伊井暇幻読本・番外編「暗愚の王」
                〜黒き星シリーズ1〜

 八犬伝の作品世界は、<閉じられていない>。惟うに、小説が自己完結せねばならぬとすれば、それは現代に於ける特殊な状態/悪弊であろう。八犬伝は、言はば<大衆小説>である。が、厳密に言うと、<公衆小説>とでも言った方が、より適切だ。大衆はmassだが、公衆はpublicだ。公衆は、大衆よりも多く、<ココロに何かを共有している>。文化・教養を、より広く共有する。だから、既存の共有された作品を取り込み、より少ない文字数を以て、豊かで広い世界を描き出す事が可能だった。
 八犬伝序盤、伏姫が富山で切腹して果てるとき、母・五十子の死が伝えられる。悲報を伝える御女中の名は、「梭織」であった。日本書紀神話に於いて、天照皇太神が隠れ世界が闇になった原因となったのは、本人だか眷属の女神だかが女性器を「梭」で衝き、傷ついた事件だった。読本は、絵双紙・黄表紙と違って、やや高度な文学であるから、八犬伝読者には、それ相応の教養人を想定できる。レベルとすれば、現在の義務教育修了程度の教養だろうか。日本書紀ぐらいは知っていただろうし、そのものでなくとも、昔話や何かで、間接的には聞き知っていたことだろう。小説読んでんだから、さほど明確に意識しなかったろうけど、日本神話をボンヤリ思い出し「あぁこれから雰囲気、真っ暗になりそぉだなぁ」ぐらいに感じさせたら、馬琴の勝利だ。作家は、上等な読者を相手にしていたのだから、気儘に既存の作品を取り込み、自ら創造せし世界を豊かにすることが出来た。とっても楽チンだったろう。今だったら、そりゃ一時的に共有される何かがあったとしても、即座に消費され流れ去る。そんなもんに寄りかかって書いたら、数年も経つうち、何が何だかワケ解らんものになってしまう。
 八犬伝には、神話のみならず、太平記や源平盛衰記なんかの痕跡がベタベタついている。読者は脳の表で八犬伝を読みながら、脳裏に既存の物語を思い浮かべる。日本では、周囲の広大な自然に箱庭が溶け込むよう設計されたりする。これを、<借景>という。自分チの敷地でもないモンを、勝手に使うセコイ遣り方とも言えるが、なかなか合理的だ。個の建物として見たら立派だが自己完結しちゃって互いに並ぶとトテモ変、てな現代日本の景観とは対極にある。勿論、<箱庭>自体としても優れている点に、八犬伝の偉大さがあるのだが……。
 で、八犬伝序盤の主人公、里見義実の挿話は、伝説的武家王・源頼朝のソレを度々盗用している。抑も<史実>としての義実が、頼朝の事績をなぞっているから、当たり前と言えば、当たり前なんだけども。まぁ、<史実>の義実、大活躍する割に詳細は明らかでなく、実在を疑う人だって存在した。結城から、わざわざ敵地を通って、しかも遠路遙々敵地の三浦まで赴き、徐に安房へと漕ぎ出すのは、甚だ不自然だとの指摘もある。……そりゃそぉだけど、別に良ぃぢゃねぇか、真似したかったんだろぉよ、武家の棟梁・頼朝を。
 だから、源平盛衰記である。文字通り、源氏と平家の成り上がり成り下がりを描いた<物語>だ。物語だから純然たる史料としては、使いづらい。信憑性は低い。勿論、史実として確認された事どもも多く鏤められてはいるが。
 現代では<歴史>としては扱えないが、過去、例えば江戸人士にとっては、これぞ<歴史>であった。過去の人々、例えば江戸人士にとっての<歴史>を窺う為には、大袈裟に言えば、<歴史の歴史>を考えるためには、必須の史料となる。……とイーワケしておいて、源平盛衰記を取り上げるのは、実は此、けっこう面白いからである。
 保元・平治の乱を経て、武士団・平氏が貴族化、宮廷を牛耳る。平家にあらずんば、人にあらず。なんて程に権勢を誇った。が、奢れる者は久しからず。平治の乱でコテンパンにやられた源氏の残党が、平家追討の大義名分を得て各地で蜂起した。平姓北条氏の入り婿みたいになっていた頼朝も、その一人だった。で、蜂起を決意するに当たって、二人の怪僧が関与する。一人は文覚、そして、もう一人が聞性だ。文覚によって復讐に目覚めた頼朝は、御経を千回転読しようとする。願掛けである。チャンスが訪れた。が、其の時、まだ八百回しか転読していなかった。聞性に相談する。「まだ八百回だから、願いは成就しないだろうなぁ。でも残り二百回をするうちにチャンスが逃げちゃう」。頼朝が如何に暗愚であるか、後の様々な不幸が窺えるエピソードであるので、ちょっと引こう。

伊豆山に聞性坊阿闍梨と云ふ僧は、兵衛佐年比の祈の師なりければ、急ぎ使を遣して招請あり、阿闍梨何事やらんと、胸打ち騒ぎて馳来れり、宣ひけるは頼朝勅勘に預りて年久し、今平家を追討すべき由院宣を蒙れり、是れ御坊の祈誓に報ゆと存ず、之に就き故親父下野守の為に法華経千部の転読の願を発して、既に八百部の功を訖つて、今二百部を残せり、部数を満てんとすれば、二百部の転読、月日を重ぬべし、平家に漏聞て討手を下さば、ゆ丶しき大事なり、宿願を果さずして合戦の企あらば、源平の乱逆に懈り有つて報恩の志空しくや成り侍らん、此事身体きはまれり、よく計ひ給へと有りければ、阿闍梨暫く案じて云く、八は悉地の成ずる数なり、二百部の未読も更に事闕侍るべからず、八百部の已読、最嘉例と云ひつべし、何にとなれば、釈迦如来は八正慈悲の門より出で丶、八相成道の窓に入り、八十の寿命を持つて八万の法蔵を説き給へり、衆生本覚の心蓮は八葉の貌なり、一乗妙法の首題も八葉の蓮なり、八角の幢は極楽の瑠璃地に治まりて、八徳の水は宝国の金砂池に湛へたり、宗に八宗、戒に八戒あり、天に八天、龍に八龍あり、八福田あり、八解脱あり、伏犧氏の時には、亀八卦の文を負ひて来り、人の吉凶を占へり、高陽高辛氏の代には、八元八トの臣を以て天下を治むと見えたり、穆王は八匹の天馬に乗つて四荒八極に至り、老子は八十年胎内にはらまれて、明王の代を待ちけり、内外に註す処多し、就中諸経の説時不同にして、巻軸区々に分れたれども、法華は八箇年に説きて八軸に調巻せり、薬王菩薩は八萬の塔婆を立て丶、臂を妙法に焼く、妙音大士は八萬の菩薩と来つて、耳を一乗に欹てり、況んや又御先祖貞純親王の御子六孫王の御時、武勇の名を取つて、始めて源氏の姓を給りしより以来、経基、満仲、頼信、頼義、義家、為義、義朝、佐殿まで八代なり、又故伊予守殿(頼義)、三人の男を三社の神に奉る、太郎義家石清水、次郎義綱賀茂社、三郎義光新羅の社、其中に佐殿正縁として、八幡殿の後胤なり、八幡宮の氏人なり、、日本国広し、東八箇国の中に流され給ふも子細あり、文覚上下往復の間八箇日に院宣を抜き見給ふも不思議なり、されば八百部の功既に終給へらば、本意をとげ給ふべき員数なり、急ぎ思ひ立ち給へ、時日を廻らし給ふな、されば軍のうらかたには、先づ当国の目代八牧の判官を討たるべし、今二百部は追の転読と申しければ、佐殿よに嬉しげにて、師僧の教訓は神明の託宣にやとて、当国、伊豆、箱根の立願の状を捧げて、即ち聞性坊阿闍梨を以て啓白し、其外様々の立願、社社におこされけり、八百部の転読かつかつ供養有るべしとて、飲食に能米八石、衣服に美絹八匹、臥具に筵枕に八、医薬に様々の薬八裹あり、已上四種の供養の上に又四種を副へられたり、砂金八両、檀紙八束、白布八端、綿八箇、都合八種の布施なり、八は悉地の成ずる由申しつづくるに依てなり、此の如く調へて、且は先考の菩提に廻向し、且は後代の繁栄を祈誓有るべしとて、伊豆山の聞性坊へ送遣されけり、誠に●(金に台)々敷見えたり

 <曲学阿政(ママ)>した聞性の佞言に踊らされた、若しくは責任をオッ被せて利用した、頼朝の暗愚がよく表現されているけれども、<八尽くし>、「とにかく八ってスゴイ数なんだ」って強弁は、八犬伝読者にとって、興味深い。
 そんなこんなで頼朝は味方を集め、平家方の武士を攻める。が、呆気なく敗北する。だいたい、頼朝って、大きな顔して後ろの方でゴゾゴゾするうち、めぼしい武将が次々失脚、消去法で権力の座に就いただけの、詰まらんヤツだ。武家の棟梁なら武人らしく目覚ましい活躍をすれば良いものを、頼朝、英雄的な行為はしない。緒戦で敗北したのも単に、彼の用兵がマズカッただけかもしれない。
 だが、悪運だけは強い。敗残兵狩りを、うまく逃れる。といぅか、見逃してもらう。この時、平家方だった梶原景時って武士が木のウロの中でビクビク縮こまってる頼朝を見つけるが、見逃してやるのだ。ただまぁ、この梶原、武士の情けってヤツで見逃したんぢゃぁない。そんな善いヤツぢゃないのだ。頼朝を見つけて梶原はニヤリ、「助け奉るべし、軍に勝ち給ひたらば、公忘れ給ふな、若敵の手に懸り給ひたらば、草の陰までも、景時が弓矢の冥加と守り給へ(助けてやるから、恩に着ろよ。何たって俺は、お前の命の恩人だ。命がある限り、いや死んでも俺に尽くすんだぜ、ぐふふふふふふ)」。先に、頼朝の悪運が強かったと書いたが、こんな奴に恩を売られた事自体、運が良かったんだか悪かったんだか分からない。少なくとも源平盛衰記に於いて、景時って、とんでもない悪役なのだ。この陰口讒言野郎の為、後に、頼朝の弟・義経その他、有力御家人が次々に殺される。嘘吐き陰口讒言野郎は何時の時代何処の社会にも居るが、そういう偏った情報を真に受けるか否かで、器量と才覚が分かる。頼朝は、如何贔屓目に見たって、いや、贔屓目になんざ見てやらんが、暗愚を絵に描いた様な奴だ。と、後世の者に云われるぐらいなら、石橋山で華々しく討ち死にした方が良かっただろう。塞翁が馬、だ。まぁ、源平盛衰記自体、「平家と源氏の隆盛と<衰亡>の様」を描いた物語で、ドッチも滅んだんだから、良いコトばかりは書いていない。頼朝は、まだ同情的に書かれているが、頼朝の息子なんて、親父に三つ四つ輪をかけた、究極の暗愚として描かれている。物語の勝者は、北条執権家だ。だから、一時的とはいえ、北条家を差し擱き権勢を振るった梶原景時を悪役に仕立て上げてるだけかもしれないけれども、一方、梶原が本当にヤな奴であっても良いワケで、偶々事実が北条氏の利害に沿っただけかもしれぬ。まぁ、此処では、悪役のままで居て貰おう。
 だいたい梶原、武勇のモノというよりは策謀を得意とした印象がある。屋島の戦で、総大将は義経だったが、梶原は「逆櫓」なる工夫を進言する。昔の船だから、前には簡単に進むがバックが困難、そこで逆向きにも櫓を取り付け、前後進退を自由にしようと提案したのだ。が、義経は却下する。武士が戦場に赴く前から後退/退却のことを考えるとは言語道断だ、との理屈だ。武士らしくないクセに武士のプライドを傷つけられた梶原は、義経を「猪武者(とにかく戦闘することしか頭にないバカ武者)」と罵る。義経は怒って刀に手を掛ける。梶原も息子たちと共に打ち掛かろうとする。すんでのところを周囲の者が抱き留め、漸く事無きを得た。梶原、この時の事を怨みに思い、頼朝に対し一層激しく義経を讒言する。兄弟は疎遠となり、遂に義経は都から逃亡を余儀なくされた。縁を頼って奥州藤原氏のもとへ転がり込む。勿論、鎌倉勢は奥州へと追っ手を差し向けた。警官隊ではない。当時、ほぼ独立した政権として東北地方を支配していた奥州藤原氏と全面対決するんだから、大軍勢を派遣した。大将は、千葉常胤であった。
 この常胤、梶原や頼朝と違って、無双の武人だ。如何ぐらい強かったかというと、狐狩りに成功したほどだ。狐と言って、馬鹿にしてはならない。何たって此の狐、中国皇帝から日本の天皇から、たぶらかし倒して鼻毛を読み、ケツの毛まで抜き去った妖狐だったりする(←まぁ御下劣!)。八犬伝終盤にも紹介されるエピソードだ。以前にも書いたが、武人とは単なる暴れん坊ではない。常胤ほどのレベルになると、其の力は神懸かっているのだ。だから、源三位頼政なんかと同じく魔を払う不可思議な力をも有している。勿論、常胤、実力もあった。関東では並び無き勢力を張っていたのだ。
 だからこそ、上記、源平盛衰記<八尽くし>の段に続く「兵衛佐家人を催す事」、朝頼の舅・北条時政が当時関東の状況説明をするうち、源氏にゆかりがあり要請すれば味方に就きそうな大族の長として、三浦義明、千葉広常、そして、千葉常胤を挙げている。この三人を引き込めば、東八箇国の武士は皆靡く、とされたほど、勢いも人望もあった。その常胤が味方になったのに、何故に緒戦で敗北したか? それは……常胤、味方にはなったんだけど、戦に遅刻しちゃうのだ。間に合わずに、頼朝はケチョンケチョンにやられてしまう。後で常胤、叱られるんだけども、まぁ、それは仕方がない。
 ところで常胤、そんな超人的な武人だったら佞人・梶原を何故に成敗しなかったのか? ……そりゃ無理といぅもんだ。梶原は上述の如く、他ならぬ頼朝の恩人であり寵臣であった。迂闊には手を出せない。まぁ、結局、妖狐とか何とかいってみたところで、其のエゲツなさシブトさで、人間様に敵わない、ってことだ……などと解ったよぉなコトを言う趣味はない。実は常胤、梶原を退治した。但し、独力ではないが。
 頼朝の死後、御家人の詰め所で、創業の功臣たる結城、八犬伝に出てくる善玉大名の祖先だけど、ふと独白する。「あぁ、頼朝時代が懐かしいなぁ。世の中、段々悪い方に向かってるような気がする」。単なる年寄りの「昔は良かった」だが、此を梶原が立ち聞きしていた。何たって、梶原ほど盗み聞きが似合う奴ってのも、そぉはいない。日本に於けるBest立ち聞きerだ(←如何読むんだよ)。で、梶原、イソイソ二代将軍・頼家の御前に罷り出て、「結城のヤツ、不満を抱いてますぜ。謀反するに違いない。あぁ、一大事だ大変だ」と忠義面して御注進。頼家、頼朝譲りの暗愚を発揮し、その場で結城攻めの命令を下す。伝え聞いて結城はビックリ、友人に相談する。友人もビックリして長老・三浦に相談、三浦もビックリしたが、さすが長老、即座に決断した。「御家人を糾合して、梶原を弾劾する」。主立った御家人たちを、源氏の氏神・鶴岡八幡宮に集め、連判状を起草した。何たって、梶原の讒言は今に始まったことではない。御家人たちは、とうとう我慢できなくなって、集団交渉へと踏み切ったのだ。勿論、我らが武人・千葉常胤も加わっていた。が、三浦に取り次ぎを頼まれた学者貴族が、連判状を秘匿する。彼は幕府の政治実務を担っていたが、巨大となった梶原家と有力御家人とが激突したら、タダでは済まないって危惧したのだ。それに、梶原を死なせたくない気持ちもあった。
 一件を伝え聞いた梶原は長男や郎党を連れて出奔した。何せ、うまく隠した積もりでも、自分だけは自分の悪事を知っている。こりゃぁマヅイと慌てちゃったのだ。で、西国/京都を目指した。九州なんかに居る平家の残党を集め、鎌倉と一戦交える気だったのだ。って裏切り者ぢゃん、などと驚くのは遅すぎる。彼のような陰口野郎は、利害だけで動くによって、いくら忠義面してても、風向きが変われば裏切りだって何だってする。裏切らない方が、驚きだ。が、有力御家人たちは、梶原の鎌倉脱出を知らなかった。知らなかったが、あれだけ手厳しい弾劾書を提出したのに、幾ら待っても何の沙汰もない。痺れを切らした長老・三浦、取り次ぎを頼んだ学者貴族を問い質した。で、弾劾書が将軍に届いてないと聞くや、烈火の如く怒り狂い、噛み付いた。彼も武勇の者であるし、何といっても長老、堪え性がなくなっている。学者貴族も気圧されしたか、遂に文書を将軍に披露した。が、暗愚の見本みたいな頼家、此の弾劾を握り潰した。こんなだったら梶原、逃げる必要はなかったのだけれども、まぁ、此ほど頼家が暗愚だとは、さすがに気付かなかったのだろう。墓穴を掘るってヤツだ。で、梶原は逃げるんだけど、途中、駿河の武士たちに絡まれる。梶原、つい先日まで権勢を誇っていたから、道で地元の武士と擦れ違うとき、ついつい偉そうな態度をとっちゃったのだ。コレにカチンときた地元武士たちが、「梶原だか何だか知らねぇが、構うこたぁねぇ、やっちまえ!」って大乱闘、梶原一行は皆殺しにされちゃって、道沿いに梟首、惨めな末路に行き着く。場所は、<狐崎>だ。

 梶原陰口ぢゃなかった景時は、頼朝と其の子をタブラかし、政を混乱せしめた張本人である。少なくとも、源平盛衰記なんかでは。これ、即ち妖狐であろう。妖狐が実際にいたと信ずるなら別だが、何かを暗喩していると考えたって、良いだろう。狐は稲荷神の使いともなるが、狡猾に人を騙す(とされた)動物でもある。一応は、梶原追放の団体交渉に於ける代表者は、長老・三浦氏だった。が、常胤は、近世に於いて最もメジャーな鎌倉御家人の一人だ。妖狐退治の代表者と目されても、仕方がない。
 人間関係とやらのみでカス野郎がノサバッているとき、排除するために、まず必要なのは、自律できる心<覚悟>だ。武人の<神通力>の正体は、この覚悟であろう。そう考えれば、際立った武人、並々ならぬ胆力・覚悟を有していたであろう者どもが、<魔>なる存在を打ち挫くべく活躍することは、当然至極だ。魔は、人の心に棲んでいる。自律とは、この魔を払う態度そのものだ。
って、何の話をしているか、危うく忘れるところだった。千葉常胤だ。要らんことを書いてるうちに、行数がなくなった。が、千葉一族に就いて、言いたいことはマダマダある。だいたい、まだ、八犬伝の話をしていない。次回も多分、できないだろう。千葉一族、といぅことで御察しだろうが、今回は、毛野をテーマにしている。追っても引き留めても、まるで掬った水が指の間からサラリと抜けていく如く、捉え所ない、漂泊・変化の美少年。いきなり抱きすくめようとしても、軽やかな笑い声を残して姿をくらますだけだろう。まずは外濠を埋め、肉薄せねばならない。馬琴は、犬夷評判記で、其の出版当時まだ本編に登場してもいない毛野い就いて語りかけ、そして口を噤む。まるで毛野に、就中、彼の女装に八犬伝の秘密を篭めているかのような口ぶりであった。毛野には、慎重に近づかねばならない。……そんなこんなで、御機嫌良ぉ。
(お粗末様)

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      犬の曠野表紙旧版・犬の曠野表紙