伊井暇幻読本・番外編「北斗の武」
                〜黒き星シリーズ2〜

 伝説的武人・千葉常胤は、まぁ祖先も陸奥守だったりするし、東北地方に睨みを利かせた、朝廷から見れば<異国・奥州>の最前線を守った、本来の意味での<征夷大将軍>とも言える家系であり、東北地方に所領を持っていたけれども、常胤本人も奥州藤原氏を攻略した功績で、所領を与えられたりしている。常総、いや関東一円に勢力を張った千葉一族は、奥州にまで散在していた。そして、この奥州千葉一族から、後に有名人が輩出することになる。皆さんも御存知の人物だ。
 江戸後期、陸州に北辰夢想流なる剣法が建てられた。近郷では知られた一派だったらしい。始祖の子は、しかし江戸へ出て医家となった。剣が人を活かす道なら、医も人を生かす術だろう。似たよぉなモンだ。医家となった彼は、自分の二男には剣の道を歩ませた。当時の一大流派・小野一刀流を学んだ少年は、見る間に頭角を現した。やがて師に認められ、婿入りした。しかし、旧法を固守しようとする師と、新法を編み出そうとする彼は衝突するに至った。師の説得に応じず、出奔した。祖父が生んだ北辰夢想流と、自ら学んだ小野一刀流を組み合わせ、<北辰一刀流>を創始した。彼の道場<玄武館>は規模としても江戸随一、即ち日本随一となった。幕末の世に多くの剣客を送り出す。此の、幕末期最強とも云われる剣豪の名は、平姓千葉周作成政である。紋所は月星だ。さて此処で、彼に、「北辰一刀流」の語義を説明してもらおう。

北辰一刀流名号略解
当流剣術一刀流と云名目は、元祖一刀斎なるが故に一刀流と云には非ず。一刀斎、剣法は一刀の妙処に在と云ふを覚悟して、嘗て剣法に名づくるに一刀の文字を以てし、倍其法を修し自得したるに因て、後自ら一刀斎と号したるなり。此一刀の法、原因高遠、意味深長なり。一刀とは剣法の太極なり。一刀より。始元して千変万化して、而して復一刀に帰す。混沌たる一円形にして、始も終も無く、起と止と無く、其間運用見難く測難く、神妙不可思議の理なり。都て剣技は無念無想と説、狐疑心無やうに修行さすれば、更に一段の卓見、一刀の意味を以て妙処を知らしめんとなり。無念と云、無想と云、常の教へなれども、念と想と相対して念と云も無念の理、無念と云も其中念有なり。禅家の所謂、無は猶一重の関と云て、無は有の反対なり。未寂滅の妙処にはあらずとなり。寂滅為楽と説、寂滅に至て始て道を得となり。寂滅の理は玄妙にして測知難き事なり。是故に一刀の意味を自得すれば敵より測知らる丶こと無、現妙の到極なり。
中庸に曰く、詩に曰く、徳の●(車扁に猶の旁)事如毛、毛は猶有倫上天之載は無声無臭至矣(前に云無念無想の無は有に対と云なればこ丶の無声無臭も同じやうにて至極したるにはあるまじと思ふべけれども心に係ると事に係るとの差なり。而ら修すると他より賛(鑽?)するとの別あり。無声無臭は至極の理と見るべし)。是形容すべき言なき故に子思子、無声無臭を以て上天の妙用を賛したり。孫子曰く、微乎々々、至於無形神乎々々於至無声と。是則ち徳の民を化する。兵法の敵に勝、悉く一理にして、無声無臭、無形無声、玄妙に至つて自ら必勝の理備り、始めて神と称すべし。是当流の秘訣にして其詳悉は口に言事能はず。文字に伝ふる事能はず。所謂以心伝心也。雖然切瑳の功を績ときは自得し易き口伝有、又北辰の文字を冠したるは元来、千葉家先祖常胤の剣法にして、其法衆妙の理有、其妙用北辰の徳に斎。北辰は北極星にして、天智の正中に位し難局に対し、天地を運転するの枢なり。子曰く、為政以徳。譬如北辰居其所衆星共之、君の位にして不動、無為にして、能く衆生を臣として使ふ。即ち太極の体用なり。至簡至静にして、能く衆を服するの理、是亦意味深長、容易説尽し難く。此剣法当家に伝りたるを一刀流と合法して、北辰一刀流と号たるなり。倍神妙と云べし。
流とは、其元祖の法脈、宗など、或は門末、門葉など云事にて、末と云事なり。別に意味有に非ず。俗にながれと云なり、者流の流と心得べし。

大目録皆伝之巻 奥の口伝
星王剣 石火位 鐘位 露位
是は免状之伝授也。星王は北辰也。乾坤を貫きたる位也。星王の位そなはり北辰我、我北辰と観念し、打てども突けども、寂然不動として不動位也。其乾坤を貫たる広大の位に、石火鐘露の三つの位自ら備はる、石火は金石に火を含みたる如く、中れば業を生ず。鐘は大鐘の如く、敵の力だけに響き応ず。露は草の葉末に露の止りたる如く、心気力満々と満ちて、草葉につける露の如く、触ると落る美妙無相の早業、至然に備はりたる位なり。(あとがき略)

 北辰/北極星は、自ら動くことはないが凄まじい力を秘めている、と彼が信じていたこと、若しくは、そういう象徴として用いた語彙である事は、「中庸」を引き合いに出している点からも、明らかである。中庸は、何にもしないって意味で<原点(全ベクトルゼロ)>ではなく、全方位に強い力が働いた上での<総ベクトル>としてのゼロである。だから、敵が動き、微妙な均衡が崩れた瞬間、凄まじい力が発生するのだ。初等物理である。勿論、これは、彼独りの妄想ではない。いや、妄想かもしれないが、それは共有さるべきものであった。が、不動であるだけなら、北辰に限らず別の語彙でも良かった筈だ。にも拘わらず、彼は自らの生涯を懸けた剣の道を名付くるに、北辰なる言葉を採用した。此の点に関しては、古代後期、関東に新たな朝廷を開き、自ら「新皇」と名乗った男・平将門の話から、説き起こさねばならないだろう。
 平将門、桓武平氏高望王(タカノゾミオウではなくタカモチオウ)の子・良持の嫡男、一説では良将と犬養春枝との間に生まれた、将門は、日本国の大魔縁・崇徳院なんかと比べればスケールの小さい、所詮は関東ローカルのチンケな野郎に過ぎないが、後に関東が日本の中枢となった地の利故に、上げ底された人物だろう。同じローカルなら、奥州藤原氏の方がスゴイと思うんだけど、まぁ良い、今は八犬伝、関東に舞台の中心を据えた物語に就いて語っている。将門、本来なら言及するに足らぬ小者だが、話の都合で取り上げる。
 将門は、叔父・良兼と「聊依女論(将門記)」、女の取り合いをするうちに、他人同士の争いに巻き込まれ、何時の間にやら戦乱のド真ん中に押し出されちゃって、何を勘違いしたんだか、「新皇」を名乗って文武百官を設けた、変なオジサンだ。また、中央/京都の追討軍に攻められ敗れ斬首された折、生首が遠くまで飛んだとか、切り口から七つの星が弾け出したとかいうエピソードが残る、ビックリ人間でもある。実際は単なるワガママなスケベェだった可能性もあるけれども。で、何故に将門なんぞを持ち出したかと云えば、此の、<切り口から七つ星が弾け出た>って挿話が気になるからだ。
 将門、叔父に当たる良文と仲良しだったとも云われる。如何くらい仲が良かったかと云えば、系図によっては、良文を養子にしたことにさえなっている。叔父を養子にするなんて? 別に驚くには当たらない。こんなのは、まだ良い方だ。
 上で崇徳院に就いてチョッと触れたが、此の顕仁氏、鳥羽帝の第一皇子だったんだけど、母親は皇后・璋子(待賢門院)であった。彼女は鳥羽帝の祖父・白河帝の皇女である。鳥羽は叔母と結婚したのだが、まぁ、近親相姦なんて、此の一族では日常茶飯事だから、家風ってヤツかもしれない、ソレは措く。で、まぁ、この叔母−甥の結婚、公には、そうなっているが、ちょっと怪しい。
 坊様、藤原摂関家出身の身分の高い僧だが、当時の出来事を書き残している。「愚管抄」だ。此に拠れば、璋子さんは、白河帝の実子ではなかった。藤原公実の娘ってことになっている。ワザワザ実名まで挙げて嘘を吐くってのもアレだから、なかなかに信憑性のある話だ。で、同書を読むと、如何やら璋子さんは、タダの養女ではなかったらしい。愛人として迎えられたようなのだ。正式に結婚できなかったり憚りがある場合、養子縁組の形式で同棲をカモフラージュすることは、今でもある。例えば、同性愛者は愛人の同性を養女・養子にしたりする。現行憲法は飽くまでも「両性」の合意に基づいてのみ結婚の自由を認めている。「同性」間の結婚は認められていない。違憲、イケンことやねん。
 で、白河帝、どうせロリコンか何かだったのだろうが、飽きたか如何かして、璋子さんを鳥羽帝に押し付けた。其の時、既に璋子さんの御腹の中には崇徳がいたと噂されている。で、そぉいぅ自己中心的な白河帝の孫・鳥羽帝が、器量大きく寛大な人間に成長する筈がない。鳥羽帝は崇徳を幼児虐待、だけで終わらずに終生、虐待し続けた。何たって、好色な祖父に押し付けられた妻が既に子種を有していたのだ。アブアブしてても赤ん坊・崇徳は、鳥羽帝の<叔父>に当たる。赤ん坊叔父さんである。可愛かろう筈がない。<妻の子が叔父>、愚管抄では、是故に鳥羽は崇徳を「叔父子(オジゴ)」と呼んで疎んじ、崇徳が保元の乱を起こす遠因をつくった、みたいに書いている。何の話だったっけ……そぉそぉ、えぇっと、だから、叔父を養子にするなんてのは、まだまだ健全な方なのだ。
 将門である。将門は古代後期に暴れ回ったが、其の戦乱の関東で、千葉氏は発生した。上に掲げた良文こそ、千葉氏の元祖とされる人物である。常胤は八代目に当たる。また、良文を千葉のみならず、三浦とか相馬とか、関東八平氏総ての祖とする声もある。かなり重要人物だったりするのだ、良文は。そして、この良文に纏わるエピソードが同時に、将門と七つ星との関係をも示唆してくれる。
 千葉家の由来を記した千学集抄に拠れば、承平元年、乱を起こした平将門は良文を伴い上野へと乱入した。群馬郡府中花園村染谷河に差し掛かった。水量が多く、とても渡れそうになかった。十二三歳の童子が忽然と現れ、河を渡るよう勧めた。躊躇う将門・良文を見て童子が、河へと入り先導した。不思議なことに軍勢は河を渡ることが出来た。追ってきた平国香の軍勢は渡すことが出来ず、対岸に留まった。河を隔てて戦が始まった。……もし河が隔てていなかったら、圧倒的に数で勝る国香の軍勢が将門・良文を難なく討ち取っていただろう。七日七夜の間に戦闘は三十四度に及んだ。将門・良文の軍勢は、遂に七騎を残すのみとなった。良文は落馬しつつ神の加護を祈った。すると「羊妙見大菩薩雲中より下りまして矢を拾はせ給ひ、良文七騎に与へ射させければ、七騎の声は千万騎の声と聞えて、敵の上には剣を雨らしければ、敵の大軍度を失ひけり。彼の七騎は手も負はず、大軍に切り勝ち給ふ。小童忽ち天に昇らんとせし時、両将は如何なる神とぞ伺ひにける。善哉、我こそは妙見菩薩ぞ。親王の妃汝を孕み給うて三月なる頃、此の若を誕生しなんには、妙見大菩薩の氏子に奉らんと誓申し給ひし故に、染谷河に現る。国香の大軍かなはずして蜘蛛の子を散すが如く失せぬ。(国香は山中にひそみかくれぬ)此の後は良文将門の小符には、日月こそはと、告げ終りて失せ給ふ。さてこそ九曜を家紋とせられけれ」中略「良文将門の七騎既に戦に打勝ちて、此の所に如何なる仏神や在しますと、土人に尋ねけるに、近くなる園邨息災寺に妙見大菩薩在ます、と答ふ。さて彼所に参り給うて、七番づつの小笠懸を射奉り、{良文の}弟文次郎を留め置きて、後には、菩薩を盗み奉りて出で来よ、といひ付けけり。郎等は髪おろし、三年の間その所に住みて後、常住の僧となりて勤め奉りぬ。正月五日修正を習ひ、我が君良文を守らせ給へ。菩薩はや出で給へ、と申しけるに、御戸押し開き出でさせ給ふ。文次郎かしこみて、菩薩は七体と聞きにしものを、と申す。さればとよ、染谷河にて矢拾ひける時、足に土付きたり、とて踏み出し給ふ。是を認め知りて御供申し奉れり。実に承平三年癸巳十二月二十三日成り。平井の蓑崎といふ所に一夜在しまし、さて本所武蔵国藤田、良文の在す所、文次郎家居の一間に安置し奉りて、二人の娘を八乙女として、自ら太鼓打ちて神楽申上げし也。秩父の大宮へも移らせ給ふ也。又鎌倉の村岡に移りて村岡五郎と申す也。良文鎌倉へ移りし日、八箇国を領し子孫繁盛し給ふ也」後略。

 同様の話は妙見実録千集記にも載っている。此方では、三年間も妙見菩薩の御守をさせられた「文次郎」が「弟」ではなく「郎党」になっていたりするが、内容に、ほぼ異同はない。ただ、同様の話でも千葉伝考記では、此の戦、国香が敵役であるには変わりないが、将門の代わりに平良兼が登場する。そして、妙見の加護を受けたのは良兼であり、後に舎弟である良文に妙見像を与えている。妙見を三年間守った郎党「弟文次郎」は登場しない。そして、また、千葉実録では、良文が戦った相手を将門としており、まず多勢に無勢で七騎となった良文勢が逃げ回った挙げ句に、百騎の敗残兵を集めて再挑戦、童子として現じた妙見が河を先導したりして、将門軍を蹴散らすことになっている。此処でも「文次郎」さんは登場し、三年間、話し相手にもならぬ妙見菩薩の御守をさせられている。付け加えるならば、此の話には「新皇」を名乗り朝廷に楯突く将門に対し良文が、やたらと憎悪を剥き出しにしているといぅか、朝廷に敵するとは怪しからんとか、戦闘に於いては手勢を叱咤激励するに「朝恩に報い奉れ」なんて言って、急に尊皇家を気取っている。此の文書で良文に将門と敵対させたのは、朝敵である将門と良文が同類だと思われたくなかった子孫か何かの、作為だった可能性がある。朝敵の子孫だと思われたらイヤだと感じるココロが、嘘を吐いたのかもしれない。更にまた、千葉一族・臼井家に伝わる千葉臼井家譜は、良文を高望王と妻が妙見に祈って得た子だとする。懐胎したときに童子が現れ、月星を紋所にせよと告げている。「夫良文天性超人器量抜群、其謂之北辰之精亦豈疑之乎」。まぁ、先祖を持ち上げるのに、北辰の精だと言っているのだ。染谷河での戦いは千葉実録と同様に、良文は将門と戦っており、<不思議>の内容は他史料と相似である。七星山息災寺で派遣されるのは、やはり「文次郎」さんだ。彼は山伏に化けて、息災寺へ向かう。但し、三年待たずに到着した夜、早くも妙見の示現を得る。付け加えるならば、何連も良文の軍勢は、戦の前半で<七騎>を残すのみとなる。
 千葉氏こそ、妙見信仰に篤く帰依した一族だ。そして、「妙見」は、「七星山」とか「北斗山」なる寺の山号から窺える如く<北斗>を象徴した仏格だという。同時に「北辰」をも象徴する。将門の説話に、首を斬られたときに七つの星が弾け飛んだとか、七人の影武者がいたといぅのは、彼と北斗を結び付けているに他ならない。それは上述、千学集抄の記述からも透かし見える。「此の後は良文将門の小符には、日月こそはと、告げ終りて……」である。但し、実際に将門本人が妙見の熱心な信者だったか、私は知らない。江戸期、千葉一族の子孫は広範囲に拡がり、大名やら旗本にも多かった。其の元祖・良文は、史料によっては、将門と、一時的にせよ親しかった、とされる。良文と将門との親近性故、本来ならば良文関連の説話であったものが、将門に纏わり付いた可能性だって、十分にある。当然、逆も考えられる。まぁ、実際に近世の江戸人士は、将門と北斗をリンクさせて考えていたようだから、細かい事は言わないようにしよう。
 また、このように北辰/北斗を祀った一族の末流に、北辰夢想流なる剣法を編み出した人物がおり、北辰一刀流を建てた剣豪がいることは、何等、不自然ではない。千葉周作が、「北辰」に拘った理由は、自ずと明らかであろう。鎌倉初期、最強の武人の一人であり、妖狐を退治するほど神懸かった千葉常胤に連なる者としての自負が透かし見える。逆に言えば、ソレが、周作ほか千葉一族に連なる者のアイデンティティーなのだ。北辰を祀る者……。因みに、千葉周作が建てた道場「玄武館」の玄武、北方を象徴する動物で、以前にも書いたが、亀と蛇が組み合わさった形をしている。北は「亀」と「蛇」に象徴されるようだ。閑話休題……どころぢゃなくって、またしても行数がなくなった。まぁ、此の回でも八犬伝に直接触れられないと予告していたから、予定の行動である(←それで良いのか?)。だいたい、此の読本は初回「番外編 変成男子」で申し上げた如く、八犬伝世界に於ける筆者の冒険を、ほぼ実況中継している。と云えば体裁が良いけど、ぶっちゃけた話、<考えながら書いている>のだ。何処へ行くのだか、私さえ、ハッキリとは分かっていない。書き方だって、まず一気呵成にモノし、適当な所で分稿してるのだ。私の筆名、イーカゲンの所以である。と、云っているうちに、本当に行数がなくなってきた。それでは、今回は、此迄。
(お粗末様)

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