■伊井暇幻読本・南総里見八犬伝 「金毘羅ふねふね」−神々の輪舞シリーズ9−

 

 前回まで数回、琉球に対する馬琴のイデオロギーを見た。いや実は当初、あんなことを書く予定はなかったのだ。ただ、中山世鑑やら白石の南嶋志など読んでいたら、ついムラムラときて、心ならずも馬琴の政治的イデオロギー性にまで言及しちゃったのである。軌道を修正し、〈弓張月神話〉を読んでいこう。以前にも述べた通り、弓張月では、正八幡神話が重要な存在となっている。此の点に就いては、馬琴が「拾遺考証」で豊玉姫・玉依姫に言及し、琉球が龍宮であるとしているので、間違いなかろう。まず、其処ん所を確認しておこう。

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曲亭馬琴●ゴンベンに撰のツクリ

琉球国は薩摩の南にあり。三十六町を一里と定めて。舟行百四十里。その地南北は長五六十里。東西僅に十里に過ずとなん(三才図会の説こ々に贅せず)古琉球を呼て於幾乃志摩ともいへり。平判官康頼入道。鬼界島に●(ゴンベンに適のツクリ)されて詠る歌に。

薩摩方沖に小島にわれありと親には告よ八重の潮風

源平盛衰記巻の七に載たり。記者の云。薩摩方とは総名也。鬼界は十二の島なれや。五島七島と名付たり。五島は日本に従へり。云々。予が推量の説をもていは●(テンつき々)。おきは大洋の沖にはあらで。琉球をいふ●カ。小島は其属島たる鬼界也。伝信録琉球三十六島の図説を閲するに。奇界亦名鬼界。去中山九百里(六町一里)為琉球東北最遠之界。人以手食。多黒色。云々と見えたり。か々れば。鬼界の属島と詠たるにや。とおぼし。又神代紀に。海宮。海郷とあるは。琉球の事なるべきよし。琉球談に注せられたり。(下に弁ず)世俗龍宮とは。海神の都する処にて。洋中波底。別に金殿玉楼あり。と思へるは●也。その事既に謝在杭が五雑爼に論破し。又●龍子が俗説弁に難じたり。愚按ずるに。龍宮は琉球也。本朝怪談故事に云。琉球神道記に云。琉球国の王宮に●するに。龍宮城に書。袋中の曰。是を見るときは。琉球とは龍宮の義なり。音通ずるゆゑ歟。この国東南に在て。水府の内の極深の底なれば。龍宮となすも故ある哉。天龍地龍の社あり。是を天妃といふ。今異国人の菩薩と称ふるは是也といへり。今試に。これを据するときは。神代紀に。所謂海宮は琉球の事也。といはんも。亦誣たりとせず。彦火火出見尊。海神の女豊玉姫を娶て。海宮に留り住給ふこと三年。そののち豊玉姫。女弟玉依姫を将。風波を冒して海辺に来到。方産に化して龍となる條下を考合するに。伝信録に。中山世鑑を引て。琉球開闢の祖を。阿摩美久といふ。三男二女を生む。長女を君々。二女を祝々といふ。一人は天神となり。一人は海神となる。といふを●(ニクヅキに勿のした口)合するときは。神代紀にいふ海神は。阿摩美久。豊玉姫は君々。玉依姫は祝々なりといはんも。その義遠からず。且豊玉姫は。龍と化し。海途を閉で去り。玉依姫は留りて。児。●(盧に鳥)●(滋のツクリに鳥)草葺不合尊を養育まゐらせし事。一人は天神(玉依姫歟)となり。一人は海神(豊玉姫歟)となるとある。中山世鑑の趣によくあへり。亦同書に云。琉球始名流●(ムシヘンに孔のツクリ)隋使羽騎尉朱寛至国于満濤間見地形如●(ムシヘンに孔のツクリ)龍浮水中故名徐葆光云隋書始見。則書流求。宋史因之。元史曰瑠求。明洪武中改琉球。といへり。かかればわが邦にて琉球を。宇留麻乃久爾。又於幾廼志麻と呼び。彼処の土人。みづからもその国を称して。屋其惹といひ。又流●(ムシヘンに孔のツクリ)ともいふ。唐土にて隋の時。はじめて流求と号たるに。元の時には。瑠求と書。明の洪武年中より。亦琉球と更めたるを受て。今はなへて琉球と呼也。その国の形。●(ムシヘンに孔のツクリ)龍の水中に浮むがごとくなるをもて。流●(ムシヘンに孔のツクリ)と名づけたれば。中葉その王宮を。龍宮とも称たるなるべし。●(ムシヘンに孔のツクリ)は和訓みづち。角なき龍なり。又和名鈔に水神を美豆知と訓ず。又水神の女を象罔女といふ。神代紀に見えたり。これらの縁故をもて。推ときは。大古にいへる海宮。今俗の称る龍宮城。みな琉球の事としるべし。抑彼国は。北極地を出ること二十六度二分三釐暖気他国に勝れて。正月に桃の花開。枇杷熟十二月に氷なく。蚊声を収ず。と伝信録月令の條下に見えたり。その風俗年中行事等は。近曾琉球談といふものに。中山伝信録を略解し。琉球事略。琉球聘使記。中山世譜。定西法師伝等の説をまじへ記されて。粗世俗のしるところなれば。ここにはもらしつ。この編は。為朝琉球に漂流し。その子舜天丸。彼国に王たるよしを述たれば。更に蛇足の弁をなすのみ。凡琉球国に三省あり。中山は中頭省。山南島窟省。山北国頭省これなり。三省の属符。すべて三十七。これを間切と称ふ。間切は。この方にいふ郡県の類なるべし。首里をもて王宮とし。恩納をもて。五嶽の頸とす。その図説のごときは。伝信録に見えたり。この編の列伝。おのおの彼書に載たる人物を抜萃して。私に名を設ず。……後略

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 しかし、弓張月で重要な神は独り正八幡だけではない。四国讃岐の金毘羅大権現も、深く関わっている。

 

     

椿説弓張月拾遺篇附言

余嘗この書の因に。崇徳院の官社。奉祀の顛末。白峯明神の由来。並金比羅権現霊験利益等将治承文治の年間より。天文永禄の後に至るまで。これを祈て厄難を脱れ。或は如意の福を獲て。官禄を子孫に伝へたる縁由。亦この神の祟りによりて。身を滅し家を亡ひ。或は不慮の禍に係りて。恥辱を後世に遺たる縁故。種々般々の物語を輯録して。この書の後に篇列すべくおもひたるに。思ふにまして巻の数もかさなりにければ。只速に本書の局を結ん為に。これらの事は。他日に著述にとて。得も演尽さずなりぬ。しかれども毎篇その事を書つけおきてしかば。ここに聊管見を演て其概略を挙。余いまだ四国の地を蹈ず。或は古記に本づき。或は伝聞によるが故に。遺漏も多く且訛謬も多かるべし。

 

金比羅名号ならびに安井金比羅之事

曲亭子。案を拊し。硯を浄め。更に記して云。讃岐国鵜足郡に霊山あり。象頭山と号。山の勢おのづから象の頭に似たり。祭神一座。これを金比羅大権現と称ふ。按ずるに和漢三才図会に云。金比羅権現は。鵜足郡にあり。祭神いまだ詳ならず。或はいふ三輪大明神。又はいふ素盞烏尊也云々。この説頗●(リッシンベンに呉)れり。夫金比羅は異域の善神。仏法守護の明王なり。今象頭山の別当を金光院と号す。社家雑れり。開基の年月詳ならず。世俗崇徳院天皇を配祀といふ。これらの弁は下にいはん。讃州覚城院南月堂三等の金比羅名号考に云。増一阿含経第四に曰。(経文今婦幼の為に国字に訳す。下皆これに倣へ)提婆達兜。耆闍窟に到て。大石十肘(十肘は二尺四寸なり)廣五肘なるを。世尊に擲んとす。山神金比羅彼山に住せり。提婆達兜が石を抱て。仏を打を見て。即時に手を伸て余処に接せり。○亦天台妙文句八之二に曰仏阿耨達泉に在て。舎利仏に告て曰。我耆闍窟に於て経行せしに。提婆達兜。高崖に於石の長三丈。闊丈六なるを挙て。以我頭を抑としつ。耆闍窟の山神を●(革に卑)羅と名づく。手を以て石を接す云々。(●羅は即金比羅)亦法苑珠林七十三に。興起行経を引り。引ところの文上のごとし。○亦宝積経金比羅天授記品曰。爾時世尊。王舎城に入りたまひ。四衆に囲繞せられて。容儀痒痒序たり。時に王舎城を護る諸天夜叉。大善神王あり。金比羅と名く。如是の念を作す。今如来の形想殊異にして。世間の中に於。最勝遇難し。人天の供養する所を受るに堪ん。我等今。当応種々の上妙供具を以。如来に奉献すべしと。この念を作し己て。便最勝の飲食。具足の香味。成就の妙色を以。仏に奉上す。爾時世尊。其献ずる所を愍の故に納受なしたまふ。時に金比羅王の領する所の夜叉衆。六万八千。虚空の中に在て。随喜を生ず。云々。○亦不空三蔵所翻の。金比羅天童子経ニ曰。仏歓喜園中に在して。諸衆生の為。説法し給へり。是時外道波旬。諸悪障を起して。諸衆生をして。大苦悩を受しむ。爾時如来。密に自身を化して。金比羅童子と作て。外道諸魔を調伏し。悪世の中に於。衆生を饒益し給へり。已上。見つべし。諸経文に載するところ。金比羅は。仏法守護の大善神。或は釈尊分身の自在明王たり。既に六万八千の薬叉衆あり。薬叉天狗。亦等類。地蔵経に所見あり。寺島が和漢三才図会に。象頭山の天狗を。金比羅坊と名く。霊験多し。祟る所も亦甚厳なりといへり。此に天狗と唱るものは。所謂金比羅王所領の。大薬叉なるべし。○金比羅翻名本地の弁に云。大宝積経に。金比羅天といへり。又金比羅神王。亦金比羅といへり。大般若経には。迦比羅神と説。薬師経には。倶比羅神と説。大日経に倶●(革に卑)羅と説り。皆梵語の転声也。天台妙文句に●羅といふ。蓋旧訳の略ならん。金比羅は。此に翻して威如王といふ。言は。この神の威勢通力譬ば世間の王者。其邦内に於。能自在を得たるが如し。故に以これに名つく。其本迹を論ずるに。大宝積経に由ときは。本地釈迦如来なること明けし。又増一阿含経及興起行経等に由ときは。本地不動明王なりといはんも。亦宜也。然れども。其実を約する時は。同一法身なる故に。釈迦は。即不動。不動は即釈迦にして。不二即離不謬。又旧説に曰。本地に顕密二仏あり。八幡宮。天満宮の類あり。なお深旨ありといへり。此に由てこれを観れば。象頭山に祭る所。三輪明神。素盞雄尊にあらざるとしるべし。唯世俗崇徳院を以金比羅とす。その事絶て考る所なしといへども。天皇は讃州志度にて崩御ならせ給ふに。その比この君の神霊の祟らせ給ふとて。世間騒擾かりしかば。追号をまゐらし。洛のほとりにさへ。御霊を鎮め祀り給ひにければ。象頭山の金比羅に配祀れりといはんも。故なきにあらず。例せば武蔵国神田の明神へ。平将門の霊を配祀れるが如し。今見に。洛東観勝寺に祀りたてまつる。崇徳院の御廟を。世俗安井の金比羅と唱ふ。又東都谷中のあなた。日暮里なる青雲寺の山に。禿祠あり。寺僧に問へば。安井の金比羅をうつし祀るといふ。蓋安井は地の名なり。洛東祇園林の坤。所謂観勝寺のほとりを。往昔は安井と唱たり。かかれば青雲寺の新堀山に祀るところも。観勝寺に等しく。祈らば必応験あるべし。しかるに件の宮社は。尋常の禿祠にして。扁額もなかりしかば。ここに遊観するものも。等閑に見過すもの多かりしに。ある人祈願あるが為に。社頭に石を立て。神号を表せり。○山州名迹志巻之二。愛宕郡東山観勝寺の條下に云。当地を斥て安井と称す。是当寺の号にはあらず。古の主による旧称なり。堂を光堂と号し。院を光明院と号す。当寺の草創は。平安城遷都已然にして。春日明神垂迹の霊地たり。ここをもて大職冠鎌足公。この地景を愛し。自紫色の藤を植て。藤氏の繁栄を祈り給へり。その苗残て毎春に。貴賎目を喜ばし。遂に花の寺と唱ふ。今なほその名を存せり。崇徳院この花を愛し給ひて。しばしば行幸ならせ給ひしかば。あるとき白衣の童子。忽然と出現して。帝に咫尺したてまつり。この藤の由来を奏すらく。往古藤原不比等。南都に南円堂を建立しつるとき。春日明神老翁に化現して●普陀洛の南の岸に堂立て。今ぞ栄ん北の藤浪。と詠じ給ひしはこの藤なり。南京よりこの処北に当れり。所謂藤氏の先祖。鎌足公の植給へるによりて。かかる神詠ありしと奏せり。帝叡感浅からず。殊に信敬し給ひて。やがてこの所に殿舎を造営し。寵妃阿波内侍を住しめて。たえず渡御ありける。その後保元の兵乱に及て。新院は讃州松山へ遷され。阿波内侍はひとり都に留められて。哀慕の涙乾く間なし。新院もいと不便に思食。龍顔をかがみにうつして。手づから束帯の尊影と。御随身二人を画き。これを内侍に送り給へり。今なほ三幅の画像当寺にあり。亀山院のおん時に及びて。崇徳院の御霊。この処に臨幸ありて。夜々光を発給ひしかば。京都の良賤これを見て。おどろき怪ずといふものなし。光堂の号はこれより起れり。この比大円法師といふ。真言修練の行者ありけり。彼霊光を見て。その処に参籠し。懇切に持念したりしかば。一夕崇徳院。玉体を現じ給ひて。この処の来縁を示し給ひしかば。大円すなはちこれを朝廷に奏聞す。文永の年間勅諚ありて。その地に仏閣寺院を御建立あり。光明院と号して。尊霊を鎮まつり。法施不退の霊場となし給へり。かくて文永五年戊辰秋九月。大円上人住職して。観勝寺と号せり。されば歴代の天子御造営ありといふ。或云元亨釈書又●(ツチヘンに蓋)嚢抄に載するところの観勝寺は。当寺にあらず。東山の中に同名別寺ありて。共に大円住持の寺なりといへり。○又云崇徳院宮は。仏殿の南。東面にあり。額。崇徳天皇(竪額筆者不詳)天皇の宸影(衣冠坐像二尺有余)堯海作なり。伝に云。後鳥羽院の元暦元年四月三日建立。当寺におなじ宸影の画図あり。衣冠坐像右に向ひ給へり。御長二尺四五寸許。ナラビニ御随身の像あり。衣冠。老懸。尻籠をつけ。弓を持。左向は四位の袍。右向は五位。立像なり。共に三尺許。(已上)山州名跡志に載する所。要を摘てこれを録す。所謂世俗の。安井の金比羅と称するもの。これならん歟。

再び古記を按ずるに。名跡志の説と合ざるもの多かり。便左に縁引して。もて證とす。○保元物語巻之三に云。治承元年六月二十九日。追号有て。崇徳院とぞ申シける。(参考に岡崎本に六月を七月に作るを是とす、云々)加様に宥進らせられけれども。なほ御憤散ぜざりけるにや。同三年十一月十四日に。清盛朝家を恨奉り。太上天皇(後白河帝)を鳥羽の離宮に押籠奉り。太上大臣(師長)以下。四十三人官職を止。関白(基房)を。太宰権帥に遷し進らす。是直事にあらず。崇徳院の御祟とぞ申シける。その後人の夢に。讃岐院を輿に乗奉り。為義判官子供(参考に云、半井本に云為義父子六人)相具して。先陣仕り。平馬助忠正。(半井本に云。忠正父子五人。家弘父子四人。云々)後陣にて。法住持殿へ渡御あるに。西の門より入奉らんとするに。為義申シけるは。門々をば。不動明王大威徳の固給ひて。入り難しと申せば。さらば清盛が許へ入進らせよと。と仰ければ。西八條へなしたてまつるに。左右なく内へ御幸なりぬとぞ見たりける。誠に幾程なく。清盛物狂しく成たまふ。是讃岐院の御霊なりとて。宥進らせん為に。昔御合戦ありし。大炊御門が末の御所の跡に社を造りて。崇徳院といはひ奉り。(参考に崇徳院の遷宮。吉記、百錬鈔を引て、元暦元年四月十五日とす。)ナラビに左大臣(頼長)贈官贈位行はる。少納言経基(参考に因に経基当に惟基に作るべし)勅使にて。彼御墓所に向て。太政大臣正一位の位記を読懸けり。亡魂も左こそ嬉し。と思召けめと。みな人申シあへり。又源平盛衰記巻之四十一に云。元暦元年四月十五日子時に。崇徳院遷宮あり。春日が末。北河原の東なり。此所は。大炊殿の跡。先年の戦場なり。去りし正月の比より。口部卿成範卿。式部権少輔範季。両人奉行として。造営せられけるが。成範卿は。故少納言信西が子息也。信西保元の軍の時。御方にて専事を行はれ。新院を傾け奉たるものの息男也。造営の奉行神慮はばかり有とて。成範を改られて。権口納言兼雅卿奉行せられけり。法皇御宸筆の告文あり。参議式部大輔俊綱卿ぞ草しける。権口納言兼雅卿。紀伊守範光勅使をつとむ。御廟の御正体には御鏡を要られけり。彼御鏡は。先日御遺物を。兵衛佐局に御尋ありけるに。取出て奉たりける。八角の大鏡なり。元より金銅の普賢像を鋳付奉たりけり。今度平文の箱に納奉られたり。又故宇治左大臣の廟。同く東の方にあり。権口納言拝殿に著て。再拝畢て。告文を披れて。又再拝ありて。俗別当神祇大副卜部兼友朝臣(吉記に朝臣を宿禰に作る)に下給ふ。兼友祝ひ申シて。前庭にしてこれを焼けり。玄長を以別当とす。故教長卿の子也慶縁を以権別当とす。故西行法師の子也。遷宮の有様。事において厳重なりき。亦参考保元物語に。吉記を引て云。(原漢文。今国字をもつてこれを抄す。)寿永三年四月の條に云。朔日。式部権少輔範季朝臣来談して云。崇徳院御分社。毎事いまた定らず。御正体何物を用らるべき歟の由。議することあり。先兵衛佐局に尋られ。申シて云。年来御持仏の普賢像。ナラビニ御鏡。当時現在す。又以来御枕(馬琴按ずるに。以来御枕は木の御枕を以の誤ならんか。)仏像を造奉らる。先左府に仰合さるるの所。如意輪普賢の二体(御枕之外)を安せらるべし。右府申されて云。二体の体謂なし。如意輪を安せらるべし。今一体云々。(この下四五字文をなさす得て読べからず)又云。十五日。今日崇徳院宇治左大臣霊神を崇ん為社を建。遷宮あり。春日河原を以。其所とす。保元の合戦の時。彼御所の跡なり。当時上西門院の御領。今申シ請れて。これを建らる。津々の材木を点じて。宮を造営す。云々。保元物語参考に云。按ずるに。本書の文路。崇徳院の遷宮と頼長の贈官と。一時之事たるに似たり。吉記。百錬鈔等の文に據ときは。即崇徳院遷宮の時。頼長も亦アハシ祀のみ。贈官は即崇徳院の奉謚とおなじく。是別に一時なり。右抄する所の古記録に由ときは。崇徳院の尊像画幅等は。文永の比に。造設られたる歟。名跡志に記す所誤あるべし。

○東鑑巻之四。元暦二年四月の條に云。二十九日壬午。云々。今日備中国妹尾郷を以。崇徳院の法華堂を附らる。是没官領として。武衛(頼朝)拝領せしめ給ふ所なり。彼御菩提を資奉らん為に。衆僧の供料に宛らる。○同書巻之五。文治元年乙巳。九月の條にいはく。四日甲申。云々。崇徳院の御霊。殊に崇奉らるべきよしの事等京都に申さる。是朝家の宝祚を添奉べきの旨二品(頼朝)の御存念。甚深之故也。これらの文に由ときは。当時朝家はさらなり。武家に於て。亦崇徳院御霊を崇信し奉ること浅からず。往昔称徳天皇は。廃帝の祟をおそれ給ひ。桓武天皇。又井上廃后。早良親王の祟を怕れ給ひて。追号祭祀叮嚀なりき。或は醍醐院の。菅家の霊を怕れ給ひたる。或は頼朝卿の。安徳天皇の霊を怕れ奉りたる。北条義時が。後鳥羽院の霊を怕れ奉りたる。尊氏卿が。後醍醐院の霊を怕れ奉りたる。皆年を同して論ずべし。夫乱政の世に鬼神顕る冤魂下に鬱するときは祟あらずといふことなし。匹夫匹婦も。そのこころざしを奪ふべからず。況て人君。冤を含て辺境に遷さる。これ人道の大変なり。ここにおいて鬼神顕れ。遂に大に祟あり。人はじめてこれを暁る。亦遅からずや。曾子の曰。これを慎めや。これを慎めや。汝に出て汝に返るものなりとは。抑これをいふ歟。されば屈原泪羅に投て。楚国に不祥多く。菅家宰府に薨じて。雷神宮關に迫れり。善人忠臣不幸にして。世の苛政にあへるすら。天これを痛こと深し。後人なほ思はず。冤を人主に致せり。悲しいかな。……続く……

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 馬琴の蘊蓄は、まだまだ続くが、そろそろ制限行数だ。次回も引き続き、引用を続ける。今回は、これまで。(お粗末様)

 

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