の正当性があるよう見せかけているだけなのですから。

 差定帳所収、天明三(一七八三)年六月の史料によると、「花火秘伝抄」という本の開板(出版)が願い出されました。この時は惣年寄が行事を本屋行事を呼び寄せ「惣而花術之書者、決而難相成事ニ候所、先例ニ而も有之哉否」かと尋ねました。行事は以前にも「花術秘伝書」という「一枚摺」があり、今度の本は、それに増補したものだと答えました。年寄は、この答えに対して、それなら「一枚摺」が何時版行許可がおりたのかと重ねて尋ねたのです。行事は答えることが出来ず、結果、本の版行は中止となりました。その後、再び行事が呼び出されました。この時、参考のために提出していたのでしょうか前述「水中花術秘伝書」は返却され「増補花火秘伝抄」は番所に欠所となりました。これは書物という形で火薬技術が一般に詳しく知らされるのを嫌ったためと考えられます。

 天保十二(一八四一)年七月の史料には、次のような一件が述べられています。阿波国徳島に住む高良斎が「駆梅要方」という本の蔵版を大坂の本屋に持ち込み、「売弘」(一般への刊行)を依頼しました。狩野文庫に収められている「駆梅要方」は天保九年に浪華超然堂で作られたものです。原書は「度逸、辺的律実仙地」、訳は「法電、機浪謨」ら、それを高良斎が重訳しています。内容は、梅毒をはじめとする性病に関する医学書で、種々の症状を挙げ処方が述べられています。本屋は、この売弘許可を得ようと行事二願い出ましたが、この本が「阿蘭陀翻訳之書」であったため、「公儀」(この場合は奉行)へ伺いを立てました。すると、「向後、良斎社中は格別、本屋仲間ニ而売弘候儀者不相成」との答えが返ってきたのです。この史料では「阿蘭陀翻訳書柄」であることが問題となっています。
 同七月二十三日、高良斎から出された文書に次のような、惣年寄側の出版不許可理由が挙げられています。即ち、「唐刻翻釈之書売弘候而者、初学之者共猥ニ猛剤誤用候ハゝ、不容易儀ニ付」。“生療法は大怪我のもと”って感じ。これは前述の、「オランダわたりの本だから」というチェック理由とは異なります。もう、この時期になって、しかも思想書ではない医学書で蘭学を弾圧する必要もなくなっているのだから(結構、普及し始めた)、こちらの「よぅ知らん者がキツイ薬を無闇に使うと危ないから」という理由の方が本当でしょう。ただ、とってつけたような理由であることには変わりませんが。

 文化九(一八一二)年八月、「四季草」という本の発行が願い出されました。この本は、全七巻を春夏秋冬の四編に分かち、弓道のこと、人品の称などに就いて簡単な解説を加えたものです。この本の序には出版理由が書かれてあります。則ち、著者伊勢平蔵貞丈の祖先は室町期に幕府弓馬故実家であった小笠原家に学び、その伝書が貞丈の家に残されたいた。当時の小笠原家は室町期と若干、作法を異にしているため、古式の一端を世に知らせるために同書を著わした、と言っています。この話の信憑性はともかく、この本は当時の小笠原家の行っていない旧来の小笠原流の武家故実を世に出そうとしたのです。これに対し内容が、当時の小笠原流家元に許しを得ているかが問われます。結果として、許可を受けていなかったため、同十年四月に版元は出版願いを取り下げました。既存の権威(小笠原流)を最大限に尊重する態度でする。これは「条目」の、人の家筋について本人以外の者は勝手なことを言うなと定めた項目に抵触するのでしょう。

 このケースAについて互いの連関がないことに疑問をもたれる読者もおられるでしょう。当然です。このケースAは実は、「その他」に分類されるものなんです。この後、ケースBでは「絶版書の刊行」、ケースCで「宗教がらみのチェック」、ケースDで「公儀、諸侯、天皇に差し支えたもの」を取り上げます。

    ケースB

 差定帳所収、安政四(一八五七)年九月の史料に拠ると、広嶋屋辰之助という者が「本命的殺精義」という本を出版しようとしました。ところが実は、これが天保年中に絶版に処せられた本だったのです。辰之助は、この本を買い求め、「何心無く」彫刻して百二十部を印刷していたと主張しています。結果は絶版。
 この一件で興味深いのは、奉行所と仲間行事の間に交わされた遣り取りです。まず、奉行所から、本屋だけを範囲として取り締まっても如何しようもない、そこで板木職(独立した整版工)も取り締まれば自然と不法なことをする者もいなくなるのではないか、と問いかけがありました。仲間行事は、昔は版木職も取り締まっていたが近頃は取り締まっていない、版擦職(独立した印刷工)、表紙職(独立した製本工)等の中にも「不心得」な者がいて、これら実際に本を作る技術をもった職人が重版を取り扱う本屋と結託すれば、取り締まりようがない、と答えました。この答えを受けて奉行所は、仲間行事の方から、それらの職人を取り締まる権利を願い出ては如何か、と勧めるんです。行事は、その時は奉行所に直接に願い出るのが良いか否かを尋ねました。奉行所は、本屋懸かり惣年寄(出版業を担当する町役人)に願い出るべきだと答え、奉行所からも惣年寄りに話をしておくと約束しました。

 差定帳所収、安永四(一七七五)年三月の史料に拠ると、西田屋利兵衛という者が、「俳諧三部書」という本を出版しました。実は、この本、宝暦九年に絶版になったものでした。同帳所収宝暦九年二月の史料に拠ると、絶版の理由は不明ですが、この西田屋利兵衛その他二名の「相合版」(共同出版)だったが、東町奉行所に召し出され、「御前に於いて」(奉行直々に)絶版を申しつけられたのです。
 また、田原屋平兵衛という者が、安永三年十一月、「幽遠随筆」の開板を申し出、同年十二月に「版行御免」となりました。しかし、翌年三月に絶版を申し渡されたんです。理由は、同書中に「俳諧三部書」のことに触れた部分があったため。内容は詳らかではありませんが、安永四年三月に「俳諧三部書」と同時に、絶版の決定が下されており、この二つの絶版事案は一つのものとして考えられていたことが窺えます。この結果、「俳諧三部書」は「御預」(版木を取り上げられたらしい)、「幽遠随筆」は絶版となりました。

 寛政二(一七九〇)年五月、本屋塩屋平助が「大学講義」という本の開板を願い出ました。すると、文中に数カ所「大学或問」からの引用があるとして取り調べを受けたんです。貞享四年に絶版にされた熊沢蕃山の「大学或問」と間違われたらしい。塩屋は「大学或問」は「大学或問」でも、朱子の「大学或問」からの引用であると返答しています。

 差定帳所収、文化二年四月二十二日の史料に拠ると、播州姫路の本屋から「乙丑気候懸断録」という本が大坂の敦賀屋九兵衛の店に届きました。その時、主人は国外に出て留守でした。店の従業員が独断で引き取って売り捌きました。主人が帰ってみると、同書は以前に京都で絶版となった「運気考」という本と同様内容だったのです。主人は驚いて本を回収しようとしたが、仕入れた十冊は完売しており、うち四部を回収できたのみだった、と主張しています。
 この史料は敦賀屋が行事宛に提出したもので、鵜呑みにすることはできません。しかし、少なくとも、単なるイイワケとしてでも、手代が勝手にやったことだとの論理は成立し得たことが解ります。仲間の掟にも、使用人の管理を厳重にすることが書かれていました。則ち、取り締まりの範囲は従業員にも及んでおり、実際に従業員の立場でも勝手なことができたのでしょう。

      ケースC

 寛政三年四月二十五日付け史料に拠ると、左甚五郎(江戸初期の伝説的名大工)を扱った「彫刻左小刀」が絶版にされました。この絶版は版木を残らず削られるという徹底したものでした。「法義之事を取組候上るりニ付、芝居差留メ之義東本願寺輪番円徳寺より願出候ニ付」とあり、寺院からのクレームが原因であったことが解ります。宮武外骨は「改訂増補筆禍史」の中で、根拠となる史料を挙げてはいませんが、本願寺僧の祖先が左甚五郎と関係があったように書かれているためだと言っています。ならば、これは「御条目」にある、人の家筋祖先について勝手なことを書くな、との禁制に触れたことになります。ただ、この「法義之事」は宗教論とも解釈し得えます。勝手な宗教議論を出版することは、禁止されていたのですし。

 寛政十一(一七九九)年九月十日付け史料に拠ると、「安土問答絵抄」という本がチェックを受けています。この本は「安土宗論」という本に増補したもので、「禁断日蓮義」「再難鈔」「挫日蓮」等の類本があるとの主張に拘わらず、「宗論書」であることを理由に、惣年寄りは許可を与えませんでした。版元は原稿を返すよう願い出ました。惣年寄りは通常の事件として処理することは出来ないと答えました。そこで版元は返却のための文書に、前出類似の本を参考に添えて提出。惣年寄は、「彼是差支有之書故、板行可相止」と判断を下しました。結局、参考として提出した類本は返してもらえましたが、原稿は返してもらえませんでした。
 元となった「安土宗論」は大日本仏教全書七十九巻に収められています。これは、時代を「天正中旬」、場所を安土にとり、浄土宗と日蓮宗との間に起こった宗教論争の顛末を描いたものです。実際に、天正七(一五七九)年五月中旬に宗教論争が行われています。織田信長の干渉もあって、かなり不公平な問答だったようです。結果は日蓮宗の敗北で、詫証文と罰金を取られ、しかも関係者は処罰されたんです。また、この宗論については、信長が全国統一の政策上、日蓮宗迫害のために仕組んだ陰謀ともいわれています。そして信長死後、豊臣秀吉が勢力を台頭した天正十三年に日蓮宗は秀吉から詫証文を返してもらい、元に復しました。しかし同書中では、日蓮宗の衆徒や僧侶が傲慢、無知、無能を、絵に描いたように演じており、一方的な日蓮宗への悪意を感じます。或いは、浄土宗関係者の作であったかもしれません。ちなみに古川柳では日蓮宗といえば、頑固であると決まっており、かなり揶揄の対象にされています。

 文化九(一八一二)年八月、「日蓮上人行状絵図」という本の発行が願い出されました。しかし、これも日蓮宗の本山に許可を得ているか尋ねられ、得ていなかったために文化十年四月、願い下げ(許可申請取り下げ)を余儀なくされました。また、文化十年六月の史料に拠れば、「垂釣卵」という本の出版許可が申請されていますが、「文面之義神仏争論之説多候ニ付」き、これも取り下げられています。

      ケース D

 寛政十二(一八〇〇)年二月、「会所往来」という本の出版が願い出されました。二ヶ月後「御口上にて被仰聞候ハハ此書御公辺に拘り候役柄之文章も有之」として、「難差免趣」を惣年寄から言い聞かされ、「重而ケ様之書ハ願出ましく旨」を言い渡されました。しかし、この場合は、願い写本は返してもらっています。

 元文五(一七四〇)年二月の史料には、「画巧潜覧」という書物が登場します。同書は狩野派の絵師による絵画入門書、もしくは解説書といった体裁を採っています。六分冊となっており、第一冊は狩野、土佐派の先達の系統図や絵の模写を載せています。この本がチェックされた理由は、「御上々之御名字并寺号什物等書著有之候ニ付」というものでした。具体的には「和泉守」の名、大徳寺等の所持する絵、高家所有の化物絵を、狩野、土佐派の正筆として写し載せています。結果は、以前に五冊、類似の書物が出版されているとの本屋の弁明が通り、赦免となりました。

 安永五(一八五八)年六月十七日付けの史料は、以下の事を語っています。まず、奉行所か惣年寄から行事に対して、「日光御社参行烈記」という書物を往来で売り歩く者がいるが、不届きである。版元は誰か、本屋で店売りもしているのか、詳しく調べて報告するように、と命令が下ったのです。「不届き」である理由は、「はやり歌草紙もの同様に相心得、よミ売ニ仕候段」とあることから、本の内容よりは売り方が問題となったようです。行事仲間は答えて、「日光御社参供奉役人付」との本なら江戸から仕入れて売っている者がいる。次に役人側は、江戸から書物を仕入れたら行事から伺いを立てるよう申しつけています。

 差定帳所収、享和三(一八〇三)年六月十五日付けの史料に拠ると、「絵本太閤記大全」という本が類版の疑いでチェックを受けています。同書は以前、別の本屋が「太閤記筆操」という外題で刊行したものでした。この「太閤記婦操」は「絵本太閤記」の類版として訴訟に持ち込まれたことがあります。その結果、被告側は以後、「絵本太閤記」の類版を出版しないと証文を書かされました。しかし、この「太閤記筆操」の版木を手に入れた者が、「絵本太閤記大全」という紛らわしい書名に変え出版したのです。奥書には再版する旨が記されており、「絵本太閤記」の版元は危惧を抱きました。仲間同士の争いを避けるため示談を進めようとしたのです。結果は、再版の度に、版木を彫る前に写本を交換し行事に判断を仰ぐこととなりました。
 紛らわしい書名の本が出版されたり、類似の本の初版奥書に再版予告が書かれたことなどから、「絵本太閤記」自体の人気を窺うことができます。実は同書は、この類版疑惑事件を含めて、数奇な運命を辿りました。
 寛政十(一七九八)年、「絵本太閤記」の初編が発行された。第七編が出された享和二年迄、通算八十四冊が刊行された。それが文化元(一八〇四)年五月に、大坂ではなく江戸で、「売留」(販売禁止)、及び没収、元版絶版に処せられました。「絵本拾遺信長記」も江戸では同様の扱いを受けています。
 宮武外骨は「改訂増補筆禍史」の中で、「法制論纂」という書物を引用しながら、享和三年、嘘空山人、十返舎一九等が、太閤記のパロディを出版し、その後、勝川春亭、勝川春英、歌川豊国、喜多川歌麿、喜多川月鷹等、当時の浮世絵師たちが競って太閤記中の場面を描いて、太閤記人気が一世風靡したと述べています。そして遂に、幕府創業の関係者達が人々の口に上ることを恐れ幕府は、文化元年五月、「絵本太閤記」をはじめ、草双紙や武者絵の類すべてが絶版としました。喜多川歌麿が三日間の入牢の上、手鎖の刑を受けたのも、この時でした。版元は、それぞれ十五貫の過料を課せられました。また、余談として、「絵本太閤記」が絶版となったのは歌麿が取り調べ中、恐怖に駆られ「絵本太閤記」のことを話したために同書の存在がバレ、絶版に処せられたといいます。
 文化十一年七月二十八日付けの史料に拠ると、行事が奉行所に呼ばれ、「絵本太閤記」の他に太閤記という本があるか否かを尋ねられました。行事は答えて、京で出版された本に二冊あると言上しました。後日、行事は詳細を文書で奉行所に報告しました。その時、奉行所は行事に、京、江戸で、これらの太閤記関係本が絶版となった事実があるか否かを尋ねました。その場で行事は、絶版の事実は聞いたことがないと答えました。
 安政六(一八五九)年十月五日の史料に拠ると、「絵本太閤記」の版元の一人、河内屋太助が再版を申し出ました。この願書に拠ると、文化元年に絶版とされたが安政四年、江戸で「豊臣勲功記」という本が出版許可を受けました。同書は、少なくとも河内屋太助の意見では、「絵本太閤記」に増補した全くの類版でした。このことを根拠に嘆願書を提出、「絵本太閤記」の大坂での出版許可を願い出ました。安政六年に、許されました。そして次に、この「豊臣勲功記」が問題を起こしました。河内屋茂兵衛が「豊臣勲功記」の版木を江戸から買ってきました。「絵本太閤記」の全くの類版、即ち版権侵害になり得ると解っていて買ってきた。茂兵衛の言い分は簡単明瞭です。類版の「絵本太閤記」の版元には悪いと思ったが、とにかく買いたかったので買った。確信犯ですね。ただ、このことを知った行事に諭され、「豊臣勲功記」の版木を「絵本太閤記」の版元に売ろうとしました。彼の言うには、千両で買ってきたが百五十両の損金で、八百五十両で売りました。こうして一旦は手放しましたが、元来が欲しくて欲しくて買ったのだから、やっぱり惜しくなって買い戻し、「十軒之内一軒八分通り初篇より十二篇迄永代為訳立、相合留板相渡買戻」との契約をしました。売り上げの十八パーセントを差し出すことにしたようです。
 文久二(一八六二)年十二月十二日、以前「絵本太閤記」の版元の一人であった海部屋勘兵衛は、他の本屋に自分の株を売ったのですが、その折、絶版となっていた「絵本太閤記」の版権も共に売ってしまっていました。株が売買された時点では、「絵本太閤記」は絶版となっていたようです。勘兵衛は絶版所の版権を取引したことを以て、株の売り渡し自体を無効であると主張していたよいうです。結果は株の売り渡し契約書に不備がないことから、取引は成立していると判断されました。
  ただし同月二十一日の史料に拠ると、「絵本太閤記」の版元の一人が版木を返すように要求し、主張が通って返してもらっています。

 宝暦十二(一七六二)年八月二十九日付けの史料に拠ると、「花系図都鑑」という義太夫の浄瑠璃関係本が一部削除を命じられました。中に出てくる「桃園」という言葉を削り取るよう、京都町奉行所から命じられたと京都書林行事が伝えてきたためです。これを受けて大坂で版木の該当する六カ所を彫り直し、改めた後の本と、今まで刷っていた本のみならず既に売り払っていた本も回収し取り替える旨の証文を提出しました。
 実は宝暦十二年七月十二日、百十六代遐仁天皇が崩御しています。「続史愚抄」の後編桜町天皇上宝暦十二年七月二十九日の条には、「此日、先帝(遐仁)御追号を以て、桃園院と為す」とあります。「花系図都鑑」が筆禍を被ったのは、この諡号決定から丁度、一ヶ月後です。即ち、諡号決定ーチェックー削除命令ー京都からの伝達ー反応の過程の所要時間が一ヶ月だったのです。明確には書かれていないが、「桃園」が削除されたのは、諡号に差し障りがあると判断されたためでしょう。そして、更に言えば、歴とした書物と認められていなかった浄瑠璃本だからこそ、チェックを受けたのではないでしょうか。
 
 

          五、まとめ

 ここからは言いたいことを言いますので口調が変わりますが、他意はありません。単に、趣味です。
 

 個々の絶版事件・疑獄から、以下のことが言える。
 まず第一に、統制システムの実際に於いて、奉行所と本屋仲間行事の間に、馴れ合いの関係が看て取れる。「本命的精殺義」の事案で明らかになった裏工作(?)を思い出して欲しい。結果として取り締まり強化の方向を進めたこの事案は、示唆に富む。
 奉行所は取締の範囲を広げるに当たり、行事側から願い出る形をとれと言う。行事は、それを受け手続きの方法を問い返す。奉行所は指示を与え、お膳立てを約束する。猿芝居である。
 此処で取り締まりの対象を確認しておこう。大雑把に云って二つある。版権絡み(重・類版)と、既成権威への異見である。前者は経済的、後者は政治的な規制である。近世に於ける出版統制は、本屋の同業者組合「本屋仲間」加入者が、相互の商業利益を守るため版権の確立を目指したものであった。そして、この本屋仲間成立と相前後して、幕府の出版統制法令が整備されていった事実を思い返してもらいたい。
 本屋側としては自らの経済的利益を守るため、重・類版の取り締まりを実現せねばならなかった。それがために幕府に本屋仲間創設を願ったのだ。世は泰平である。識字率の向上のため、重・類版が出現し問題となるほど出版が一つの市場として確立し、書物の影響が無視できなくなったのだろう。幕府は思想統制機構の創設を急がねばならなかった。此処に、両者の利害は一致した。
 この時代の他業種「株仲間」の機能としては、次のような所が通説だろう。則ち、商人としては特権者として独占的、排他的な商業活動と幕府、藩公認の特権商人であるとの”信用”。幕府としては、特権の見返である「冥加金」「運上金」にるる収入、そして商人を組織として把握することによって法令の徹底が期待できる。
 しかし、数ある商品の中で、「本」は特別な位置にあった。「本」の商品価値は昔は、内容にあったのだ。広い意味での、情報である。情報の商品としての特異性は、人間の思考に直接訴えることと、同時に同一の商品を複数の人間が共有できる点にある。特に後者は、”場””集団”を構成せしむる。政治とは畢竟、一定の状態に人々を導くこと、若しくは固定する行為である。故にメディアは政治の道具として甚だ有効である。有効である以上、諸刃の剣だ。だからこそ、幕府は書物を統制しようとした。異見の抹殺である。固定の政治とも言える。
 前期の「猿芝居」は、商人尾経済利益と、幕府の政治利益の一致を示す、甚だ饒舌な場面である。この場合、取り締まりの強化は、本屋が自らの経済利益擁護を訴える形で行われただろう。そして実際には、強化という果実は、幕府の政治利益とも一致していた。これぞ、政治であろう。

 統制の実際から次に浮かぶのは、統制というものの杜撰さである。張り切って(?)絶版書「大学或問」の引用を指摘したはいいが、「大学或問」違いで、こともあろうに幕府制式の学・朱子の「大学或問」だった。しかし、これは笑い事ではない。権力者の「杜撰」は「恣意的」と同義なのだ。権力者は殆ど宿命的に恣意的だが、その歯止めとして法が存在する。これは別に近代に限った考えではない。儒書でも、まずは君主が法(のり)を遵守することが要求されている。上長としての権利は天から無条件に与えられたものではない。然るべき義務を果たし初めて認められるものだ。義務を果たさなければ、天命が革され、放伐されるのだ。仁政なくして忠良な民は存在し得ない。

 続いて浮かび上がるのは、宗教論への敏感さだ。この点は指摘するに留めたい。どうやら幕府支配の根幹に関わる問題のような気がする。政治と宗教が蜜月関係にある以上、政治は安泰だ。宗教とは、人々を一定の状態に引きつける力が強力な点に於いて、政治の別名なのだから。

 最後に、天皇への過敏さが挙げられる。「桃園」の事例を思い起こして戴きたい。これも指摘するに留め、将来の課題としたい。只、この過敏さと徹底した対応は、強調して、指摘しておきたい。

 本来なら統制の対象である筈の本屋が統制の主体ともなっていた近世大坂に於ける出版統制は、非常に強力な政治支配の形態と言えよう。何処が強力か? それは本屋たちが書籍のプロであること、そして幕府自体が表立って統制するよりも厳密に、敏感に統制し得るためだ。では、彼らは幕府支配の走狗だったのか?
 実は、そうではない。彼らは誇り高き浪速の商人(あきんど)であった。或る時は行事として統制の尖兵となっていた人物が、行事の役に就いていない時には逆に統制の槍玉に上げられている事例も少なからず、ある。当たり前である。売れりゃ、イイのだ。商人が、自己の利潤を追求するに忠実な者ならば、彼らこそ商人である。幕府の禁令なんざ、ヘッポコピーの、お尻ペンペンなのだ。

 結論である。厳しい法整備を進める老獪な幕府、天皇に就いてはワケ解らない侭(?)に無関係の言葉を字面だけで削除するほど過敏な反応を示すシステム自体、直接的な経済利益擁護のために統制を積極的に受け入れ多分は自ら市場を狭め、そして逆に経済主体としての側面では利潤追求のために禁令を冒す本屋たち。これらの者たちが絶妙なバランスで絡み合う社会。そこには、一つの、完成した政治世界が広がっていたのである。

(了)

以上は昨年、日本史ボードにアップした物に加筆、修正したものれふ。
尚、間接的ながら、
示唆を与えてくれた書物を以下に掲げ敬意と感謝を表します。
S・ミルグラム「服従の心理」河出書房新社
京大日本史辞典編纂会「新編 日本史辞典」東京創元社
「情況 −特集 メディアと権力」1993・7月号 情況出版
書名は覚えていないが本屋で立ち(勃ち?)読みしたSM

犬の曠野表  紙猿の山表紙