伊井暇幻読本・南総里見八犬伝
 
「万世一系」
 
―――神々の輪舞シリーズ8―――
 
 前回は、馬琴の「椿説弓張月」末尾「為朝神社并南島地名弁略」を引き、弓張月読解のヒントを捜した。其処から言えることは則ち、馬琴は、肥後と琉球の近似性、琉球と日本武尊との親近性を、強弁したいのだと判る。馬琴が為朝と日本武尊に近似性もしくは親近性を認めていることは、白縫入水の場面で弟橘姫とダブらせていることからも解る。鎮西八郎と呼ばれた為朝と阿蘇明神のある肥後は相性が良いし、白縫は不知火、肥後の地名だ。為朝を間に置いて、肥後と琉球との間に、近似性を見たがっても不自然ではない。そして、其の根底にあるのが、為朝イコール日本武尊、なる方程式だろう。
 このような論理パターンは、馬琴が弓張月を書いた動機に関しても見られる。馬琴は「為朝神社并南島地名弁略」末尾で、

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近属八丈島なる為朝の神像東都にてをがまれ給ふ事ありけりその帰路相模灘にて破船したりけるに辛じて衆皆恙なしといへども神像既に洋中に没し給ひぬればとり得んことのかなひがたかりしに忽然としておのづから海巌の上に立給へり見るもの且歓び且尊みやがて小舟をよしてとり奉りぬというすべてこの神にはかヽる霊験多かり又いぬる丙寅の冬この書の第二編刻成て発販すとて巻帙夥海船にあつらへて浪花の書賈へ遣したりけるに其船伊豆浦にて風波に破られんとす辛じて大島へ漕よして彼荒磯に両三日歇りつヽ遂に順風を得て恙なく浪花へ着岸したりといふ信に不思議の因縁ならずや予嘗為朝の人となりを歎唱すよりて今その演義の一書を大成し毎編曲に●(妍のツクリ)事実を攷索せずといふことなししかれども浅陋寡聞僅に十が二三を獲たり君とわれいかなることや契りけん昔の世さへ思ひやれば亦不可思議の因果なるかな
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と因縁めいた話をしている。此の部分から少し遡り、為朝を祀った神社を列記する中、

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○永正年間滝沢孫三郎源乗清ぬし感得のことあつて居住の地三河国設楽郡滝沢の郷に鎮西八郎の神を勧請す号て為朝八幡といふ今その蹟詳ならず又一説に下総国生宝の大教寺は滝沢山と号す(浄土宗)この寺の辺に為朝の箭の根石といふものあり大石なり石の面自然と矢の根の形あり往昔その辺の壊崩て石は反覆して過半土中に滅す故に今は矢の根見えずといふこの両説も里老の口碑に伝る所なりいまだ書に出るを見ずといへども姑く藁を存す
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なんて、書いてる。「滝沢孫三郎源乗清」は、恐らく馬琴が「自分の先祖だったら良いなぁ」と考えた人物ではなかったか。馬琴は自分が藤原姓真中氏の血を引いていることを知りつつ、源姓であると自覚していた。其処ん所の事情は、馬琴が自分のルーツを考察した『吾仏の記』にあるけど省略する。孫三郎乗清も源姓だから、最低限の共通性はある。そして『吾仏の記』に「滝沢孫二郎乗清」なる人物が登場する。
 『吾仏の記』は、まず馬琴の耳に入った色んな「滝沢さん」に就いて書き記し、縁者はいないものかと悩む様を示している。続いてルーツ調べをしようとした動機を記、「孫二郎乗清」に言及する。

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(解)竊に按ずるに白石先生(新井筑後守源君美朝臣)の書つめたりし御系譜といふものヽ中に松平左京亮親忠公の第八男に松平孫二郎乗清といふありその下に文注して三河の滝沢に住す子孫四代は見えたりその後の事をしらずといへりよりて又この条を松平系図もて校旧するに迭に異同あり(松平系図には親忠公に九男あり/白石の書には九男なし/松系に所載親忠公の第八男を張忠とす/張忠当作弘忠蓋伝写の失也/分注に云張忠助十郎右京亮大系図に作弘忠御親族系図に左京亮又謂岩津内衆第九男を乗清とす分注に云乗清滝沢源次郎紋鳶滝脇系図記十七巻同書に親忠公の第二子乗元朝臣の子二人長男乗正源次郎三州大給郷主二男乗清滝脇源次郎松平監物三州滝脇の郷主といへりこれらの書ざまこヽろ得がたし乗正乗清兄弟にして共に源次郎と唱ふべくもあらず滝脇の系図に拠れば下の源次郎は源四郎の誤なるべし且二人の乗清ありてその一人を親忠公の九男とし又一人を乗元ぬしの二男とす叔姪二人の乗清ありておの々々滝脇源次郎と唱んことあるべくもおぼえずすべて松平系図に載す所は誤れるに似たり又政譜を考るに親忠公の九男加賀右衛門はじめ源次郎乗清とあり又御略系には親忠公の二男加賀守乗元号大給二男久大夫正乗とありその鉾盾することかくの如しそが中に白石は秘府の御蔵本を自由にせし人なりその書に孫二郎乗清ぬしを親忠公の八男として三河の滝沢に住せしといふ事必考据あるなるべしよりて思ふに彼孫二郎乗清ぬし三河の滝沢に居住したらんには滝沢をもて家の称号とせられし事例せば大給滝脇のごとくなるべしいともかしこきことなれども疑似の為に抄録するのみ)いまだいづれか是をしらずむかしある人予が為にいへることありその説に云松平孫次郎乗清ぬしこれを滝沢松平といふ子孫三四世の後いたく衰へて長沢松平の家臣になりしなるべし長沢の松平は和泉入道信光公の御弟備中守久親の後胤甚右衛門尉正次の子(これを長沢松平といふ一説に久親は信光の御子といふ)実は大河内金兵衛秀綱の二男松平右衛門大夫正綱是なり彼柿沢孫二郎ぬしの子孫既にその家に仕へて正綱の子伊豆守信綱朝臣の世に至れり(信綱は正綱の養子也といふ実は大河内金兵衛入道休心の孫金兵衛久綱の嫡男なるを正綱養ふて子とせしよし藩翰譜第二巻に見えたり)かヽれば今も松平伊豆守殿に家臣に滝沢氏の人あらんにはこれ乗清の後胤ならん足下の祖先の出る所も推して知るべしといへりこの事正しき證文を見ず且わが家の口碑にも聞くこと絶てなきものをつや々々信用しがたきことなり聊似たるを引けつけ竊に系図を為るもの昔も今もありといふともそは奸人の所為なればわれいかでかは倣んや人の説の信がたきかヽる事世に多かり又按ずるに美香の滝沢は設楽郡にありこの辺の流水を滝沢川と名づくといふ甲陽軍鑑長篠の戦の条下にあるみ原を前に打向ひ流れを前にして柵を結ひて陣をとる此あるみ原といふは南北に高山そばだちその間三十町にはすぎずのりもと滝沢ふたつの川縦横に流れて落合ふたり云々と見えしは即此なりその途必この滝沢川をわたすといへばよく知れる人多かるべし(滝沢滝脇共に三河の地名にしてその唱へ紛れ易し諸系譜の誤はまたくこれによれり)武士の家の称号は地名によらぬもの稀也……
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 これは馬琴が五十歳代半ばで書いた部分であり、弓張月執筆より後だ。また馬琴は、この部分で「二十年来ルーツを調べ続けている」と書いているので、三十代から、自分の先祖が誰なのか調査していた。その過程で得た情報が、為朝八幡を建てた「滝沢孫三郎源乗清」なる人名であったか。
 ところで実は私の本名は恐らく全国でも多い苗字ではないが、愛媛県南部には集中している。(ローカルな)有名人も何人かいるのだけれども、碌な奴はいない。一人は俳人で大学の大先輩でもあるんだが、俗的に云えば廃人に近く、早死にしている。一人は、かなりの偏屈で反乱を起こした挙げ句に殺されている。自分の性格を顧みて、「なんか似てるかな」と思うことがあるのだけれども、彼らと私は関係がない。他人の空似だろう。
 馬琴も一応、「吾仏の記」では「ちょっと共通点があるからといって、無理にくっつけようとするのはイカン」と云ってはいるが、さて、弓張月を書いている段階で、その様に思ったか如何か。案外、心の中では「自分の祖先」として「滝沢孫三郎源乗清」を見ていたのではないか? そうでなくてワザワザ、人気の神社でもない為朝八幡、有名人でもない乗清を、公刊する作品の中で持ち出す理由が解らない。自分と為朝の間に、因縁めいたものを読者に見せることで、弓張月の味わいを深めようとしたのだろう。説明なく、八犬伝時代である「永正年間」の話として、「滝沢」某が為朝八幡を建てるなんて話を持ち出す以上、少なくとも其の「滝沢」が馬琴の祖先であると、読者に〈誤解〉させようとする意図が感じられる。もしかしたら、弓張月執筆時点では、乗清が自分の祖先だと信じていたかもしれない。
 馬琴は、滝沢家が源氏から既に藤原系の血筋になったことを知っていた。にも拘わらず、源氏を名乗り続ける。一応、彼は父祖の意思を嗣いで源氏を名乗り続けている、と言っているのだが、考証家の彼らしくもない。口うるさい考証家なら、他家でこのようなことが起こっていたなら、「心得難し」ぐらいの嫌味は言う筈だ。此処で彼は、「源氏」を積極的に受け容れているフシがある。
 また、「為朝神社并南島地名弁略」で「滝沢孫三郎」なる名前を、滝沢馬琴が「私の先祖である証拠/事実は全くないが」と正当な注釈も銜えず剥き出しで〈事実〉だけを表記するとは、〈自分に都合の悪い事実は隠蔽する〉筆法にも見える。琉球で舜天王の孫・義本王が天命を失い、天孫系(といぅことに琉球ではなっているらしい)英祖王に禅譲した事実を隠すのと同様だ。まぁ勿論、小説なんだから、目くじら立てることぢゃないんだけれども。

 ところで、北宋の太宗が慨嘆した逸話(宋史・雍煕元年)を引くまでもなく、易姓革命を容認した中国皇帝にあっても、出来得るならば、己の子々孫々が永遠に皇帝の座に就くよう願っていた。後世、暗愚と呼ばれた各王朝最後の皇帝だって、滅びたくって滅びたワケではなかろう。〈万世一系〉日本に於いても古代中期には成立していた〈理想〉は、人間として自然な発想かもしれない。
 ただし「自然な発想」であっても、〈自然〉の裡では無力であって、「万世一系」が実現した事は古今東西、嘗て一度もない。比較的長く保った日本の天皇家でも、(神話を鵜呑みにしたところで)たかだか百三十代に満たない。「万世一系」は所詮、権力主体の妄想に過ぎない。特に、相対主義の影響下にある現代に於いては、親が幸せだと信ずる道に子が無批判である事の方が稀かもしれぬ。ましてや、親の敷いたレールを、その儘に受け容れる事を潔しとしない心性が、広範に見られる。紀元前六世紀でさえ、王子の立場を捨てたゴータマさんがいた。このような流れの中で、「万世一系」は、権力主体の内部でさえ、崩壊しかねない。だいたい、権力が変質してしまった後に、同じ名で呼ばれているから「永続している」なんて、どの口で言えるものか。現在の王は、嘗ての王ではない。別物であるから、続いてはいないのだ。
 血が繋がっていたら続いていることになる? 巫山戯ちゃイケナイ。私だって現在生きていることからすれば、私の血は、恐らく人類として発祥した時点まで遡ることが出来る。それは千年や二千年の単位ではない筈だ。いま生きている人間の全ては、そうだろう。そして、一定の地位を世襲すると言っても、余人は他ならず、天皇のみは、その血脈が要件であり、資質や実績が無関係であるから、子供さえ生まれたら続かない方がオカシイ。いや、生まれなくても、例えば武烈の後にも天皇家は何故だか続いてきた(ことになっている)。
 何たって、全ての失敗から責任逃れしてきたんだから、これほど、お気楽なものはない。また、この無責任さがなければ、「万世一系」なんて、思いつくことも許されない。「万世一系」は必然として、無責任を要件とする。そして即ち、この「お気楽」さが我が邦の国体であるから、政治家がこぞって無責任体質であることは、まさに当然至極であろう。そんな国で、「最近の若者は無責任だ」なんて口が裂けても言ってはならない。我らは、最悪の無責任を許してきた国民なのだから。善いぢゃねぇか、無責任だって。みんな、無責任なんだから。
 弓張月の為朝だって、男の身勝手全開って言ぅか、無責任一代男にも思える。至る所で戦い放題、女性と懇ろになり放題、しかも自分の子供を最後まで面倒見ようと一切思ってないところが、男からすれば羨ましい。超人的パワーを有する絶対的存在で、矢で船を沈没させるぐらいは朝飯前なのだ。しかも、子孫は「万世一系」に琉球王の座にある(よぉに見せかけられている)。現代のアクション小説だって、超人的パワーか御都合主義で主人公が好い目を見る。現実に倦み疲れた心を癒すのが、それら小説の使命であれば、単純で幼児的な欲望肯定ではあるものの、まぁ真に受ける者がいないとの前提で、存在を許容すべきだろう。
 ところで私は嘗て、

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 弓張月がダイナミックな印象の鎮魂歌とすれば、八犬伝は静謐なるレクイエムの雰囲気を湛えている。(「白き衣の女」日本ちゃちゃちゃっ4)
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と申し上げた。言い換えれば、弓張月は陽性、八犬伝は陰性だ。ノーテンキと根暗とも言える。八犬伝のエピローグで、徳/天命を失った里見家から犬士たちが離れていく様が描かれている。八犬伝は、日本書紀と同様に、易姓革命論を採っているのだ。永遠の勝者はいない、との論理である。
 一方、弓張月では、琉球王朝が為朝以後「万世一系」であるかのように、馬琴は表記している。弓張月が陽性である点は、お気楽「万世一系」論を採っていることとも無縁ではない。読者が感情移入している主人公の末裔が不幸に終われば、それまで幾らノーテンキな筋立てでも、結局、読者は寂しさを感じてしまい、全体として作品は陰性となる。いや、途中がノーテンキであるなら、尚更に哀しさが募ってしまうだろう。弓張月のエピローグは為朝の切腹だが、為すべき事を為しての自死だから、別に哀愁は漂わない。勝手に暴れて其の挙げ句、勝手に死んだだけの話だ。実に爽やかだ(周囲にとっては迷惑野郎だったかもしれないが)。逆に八犬伝では、犬士は、若しかしたら永遠の生命を得たにも読める。人間だったら何時かは死ぬ筈だが、犬士たちに限っては、其の死を意識させない。にも拘わらず、如何しようもない哀愁に包まれて、物語は幕を閉じる。主人公の生き死になぞ、実は物語全体の色彩を左右するものではないのだ。
 

 弓張月前編刊行が文化四(一八〇七)年で、八犬伝肇輯は文化十一(一八一四)年に上梓された。七年の開きがあるが、設定のレベルからして八犬伝は弓張月より遙かに複雑だから、準備にも時間がかかっただろう。馬琴の主観的遠近感は、「七年」より短かった疑いもある。例えば実際には、概ね完成していても、馬琴はプロ作家であり出版してくれる者がいなくてはならぬから、良き理解者を得るまで待たねばならぬこともあっただろう。読んでみても、弓張月の方が読み易いし、取り敢えず人気を博し易そうだ。弓張月刊行開始から三年後の文化七(一八一〇)年には、青雲寺に筆塚が建立された。今風に言えば、文壇に確固たる地位を築いたのだろう。少々難解な小説であっても、こういう作家に出版したいと言われたら、本屋も拒めやしない。筆塚建立から四年、八犬伝刊行がスタートする。案外、弓張月と八犬伝との〈距離〉は、かなり近いかもしれない。
 現時点で断言できることは、ない。ただ、上記のごとき順序を踏まえれば、馬琴の脳中に、少なくとも清書レベルで書き始めることが出来、完成の見通しが立った瞬間は、やはり弓張月の方が先で、八犬伝は若干遅れるのではないか。それと言うのも、お気楽「万世一系」論の如き単純素朴な発想より、易姓革命論もしくは諸行無常論の方が、複雑で有為転変する現実に、まだしも庶いからだ。単純素朴な発想であるだけ、万世一系論の方が先に思いつきそうだし、ノーテンキで陽性な、読まれ易い物語が出来る。勿論、色んな物語は古代以降、我が邦で紡がれてきたワケだが、それらは自慰……ではなかった、純粋に〈書きたいから書いた〉ものだった。源氏物語なんて、仲良し女性間の猥談だろう。別に馬琴が日本初のプロ作家とまで私は強弁する積もりはないが、馬琴がプロ作家であったことは間違いない。勿論、二十八年も執拗に書き綴った八犬伝は「書きたいから書いた」には違いなかろうが、それだけでは商業出版は成り立たない。
 相対的に言って、弓張月以前と以後とでは、馬琴の地位も異なっていたであろうことから、弓張月出版時には、八犬伝刊行時よりも、馬琴は低い位置にいたことになり、故に我が儘も言えなかったであろう。それまでの馬琴作品は、時流に媚びているものもあるし、読本作家となっても、文学史もしくは権力に楯突くようなものは書いてないように思う。プロが書きたいことを書くには、それなりの地位が必要だ。
 馬琴は単純お気楽な「万世一系」論を取り込み弓張月を書いたものの、それだけで満足できる程、純朴ではなかっただろう。だいたい複雑怪奇な性格でなかったら八犬伝なんて書かなかっただろうが、自分の書いたベストセラー弓張月に物足りなさを感じていたような気がしてならない。何たって、易姓革命論に拠って立つ八犬伝を書いたんだから。最大に見積もっても、弓張月と八犬伝との間は「七年」だ。若い頃なら、男子三日会わざれば刮目して此を見よ、とも言えようが、四十も過ぎた男が、短期間で節をフニャフニャ変えられるワケがない。万世一系論と易姓革命論を、同時に同様に信じていたとするならば、馬琴も、最近流行の多重人格とやらだと診断されねばならぬ。そうでなくとも中国古典に精通していた馬琴のことだ、「万世一系」論から「易姓革命」論へと進化することは、寧ろ当然であったろう。
 「万世一系」は、全ての、少なくとも既存の権力主体にとって、共通の夢/妄想であった。また、権力は自らを絶対化したがる幼児的欲望に絡め取られがちだ。対して八犬伝は、天命を失う〈革命〉を支持し、しかも幾ら貴種であろうと善人だろうと、為朝の如き絶対的かつ超人的なパワーを発揮することはなく、優秀な臣下が偶々忠節を尽くしてくれて初めて、義実が権力として成立/許容されることを、主張する。併せて、民衆が本質として善であり、自分たちの信任できない権力を排除する意識の高さと実力を持っていることを示す(義実挙兵や蟇田素藤の館山城奪取など)。権力の、アメーバだか何だかみたいな、節操なき膨張の欲望を、完膚無き迄に叩きのめす。このような心性が、めっぺらぽんのすっぺらぽん、大塩の乱に纏わるシリーズに於いて、近世後半には民衆の間に存在していたことを示した。
 勿論、馬琴は民衆の力を無批判に肯定しているのではない。義実が白浜で挙兵した折などは、確かに良い方へ話が流れた。しかし一方、蟇田素藤が館山城主小鞠谷主馬助如満を討って後釜に座ったときにも、民衆の力が利用された。山賊だった素藤は下総に流れ着き、玉面嬢/狸の影響とはいえ疫病を治め徳を積む。このことから民衆の支持を得たのだ。後に本性を現して暴君となりはしたのだが、叛乱を指揮した時点では、確かに民衆の支持を得ても良い人物であった。民衆だって神様ではないのだから、騙されることもある。八犬伝に於いては、騙されることは本性を貶めることにはならない。義実だって犬士だって騙されることはあるが、それを以て価値を減ずることはない。結局、馬琴は民衆の実力行使を肯定しつつ、(騙されたときの)危険性をも指摘していることになる。極めて現実的な立場だ。その上で、八犬伝は民衆の立場から、「世の中、甘ぁ見るなよ」、権力の喉元に匕首を突き付ける。
 私は「めっぺらぽんのすっぺらぽん」に於いて、

     ◆
当時の読者は、八犬伝を如何に読んだだろうか。作中に描かれた、極めて魅力的な権力を、如何に感じただろうか。ふと目を上げれば、ソコには腐敗した現実があった。読者は、如何に感じたろうか。……解らない。民衆は、寡黙である。ただ、八犬伝が刊行された後、歴史の流れは、たとえ一時期とはいえ、目の前の腐敗した現実を変革しようとする、逞しい力が漲るものとなった。
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と述べた。此処では、次のように言い換えよう。

 八犬伝は、(親兵衛仁に象徴される如く暴力とは本質的には無縁であるべく設計されているのだが)〈革命の文学〉と呼ぶに相応しい。八犬伝、静謐なるレクイエム、しかし、其の背後からは、馬琴の悪魔的な哄笑とともに、満たされざる者たちの権威/権力に対する呪詛が聞こえてきはしまいか。「おまえたちも、いつかは滅びる」。
 そして八犬伝刊行が終了した二十五年後、義実同様に源氏を名乗り嘗ては戦乱の世を終結させて「東海の辺」/関東に建てられた、現実の王権が崩壊する。が、呪詛は別に徳川幕府のみに向けられたものであったにしては、大掛かり/本質論にまで到達してしまっている。権力が硬直化/天命を失えば、同様に屠り去られることを、断言している。また、前述のように、民衆の力をも肯定的に強調している。これを単に中国古来の「易姓革命論」と矮小化することは、決して許されない。Power to the people.革命の文学に、乾杯。お粗末様。
 
 
 
 
 

 

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