「週に一度は……」(94年1月24日PCVAN−AWC掲載)

 今回は男色(ナンショク)に就いてです。

 気になるんですよね。ゲイに就いての文章で、よく”江戸時代には男色が公認されてた”とか書かれてるの。確かに”黙認”はされていただろうけど”普通”のものと思われていたワケじゃないって気がしますし、江戸時代に認められていたのだから今でも認めるべきだって言い方は、なんだかなぁ、ってね。言葉が足らないと思うんです、この言い方。そりゃゲイの方には暗黙の前提があるのかもしれませんが、私のように外部から見たら解らない。(少なくとも男にとって)性に関するタブーが緩やかだったから、結果として男色に対する差別も緩やかだったって言い方なら解るのですけどね。結論を先に言うと女色と男色の間には差があった、と思っています。

 源氏物語、伊勢物語など”ヰタセクスアリス”の伝統(?)を受け継いだ「好色一代男」ってのがございます。井原西鶴といぅ大坂のブルジョア作家が書いたものですが、「世之介」といぅ主人公の七歳から六十歳までの性遍歴を年齢ごとに叙述するスタイル。天和二(一六八二)年の成立。
 同書によると世之介氏、五十四歳までに「たはふれし女」は三千七百四十二人、「もてあそ」んだ「少子(男の子)」は七百二十五人。ほぼ五対一の割合です。日曜日は休んで週に一度だけ男の子を抱いていた勘定。
 ただし男に”弄ばれた”ってのは、このうちには入っていない筈ですから、相手にした男性を加えると、もっと増えると思います。彼は十歳のとき既に綺麗にゲイっぽくオシャレして「よきとほむる人のあらば。只は通らじと、常々こころをみがきつれど」と”ハッテン”を祈ってウロついたりしてる。
 因みに当時は子供は前髪を立ててるんですが、大人になったら剃ってチョンマゲを結うんですよね。このチョンマゲを結うことが一般に”お稚児さん”を卒業するってことでもあったらしい。世之介の場合は十五ー七歳の時にチョンマゲになったようです(岩波文庫版挿し絵による)。
 ってぇこたぁ遅くとも十歳から受け身の男色に目覚め、早くとも十五歳の時に”お稚児さん”を卒業したと考えられる。最低五年は男色の受け身が可能な状態にあった。と、いうのも十四歳のとき買った「飛子(肉体を売る少年)」は二十四歳だったのですが、この飛子、前髪を立ててるんですよね。既に元服しているべき年齢にありながら、商売で男に抱かれるために前髪を剃ってなかった。これは逆に言えば、前髪を落とした者は男色の対象に(通常は)見られなかったってことっすよね。もっと突っ込んで言えば、元服前の少年は、男性とは認められず故に男性の性の対象となったのでは? 則ち”お稚児さん趣味”は男色ではなく”少年愛”というべきものではなかったか。いや、”異性愛”ではなかったか?
 則ち女という性を三千七百四十二人、少年という性を七百二十五人相手にした。また少年として男の性の対象となった数は解りませんが、かなりの数にのぼったことでしょう。ただし彼の場合は、少年という男から見れば性の対象の位置にあったときから女を性の対象にしております。故に少年という性は、女を欲望の対象にしつつ男の欲望の対象になるサンドイッチの具のよぉなモンだったと思われます。男ではなく、まして女ではない。

 此処で疑問に思われる方もいらっしゃることでしょう。お前は「男色」という言葉を最初に使ったではないか? と。確かに使いました。当時は、この少年愛を、「男色」と言っておりました。でも少し待って下さい。その疑問にお答えする前に前提として確認しておきたいことがございます。
 現在では「男色」とは、男同士の性交を主に示しますが、当時の男色のプロ(陰間とか呼ばれていた)は女も相手にしていたのです。陰間茶屋では二十歳を過ぎてトウが立った者は、男ではなく女を相手に商売していたらしい。だから「男色」とは「男を抱く男の性」ではなく「性の対象となった男の性」といぅ意味でございましょう。必ずしも男同士の愛に限ったものではございますまい。換言すれば能動の立場にある男にとっての選択肢としての言葉なのでございます。今でも「女色に溺れる」と言えば「男が女とのセックスに溺れる」という意味であり、「女が女を愛して入れ込む」というのではございません。
 ならば矢張り、「少年愛」は「男色」と言われているではないか? 故に「少年」は「男」であり同性愛ではないか! ご尤もでございます。しかし、ここが複雑なのでございます。前髪という標識を以て元服前の男が性の対象となり、元服後は対象になりにくいことは上述いたしました。元服を画期といたしまして、受け身をも甘受する位置から専ら能動になる。どちらも同一人物だが時間的な差が、位置の差に対応している。性差は絶対のものではなく変化するものである。残酷な言い方をすれば「灰になるまで」と講談か何かでは言われる女の性も、男の性の対象としては(個人差はあるだろうが)年齢に上限があった、と思われる。実際には上限があったとしても、かなり高齢だと思いますが通念上は上限があったと思われる。”性別”は「女」でも”性の対象”としては「女」ではなくなる。とはいえ性の対象でなくなっても「女」には違いない。逆に「少年」も性別は「男」に間違いないが、性の対象としては「男」ではない。だから「少年愛」を「男色」と言っていたからといって「少年愛」=「男同士の愛」だったと言えば語弊が出る。

 ただし男社会ですから、少年は、いずれ男になる生物として、それなりの人間性と申しますか、女より男好みの資質を持っていることが期待されました。勇気があるとか純情だとか。「好色一代男」にも興味深いエピソードがございます。世之介が三十歳のときです。「若年の時。衆道の念比せし人」を探し十九年ぶりに会います。「外の因とはかはりて。替わらぬしるしに(他の恋とは違い世之介も本気だったので心変わりしない誓いの証拠として)」貴重な仏像を渡していたのですが、十九年経った今でも相手の男が貧困の中でも手放さず大事に持っていてくれる。男は世之介をもてなそうと、バレないように大切な自分の刀の鍔を外し、それを代価に酒を買おうとする。世之介は気付いて酒を断る。世之介が眠るのを見定め男は、せめて食い物を調達しようと家を抜け出し狸を捕まえようとする。男が家を出ていくと四匹の化け物が現れる。皆、顔は女で体がそれぞれ蛇、鳥、魚、楓、大綱。女の顔は、それぞれ世之介が捨てた女たち。次々に襲いかかってくる。苦戦の末どうにか切り伏せる。この話で興味深いのは、男の愛情の深さと女の執念深さの対比です。
 逆でも良いと思うし、愛情深い男が出てくるのは良いとして、対比するため執念深い男たちが世之介を襲っても良いと思うのですが、西鶴は女に襲わせた。世之介は女をとっかえひっかえ遊び回るのですが、男とは深い愛情で結ばれていたようです。そう考えると、三千七百四十二と七百二十五の比率も、単なる量の問題であって、質は……、と思ったりもする。
 以前、「武士道とは衆道と見つけたり」に於いて”武士道”の書「葉隠」では純な愛の形として「男色」が語られている、って申しました。この考え方がある程度常識化していたとするならば、西鶴の設定も頷けます。これは妄執を戒める仏教道徳民族たる日本に於いては、女性蔑視でございます。女性蔑視ではございますが、それは西鶴個人の責任ではございません。そーゆー社会だったのでございます。では、江戸時代というのはゲイこそ本当の愛、だったのか?

 「きのふはけふの物語 上」(岩波古典文学大系100江戸笑話集)の四四
  には、有る人、女ばかりすき、一圓に若衆のかたを知らず。傍輩ども申す
  やう、「貴所は田夫野人ぢや。さだめていままで、若衆のおこないやうを
  も知るまい」とて笑ひければ、「その事ぢや。つゐに知らぬ。さりなはら、
  人のするを見てあるが、不思議な事がある。何やら、ひたものとつて食う
  たが、何とも合点がすまぬ」といはれた。
  女ばかりを相手にして、一向に若衆とのSEXを知らない人がいた。知り
  合いたちは「君は全くヤボな奴だね。その分ならきっと、若衆の抱き方も
  知りゃぁしないだろぉ」と馬鹿にして笑った。すると彼は「そうなんだ。
  知らないんだ。でも人が男の子を抱いているのを見て不思議に思ったこと
  があるんだ。何か一所懸命男が取って食べていたんだが、ありゃ何をして
  たのかなぁ」と澄まして答えた。(以上、筆者訳)。

という小話が載っております。何処が面白いのかってぇますと「お前は野暮だから男色もしらないだろう」と馬鹿にした側の者たちが、ボケをかまされることにより逆に”馬鹿を見る”状態になるって所でしょう。男の子の入れらるべき箇所を唾液で濡らすために、指を口にくわえ濡らして濡らした指を男の子の入れらるべき所に持っていく、それを何度も繰り返す。この臭ってきそうなリアルな男色風景を「けんめいになってナンか手にとって食べていた」とボケて再構成することによって、好き者達が価値を見いだしているエロティックな交歓の場面がスカトロっぽい滑稽な場面に引きずりおろされる。
 この小話から解るのはまず、江戸時代、少なくとも”好き者”連中の間では”イッパシの都会人なら若衆ぐらい抱いておくものだ”との”常識”があったらしいこと。しかし、同小話の本筋っつーか結論部から導き出されるのは逆に、そーゆー男色肯定論を冷ややかに見つめる悪意。馬鹿にされているのは男色肯定者なんです。
野暮と笑われた男色未経験者ではない。ただ、他の笑話集には女性とのアナルコイトスを巡って同様趣旨の小話がありますので、男色に対するイヤミというよりは鶏姦趣味に対する嫌悪を表現しているのかもしれませんが。まぁ此処では男色=鶏姦常習者として捉えられてますので、細かいことは言わないようにいたしましょう。

 さて、そろそろ疲れてきたでしょう。書いている方も疲れました。少し雑漠とした状態ですが、ここらで結論に移りましょう。
 世之介が抱いた女と弄んだ少年の比は五:一と申しました。しかし上述の小話から、”好き者”は男色を肯定する傾向が強いことが解った。世之介は(空想上ではありますが)当時最大の好き者です。故に通念としての女色に対する男色の比率はもっと小さいものになるでしょう。七:一とか十:一とか。両者の量的差異は明らかです。明らかに男色が”特殊”な性の在り方なのでございます。「大坂に逗留の中に。一日は野郎もよしや。(大坂に逗留する間、毎日女遊びをするのもナンだから一日ぐらいは男色で楽しもう)」(岩波文庫「好色一代男」p150)ってものなのでございます。毎日する事じゃない。
 ”特殊”と申しましても色々あります。聖か賎か、美か醜か、貴か卑か。尊重されるか差別されるか。これがどーもハッキリしない。差別はされていなかったと思われますが、さりとて尊重されたとも言いたくない。”都会的””本当の好き者”など価値を認められていた、則ち尊重されていた、と言はば言えますが、上述小話のように冷ややかなる悪意の存在も忘れてはならない。「葉隠」などでは人間同士の本当の恋は男同士でしか実現しない、とまで言いたげですけどね。こりゃぁ単なる男尊女卑思想から導き出されたモンだから偉いさん(上流階級)の論理っしょ。マイナーである故に希少性があり、よって選民である、なぁんてのは性一般を商品とした近代ならではの論理だろうから無視。希少性が商品価値を高めるのは経済の話。そんだけのこと。とはいえ、差別もされておらず尊重もあれていなかったとするならば、如何していたのか? どーもしなかったんじゃないでしょか。前近代の性は、大らかだった。差別や尊重をしても、緩やかだった。笑い話になるぐらいですからね。南蛮人のように火炙りにしたり、アメリカ大陸の先住民などのように男色の受け身を経験せねば成人と認められない社会とは一線を画しておるのです。アリテイに言えばエーカゲン。差は明確でありながら差別されず、差別せず。それは、「平等」などという平板な言葉で表現できない、豊かで大らかな社会だったのでご
ざいます。成人した男の性のみに関しては、ですけどね。

(了)

犬の曠野表  紙猿の山表紙