●伊井暇幻読本「血の池に浮かぶ伽藍」●

 前回まで金光明経に就いて語り、八犬伝との関係を尋ねた。まぁ元々、四天王が安房を守護するって終盤の場面からして、直接間接を問わず、無関係ではいられないんだが、馬琴のことだから金光明経の内容に関する痕跡ぐらいは残しているだろうと当てずっぽう(気取るなら「仮説」と謂うらしい)。だいたい八犬伝に於ける、餓虎ならぬ画虎の挿話の締めは一休の説法だが、其れだけに仏教の影響を考慮に入れざるを得ない。画虎に襲われた徳用を里見家中が拘束する挿絵に「諸悪勿作衆善奉行」とある。一般論を云うのみで特徴の無い言葉ではあるが、此も仏教系だ。仏教とか神話とか分けること自体もどかしく、過去に於ける我が邦の文物がギッシリ詰まっている八犬伝であれば、色んな側面から突いて様々な埃が出ようというものだ。
 金光明経を読んでみて、やっぱり八犬伝と関係があるとしか言えぬほどの、共通性と対称性が見られたから、やや満足している。ただ、此処で話を終えると、アッサリし過ぎるので、金光明経もしくは日本の鎮護国家仏教成立期に就いて、軽く振り返ってみたい。
 金光明経は、まず天武帝のとき国史に現れる。家庭内暴力で政権を纂奪した大海人皇子だ。漢の猿真似に過ぎないが、自らを火気の王と規定し甥を死に追いやった此のオカルトマニアは、火気ゆえに水気を恐れた挙げ句、他ならぬ皇位の証・草薙剣に祟られてしまう。彼の手を汚した血は、大海の水を尽くしても清められることはない。彼は仏教に縋った。このとき持ち出された経典の一つが金光明経なのである。
 日本書紀巻十六小泊瀬稚鷦鷯尊(武烈天皇)あたりから続日本紀巻第三十二天宗高紹天皇(光仁)ぐらいまで、雑と気の向くまま瞥見すれば(▼→日本書紀・続日本紀巻抄)、鎮護国家の画期とされる東大寺が、皇位を巡って流された血の池に、ドンブラコッコと揺れ浮かんでいる情景が、髣髴とするだろう。当たり前だ、皆で仲良く外敵の心配もなく楽しく満ち足りた社会に、宗教なんか必要ない。国家政体がメチャメチャ不安定で、自分たちで如何しようもないからこそ、極めて現実的な課題である「鎮護国家」まで、宗教に縋らねばならないのだ。因みに激しく揺れ動く東アジアの国際環境に就いては割愛したが、朝鮮半島の植民地・任那府が滅ぼされたり再興のために兵を送ろうとしてみたりと、極めて緊張していた。
 だいたい天平勝宝九(七五七)歳に起こったクーデター未遂事件で、首謀者の一人、橘奈良麻呂は、現政権が東大寺建立のため国民を疲弊せしめたことを理由に挙げている。対する政権側の反論は見事であった。いや正当性は全くない反論だが、気の好い者なら口を噤んでしまう類のものだ。
 奈良麻呂に対し政権側は以下の如く反論した。「東大寺建立は、オマエの親父が政権の中枢にいたとき始まったんだから、オマエに文句を言われる筋合いはない」。実際、父の諸兄は権臣であった。あったが抜けたところもあったようで、藤原仲麻呂が男色の故にか台頭するを許し(当時の権力者は女性であった)、天皇に対し無礼な言動があったとされて引退、程なく死んだ。死んで息子の奈良麻呂が、仲麻呂を除くためクーデターを企てたのだ。
 「オマエに文句を言われる筋合いはない」。奈良麻呂は、現政権を糾弾する原告としての資格を認められず、訴えを棄却された。但し当然この反論は、現政権の行為が正当であると認めるものではない。認めるどころか主張さえしていない。
 奈良麻呂の乱に先立つ藤原広嗣の乱(天平十二/七四〇年)も、鎮護国家仏教を主導する天平のラスプーチン玄ムらを除こうとしたものだ。広嗣のもとには九州各地から一万の軍勢が集まった。対する朝廷軍は各道から掻き集めた一万七千人であった。広嗣のもとへ九州各地すなわち西海道から一万人が集まった事実は、仏教興隆を謳い各種仏教行事に膨大な財を注ぎ込む聖武帝政権に対し、民衆の呪いが強かったことを物語っているように思えてならない。
 鎮護国家仏教体制の確立は、取りも直さず、民衆に重荷を負わせ苦しめる圧政であった。何とかの一つ覚えの如く、何かの度に大赦を行いもした。奈良麻呂の乱で主立った者の多くが「杖下に死す」拷問で次々殺されたことからも解るように、当てずっぽうで自首偏重、冤罪も多かったであろうから大赦も無意味でないけども、真の犯罪者を野放しにもしただろう。これが鎮護国家仏教体制である。しかも金光明経を引用して、聖武帝の娘・高野天皇は、臆面もなく云っている。「続日本紀」神護景雲三年十月朔日条である。
 掻い摘んで云えば、まずは和気清麻呂(輔治能真人)を因幡員外介に左遷した事件があった。清麻呂は更に大隅まで流されるのだけれども、高野天皇は、よほど恨み骨髄に徹したらしい、詔の中で口を極めて清麻呂を罵っている。寵愛する道鏡を皇位に即けるため宇佐八幡の託宣を聞きに行かせたところ、清麻呂がアベコベに「そんなことは出来ん」との託宣を持ち帰ったのだ。結局、清麻呂は大隅なんて【殆ど外国】みたいな所に飛ばされ、道鏡失脚後には一時、都に戻ったものの、堅物だから持て余したか、再び地方に飛ばされて、朝鮮系で実務に長けた桓武帝が掬い上げるまで冷や飯を食わされ続けた。彼こそ冷や飯食いのプロだろう。皇国美談? の一つである。
 さて、憎ったらしい清麻呂を追放して二カ月後の十月一日、高野天皇が詔の中で語った詞が「最勝王経(乃)王法正論品(尓)命(久)、若造善悪業今現在中諸天共護持示其善悪報国人造悪業王者不禁制此非順正理治擯当如法(止)命(天)在、是(乎)以(天)汝等(乎)教導(久)」即ち訳せば「金光明経は、王の義務として善悪を明らかに分け賞罰を正しく行うことを挙げている。この教えを以て汝らを導く」となる。確かに金光明経は、そういうことを云っている。が、悪しき者が野放しになっていれば王が責められる、則ち賞罰を正しくすることが王者の義務と書いているだけなんだが、自分の都合の良いように賞罰の権を振り回せとは、何処にも書いていない。
 佞人の言葉を真に受け、道鏡に皇位を譲ろうとしたにも拘わらず、賞罰を正しくするとか皇位を望む者は排除するとか、よくも言えたもんだ。結局、当時の「正しい賞罰」とは、天皇個人に媚びを売る者を篤く賞し、さなきは罰するってだけのことなんである。引き合いに出された金光明経こそ、いい面の皮だ。端的に言えば、彼女にとって金光明経は、懺悔などの内省的思考法を教えるものではなく、単に字面で都合の良い部分、王が賞罰の権をもつとの表面的な部分だけを抜き出し強調しているに過ぎない。
 対比するには、聖徳太子を持ち出したら解りやすいだろうか。彼は、とにかく賢明であった。彼は蘇我氏と組み、物部守屋を討った折、四天王に加護を祈った。戦闘中だというのに「白膠木」を削って四天王像を造り、額で束ねた髪の上に置いて祈った。崇峻天皇二年秋七月の条である。
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是時厩戸皇子束髪於額(古俗年少児年十五六間束髪於額十七八間分角子今亦為之)而随軍後、自忖度口将無見敗非願難成、乃■(昔に斤)取白膠木疾作四天王像置於頂髪而発誓言(白膠木此云農利■泥した土)今若使我勝敵必当奉為護世四王起立寺塔、蘇我馬子大臣又発誓言凡諸天王大神王等助衛於我使獲利益願当奉為諸天与大神王起立寺塔流通三宝、誓已厳種種兵而進討伐、爰有迹見首赤梼射堕大連於枝下而誅大連并其子等
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 精巧なものではなく四本の棒の断片に過ぎなかったであろうが「四天王像」を前髪に押し付け勝利を叫ぶ妖艶の稚児、相続いて同様に叫ぶ獰猛なる念者役の馬子。戦場に於ける狂気を弥(いや)が上にも盛り上げるアジテーションである。四天王の憑依した凄艶なる美少年に奮い立ち、押され気味だった士気を回復した兵士達は守屋に殺到した。一人が見事に射殺、将を喪った守屋軍は総崩れとなった。聖徳太子のパフォーマンスは、若干の違いこそあれ、およそ八百年後フランスで、オルレアンの少女が再現してみせた。
 ところで守屋の留守宅を守っていた捕鳥部万は、敗北を知って山に逃げ込んだ。暴れん坊なので討伐軍も手を出しかねていたが、憔悴しきって山から出てきたところを数百人で取り囲んだ。
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万衣裳弊垢形色憔悴持弓帯剣独自出来、有司遣数百衛士囲万、万即驚匿篁■(クサカンムリに聚)以縄繋竹引動令他惑己所入、衛士被詐指揺竹馳言万在此、万即発箭一無不中、衛士等恐不敢近、万便弛弓挟腋向山走去、衛士等即夾河追射皆不中、於是有一衛士疾馳先万而伏河側擬射中膝、万即抜箭張弓発箭伏地而号曰万為天皇之楯将効其勇而不推問翻致逼迫於此窮矣可共語者来願聞殺虜之際、衛士等競馳射万、万便払捍飛矢殺三十余人、仍以持釼三截其弓還屈其釼投河水裏、別以刀子刺頸死焉、
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 太平記でも読んでいたんだっけと錯覚するほどの名場面だ。太平記は、大勢に影響が全くない些末な戦闘にも熱い筆致を与えている。まぁ太平記は敗者側に寄り添っているから些末な戦闘しか自慢する所がないんだし物語だから其れで良いんだけど、時の大勢を語るべき国史が其れぢゃぁイカンだろうと時々思わせるから、古代の国史は面白い。話は此処で終わらない。朝廷は万を文字通り八つ裂きにして各国にバラ撒けと命じた。切り離していないと霊魂が復活するとの信仰でもあったか。
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朝庭下符■(稱のノギヘンがニンベン)斬之八段散梟八国、河内司即依符旨臨斬梟時雷鳴大雨、爰有万養白犬、俯仰廻吠於其屍側、遂噛挙頭収置古冢横臥枕側飢死於前、河内国司无異其犬牒上朝庭、朝庭哀不忍聴下符称曰此犬世所希聞可観於後須使万族作墓而葬、由是万族双起墓於有真香邑葬万与犬焉、河内国言於餌香川原有被斬人計将数百頭身既爛姓字難知但以衣色収取其身者爰有桜井田部連膽渟所養之犬噛続身頭伏側固守、使収已至乃起行之
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 八つ裂きの処刑場は激しい雷雨に見舞われた。日蓮など宗教者や冤罪の者が処刑されようとするとき、激しい雷雨のために中止になったりして結局、救われるエピソードは幾つかある。八犬伝でも額蔵こと荘助が処刑の場から救出されたとき、追っ手を悩ませたのは雷雨である。金光明経では、雷を操る龍神は、観音菩薩の配下であった。如何やら不必要な刑罰に対し待ったを掛けるは、龍神もしくは其の親分である観音の役回りではないかと思わせる。菅原道真が雷神に擬せられて後は、冤罪救済の職掌は天神に移ったかもしれないけれども、道真の本地は観音であるから、実際上の移動はない。閑話休題。
 万は既に死んでいるんだから八つ裂きにされようと痛くも痒くもないんだが、遺された族にとっては酷い仕打ちだ。万の飼い犬が現れ、首を持ち上げ古い塚まで運んだ。じっと動かず守護した。動かないから餌も食えない。犬は万の首を守ったまま、餓死した。
 報告を受けた朝廷は一転、万の屍を埋葬することを許可した。遺族は「双(ふた)」つの墓を造り、万と犬を葬った。「双」だから並べたか、(何かに就いて)対称の位置すなわち番(つがい)/ペアだと判るような位置関係にしたのだろう。引用部の後半は、戦死した者の腐乱死体から飼い主を見つけ出した飼い犬の話で、万のエピソード簡易版を繰り返した形となっている。この筆法は八犬伝にも継承されている。「あはれ子犬の主を知るらむ」。万の条は犬好きの私にとって、無邪気に兵の戦意を煽る太子の活劇よりも、心の琴線に触れる逸話である。
 ……えぇっと、とにかく聖徳太子は、寺を建ててやると云って四天王を買収、勝利を収めた。此処に仏教の国教化が始まることになる。皇位継承も絡んでいたが、そりゃぁまぁいつものドタバタに過ぎない。また外来宗教である仏教の国教化は、渡来系だった蘇我馬子を勢いづけた。五年後、東漢直駒が崇峻天皇を殺したが、背後には馬子がいたようだ。何事もなかったかのように推古帝が即位、馬子は帝の後見役であり続けた。
 ところで、いつもながらの脱線だが、後には公権力の処刑を制止する力を有った【雷】だけど、日本書紀当時は、其れほどではない。
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(二十六年)◎是年、遣河辺臣(闕名)於安芸国令造舶至山、覓舶材便得好材以名将伐、時有人曰霹靂木也不可伐、河辺臣曰其雖雷神豈逆皇命耶、多祭幣帛遣人夫令伐、則大雨雷電之、爰河辺臣案剣曰雷神無犯人夫当傷我身而仰待之、雖十余霹靂不得犯河辺臣、即化少魚以挟樹枝、即取魚焚之、遂脩理其舶
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 河辺臣が皇命で船を造るため材木を採ろうとしたところ霹靂(雷)に邪魔された。河辺臣は天空を仰いで「人夫を撃つなら俺を撃て」と叫んだ。叫んだが、雷神は霹靂を十発以上も発したものの、河辺臣を倒すことは出来なかった。河辺臣は雷神を焼いてしまった。此の説話は「雷神豈逆皇命耶」と天皇を前面に出している所から天皇権威を高めるためのもので、河辺臣の手柄ではない。天皇が雷神に優越するとの不等号関係を示すものだ。何たって日本書紀は天皇の権威を確立させるために編まれたのだから、このような【誇大広告】があっても不思議ではない。
 付け加えるなら、後に雷は菅原道真/天神の管轄となり、観音を本地とする道真天神は時の天皇を地獄に突き落とし蹂躙し尽くすほどになる、とは以前に述べた(「地獄に堕ちた帝王」)。せっかく日本書紀が絶対的存在として虚飾しようとした天皇を、人臣(しかも左遷済み)の成れの果て風情がグッチャングッチャンに陵辱してしまうのだ。ちなみに、道真信仰より先行する日本霊異記冒頭を飾る話(▼→)で、雄略帝の側近・少子部栖軽は軽々雷公を捕らえ、逆に雄略帝が雷を恐れている。栖軽は飽くまで帝の忠実な側近ではあるが、実力は天皇を上回ると暗示している。だいたい后と婚合している時に栖軽が入ってきたため誤魔化そうと雷公を捕らえる旅に出したのだ。天皇個人の人間臭さが凝縮してもいる。制度上は絶対的差のある人臣と天皇が、実存としては同一地平に立ち、人臣が天皇に優越している。無意味で呪術的な不等号ではなく、人臣と天皇の格差は、礼制すなわち飽くまで社会秩序上の権(かり)のものだとする視角が提示されている。
 話は全く変わるが、少子部栖軽の死後、墓を攻めた雷公は却って墓に足を挟まれ再び捕らえられてしまう。また、今昔物語では、寺を壊していた雷に僧侶が法力をかけると、童子が空から落ちてきて許しを乞うた。いや、雷は童子形とは限っていないが、童子形に限れば、少子部栖軽は朝廷に侍る童子の養育係であったから、怖い者知らずの門閥子弟、悪戯っ子も世話になってる養育係のオジサンには敵わない、とのストーリーも浮かんで楽しい。
 四天王の話から離れてしまったが、此処らで一旦まとめよう。日本書紀に於いて、四天王は、まず、仏教が日本に根付くか否やを賭けた戦闘で、仏教側を勝利に導く者(である聖徳太子を守護する者)として描かれた。其の儘でハリウッド映画の原案になりそうな戦闘を契機に、仏教国教化がスタートする。四天王が国家の守護を約束する金光明経を地で行った物語だ。しかし一方で、深い同情を以て描かれる、排仏派の眷属・捕鳥部万がいる。数百の官兵が疲れ切った万独りを取り囲み攻め立てた。しかし一匹の犬だけは、万に殉じた。万の八つ裂きを制止するかの如く雷は鳴り響くが、天皇の権威を押し止めることは出来なかった。不必要な迄に逆上して万の屍を陵辱しようとする朝廷を押し止めた者は、一匹の犬の主を思う忠……いや、実際には犬に主従の意識なぞない、一匹の犬の仲間を慕う赤誠であったのだ。信であり義であり、悌でもあったろうか。……忠をも見たけりゃ、ご自由に。
 忠を描いているのは、万の方だ。忠は守屋に対するものではない。万は死に際、自分は天皇の忠実な番兵であると叫んだ。この言葉から、少なくとも万の認識では、物部守屋と蘇我馬子の戦いは私闘であり、守屋側に就いたとて朝廷の「衛士」に攻められる謂われはなかったようだ。私闘に勝った者が公権力/天皇の信任を手にする似非秩序体制すなわち天皇を売春婦/売春夫の立場に置く動きは後にも頻発する。珍しくもない。なのに、絶対に助かりっこない此の場面で、「我こそ天皇の忠臣」と臆面なく叫ぶ万は、かなり純粋で実際に天皇に対し忠実な人間だったと思える。当然すぎる話だが、忠臣の末路は、こんなもんだ。真の忠臣を慰め殉ずるのは、飼い犬ぐらいのものだろう。(お粗末様)
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