●伊井暇幻読本「龍の宮媛通いてしかな」●

 伏姫を安易に弁才天と考えるべきではない。が、安易でなければ考えても良いと思っている。金光明経にも観音菩薩は龍王を統括する者として君臨している。対して弁才天は、金光明経で経典へ導入するためのお膳立てを行う。そして前近代民俗で弁才天は、川や池の主として考えられ、龍と習合する見方もあった。則ち、弁才天は、観音菩薩の眷属としてイメージし得る。また、弁才天は「天」であり観音は「菩薩」であって、仏格として観音は上位に在る。上位の仏格は、当然ながら、下位の仏格の性質を包含しており、故に如来や菩薩が特定局面では天として現像する。故に、弁才天は観音菩薩の特定局面に於ける姿だとも言える。だからこそ、伏姫は飽くまで観音菩薩なのだが、弁才天みたいな形で現像化する場合もあり得る。よって、伏姫を観音菩薩と考えても、或る時の伏姫に限って弁才天だと思っても、構わない。但し、伏姫は弁才天であって観音菩薩ではない、と考えると間違いだ。例えば犬塚信乃は弁才天と密接な繋がりがあり、与四郎犬に跨ったりして、伏姫を彷彿とさせる擬態はとるけれども、伏姫ではない。与四郎はヨツシロ即ち、四肢だけ白い黒犬だが、此は述べてきたように、八つあった八房の斑の一つを分与されたものだ。乗犬(?)が八房の八分の一なら、信乃だって伏姫の八分の一だろう。八分の一ってったって、捕鳥部万みたいに八つ裂きにされた屍をイメージしなくても良い、飽くまで理念の話だ。玉も八つのうちの一つ、痣も八房から見れば八分の一。死して観音であることが明らかとなった伏姫の【八分の一】を現世に投影した者が信乃ならば、弁才天あたりが真に相応しい。
 ところで余談だが、前に聖武帝が国分寺・国分尼寺建立の詔に先立ち諸国に七重塔を建てようとしたと述べた。一般に、塔を建てろとの命令は、既に在る寺に塔を建てるか、新たに寺を建てて塔も建てろと云っているように聞こえるかもしれないが、筆者は判断をつけかねている。何でもない所にイキナリ塔は建てないだろうと現代日本人なら云うだろうが、元々塔は、釈迦の遺骨・仏舎利を蔵するためのものだ。例えば塔の形をした仏舎利容器も、「塔」と表記する。聖武帝が望んだ七重塔は、後に国分寺に発展することから漸く、人が入って昇れる建造物としての塔だと判断できるのだけれども。いや、こんなことを云うのは、天平十九年十二月の勅で「乙卯、……中略……勅天下諸国或有百姓情願造塔者悉聴之、其造地者必立伽藍院内不得濫作山野路辺、若備儲畢先申其状」とあるからだ。どうも、私人が勝手に寺でも何でもない「山野路辺」に塔を建てて喜んでいたらしい。野っ原にニョッキリ塔だけが建っていたのである。
 勅の内容は、諸国で私人が塔を造ろうとすれば総て許可するが、必ず寺の中に建てるよう制限している。上述の如く、塔とは仏舎利を蔵し、天空/虚空への指向性を象徴するものだから、確かに寺の外に建っていても構わない。
 例えば、仏教者の戒律を説く梵網経には「若仏子、常応教化一切衆生建立僧坊山林園田立作仏塔、冬夏安居坐禅処所一切行道処皆応立之、而菩薩応為一切衆生講説大乗経律」とあり、説法に先立ち、各種仏教施設を整備しなければならないと説いている。落ち着いて修行できる場所を確保するよう要請しているのだ。また、辻説法はアジテーションに堕す場合が多いから、地味な真理を語るには不向きだ。聞く者が予め襟を正し地味な真理にも耳を傾けるようになる舞台装置、塔が必要だと云っているのだろう。ただ問題は「常に応に一切衆生を教化し、僧坊を建立し、山林園田に仏塔を立作すべし」が、何だか山野路辺に塔を作るよう勧めているよう読める点だ。聖武帝も全国に塔を作れとは詔したが、寺を造れとは命じなかった。
 いきなり梵網経って何だよ? と問われる向きには若干の説明が必要だろうか。梵網経は日本に於いて護国経典の一つであった。通例、護国経典とは、金光明経・法華経・仁王経の三経だが、天平勝宝八年十二月己酉条に「講梵網経講師六十二人其詞曰、皇帝敬白朕自遭閔凶情深荼毒宮車漸遠号慕無追万痛纏心千哀貫骨恒思報徳日夜無停、聞道有菩薩戒本梵網経、功徳巍々能資逝者、仍写六十二部将説六十二国始自四月十五日令終于五月二日、是以差使敬遣請屈、願衆大徳勿辞摂受欲、使以此妙福无上威力翼冥路之鸞輿向華厳之宝剣」とある。
 五月二日は聖武帝の命日だから、命日に向け十三日間、六十二国で梵網経を説かしめようとしているのだ。この後、毎年正月に梵網経の儀式を行うことにもした。ファザコンの孝謙称徳帝が父の菩提を弔うため持ち出した経だから、父・聖武帝の愛読した経であったか。だいたい梵網経は、上級仏教者になるための戒律集だから、追善に似合っていないような気がする。生きているうちに守るべき戒律が書いてるんだから。
 聖武帝個人の冥土への往き道なんざ知ったこっちゃねぇ、んなもん護国になるかいっ、と仰るは真に以て正論だが、ファザコンで情緒不安定な孝謙称徳帝を宥めることが、国家の最優先課題なんだから我慢していただきたい。彼女を慰撫することこそ、鎮護国家なのである。彼女の気の済むようにせねば逆ギレされて、忠臣は死屍累々、皇統は断絶しかけるし国家の存亡さえ危うい。よくもまぁ此の隙に突け込んで朝鮮半島辺りが攻め込まなかったものだ。……故に、梵網経は護国経典なんである。
 えぇっと冗談半分はサテ措き(半分は冗談ぢゃないがな)梵網経、仏教オタクの聖武帝が生前愛読していたと考える方が自然だろう。則ち、聖武帝が諸国に「寺を造れ」とは云わず「塔を建てろ」と命じていたことも、或いは梵網経の影響だったか。
 しかし塔だけ建てたんぢゃぁ僧侶にはオイシクない。寺院ならば僧侶が何人も配置され広い寺田も支給されるが、塔だけだったら、大きな特典は付かないだろう。セオリー通りに仏舎利を蔵する積もりであったればこそ、金光明経ではなく法華経を同時に頒布しようとしたんだろうが、仏舎利は釈迦の遺骨だから、こりゃ八つ裂きどころの話ではない、釈迦の遺骨を六十以上にバラして諸国に撒き其の呪力により国家を鎮護しようとしたってことだ。まぁ本当の遺骨ではなく作り物だから別に構わないし、此はコレであり得る話だ。が、半年ほど経った天平十三年には何故だか七重塔計画が国分寺計画にすり替わって、坊主丸儲け状態となった。此処等に広嗣の乱の背景が仄見えるとは前に書いた。
 そして天平十九年、本来ならば、別に何処に建てても良い筈だった塔を、寺の境内に限定した事実は、私人の信仰をも含めた仏教の在り方を、僧侶に都合良い形で制御しようとする指向性を感じさせるのだ。実は、此の塔濫造禁止令が出る前月、全国的に進捗しない国分寺・国分尼寺建立に業を煮やした聖武帝は、諸国に督促使を派遣している。ちゃんと造ってた者には郡領司を世襲させるとまで約束している。聖武帝としては簡単に国分寺・国分尼寺建立を命じたんだろうが、あんまし工事は進んでいなかったのだ。即ち塔濫造禁止令は、「そんな所に建てるんだったら、国分寺の一部として建ててくれよぉ」との泣き言なんである。督促使が諸国を回ってみると、国分寺建立はバッくれて、勝手に自分用の塔を造っている豪族がいたんだろうな。なかなか愉快な情景だが、遅々として進まぬ国分寺建立を私人に負っ被せようって、国家の卑しい性根が見える。まぁ所詮は租税って民の労働から生み出されるものなので、最大限マクロに見れば、国家が造ろうと民が造ろうと、財布は同じ、国家が造っても空っぽになるのは民の財布だから剣呑だ。
 天平勝宝元(七四九)年に孝謙天皇が即位し、色男の藤原仲麻呂が世に出てくる。天平勝宝八歳(七年から「歳」と改称)には橘奈良麻呂が東大寺建立などによる国家疲弊を理由に仲麻呂を除こうと乱を企てたが失敗。このとき仲麻呂は、ついでに実兄の右大臣・藤原豊成を讒言し、大宰府外帥に左遷させた。豊成の息子が奈良麻呂と友達だったからだ。
 勅には、「右大臣豊成者、事君不忠、為臣不義、私付賊党潜忌内相知搆大乱無敢奏上、及事発覚亦不肯究若怠延日殆滅天宗……中略……此誠天地神(乃)慈賜(比)護賜(比)挂畏開闢已来御宇天皇大御霊(多知乃)穢奴等(乎)伎良(比)賜弃賜(布尓)依(低の旁)又盧舎那如来観世音菩薩護法梵王帝釈四大天王(乃)不可思議威神之力(尓)依(■低の旁/志)此逆在悪奴等者顕出而悉罪(尓)伏(奴良志止奈母)神(奈賀良母)所念行(■サンズイに頁/止)宣天皇大命(乎)衆聞食宣」とある。
 叛乱から天皇を守った者として、皇祖や天地神、そして盧舎那如来・観世音菩薩・護法梵王帝釈・四大天王が列挙されている。盧舎那如来以下の組み合わせは、金光明経の其れと重なる。順番は【偉い順】だ。如来・菩薩・天の階級秩序を守ったものとなっている。言い換えれば、如来の代表が「盧舎那」、菩薩は「観世音」、そして諸天は筆頭たる梵天帝釈は抜かせぬとして、四天王も特に登場させている。
 神護景雲三(七六九)年元日、雨で朝廷は、お休み。などと暢気なことを云っていたら、五月に不破内親王が処罰された。内親王の夫・塩焼王は天平十四(七四二)年には「冬十月癸未、禁正四位下塩焼王并女嬬四人下平城獄……中略……○戊子、塩焼王配流於伊豆国三嶋、子部宿祢小宅女於上総国、下村主白女於常陸国、川辺朝臣東女於佐渡国、名草直高根女於隠岐国、春日朝臣家継女於土左国」と喪中にも拘わらずロリコン姦に及び伊豆まで流されたが、当時は上皇だか天皇だかが僧侶を寵愛し皇位を譲ろうなんて淫邪な世であったから許され、奈良麻呂の乱(七五六年)で叛乱側と目され再び配流(でも復帰)、天平宝字八(七六四)年の藤原仲麻呂の乱(さっきまで鎮圧側だったのに……)でも叛乱側で漸く殺されアウトローな人生に終止符を打った。因みに此のとき迄に天武系の血筋は根絶やしにされた。称徳孝謙帝は、自ら王朝の幕を閉じたことになる。皇位は再び天智系に戻る。多分、大友皇子あたりの呪いか祟りだったんだろう。此の御時勢だから、塩焼王の奥さん不破内親王だって負けちゃぁいない、県犬養姉女と共謀して帝(称徳)を呪詛したとされた。
 詔には「挂畏天皇大御髪(乎)盗給(波利弖)岐多奈(伎)佐保川(乃)髑髑(尓)入(弖)大宮内(尓)持参入来(弖)厭魅為(流己止)三度(世利)、然(母)盧舎那如来最勝王経観世音菩薩護法善神梵王帝釈四大天王(乃)不可思議威神力挂畏開闢已来御宇天皇御霊天地(乃)神(多知乃)護助奉(都流)力(尓)依(弖)其等(我)穢(久)謀(弖)為(留)厭魅事皆悉発覚(奴)」とある。
 天皇を守った者として、今度は各種仏格が皇祖なぞより優先されており、「盧舎那」と「観世音菩薩」の間に「最勝王経」が挿入されている。やはり金光明経を代表する重要仏格として観音が意識されていたことは明らかだ。
 因みに前に挙げた藤原豊成は讒言した側の仲麻呂が乱を起こして殺されたため名誉回復、不破内親王も二年後には冤罪であったとされて内親王に復している。道鏡事件の和気清麻呂もいたことだし、称徳/孝謙は詔で思いっ切り空振り三振している。
 因みに藤原仲麻呂の乱を因縁にして、今上帝が廃位される事件が起こっている。所謂、淡路廃帝である。後に淳仁と贈り名されたが、後紀での表記は当然ながら「廃帝」だ。こんな可哀想な帝も、ほかにはいない。天平宝字八(七六四)年十月「壬申、高野天皇遣兵部卿和気王左兵衛督山村王外衛大将百済王敬福等率兵数百囲中宮院、時帝遽而未及衣履使者促之、数輩侍衛奔散無人可従、僅与母家三両人、歩到図書寮西北之地」は、悲劇の模様を伝えて余りある。此より先に上皇によって実権を剥奪されてはいたものの、帝たろう者が、着の身着のまま徒で引っ立てられた。実権を剥奪された理由は、道鏡と上皇の関係を批判したためとされている。
 帝は淡路に流されたが、同時に淡路と周辺諸国の国司が交代している。絶対に逃がさぬための体勢づくりだ。しかし天平神護元年二月には「乙亥、勅淡路国守従五位下佐伯宿祢助、風聞配流彼国罪人稍致逃亡、事如有実何以不奏、朕心往監於彼、事之動静必須早奏、又聞諸人等詐称商人多向彼部、国司不察遂以成群、自今以後一切禁断」と、廃帝が逃亡を試みたことや、廃帝を慕う動きが見られる。そして、同年十月「庚辰、淡路公不勝幽憤踰垣而逃、守佐伯宿祢助掾高屋連並木等率兵邀之、公還明日薨於院中」逃げた廃帝を武装兵が追った。捕らえられ、翌日に死んだ。様々な妄想を呼ぶ書き方となっている。天寿を全うしたとは思えない。良くて憤死、悶死、自殺。或いは捕らえられるとき瀕死の重傷を負ったか、また或いは、既に二月に逃亡を試みたことから「今度逃げたら殺せ」と命令されていたか、今回逃げてから暗殺指令が下ったか。とにかく同年十一月「癸酉、先是廃帝既遷淡路、天皇重臨万機、於是更行大嘗之事以美濃国為由機越前国為須伎」とあるから、此の時点で廃帝は生きていた、より精確に云えば、朝廷側は死を確認していなかったと思える。「遷す」とは書いてあるが「薨ず」とは書いていない。十月に本格的に逃亡して身柄を拘束できていなかったから、称徳としては早いところ正式に重祚して帝位に就いていなければマヅイと思ったんじゃないか。一方で、十月条には、「公、還りて明くる日、院中に薨ず」と、連れ戻された翌日に死んだとしか書いていない。
 とにかく口先では仏教が如何のと信心深そうな事を言ってはいるが、思い通りにならぬ帝を廃し死に至らしめてまで、己の想いを遂げようとした女帝、疑心暗鬼に陥り次々と側近たちまで葬り去ろうとした女帝……とは国史上に顕れた女帝の事実である。
 が、事実に過ぎない。偶々阿倍内親王が、そういう性格だっただけのことだろう。たかが一人の女性のために、女帝そのものを否定するなんて愚は、日本人なら犯さない筈だ。んなこと云ってたら、男どもは数限りなく失敗している。帝位に就くのはアンドロギュノスか宇宙人に限るか? 取り敢えず、院政期の男色政治に懲りる方が先だろう。女帝だけが否定さるべきではない。
 まぁ別に道鏡へ皇位継承の託宣が下ったにせよ、道鏡と天皇家が繋がる系図が捏造されただけで大勢に影響なかったと思うんだが(武烈の後を襲った継体は五世遡って初めて八幡こと応神天皇と繋がる事になっているが、此ぁ信じたところで武烈との親等でいえば倍になるから殆ど他人)道鏡事件自体、鎮護国家仏教体制が確立するに当たっての副産物だったし、広嗣の乱やら奈良麻呂の乱も、其れへの抵抗と理解できるのではないか。金光明経も素晴らしい哲理を説くが、僧侶も含めた俗人の手垢に塗れた時点で、ヘンテコリンなことになってしまうらしい。
 呪術である。せっかくの鎮護国家仏教/金光明経も、宇佐八幡の託宣なんて神懸かりなものと結びつく余地があった。呪術である。もともと金光明経自体が、陀羅尼の形で呪術を包含してしまっている。実際、大赦もしたし飢饉の時には賑恤もしたし八幡神と結びついた放生も行った。しかし前提として民衆からの収奪があったし、度々行われた仏教行事に於ける不労層たる僧尼への膨大な布施、各国国分寺や東大寺のほか大規模伽藍の建立……有り体に言えば、国力の浪費だ。そして何より、懺悔することなく保身ばかりに汲々とし足の引っ張り合いに終始する貴人ども。国分寺さえ建立すれば、四天王が守ってくれるんだから、お気楽なもんだ。
 以前に縷々述べた如く、八幡愚童訓など流布せる八幡神話に於いて、八幡/応神は、母の神功皇后によって龍王に貞操を売り渡された。潮の干満を操る玉を借りるためであった。神功皇后は、潮を操り朝鮮半島軍を打ち破り王を犬扱いした。恐らく「女王様と、お呼び!」ゴッコでもしたんだろう。龍王に肉体を差し出すことになった八幡のもとに現れたのは龍女であった。多分、実体は鰐/鮫であった。竜の宮媛、である。応神帝が龍宮と交渉する話は、記紀にも載す山彦と龍宮の交渉を、リフレインしたものとなっている。山彦は龍宮姫・豊玉姫との間に鵜葺屋葺不合命をもうけ、鵜葺屋葺不合命は叔母であり養母であった玉依姫と近親相姦、ここらで神武帝が生まれた。こりゃ天神の血よりも龍宮の血の方が遙かに濃いことになるのだが、そうでなくては此の海に囲まれた列島を支配することは出来なかったのか。少なくとも瀬戸内海の制海権は必須だ。応神も龍宮の血を導入したと妄想する伝承は、古代の日本人が、龍宮もしくは龍に強力な力を見出していたことを示していよう。偶々か作為か、暴君・武烈帝亡き後、迎えられた【殆ど他人】の継体帝は、応神帝の五世孫であった。閑話休題。
 帝は、龍との交渉によって、より聖別されるようだ。龍女は一般に、記紀の表記からか、鰐/鮫と考えられることが多い。濡れた鮫肌は、猫の舌のようで、案外いいかもしれない。……いや、そんな話ではなくって、神武・応神帝という非常に重要な二人が、共に龍と密接に関係があることを、改めて強調しておかねばならない。
 とにかく聖武・孝謙称徳帝期の日本は、龍と交渉する神・八幡と龍を統べる観音を護国神の表裏として扱い、八幡を仏教守護神に仕立て金光明経すなわち四天王を配した。これが即ち、馬琴も読んでいた続日本紀に現ずる鎮護国家仏教の形であった。(お粗末様)
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