◆「男色史観」

 馬琴が中世後期、所謂室町幕府時代、特に其の後半を如何なる史観で見ていたかを考える。史観とは、当該時代の動因を何処に置いていたかを考える視座である。
 馬琴の南総里見八犬伝は、関東公方・足利持氏が滅んだ永享の乱辺りから、室町将軍家の権威が地に墜ち戦国の世を本格的に迎える応仁の乱前後までを背景に、安房里見家を中心とした関東稗史を描いたものと言える。稗史もしくは歴史物語にも、史観に類するものはある。平家物語なら「諸行無常」だし、源氏物語なら「手当たり次第に姦りまくるマザコン野郎の一代記」だ(ただし源氏物語は軍記物語ではない)。さて、中世後期という時代を動かした要因を、馬琴は、「近世説美少年録」登場人物の口を借りて、次のように語っている。

     ◆
前略……問れて素它六膝推進め、言腐乱しく候へども嘉吉応仁の大乱は男色龍陽より禍萌して君驕り臣奢る、贔屓の制度に成れるなり、その故をいかにとなれば普広院義教将軍のおん時に不覚に赤松貞村が男色に惑せたまひて贔屓の濫賞ありしかば、そが族満祐父子ふかく怨み奉りて遂に義教公を弑し奉りき、しかるを慈照院義政公も亦懲ずまに赤松彦五郎則尚が美少年なるをもて恩禄の御沙汰ましましき、おん父義教公の讐なりける満祐の甥なるをもうち忘れさせたまひけん、当時好らぬ風聞あり、山名宗全これらの事を只管恨憤りて彦五郎則尚に詰腹を切らせたる、禍も胎あり福も基あり、彼男色に濫賞ありしが亦応仁の乱根なるを只今出川(東山殿の弟義視卿)を疎せたまひし御家督の改変より勝元宗全両驕臣の確執威勢争ひに起るとのみいふべからず、豈衛微漢董の禍を做のみならんや、むかし北条義時が童扈従に殺されしも、これ男色の嫉妬に起れり、近世戦国となりしより大将も士卒も戦場をもて家とすなれば男色を愛て妻妾に易て陣中の徒然を慰らる、この故に美童龍陽のもの歯を染紅粉を施して女子を彷彿たるも多かり、こ丶をもて、その年二十四五までも額髪を剃らずしてなほ少年の面色すなる、なべて今の世の風俗なれば怪むものもあらずかし……後略(「近世説美少年録」第一輯巻之一第二回)
     ◆

 「嘉吉応仁の大乱は男色龍陽より禍萌して君驕り臣奢る、贔屓の制度に成れるなり」。史観は此の一文に籠められている。「嘉吉」は将軍・足利義教暗殺事件(嘉吉の変)と暗殺者の赤松満祐が正体不明の将軍をデッチ上げ領国・播磨に立て籠もって抵抗した事件(嘉吉の乱)だろう。「応仁」は幕府中枢を真っ二つに割って京都および関係者の領国で行われた争乱(応仁の乱)。此の二つの事件が、後の戦国時代の幕開けの前触れとなった。其れが「男色龍陽」を原因とするというのだ。男色によって権力中枢の判断が、慣例や法制度などに則り穏当に行われず、依怙贔屓によって行われるようになった。こうなりゃ不満が蓄積し、世が乱れるのも当然だ。勿論、この様な考え方は、馬琴の独創ではない。例えば、

     ◆
凡人臣之所道成姦者有八術。一曰在同床。何謂同床、曰貴夫人愛孺子、便僻好色、此人主之所惑也。託於燕処之虞、乗醉飽之時而求其所欲、此必聽之術也。為人臣者内事之以金玉、使惑其主、此之謂同床……中略……凡此八者、人臣之所以道成姦、世主所以壅劫、失其所有也。不可不察焉。明君之於内也。娯其色而不行其謁、不使私請其於左右也。使其身必責其言、不使益辞。……後略(▼→韓非子巻二「八姦」
     ◆

 如斯く韓非子の八姦でも同床すなわち肉体を差し出す男女こそが奸佞の第一に挙げられている。女色癖が責任者の判断を誤らせることは現在でも甚だ多く見られる。殊に若い頃の過ちが後々尾を曳く愚かさは、常識を身に付けず育ったのだろう、親の顔が見たくなるほど笑止であるが、八姦では男女を差別してはいない。挿入る場所が三センチほどズレてるだけで、結果としての効果は同じだからだろう。
 因みに「同床」以外の七姦は、在旁(人主の側近に「以金玉玩好」すなわち金玉を以て好きを弄ぶ……ではなく、買収して都合良く事を運ぶ者たとえば玉梓に贈り物して出世した山下定包)父兄(人主と親しい親類や家臣に頼み込む)養殃(血税を搾り宮殿を飾り女性を美しく装わせて歓心を買う)民萌(家臣が勝手に税金を庶民にばらまいて人気を集め人主を孤立させる)流行(弁の立つ者を使って自分に都合のよい言説を流布させる)威強(私に武装集団を集め群臣・国民を脅かして我が儘に振る舞う)四方(国庫の金を使いアメリカ……もとい大国に通じて自分の都合に良いよう内政干渉してもらう)である。これが長い間に培われ語り続けられた東洋の常識である。
 此の常識を用いて馬琴が、室町幕府の世が乱れた原因を男色に求めようとしたこと自体は、正統である。短期的な政治闘争史に対しては、極めて真っ当な視姦……いや史観だと云って良い。まぁ、歴史物語/小説を元にする史観は、所詮屍姦の部類ではあるが、ネクロフェリア青頭巾が文芸作品ならば、男色史観も文芸のうちだろう。まずは穏当に応仁前記を引く。

     ◆
前略……然処勝定院殿御代貞範カ一子越後守詮則ト云者アリ其子共ノ内七人目ノ末子ニ弥五郎持貞ト云ケルヲ御寵愛有テ両州ノ守護ニ被任ヌ夫ヨリ持貞不義ノ品々重リケレハ則祐ノ孫大膳太夫満祐入道威勢アル人ニテ諸大名ヲ相語ラヒ訴訟申ケルニヨリ遂ニ仰下知ヲ被成テ持貞腹ヲ切リ其跡領国ヲハ満祐ニ預ケ下サレケリ普広院殿ノ御代ト成テ此事思召廻サレケルハ勝定院殿イハレナク詮則カ嫡孫伊豆守貞付ヲ指置レ七番目ノ庶子ニ被仰付シハ不及料簡子細ナリトテ内々ニテ貞村ニ御教書ヲ被下連々分国ヲ還ルヘキノ由潜ニ其聞ヘ有ケルヲ満祐入道性具并ニ嫡子彦次郎教康鬱憤ニ存セシ故嘉吉元年辛酉六月廿四日庭ノ泉水ノ鴨ノ子御目ニ掛ヘシトテ御成ヲ申請テ猿楽酒宴ノ最中厩ヨリ馬ヲ放テ其騒動ヲ粉カシ門を閉テ忽ニ普広殿ヲ討奉リ満祐カ家人安積監物行秀ト云者御首ヲ賜リケル浅マシト云モ云ハカリナシ公方ノ御供ノ衆京極加賀入道山名中務少輔煕貴ハ其座ニ於テ討死シ武衛義廉大内介持世ハ門ヲ超テ逃出テ其外ノ衆中悉ク討シ或ハ散々ニ落失テ洛中大ニ騒乱ス其比ノ落首ニ「赤松ハ伊豆ニ播磨ヲ取ラレジト御所ノ頸ヲハ嘉吉元年」。
……中略……(「応仁前記巻」下)
     ◆

 なんだか奥歯に物が挟まったかのようにモゴモゴ言っているが、足利四代将軍義持が、赤松家の家督相続に介入、「御寵愛」を理由に、嫡男を差し置き末っ子・持貞に赤松家所領を与えようとした。怒った赤松満祐入道は猛烈に反発、親戚だというのに持貞に詰め腹を切らせ、所領を我が物とした。しかし暫くして今度は同じ所領を、義持の弟・六代義教が、寵愛する貞村に与えようと御教書まで書いた。所領を取り上げられる満祐は、男色狂いの馬鹿殿・義教討つべしと腹を括った。「うちに鴨の子がいっぱい生まれて可愛く泳いでるから見においでよ」と満祐は義教を自宅に誘った。義教が葱を背負って行ったか否かは書いていないが、ノコノコやって来た義教を主賓にして宴が始まった。赤松家側はワザと馬を暴れさせた。慌てて見せて門を閉じた。赤松宅に閉じこめられた義教は討ち取られ、供の者も殆どが殺された。「応仁前記」は応仁の乱をテーマにしたものだから、義教暗殺事件(嘉吉の乱)は前段として軽く触れている程度だ。此の暗殺事件を主題とした「嘉吉記」になると、やや詳しくなる。

     ◆
前略……貞範ハ一門ノ奉公惣領ナレバ播磨美作ヲ賜ル御教書懇ニアリ。然処ニ勝定院ノ御時定範ガ一子越後守詮則其ノ子七人アリ。末子ニ弥五郎持貞ト云者アリ。男色ノ寵ニヨツテ備前播磨美作三ケ国賜リケリ。アマリノ朝恩ニ誇リテ雅意ニ任セフルマヒケレバ不義ノ子細出来テ人皆目ソ側メケル。サレドモ第一ノ寵臣ナレバ不義ヲ申立ル人モナカリシニ赤松大膳大夫満祐、一族耻辱コレニスギズト諸大名ヲ語ラヒ訴訟申ケリ。罪科遁レ難ケレバ御下知ヲ成サレ持貞腹ヲ切ケリ。勝定院殿角ハ被仰付ケレドモ満祐ガ存念不当也トニクミ玉フ。満祐思フヤウハ角テハ生涯ヲ失ハルベシト思慮シ応永三十四年剃髪入道シ性具ト改名シ己ガ宿所ニ火ヲカケ播磨ノ国ヘ遁下リ再奉公ノ望ナキ体ヲミセケリ。勝定院殿弥憤リ玉ヒ如何セント思煩ケレドモ諸大名語ヒ訴訟セシ事モトガメラレズ又剃髪染衣ノ衣となリシヲ謀反人トモ云ガタシト思召ス内ニ御不例重クナラセ翌正長元年一月十八日薨逝シタマフ。翌永享元年義教将軍ニ任ジ天下ノ諸大名我モ我モト上洛シ賀シ奉ル。赤松入道性具モ上洛シ弥奉公ノ労ヲ勤ム。一門ノ内コレニ過タル器量ノ人ナケレバ備前播磨美作ヲ性具父子ニ被下ケル。其後赤松伊豆守貞村男色ノ寵比類ナシ。イカニモシテコレヲ取立ント思召被仰ケルハ兄ノ御所赤松家ノ嫡々ニ不被仰付、詮則ガ七番目ノ末子ニ御目ヲカケラレ候事ソノ謂レナシ、伊豆守貞村ハ範資ガ子孫ナレバ嫡々也、赤松ノ家督ヲ継グベキ者ハ此人ナルベシト仰セテ内々三ケ国ヲ賜ハン御教書ヲ被成下由風聞セリ。満祐入道同子息彦次教祐コレヲ聞テ角テハ叶マジ、先則制後則被制於人ト申事ノ候ヘバ謀叛テ企義教ヲ弑シ奉ラント工ミケルコソヲソロシケレ……後略(「嘉吉記」)
     ◆

 こちらでは、持貞・貞村は「男色ノ寵」によって四代・六代将軍に愛され所領を与えられることになったと明確に書いている。如何でも良いが、赤松満祐入道は、出家名を「性具」といった。満祐は義持と仲違いして領国・播磨に引き込んだが、義教が将軍になると、「今度こそ愛せるかもしれない」とでも思ったか、ノコノコ幕府に出仕して、義教に忠を尽くした。が義教は、五十歳目前の満祐の熟れた(?)肉体なぞ眼中にはなく、兄・義持と同様、美少年・貞村に「男色ノ寵比類ナシ」と入れ込んだ。ちなみに何を何に「入れ込んだ」かは、内緒だ。義教は、「兄ちゃんは末子を取り立てようと馬鹿なことを考えたが、俺は違う、貞村は赤松家の嫡流と言える血筋だから、所領を与えても正当だ」と考えた。正当か如何かで当時の政治が動くわけでなし、自分たちも正当なことをしてきたか否かは全く考えなかったのか、義教は無闇に自己を正当化した。一方の赤松満祐入道性具は、正当だろうが不当だろうが所領を取り上げられるのは厭だと、まことに御尤も且つ我が儘に反発、義教暗殺を企てた。
 義教暗殺は成功し、満祐一族は播磨に立て籠もった挙げ句、幕府軍に討伐された。義教の息子・義勝が跡を継いで将軍になるが一年で死去、義勝の弟・義政は八歳か九歳かであったため六年後、元服してから正式に将軍職を継いだ。継いだはいいが、政治的実力はない。後に、教養に裏打ちされた美的センスを見せたから、馬鹿ではなかった筈なのだが、佞臣たちに掻き回されたか。デカダンスといぅか耽美といぅか、彼は美でありさえすれば何でも良いってタイプの人間だったようだ。モラルがない。馬琴によると、父の仇である赤松満祐、其の甥・則尚を義政は愛したことになっている。「慈照院義政公も亦懲ずまに赤松彦五郎則尚が美少年なるをもて恩禄の御沙汰ましましき、おん父義教公の讐なりける満祐の甥なるをもうち忘れさせたまひけん」である。
 実は赤松家は、ちゃんと後南朝の天皇家一族を虐殺して神璽を強奪し現天皇家に繋がる北朝帝に献ずる大手柄も立てたのだが、馬琴はキッチリ黙殺、赤松則尚が美少年であった(であろう)ことに、赤松家再興の理由を見出している。まぁ民衆の利害に全く無関係なことは両者一般なので、馬琴の態度は責められるべき程のものではなく、極めて些細な問題に過ぎない。
 実は各種軍記に拠ると、此処から【室町男色物語】の主人公が、将軍家から細川管領家にシフトする。此のシフトは、権力の源泉が将軍家から細川管領家に、厳密に言えば将軍家を背後から脅かしていた赤松(四職)山名(管領)から、実力が、【株式会社細川家】に移った現象と合致する。則ち、【男色の主宰者】こそが権力の源泉、権威を掌中にすることになる。「男色史観」である。
 種明かしは簡単である。韓非子の八姦にある如く、権力者には肉体を差し出す佞人が群がり、性交に成功した佞人が権力の中枢に食い込む、ってだけの話だ。故に権力の頂点は現象面で、「男色の主宰者」に持ち上げられる。佞人の権力に対する触覚は敏感だ。正確に権力の所在に向けて、肉体を開く。赤松家は分裂した挙げ句に勢力を減じ、山名家も、総合力としては強大であっても家督争いで分裂、ボ〜〜としているが何となく家として纏まっている細川家が総体として優位な印象を与え始めていた。佞人の肉体は、細川家に差し出されることとなった。そういった意味で、馬琴の「男色史観」は、かなり正鵠を得ている。さて再び「応仁前記」である。

     ◆
前略……山名入道宗全此事ヲ訝ク思ヒ赤松家再興セハ播州ヲ取返サレンカト鬱憤常ニ止サイケレハ……中略……山名入道カク狼藉ヲ挙動トモ赤松次郎法師丸ハ威勢ニ恐レ敵対セス一向管領勝元ヘ身ヲ寄テ本領安堵ノ義ヲ歎訴ス此次郎法師丸カ祖父ハ満祐入道性具カ弟伊予守義雅オテ嘉吉ノ乱ニ播州白旗山ニシテ兄ノ満祐ト一所ニ自殺シ死失ケル此義雅カ子其時九歳ニ成ケルヲ建仁寺ノ大昌院天隠和尚深ク隠シ育ミ給ヒテ後ニハ出家シテ性存坊勝岳ト云ヒケリ勝岳カ子即今ノ次郎法師是也扨又此次郎法師幼少ナリト云ヘ共其心勇敢ニシテ其気大膽ナリ剰ヘ器量礼容世人ニ勝レ寛正文正ノ比世ニ隠レ無キ美少年ナリ細河勝元深ク愛シテ其志常ニ厚ク此童只者ニ非スト見給ヒケレハ弥以懇意ヲ尽シ御所ヘモ吹挙セラレシ程ニ公方家モ逐日御恩重ク次郎法師出頭セシム今年十四歳元服シテ政則ト名乗テヨリ山名入道弥安カラス思ハレケレハ鬱憤次第ニ募リケリ応仁ノ乱根多シトイヘ共第一ニ天下政道不正第二ニ公方家御家督ノ御違変第三ハ此政則故トソ聞ヘシ……中略……(「応仁前記」巻下)
     ◆

 とはいえ、まだ細川政元の出番ではない。まずは政元の父親・勝元が登場せねばならない。赤松満祐の弟の孫・政則を細川勝元は寵愛する。「世ニ隠レ無キ美少年ナリ細河勝元深ク愛シテ其志常ニ厚ク此童只者ニ非スト見給ヒケレハ弥以懇意ヲ尽シ御所ヘモ吹挙セラレシ程ニ公方家モ逐日御恩重ク次郎法師出頭セシム」である。
 此処では美少年・政則、勝元に愛され将軍に紹介してもらったとは書いているが、義政に就いては【目を掛けて用いた】ぐらいのニュアンスだ。「目を掛けた」動機が、美少年ゆえなのか勝元の推挙であったかは明確ではない。場合に依っては、義政が勝元とデキてて、勝元の推挙を拒めなかったに過ぎず、義政は政則に対して潔白であったかもしれない。何たって幼くして将軍職を約束された義政に六歳年上の少年管領・勝元がピッタリ寄り添うのだから、【間違い】があってもおかしくはない。二人とも、【そのケ】は多分に有している。大人になってからの話だが、喝食すなわち禅寺で色気を振りまいていた少年を侍らせ、二人は仲良く食事をしていたりする。しかも勝元は自分の娘を政則と結婚させるほど入れ込んでいた。勝元が、何を何に「入れ込んでいた」かは、またしても内緒である。管領の婿、という立場と引き替えに肉体を要求するとは、実子の政元が八犬伝で見せた行為だ。それほど勝元が入れ込んでいたのだから、義政は遠慮し、則尚で我慢したのか、ソッチの方が好みだったか。
 馬琴に限らず近世の文芸は、多種雑多な【物語の種】すなわち神話や伝承、お伽噺や仏教説話、時事事件や歴史挿話などなどを、好き勝手に互いに混ぜ合わせ、分割し、新たな世界を作り出すことがある。戯曲なんかは、其の傾向が顕著である。いや、珍しがっているわけではない。近世文芸に限らず、物語なんてものは、そういうものだ。ただ、多く作品が残っているから、目立つだけではあろう。
 今まで若干、歴史物語の断片を引いてきたが、八犬伝の世界と、忠実とは言えないまでも、まったく隔絶した世界ではないと了解せられるであろう。政元が空を飛んだりしていない分、まだしも八犬伝の方がリアルな世界かもしれないけれども、歴史物語を細分化して、馬琴なりに再構成すれば、八犬伝になりそうだ。現実世界がドロドロのグチョグチョな男色ゆえに政治が動いていたとしても、さすがに書けなかったか、勘違いした御仲間同士で舐め合う公私混同没道義な部分だけを取り出して、八犬伝の悪役たちを創造したと考えるべきだろう。(お粗末様)

←PrevNext→
      犬の曠野表紙旧版・犬の曠野表紙