●伊井暇幻読本「虚空に輝く穢れなき玉」●

 金光明経に関して三回目である。極めつけの不信心者だから経を読むと疲れる。出来るだけ早く終わらせるので、もう少し辛抱していただきたい。
 第十六章は「大吉祥天女品」だ。大吉祥天女は、本経を奉ずる者に生活物資を与えると約束する。利益誘導だ。第十七章「大吉祥天女増長財物品」では、前章に引き続き、本経を奉じる者に、物質的援助を保証している。両章で纏まって一部分を構成しているが、実は大吉祥天女の背後には瑠璃金山宝華光照吉祥功徳海如来が控えていて、此の如来の法力で宝が与えられるらしい。如来で「瑠璃」ときたら一般に薬師だが、此の場合は、字面から、財宝を司る者ってぐらいの意味だろう。経典は、名詮自性の世界でもある。因みに、大吉祥天女の住所を「北方薜室羅末拏天王城名有財。去城不遠有園名曰妙華福光。中有勝殿。七宝所成。世尊。我常住彼」と明記しており、ストーカー被害が心配だが、北方薜室羅末拏天王は多聞天の別名であり、彼を敵に回してまでストーキングするほどのスケベェは、帝釈天(インドラ)か大黒天(シヴァ)ぐらいのものだろう。
 第十八章は「堅牢地神品」だ。名前通りに大地の神らしく、本経を奉ずる者に、豊かな稔りを約束する。大弁才天女が金銀装飾物など工業製品に重点を置いているに比し、食料を供給する役割を与えられている。
 第十九章は「僧慎爾耶薬叉大将品」である。薬叉大将は武神のイメージが強いが、智恵こそ利剣であるから、此の薬叉大将は、智恵の塊で「正了知」との綽名をもっている。こんな薬叉大将だから、職掌は地味で、本経を奉じ他者に説法する者の智恵を増幅する。
 第二十品は「王法正論品」だ。此処では大地神女すなわち先に登場した堅牢地神が登場する。神女の要請で、世尊が正しい王法を説く。内容は略する。何故と云うに、仏法は真理を説く者であり、真理は思想の根底に在るものだ。仏教では、此れまで見た如く、真理を其の侭には説かず其の時と場に応じて表現する。本稿で使用している義浄訳でさえ千三百年以上も前のものだ。当時と政体も違い御国柄も異なる。此処で語られる王法は抽象的なものではあるが、当時の政体を前提とした表記を其の侭に紹介しても、却って誤解を招くだけだろう。ただ、論理の流れとして必要な部分は、国王が国民の悪を野放しにすれば、其れは国王の罪であり、天然気象環境が異変を起こす。異変となれば食物は順調に育たず、国民の栄養が不足する。心身のバランスが崩れ、更に悪が蔓延ると説く点は、記憶しておかねばならず、又、如斯く説く故に、食料担当の堅牢地神が引っ張り出されていると、解すべきだろう。また、賞罰を明らかにすることは、八犬伝でも政治的なテーマとして取り上げられているし、本経独自のテーゼではない。寧ろ儒教政治学の方が、詳細に論じている点だ。儒教も仏教と相前後して伝来した筈だから、本経の論点としては無視しても良い……筈なのだが、とあるトンチンカンを論うに当たって後にも若干触れる。
 第二十一章は「善生王品」である。いきなり第二十品で「王法正論品」が登場したが、続きである。宝髻如来なる仏が涅槃した後、善生王という人王が転輪王となり全世界を統治した。転輪王とは、優れて理想的な王に対する称号だ。善生王は、夢に金光明経の説教を聞いた。王は感激し、起きて如意末尼珠を手にして、衆生のため国土に装飾具が降り満つるよう祈った。実は善生王の正体は釈迦で、過去に膨大な財宝を捨てていた。財宝を捨てた功徳によって、今や国土が財宝で満ちたのだ。
 第二十二章は「諸天薬叉護持品」だ。何だか薬叉が主役に思わせているが、世尊が大吉祥天女に語りかける形である。薬叉と眷属も列挙されてはいるが、他の諸天や梵天帝釈まで登場する。とにかく本経を信ずれば、これら仏教守護神たちに擁護されるとしている。
 第二十三章は「授記品」である。如来が、妙幢菩薩と其の息子である銀幢・銀光の三人に阿耨多羅三藐三菩提の証書を授けようとする。三人が一緒に阿耨多羅三藐三菩提するのではなく、まず妙幢菩薩が来世に阿耨多羅三藐三菩提し金宝山王如来応正遍知明行足善逝世間解無上士調御丈夫天人師仏世尊と号する。父である如来が般涅槃し教法が亡びた後に、長男である銀幢が仏に補せられ浄幢と名を変え、金幢光如来(以下同じ)と号する。兄である如来が般涅槃すると仏教は滅ぶが、銀光が仏に補され金光明如来(以下同じ)と号する。子どもは銀幢・銀光から「金」に昇格し、金幢光・金光明如来へと変わっている。ところで、ここにウジャウジャ「十千」の天子が集まって来て、一緒に説教を聞いた。世尊は、何を思ったのか、此の得体の知れぬ天子どもにも阿耨多羅三藐三菩提の証書を与えた。収まらないのは他の菩薩である。菩提樹神すなわち堅牢地神が、「なんで、こんなポッと出の奴らに授記なんかすんのよっ!」と息巻いた。世尊は、ニヤリと笑う(←これは嘘)。
 第二十四章「除病品」で、十千天子が授記された理由が語られるかと思いきや、世尊は、そんなに素直ではない。まず妙幢菩薩と其の息子、銀幢・銀光の三人に授記した理由を、菩提樹神善女に向かって述べる。正法すでに滅んで像法の世、天自在光王の治世、持水なる長者がいた。持水は医術に長けており、人々の病を除いた。しかし今や持水は耄碌しており、医術を施せなくなっている。一人っ子の流水は、国内に病人が満つるを見て、父に医術を学ぶ(泥縄だと思うが)。無量百千の病人を救う。それでも救えない重病人が無量百千いたので、再び父に医術を教わり、これらの衆生も救う。
 第二十五章「長者子流水品」は、尻切れ蜻蛉で終わった前章の続きだ。仏が菩提樹神善女に語る。病から救われた人々は流水を大力医王とか慈悲の菩薩だとか称える。さて、流水は妻・水肩蔵との間に二人の子を儲けた。水満と水蔵である。流水が二人の子を連れて国内を遊行していると、水の干上がった沢に出る。多くの魚が苦しそうにビチビチのたうち回っている。「時有樹神、示現半身」樹神が半身だけ姿を現して、流水父子に魚を助けるよう唆す。聞けば、現地の人たちが魚を獲るため、上流を堰き止めたらしい。流水は大王から大象二十頭を貰い、堰き止められた水を汲んで、池に満たした。流水は息子たちに言いつけ、家から食料を持ってこさせる。人間用の食料まで、全てを魚に与える。更に流水は、十二因縁の法を魚に説く。馬の耳に念仏とは謂うが、魚に説法したのである。実は流水の父こそ妙幢菩薩、流水の二人の息子が銀幢と銀光、魚たちが十千の天子だったんである。で、流水は、世尊その者だった。妙幢菩薩と銀幢・銀光は、人々を病から救い、或いは魚を救った故に仏となった。で、魚/天子たちは世尊から十二因縁の法を直接教えられたために、仏となることを約束されたのだ。十千天子が授記されることに疑問を呈した菩提樹神女であったが、抑も十千天子の前世の姿であった魚を助けるよう教唆したのは彼女の眷属もしくは本人と思しき「樹神」であった。経の繁く採るマッチポンプ筆法である。疑問を投げかけておいて、自分は実は解答を知っているってヤツだ。経ではランダムに各仏格が登場しているのではなく、関係者だけが登場するのだ。関係者だから実は過去に関わっていたり、事情に精通していることになっている。或る教えを釈迦の口から云わせるために、故意と知らんぷりして話を振っているのである。方便ってヤツなんだろうが、極めてイヤラシイ態度だ。
 第二十六章は「捨身品」だ。本経の読みどころであり、よく知られた部分である。世尊は菩提樹神はじめ諸大衆に向かって話を続ける。「俺が過去に救ったのは、魚だけじゃない」そう云って世尊は林に入っていき、座を定める。「ところで、往昔に苦行した菩薩の髑髏を見てみるか」。付き従っていた者たちが見たいと云うと、世尊、大地に触れる。世尊は宇宙の法則を熟知している。大地の神、堅牢地神は女性なんだが、大地が最も敏感な場所を知り尽くした変態中年オヤジ世尊の愛撫に、「大地六種震動。即便開裂」大地は悶え喘いで、其の褐色に潤んだ堅牢かつ豊満な肉体を開く。美しく飾られた箱が迫り出してくる。開けると美しい、虚飾を捨て去った美しい髑髏が現れる。世尊は「此の髑髏こそ、俺の成仏した原因だ」。思い出話が始まる。大車王が治める強大な国家があった。三人の王子がいた。長男は摩訶波羅、次男は摩訶提婆、末っ子が摩訶薩■(土に垂)。大王が山林を散歩した時、三人の王子もついて行ったが、父を放っといて勝手に歩き回った。林に入り長男が、猛獣に害されないかと恐れた。次男は、死ぬのは怖くないが別れ別れになるのは辛いと云う。末っ子は、此処は聖なる場所だから何だか嬉しいと目を輝かせた。変な奴だ。進むと、牝虎に出くわした。七匹の子を産んで衰弱していた。衰弱のため餌を求める力もなく、七日が過ぎていた。飢えきった牝虎は、まさに産んだばかりの赤ちゃん虎を食べそうだった。城に急ぎ帰って食料を持って来ようにも、死にかけか死んだばかりの者の肉しか虎は食わない。何者かを犠牲にしなければならない。長男、次男は牝虎を哀れむものの、いつの間にか立ち去った。末っ子だけが残り、自分の肉体を奥様虎に与えようと決意し、全裸となって近付いていった。が、奥様虎は末っ子に襲いかかる気力もなく、ただ見上げるのみ。末っ子は、食べやすいようにと、己の首筋に乾竹を突き立てた。フラフラと奥様虎に近付いた。一天俄に掻き曇り雨下り「大地六種震動」、花散り注ぎ妙香が漂った。大自然は釈迦の行為に驚愕し、そして感動/祝福をしているようだ。漸く奥様虎は末っ子の、まだ青い肉体にのしかかっていき、舐め回し貪り尽くした。骨や頭髪が散らばり、大地は血に濡れ、泥濘となった。ちょうど其の時、昼寝していた末っ子の母親は、乳房を裂かれ母乳が迸る衝撃を覚えて、跳び起きた。愛児を喪った直感が、母性を襲ったのであろう……世尊は呟く「そう、其の末っ子ってぇのが、俺だ。此れは美熟女奥様虎に銜え込まれちまった、俺の髑髏なんだ」。因みに薄情な長男は弥勒菩薩、次男は文殊菩薩、父王は実際に王子だったゴータマさんの父たる迦毘羅衛城は浄飯王、母は其のまま摩耶夫人、美熟女奥様虎は大世主(大愛道)即ち摩耶の妹にして釈迦の継母っぽい摩訶波闍波提すなわち一切喜見如来だったらしい。
 第二十七章「十方菩薩讃歎品」以降はオマケみたいなもんだが、此の章では、まず無量百千万億の菩薩が鷲峰山に集まり釈迦の説教を聞いて、讃歎する。第二十八章「妙幢菩薩讃歎品」では、妙幢菩薩が仏を讃歎する。第二十九章「菩提樹神讃歎品」では、やはり菩提樹神が世尊を讃歎する。讃歎したことにより菩提樹神は、世尊に最上菩提を約束されている。第三十章「大弁才天女讃歎品」では、世尊を讃歎し無上法門を保証されている。第三十一章は、オマエの中のオマケ「付嘱品」だ。世尊は、無量の菩薩、諸人天、一切大衆、すなわち総ての者に対し、本経を守護し流布せしめる者は誰かと問いかける。まず六十倶胝の大菩薩と六十倶胝の天大衆が進み出て、本経の守護と流布を誓う。続いて四大天王、天帝釈、覩史多天子、索訶世界主と梵天王、魔王子商主、魔王、妙吉祥天子、慈氏すなわち弥勒菩薩、上座大迦葉波、具寿阿難陀の順に立って、それぞれ本経の守護と流布を誓って、全文を締め括る。
 長くなったので再説する。まず序品があり、教え其のものの思想的中核、懺悔が説かれ、大乗仏教としての一般論たる空性などが確認される。そして教えを守れば、何だかトテツモナク強そうな四天王が守ってくれるらしい、と続く。
 此の辺りから呪術の世界に入っていき、教えの聴き方を大弁才天女が規定する。「弁才」とは巧妙な語りのことであり、如何すれば己の主張を相手により能く伝えるかの技術でもある。伝える技術は、語る環境をも動員する。怪談百物語を、蝋燭の火のみの暗い部屋で聞くが如きである。則ち、四天王の強力な守護誓約は教えの効果面、大弁才天女の環境づくりは導入面から、衆生を教えに引き込む機能を持たされている。
 四天王が守護すべき世界の中心には無染著心があるとして、まず登場するのは龍を率いた観音であり、次が弁才天だ。弁才天は本経の世界へと本格的に入るための「導入」であった。何処かで聞いた物語の序盤に酷似している。後は、吉祥天やら堅牢地神やら薬叉大将などが登場し、本経を信奉する者に福を為すよう約束する。第二十「王法正論品」及び第二十一「善生王品」では王者の採るべき道が示される。結局、護国などというものは、勝手放題にしておいて虫の良い呪術の結果導き出されるものではなく、施政の結果であり責任は為政者にあるってだけのことなんだが、此の部分は恐らく日本では誤読されていた。第二十三「授記品」は、妙幢菩薩父子と十千の天子が阿耨多羅三藐三菩提を約束される。第二十四「除病品」第二十五「長者子流水品」で理由が説明されるが、何のことはない、釈迦の手柄話に過ぎない。第二十六「捨身品」も同様で、釈迦の功徳を説く。虎が登場する点に、値打ちがある。また、虎が実は釈迦の継母、実母の妹・大世主であったことには、注意が必要だろう。摩耶夫人亡き後、妹の大世主が替わって母となった点は、応神説話をも思い出させるし、また、実体化した画虎の正体が妙椿すなわち八房の継母であったとは既に述べた。  要するに釈迦の場合、自らの肉体を与えて救った所の熟女虎が転生し、自らを育む慈母となって恩返しをした様に読める。また、魚であった十千天子は釈迦本人の前世である長者子に十二因縁を説かれたため即ち普遍の真理たる釈迦に普遍の真理を示して貰う希有の経験に拠って成仏するを得たことから、同様に考えると、熟女虎も釈迦と直接関わり慈愛を捧げられる希有の経験に拠って、釈迦の継母という名誉あり且つ莫大な功徳を積める立場を得た、とも云い得る。餓えた熟女虎は、嫌がる釈迦少年を無理遣りに押さえ付け舐め回し其の青い肢体を蹂躙し貪り尽くしたのならば、最悪の罪を得る。併し、其れは、あり得ない現象である。何故ならば、第二品で語られた如く、釈迦は兎に角、他者に施す存在である。餓えた者がいれば、必ず施す。故に、餓えた熟女虎は、決して釈迦を【無理遣り】には蹂躙し得ない。しかも画虎ならぬ餓虎は積極的に釈迦の肉体に手を出さず、却って釈迦が積極的に青い肢体を差し出し初めて貪ったのだから、餓えた熟女虎は、自ら釈迦を噛み殺す罪を得ることなく、自分の赤子を食らう罪を犯すこともなく、ただ釈迦に施しの功徳を行わせた者として、即ち与えた者としての側面を生ずる。総ては釈迦の奇妙な……いやいや、奇特な行為によって論理が逆転してしまったことに依る。って、自分から進んで食われる奴ぁいねぇよ、と云う勿れ。確かに凡俗の想像を絶する論理ではあるが、仏教に於いて釈迦は、正しく「凡俗の想像を絶する」存在であるから、此ぐらいで、ちょうど良いのだ。
 上記の如く、経典としては解り易い部類だろう。流れとしては、如来の寿命を云々して、不殺生と施しの重要性を確認する。金鼓によって無私の清浄さを象徴し、無垢に近付くための手段として懺悔を説く。殺さず、施す。この性根は、有形無形、最小限のもののみ残して、虚飾なる部分を全て削ぎ落とすよう勧める。それでも本経を信奉すれば自然の恵みが与えられ、食うに困ることはない。祭壇を飾る宝物も何処からか与えられ、不足することはない。観音を主とする龍王たちの守護が得られ、四天王も見守ってくれている。何も恐れることはない。餓虎さえ、恐るるに足らない。食われることは決してない、唯、餓虎に自らの肉体を食わせるだけだ。「食われる」のではなく、「食わせる」のだ。殺生を避けるための、単なる【施し】である。途中の「施し」として医術を病人に行ったり、魚に水や食い物を与えたりするが、究極の施しとして【捨身飼虎】まで突き詰めちゃうのである。
 まず八犬伝と本経が外形上、如何に関わるかと云えば則ち、本経を信奉する者を四天王が守護すると誓った後、徐に観音菩薩が登場、犬士の母たる伏姫は観音菩薩の化権であったけれども、本経に於ける観音は雷を操る強力な龍王どもを統括する存在であり如意宝珠を操っている。観音が登場する第十四章が「如意宝珠品」と名付けられている所から、観音が如意宝珠の担当者であることを示しているが、如意宝珠を持つとなれば如意輪観音であり、如意輪観音が七星如意輪曼荼羅の本尊だとは夙に「輪宝剣」で述べた。七星如意輪曼荼羅とは、如意輪観音を、血塗られた女神・訶利低母および北斗七星の八尊で囲んだ像だ。八は七と一の和であり、他の七犬士と毛野に差別があると早くから諸人が指摘してきた。また、八犬伝では終盤になって地蔵菩薩の露出度が高くなるが、本経でも彼は妙幢菩薩の名で大活躍、特に終盤には如来授記を受け説話部分では釈迦の父ともなっている。更に虎が登場するが、本経では釈迦の捨身によって供養された後に釈迦の叔母と転じ更に継母として釈迦を養った。八犬伝では、母を亡くした八房を養った謂はば継母に当たる玉面嬢が次々に里見家や犬士や関係者に仇なした挙げ句、如是畜生発菩提心、八房と同じきホワイト・マジックによって虎となり、結果的に親兵衛を京都軟禁から救い細川政元による陵辱から遠ざけた。オマケとして悪徳仏教者を虎に襲わせてもいる。虎を挟んで本経と八犬伝は、見事に逆転の構図を見せている。(お粗末様)
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