■逆転の復讐■

 

 信乃の復讐は、扇谷上杉定正の居城・五十子を陥れることで果たされる。しかし何だか落ち着きが悪い。信乃が、定正は自分にとっても仇だと言い出したのは、道節と一つ屋根の下で一緒に暮らし暫く経ってからのことだ。定正は、言わずと知れた、道節にとっての仇敵である。一つ屋根の下で暮らすうち、信乃と道節の間で何があったのか、筆者は知らない。また此の間、道節は毛野と初めて出会っている。毛野は終盤で道節と配偶する。毛野に近い資質の信乃と暮らすうち、何か間違いでも起こったのではないか。道節と一心同体となるが如き出来事があったのではないか。この頃、船虫を刑戮するが、信乃は地蔵堂、道節は閻魔堂に潜んでいた。地蔵/稚児と閻魔/念者は、一仏二体である。

 しかし、馬琴は何も書いていない。二人が暮らしたのは、氷垣残三夏行と婿・落鮎有之七有種の家である。夏行は匠作の後輩、有種は煉馬の舎兄豊嶋刑部左衛門尉信盛の童小姓だった。有種は伯母が夏行の妻となっていた関係で、転がり込んでいたのだ。即ち、結城残党と豊嶋残党が縁組して仲良く暮らしていたわけだ。其処に結城残党の子である信乃と結城残党道節が、これまた転がり込んできたのである。なのに、馬琴は何も書いていない。此処で例えば夏行が、扇谷上杉も仇だ、とでも言えば、信乃の行動に説得力が増す。最後のチャンスだったのに、馬琴は何も書いていない。書かないまま九十一回になって、信乃は、取って付けたように、定正が仇であると言い始める。

 取って付けたのだ。この後、信乃は結城の仇なんてことに拘らないし、南関東大戦でも定正への憎悪を噯にも出さない。信乃と絡むのは、主筋の足利成氏である。また一応、山内上杉顕定とも対戦し勝利するが、結城合戦のことなど持ち出さない。馬琴は、毛野だけでなく、信乃も、五十子に行かせなければならなかったのだ。

 

 定正は、少なくとも信乃にとって最重要の仇ではなかった。にも拘わらず信乃は、殊更に定正を仇だと言い募り、五十子を攻略した。理由は簡単明瞭だ。行為主体となるためであった。定正を仇としなければ、五十子攻略も、道節の情熱に絆された故の助太刀、お手伝いさんとしての行為となる。此処まで信乃が五十子を攻略する必然性は何もない。飽くまで道節の復讐を手伝う形になってしまう。信乃は、積極的かつ主体的に、五十子を攻略しなければならなかった。そのために、信乃は、定正を仇だと言い募ったのだ。主体的でなければならない理由は、筆者の見るところ、二つある。一つは、信乃が女装犬士であるから。いま一つは、道節と、そして実は毛野と対比するためであった。独立項として設定することで、道節・毛野との対比を明確にしたのだ。

 

 さて、かなり捻くれた話になってしまった。しかし信乃による第一次五十子攻略だって、かなり捻くれたものだ。信乃は正攻法で力押しするのではない。道節が捕らえた仁田山晋五の供人・外道二を先に立たせ、定正勢と見せかけて入城、奇襲に成功する。此のとき信乃の名乗りは「煉馬の残党犬山道節忠与の義兄弟犬塚信乃戍孝こゝに在り。我も亦大父匠作三戍の主君なりける故鎌倉の管領持氏朝臣の両公子春王安王の奉為に嘉吉の怨を復さんず。命惜くば城兵們降参せよ」{第九十四回}であった。結城合戦を理由に攻められているのだから、五十子勢としては、とんだトバッチリである。言い掛かりも良い所だ。

 信乃らが火を放つと、偶々乾/戌亥の風が吹いて瞬く間に五十子城は焼け落ちる。「西南(いぬゐ)の勍風猛に起りてその火城中に充満ければ」である。……って西南は坤/未申であって乾/戌亥ではない。戌亥は西北である。どの段階の誤字かは不明だが、「西北」を「西南」と間違える方が「ひつじさる」を「いぬい」と誤るより確率が高そうなので、馬琴の意図は「いぬい」が正しかろう。此の場合、北とか南とかは如何でもよく恐らく「戌亥」であることが重要なのだ。犬士の随一・信乃を、犬猪の風が助ける。後に信乃は六十五頭の火猪と一体となり、山内上杉顕定の駢馬三連車群を打ち破り大塚匠作・番作さんの主筋・足利成氏を生け捕る。閑話休題。

 

 もう一度、此の辺りの物語を読み返す。毛野の復讐計画を利用して、道節が定正暗殺を図る。信乃に打ち明けると一旦は反対されたが、結局は信乃が折れて賛成する。折れた言い訳は、定正が信乃自身の仇だったからだ。いきなり、そんなコト云われても困るのだが、信乃が仇だって云うんだから、仕方がない。信乃は五十子城を落とし、食料庫を開いて領民を賑わせる。信乃は定正を辱める文言を城に書き付け、道節が上塗りする。

 ほぼ同時に毛野は仇討ちを完遂する。道節は、御膳立ては完璧だったが、定正を討ち漏らした。以前から云っているように、此は歴史上の有名人を直接殺すほどの大きな改竄を馬琴が望まなかった故だろうし、兜を射落とし武芸の程を明らかにし且つ与えた傷が元で定正を苦しめただけで十分だと判断したからだろう。

 則ち、道節も、殺せやしなかったものの、【最大限ダメージを与えた】とは云える。一本勝ちではなく優勢勝ち、フォールでなくテクニカルフォールは挙げたと云える。道節は、定正を殺したも同然、と判定され得る。道節は、陽気だ。いや、馬鹿野郎で明るいから陽気ってんぢゃなくって、陰陽五行に於ける火気だから陽気なんだが、陽は生を悦ぶ。対する毛野は水気で陰だから、殺を好む。此の対称が、結果を左右したとも云えるし、実際に縷々述べてきた。しかし、相手の命を奪うことで、{負の}平衡を指向する点で、毛野と道節は一致している。

 

 二十人の小勢で五十子を落とす驚愕すべき大勝利の果て、信乃が道節に見せつけたのは、信乃一流の復讐法であった。まず「信乃は故老の荘客と里正們を喚近着て年来扇谷定正の政事の好歹を問ふに、大家実を吐ざることを得ず。近属竜山縁連が出頭して権柄を執りしより貢調を重くして民の艱苦を憐まず。然らでも年々の軍役に畊作の時を失ひて酷吏の惨きに堪ざるはなし。この故に或は子を售り妻を鬻ぎて国主の慾に充るといひけり」と定正の悪政を聞き、次の文章を書き付ける。

 

「故鎌倉管領足利持氏朝臣両公子春王安王小傅大塚匠三戍之嫡子犬塚番作一戍之独男犬塚信乃戍孝、以精兵才二十名、来攻本城、須臾抜之、以与父祖雪先君旧怨者也。是併同盟義士犬山道節亦欲復君父之讐、是挙在資助其大義矣。吾既已抜城、毫無所犯。蓋以民者国基也。雖有金城石■土に郭/、然無民、其与誰共守焉。即開倉廩而賑窮民。録数行、以留姓名。一日主人公、亦是民之父母也。累世国司、盍憐汝之民。儻有咎民之受于吾者、吾復来而屠城。勿悔。

 文明十五年癸卯春正月二十一日 諭示」

 

 どうやら定正の圧政に喘ぐ領民を賑わせることも、信乃の復讐らしい。信乃の復讐は結果として二重性がある。五十子を攻略した理由は、「以与父祖雪先君旧怨者也」だ。しかし「毫無所犯」、五十子を犯したわけではない。また蔵を開いて民を賑わせた。何故なら民は不当/過剰な収奪を受けてきたからだ。信乃は定正に代わって、過剰な収奪を返済したことになる。そして居座ることなく、定正もしくは扇谷上杉家が民から過剰に収奪すれば、民の「父母」として舞い戻り「屠城」、城を奪うと宣告している。此の段階で、最重要の仇ではない定正のみに復讐する信乃の本意は、文章後半にある。馬琴は、信乃に必然性のない五十子攻略を行わせるが、実は民を撫恤させたかったのだ。定正から過剰な収奪を受ける民は、過剰分を取り返さなければならない。いわば信乃は、平衡を実現したのだ。平衡の実現を復讐とするならば、信乃は民の復讐を代行したことになる。但し信乃は、定正を殺したりはしない。ただ、奪われたものを回復するのみだ。しかも此の文章自体が、定正……若しくは扇谷上杉家の五十子統治存続を承認することが前提となっている{定正は計画通りにいけば道節に殺されている筈だが信乃は殺害の成功を期待していない節がある}。定正を仇と言い募っていたくせに、余りに温情/仁気溢れる態度だ。信乃自身も、五十子攻略に於いては、仁を強調している。信乃の仁は、城兵や領民のみならず、定正もしくは扇谷上杉家へも向けられているのだ。浜路が見せつけた正の平衡に、漸く与したことになる。また此の時、信乃は民の「父母」である。一般的な言い回しではあるが、信乃が言うと、両性具有の疑いが立ち上がる。

 とはいえ定正への復讐も行っている。定正に代わって民を幸せにすることで、定正を徹底して辱めている。定正に、統治者として欠格の烙印を押しているのだ。しかも占領した城から一旦は撤退しても、民に不正を行えば、舞い戻って城を奪うと通告している。此の場合の「城」は、統治権を示すことが明らかなので、信乃は定正を殺すことなく統治権を剥奪できる者だ。此は近世に於いて、天もしくは【公儀】を意味する。信乃は、特定個人間の平衡を希求する私的な立場ではなく、民/第三者の平衡を実現する公的な存在となっている。しかも同じく裁判官として機能した船虫刑戮での冷酷さは背後に退き、仁が前面に現れている。信乃は、個人的な復讐者から、第三者の関係に介入する公的な立場の判事となり、次いで冷酷から仁慈へと段階を踏んで性格を変えてきた。ほかでもない信乃の性格変化は、八犬伝世界の原理が変わりつつある事を表現していよう。

 

 しかも信乃は公約通り、復讐は果たしている。信乃は、仁を施し定正を陵辱することで、復讐に代えた。一つに繋がった道節に絆され、定正を陵辱し尽くしたのだ。喩えるならば、信乃を貫いた道節のファロスが、信乃なる関数によってファロスではない何かに変換され通過し、定正を辱めている。しかし此の変換を理解できない道節は不満だ。「この巣穴を攻破りて民の困乏を賑せしは実に得がたき愉快の事なり」とまでは感じても「然らばなどてや塀を毀ち塹を埋めて火を滅させずその降卒們を馘りて武を赫し給はざる。手緩かりき、と怨ず……」{第九十五回}。

 闇雲に暴れて怨を報ずるが、ファロスの特徴だ。言葉を添えて信乃に与するは、大角である。大角も、かなり女性性が濃いキャラクターだ。「昔保元の猛将為朝主は武勇強弓儔稀なり、しかれども只当面の敵を射て相逆へざる敵を射ず、常に神仏を尊信して皇威を惶み給ひしかば世に良将と称らる、為朝■ニンベンに尚/この行ひなくば一暴雄に過ざるのみ」と信乃に理解を示す。荘介・小文吾、或は道節以上にヤンチャな疑いのある現八さえ同調する。ファロスの権化・現八さえ向こうに回ったのだから、道節には取り付く島がない。五犬士に論理の上で袋叩きにされた道節は、「……微笑つゝ点頭て、有理々々衆議に従ふべし嚮には仇を撃漏せしより焦燥し心のなほ休からで要なき言を費したり。士に争友あるときはその身令名を失はずといふ聖教は今我うへにてこも亦得がたき幸ひなるかな」と塩らしいことを云う。が、真には納得できてはいない。

 

     ◆

今は三四の義兄弟、及落鮎們の幇助あり、且隊兵さへ多く得て籌策行れ既に十二分の利運に至て逃る冤家を射たれども、只その頭鎧を獲て首級を獲ず、こも亦命か天なるかも、昨日犬阪が我を相して意■リッシンベンに中/に夙怨ありといへども謀計遂がたし、遂ずして遂るが如く撃果さずしてその仇死なんといひしは真に■玄に少/訣にて成敗前より定るに似たり、昔唐土の予譲はその仇趙無恤を得撃果さず才に仇の衣を刺て竟に刃に伏たれども予譲の義士たる事に害なし、我は予譲に優べしや仇を射てその■灰のした皿/を獲たり、則これを首級に代え高畷に梟けて君父の神霊を慰ん、今さら天を怨んや、と喞言がましくうち不娯て心もとなく後方なる戦粟庫を見かへりて剛才信乃が写したる諭示の文を両三番読復しつゝ信乃に対ひて、和殿這城を抜きて越に姓名を留めたるその意その文極めて■玄に少/なり、我その才に及ばねども左方に筆を加ん、とて軈て甲の合領より蝋墨を拿出つゝ亦白壁に写着るを大家倶に閲するに、

復讐雪怨、非忠与孝耶。以寡克衆、非智耶。抜城不略地、非礼耶。不誅降卒而賑民、非仁耶。為憐賢良自刃不毀郭、非義耶。進退以一日、非信耶。損功不利己、非悌耶。吾有這八行兄弟、可以敵百万騎也。誰蔑如八行者。弑君奪職両管領、後世後嗣、其辜知。

 犬山忠与追書」

     ◆

 

 血を吐き付けるが如き文章である。後にも定正の命を狙うのだから、道節が納得しきれていないことは明らかだ。しかし、そろそろ道節だって悟ってはいる。信乃流の復讐こそ、長期には政治的効果があることを。闇雲に定正の命を狙うことが、如何に子供じみているかを。

 しかし道節、理屈で動くタマぢゃぁない。忠なる情動に衝き動かされることこそ、道節の真面目である。いっそ全くの馬鹿野郎なら良かったが、ほんの少しは智恵があるので、此の場で五犬に逆らえない。ヤンチャな子犬、道節は、肩を震わせつつ、信乃が行った定正への陵辱を上塗りすることで、漸く自分を無理に納得させたのだ。此の場面で道節は、可憐である。馬琴の心理描写が秀逸だ。人情を穿ち得ている。理性を堅持しつつも純情子犬の道節に絆され、つい復讐心を垣間見せてしまう信乃に就いては、元より魅力的だ。

また、仁義礼智忠信孝悌の八行を、六犬士が集合している段階で宣言している点も興味深い。まだ仁の犬士/親兵衛は富山で伏姫のオッパイ吸ってるし、智の犬士/毛野は独り団体行動から外れている。にも拘わらず、八行全体を宣言しちゃっている。即ち此のとき、八犬士を統合すべき存在が、五十子には舞い降りているのだ。

更に云えば、道節の馬鹿野郎は然り気なく八行のうち忠と孝を一つにまとめている。他六行は別々に書いているのに、忠と孝だけ、「復讐雪怨、非忠与孝耶」と纏めちゃってるのだ。此は忠/道節と孝/信乃が実は、密かに一つに繋がった、美女信乃をモノにしたと宣言しやがっている……のではなく、船虫刑戮の場面から引き続き五十子攻略まで、二人が一体となっていたことを明かしている。また表面的には、閻魔と地蔵は一仏二体であり、厳格な裁定者であり人々を地獄に突き落とす閻魔と、地獄の救済者/地蔵が、実は表裏一体の存在であるところから、羅刹の如き閻魔/道節と外面如菩薩の地蔵/信乃が行動を共にせねばならぬ事情もあろう。復讐の対象として一般的であるのは君父であるが故に、此の場面では忠と孝との相性が良いって事情もある。しかし実のところ、扇谷上杉定正を大塚匠作・番作の仇とするは、かなり苦しい。

 

 定正を仇だと急に言い張り奪った五十子城で、信乃が見せたものは、仁を領民に見せることで敵を徹底的に辱め政治的地位を貶める復讐法であった。また公儀の位置に立ち、過剰に収奪された民のため平衡を希求する者でもあった。仁政が武威に優越すると教える、儒教政治学の影響をも感じる。しかし元より八犬伝は、如斯き浅薄なものではない。儒教たら何たらとの語彙だけでは説明しきれない。此の段は、「仁」を強調することで、親兵衛の復活にも繋がる場面だが、かなり重要な転機でもある。

 

 以前に書いた如く、信乃だって元は慈愛に満ちた美女ではなかった。いや八犬伝世界全体が殺伐としていた。善悪は、さて措き、殺されたら殺し、奪われたら奪う、ひたすら負の平衡/復讐が希求され続けた。が、浜路の復活で、【正の平衡】が提示された。個々人もしくは個々の家に密閉されていた宇宙が、弾けた。復讐のテーゼが変わった。

 五十子を攻略した信乃は、元より定正を討ち取ろうとは考えていなかった。定正の不在を知っての攻城であった。過程として城兵を殺し火を放つが、降伏した兵に消火活動をさせるし、食料庫を開いて領民に分かち与える。勿論、此は領民からコモンセンスを超えて過剰に徴収された財を領民に、【返済】する行為である。或いは利息分ぐらいは足したかもしれないが、やっぱり、正の平衡、なんである。信乃は、正の平衡を【仁】の強調として提示した。まさに此の、五十子で。

 

 そもそも太陽神が復活するとは、如何なることか。約二十四時間周期で太陽の昇降が約束されているなら別だが、八犬伝では暗黒世界が何時まで続くか人々は知らされていない。だいたい太陽神の喪失が、予知できぬものであった。日本神話でも、弟の蛮行に対するヒステリックな抗議行動だし、八犬伝でも殆ど発作的な切腹であった。太陽神の支配を解除され、いつ終わるとも知れぬ夜の世界に放り込まれた人々は、夜の世界としての論理を形成した。乱世である。個々人、個々の家に密閉した宇宙同士が鬩ぎ合う。殺し殺され、奪い奪われた。しかし、もうすぐ夜は終わる。陰から陽への転換だ。秩序の原理として、金気/少陰による刑戮だけではなく、木気/少陽による仁にも光が当てられた。天もしくは公儀の回復である。信乃が五十子城で仁を強調する意味は、いわば朝焼けの前に差す小焼け、淡く頬を染めた東雲……。信乃の目は、嘗て見せたことのない深い優しさを湛えていた。

 

 アマチュア復讐者である道節に、高度に一捻りした復讐法を対置した信乃の涼やかな瞳は、恐らく毛野に向けられていた。復讐に突っ走る道節との対比は当然、プロの復讐鬼、血塗れの美少女・毛野との対比でもある。信乃は「仁」を以て、復讐に替え、結果として相手に深刻なダメージを与えたと思しい。第一次五十子攻略に於ける信乃は、アマチュア復讐者・道節と対比し得ると同時に、より鮮明にプロ復讐鬼・毛野と対比されている。

 しかし毛野の冷徹な瞳は、信乃の視野より先を見通していた。仁は実現すべき理想である。とはいえ、理想に至る過程は、仁/慈愛だけでは乗り切れない。根底に於いて己と共通する理想を掲げつつ、自分より性急な結論に辿り着いた信乃に、毛野は、生前の伏姫にも似た危うさを感じたかもしれない。毛野だって本当は、犠牲の血に塗れた全身を早く洗い清めたかったことだろうに……。

 

 定正が理義を弁えた男なら良かったが、自ら滅びの道を転げ落ちていく暗愚だとは、信乃の慧眼も届かなかった。定正は自ら省みることなく、単純に逆恨みし、南関東大戦を引き起こす。此処等辺が八犬伝の優れた所だ。道具主義で読んでも面白い。信乃や道節が関東管領である定正を徹底して追い詰め死に至らしめていれば、里見家は建前の上で、室町幕府への反逆を問われかねない。しかし、信乃は民に仁を施した上で撤退した。本来なら定正が行うべきことを、信乃が代行した形だ。関東管領である定正の不当性もしくは不適格性が前面に出てしまい、里見家を中傷するどころではない。大義名分を定正は喪ってしまった。後に室町幕府および朝廷が下した裁定通りである{勝てば官軍だし、里見家から贈った貢ぎ物の効果もあったろうが}。にも拘わらず、定正は里見家討伐の連合軍を起こした。

 仁気に拠る裁定が、更なる大きな戦争を引き起こした例に、親兵衛の第一次蟇田素藤征伐がある。素藤と玉面嬢が理義を弁えていれば良かったが、弁えていたら元々悪役にはならなかったかもしれず、お約束通りに、再叛した。親兵衛も里見家も、苦境に陥る。しかし第二次征伐で刑戮を恣にしても、親兵衛と里見家は「仁」のタイトルを保持できた。親兵衛の第一次素藤征伐は、信乃の第一次五十子攻略の、相似形となっている。親兵衛と信乃の親近性は、此までも縷々述べてきた。

 則ち、第一次五十子攻略を仁気溢れる形で終えた信乃の不徹底さが南関東大戦を引き起こしたように見えつつも、実は管領家と戦ったとき正当な防衛戦であるとの大義名分を里見家に与えるため、欠くべからざる過程であった。

 

 勿論、信乃は、身の裡からわき起こった仁心に素直に従ったまでだろうし、毛野だって第一次攻略時に五十子に近付かない理由は、「河鯉の義」だと自ら信じて疑わなかっただろう。それでいて、信乃と毛野の行為は、対称しつつも連動している。実の所、二人を導いているのは、二人の心ではない。八犬伝の主宰神である役行者/馬琴の差し金である。ストーリーの流れに於ける登場人物のあり得べき心の動きと、作者の真意は別物だ。では対称しつつ連動する信乃・毛野を通じて、馬琴は何を描きたかったのか。

 

 信乃は毛野と共に、伏姫の女性性を最も色濃く継承している。言い換えれば信乃・毛野は、伏姫の、特定次元に於ける代理でもある。八犬伝は犬士の物語である以上、其れ故に、伏姫の物語、成長譚である……かもしれない。(お粗末様)

 

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