■伊井暇幻読本・南総里見八犬伝 「山から海へ」−神々の輪舞シリーズ10−

 

 前回は馬琴自身に弓張月の背景となった金毘羅信仰に就いて語ってもらった……が、まだ語り終わっていないようだ。引き続き、引用する。

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……承前……○和漢三才図会巻之七十九。讃岐国の條に云。白峰明神は。阿野郡にあり(高松に至て三里)祭神崇徳院(人皇七十五代の天子)鳥羽院第一之皇子。諱顕仁。母は藤原璋子。待賢門院と号す。五歳にして即位。永治元年廃せらる。(在位十八年)保元元年讃岐国に遷流せられ。長寛二年八月廿六日。当国において崩御。白峰に葬奉る。(寿四十六歳)又云。崇徳院天皇社は白峰にあり。(南向)本尊十一面観世音。立像二尺三寸。(此より国分寺に至て一里半阿野川又加茂川等あり)又云。白峰寺は阿野郡青海村にあり。(山の上坤向)本尊千手観音。(立像三尺三寸)百余丈の嶽あり。児嶽と号く云々。(已上)○有人修静菴嘗記して云。白峰寺の縁起に云。山陵の在ところは。是其寺の西北●(ヤマに禺)。今これを検するに。孤墳は岩壁の上に據れり。封土高八尺。石墻以これに環る。その前に廟あり。帝の遺像を安して。もて祀奉る。又左に母后の廟あり。(待賢門院藤原氏)右に山神の廟あり。(馬琴按ずるに。土人為義為朝の墓とするは此ならん歟)国守世よく。堂宇の修造を加給へり。(この他の陵は阿波国又薩摩の封内にあり。並にその国君亦よくこれを敬しまへり)嗚呼亦異哉僻陬に寝陵あり。其生るときは。この土に幽辱せられ給ふも。死しては長く霊威を見じ。祭れば即福を授。これを他に比するときは。荒穢に就給ふも幸といふべし。といへり。○山州名跡志に云。崇徳院の陵は。讃岐国児嶽にあり。前に為義為朝の墓あり。五輪の石塔を立。云々。前の説と異なり。アワセ考ふべし。○白峰の山中に。杜鵑の玉章といふものあり。是杜鵑の致すところ。その形玉章に似たり。よりて名づく。嘗他州に有ざるものなり。○保元物語に。この君怨念によりて。生ながら天狗の姿にならせ給ひける云々。と記したれば。彼象頭山の天狗を。金比羅坊と号するといふ説に付会して。やがて金比羅は。崇徳院の霊神にをはしますといふにや。なほ慥なる本据ある歟。尋ぬべし。今地図を按ずるに。松山は多度郡に属し。白峰は阿野郡に属し。象頭山は鵜足郡に属して。各相去ること遠からず。就中。白峰と象頭山とは相並て。中に一條の大河を隔たり。象頭山へは大かた丸亀より登山す。(行程三里)夫この山の首尾たるや。高松丸亀の封強に接せり。しかるに高松に属する処は。樹木森然として。山色青く。丸亀に属する処は。兀山にして草木なし。その故をそらずといへども。これも亦奇といふべし。かかれば崇徳院の霊神。彼山に●(ギョウニンベンに尚)●(ギョウニンベンに羊)し給ふといはんも。以なきにあらず。しかれども金比羅は。前に演るごとく異域の神なり。或はこれを金山彦と称す。これ神書仏経を見ざるものの妄説にして。金比羅の金字と。おなじきをもて。牽強付会の説をなすもの歟。延喜式神名帳。及国史を按ずるに。金山彦の神社は。美濃国にあり。三代実録巻之二貞観元年正月廿七日甲申。京畿七道の諸神に階を進め。及新に叙す。総二百六十七社。云々。美濃国仲山金山彦神に。正三位を授。云々。これなり。しかりといへども。象頭山に社家あるがごときは。別に垂跡の神まします歟。なほ尋ぬべし。○金比羅霊験記に云。讃州象頭山金光院は。何れの年何れの師の開基といふことをしるものなし。古老の云。往昔役行者。この山に攀登りて。持念し給ふとき。岩崛大に鳴動して。窟中に声あり。行者に告てのたまはく。我は旧。天竺耆闍窟山に住して。釈尊の御法を守護し奉りき。かくて如来滅度の後。われこの山に来り住こ既に久し。しかれどもいまだしるものなし。汝この山を開きて。仏法を弘めば。われ必守護すべし。と宣へば。行者ふかく敬信し。窟に近つきて。再拝し給ふとき。光明赫奕として。神体眼前におがまれたまひにけり。かくて数百年の後。亦聖僧あり。象頭山に登りて。只顧持念祈請して云。むかし役行者修法のとき。出現し給ひし。と聞伝る尊容を。おがましたまへとて。七日断食して丹誠を凝す程に。七日満ずる暁方に。神体忽然と出現し。汝が丹誠を抽ずるが為に示現す。専苦行して。天下の万民を利楽すべし。と告給ふとなん。されば近世この神の霊験。殊更に著明にして。祈れば必応報あること。響の物に応ずるがごとし。宜なるかな。都鄙参詣の良賤。千里を遠しとせず。或は神体を模し。或は神号神符を受て。街頭門戸に祀もの多かり。その神徳利益のごときは。霊験記と名づけたる。印本既に二本ありて。世に行るるがゆゑに今はここに贅せず。

金比羅神法楽真言

梵字

例祭又多かり。そが中に。三月八日より十一日に至て。花立会といふことあり。○六月八日より十一日に至て。これを十七夜と唱ふ。同時に観音の大市あり。○十月八日より十一日に至て。大会といふことあり。祭礼は十月十日なり。○触穢を禁ず。又禁忌の物あり。蟹(五十日忌)川魚及蒜(三十五日忌)海糠(三十日忌)又鰯を忌。なほ神伝神秘あるべし。是その概略なり。あなかしこ。

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 調子に乗って書き写していたら、かなりの行数になってしまった。一体、私は何を書いていたんだっけ? ……そぉそぉ、金毘羅である。馬琴は「拾遺篇付言」に於いて、金毘羅が霊験灼かな神であることを宣言し、且つ、自分が四国に行ったことがなく、書いている内容に遺漏があるかもしれないと言う。文筆家らしい謙遜の弁だが、余り自信がないことが窺える。

 「金比羅名号ならびに安井金比羅之事」では、詳細に金毘羅大権現に就いて語っている。詳細すぎて、引用が殆ど読本一回分に亘った。内容は盛り沢山だ。順を追って整理していこう。まず馬琴は、金毘羅が日本固有の神ではなく、仏教守護神が土着したものだと指摘し、俗説であった三輪神や素盞鳴尊との習合を否定している。しかし一方で、寺である金光院と混淆している状況を紹介する。続いて仏典に説く、金毘羅が仏教守護神となった由来を述べる。即ち、ダイバダッタが仏陀を暗殺しようとした折に、現場となった山の神であった金毘羅が救ったとの説話だ。また、仏陀の城を守る大善神王として登場する仏典があることから、仏教守護神であるとの説を補強している。更に、このように仏陀を守護する金毘羅であったが、別の仏典を引いて、金毘羅は、釈迦如来その人(?)が化身したものだとしている。釈迦如来は密教に於いて不動明王とも重なるため、金毘羅は不動明王ともダブる存在だとも言っている。

 一通り金毘羅の出自を述べた後、馬琴は徐に、金毘羅と崇徳院の関係を語り出す。まず、世間では両者を一つのものに考えていると指摘する。此の俗説を証明する形で、馬琴は話を進める。まず、金毘羅社に金毘羅神と崇徳院を合祀している事実を挙げる。江戸の読者に馴染み深い神田が、神田明神と平将門を合祀しており両者を一体と考える言説が流布されていることを追い風に、金毘羅社にも同様の習合論理が適応できると説く。また、崇徳院の廟がある京都・観勝寺が「安井の金比羅」と呼ばれているとの蘊蓄を垂れる。更に、観勝寺が祇園社の坤(南西)/裏鬼門に当たると指摘することを忘れていない。内裏や二条城を中心に見れば、観勝寺は単に南東に当たるようだが、これでは鬼門でも裏鬼門でもない。祇園社を中心に据えた点に、馬琴の下心がありそうだ。且つ、「安井の金比羅」が、やはり江戸人士に馴染み深く馬琴の筆塚がある日暮里・青雲寺にも勧請されていると語り、親近感を以て説得力を増強している。

 馬琴は、「安井」が崇徳院の廟所となった経緯にも触れている。藤原氏の氏神である春日明神が安井に垂迹したことから説き起こし、此の地を愛した藤原氏の祖・中臣鎌足が植え、時を超えて残っていた藤に執心した崇徳院が、此の地に別荘を建てたとの昔話を伝える。しかし、馬琴の引用中、鎌足が春日明神に与えられた歌「普陀洛の南の岸に堂立て。今ぞ栄ん北の藤浪」を、奈良の北に当たる観勝寺の藤が栄えるように藤原氏が栄えるとの予言だとしているが、こりゃぁ、藤原北家(摂関家)が栄えることを予言した歌だろう。馬琴だったら突っ込む筈だが、口を噤んでいる。自分の説(金毘羅イコール崇徳院)に都合が良いからだろう。そして、保元の乱の話となり、観勝寺に崇徳院の幽霊が出たりする。続いて崇徳院の祟りと目される事件を羅列し、崇徳院と悪左府・頼長を宥めようと朝廷が慌てる態が記される。此処で崇徳院を祀るに神体を何にするか詮議があり、如意輪観音が選ばれた事情を伝える。馬琴は、不遇の天皇・皇后・皇子の祟りを加害者側が甚だ恐れていた事例を挙げて、人君の祟りは常人よりも苛烈であると断ずる。

 簡単に崇徳院の出自を述べ、祀った社の「本尊」が十一面観音だと告げる。また、白峰寺は山の坤(裏鬼門)にあって、本尊は千手観音だとの説があると付け加える。更に一説を引き、崇徳陵の左には母・待賢門院、右には山の神が坐すとする。此の「山の神」を馬琴は、為朝だと考えている。別の一説を引き、崇徳陵の前には源為義・為朝の墓があるとも言う。

 続いて、弓張月本文には余り関係ないと思うのだが、興味深い文言もある。即ち、「白峰の山中に。杜鵑の玉章といふものあり。是杜鵑の致すところ。その形玉章に似たり。よりて名づく。嘗他州に有ざるものなり」である。此の場合の「玉章(たまずさ)」は手紙だろう。歌では多く、恋文の意となっている。川柳で手紙と来れば、遊女の恋文、即ち〈(愛してもいないのに恋々とした想いを書き綴った)実のない営業用ダイレクト・メール〉だったりするが、まぁ深入りは止そう。だいたい、八犬伝のアレは、「玉梓」だし(とはいえ、表記は絶対でないから……)。えぇっと後は、崇徳院の祟りは怖いとか、金毘羅には天狗がいるとか、役行者ゆかりの地だとか、書いている。

 

 ところで今では密教といえば真言宗が有名だけれども、前近代には天台宗が強かった。神君・家康を祀る日光も、天台宗系である。特に八犬伝でも大角登場の場所に近く、深い関係があると思われる日光は、天台宗系神道すなわち山王一実神道を以て立つ。其の教説に金毘羅が如何ように描写されているかを見てみよう。

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山王一実神道秘録

前略……

大宮者日枝神社也以大国主大神鎮祠故云大宮也……中略……

山家要略云最澄将入唐求法詣葛城神社祈之神告曰三輪大神我邦之地主而三国共崇之宜詣彼而祈之澄帰叡山(三輪大神者大国魂大神也日枝神社者大国主大神雖其名異(一欠カ)体之神故随葛城神告帰叡山詣日枝神祠而祈之者乎)山有大形樹見三認光而行以識焉見三光日輪現釈迦薬師弥陀像澄問其名神告曰竪三點加横一點横三點添竪一點言已其光昇空去澄於文字見之竪三摂一山字横三竪一為王子遂崇曰山王也其後赴唐到青龍寺其鎮守曰摩多羅神又名金比羅澄問何神歟答曰三輪金光於是始覚句叡山三光者是也帰朝後乾光処而立神祠所謂日吉二宮是也(摩多羅神金比羅二神宮也故云二宮)

摩多羅神者曼荼羅外金剛部之神也瞿醯壇●(アシヘンに多)羅経摩訶曼荼羅品曰其院西面置諸摩怛羅神●(ニンベンに去)耶鉢底神諸羯羅訶神等(摩怛羅摩多羅摩怛哩●/クサカンムリに奔/怛●/クチヘンに牟/毘薬皆是相同也梵音之異伝耳由言有楚夏音有軽重也)蓋摩多羅神者摩訶迦羅天眷属也摩多羅此云母大日経疏云七摩怛理釈云七母云々義釈云允有七姉妹今云●(クサカンムリに奔)怛哩毘薬則七母通用也理赴釈云七母女天者是摩訶迦羅天眷属也此天等亦有曼荼羅中央黄摩訶迦羅以七母天囲遶具如広経所説摩訶迦羅者大時義時謂三世無障礙義大物是毘慮盧遮那法身無処不●(ギョウニンベンに扁)七母女天者并梵天母表鉢供養菩薩以事顕理也(八供養菩薩女形故以母天表之色以事顕理諸事世天曼荼羅勝義曼荼羅也即事顕理故以摩迦迦羅為天日以八母天為八供養菩薩也)蓋摩訶迦羅正翻者云大黒天仁王経疏曰摩訶者此翻云大迦羅者此云黒天也孔雀並曰烏尸尼国国城々東有林名奢摩奢那此云尸林其縦広為一由旬有大黒天神是摩醯首羅変化之身与諸鬼神無量眷属当於夜間遊行林中有大神力雨諸珍宝有陰形薬有長年薬遊年飛空諸幻術薬与人貿易云々大黒天神之形像有三面三目二牙上出臂持物有比五形有女形有童子形有宮人形有夜叉形有福続円満形持袋鎚踏俵像皆是依其三昧因機縁而異是故有種々形像非一也七母女天形像亦復如是経曰事画四方曼荼羅四門四隅依法列諸分位於其中間画摩賀哥羅主如作舞勢於其像外四方四隅八摩怛哩所謂東方労●(キヘンに奈)哩手持三叉南方没羅吽弥手持数珠西方吠瑟弩手持輪北方●(リッシンベンに喬)哩手持鈴東南隅哥哩手持刀西南隅摩賀哥哩手持●(萄のクサカンムリなし)哩西北隅薄叉尼手持能瑟●(クチヘンに托のツクリ)羅東北隅羅刹細手持●(偈のテヘン)●(檎のヤマなし)誡鼓云々八葉は女天形像皆是雖女相或因機縁不同又有男形像形相一時之表示神意難測不可執其相也

瑞籬宮朝持大田田根子命能事於三輪大神此人常見神如談人相語故利世祭礼習伝而見行天皇問神質状大田田根子命応勅奏曰神形不定或時壮年或時老年童形女像唯依時耳荒魂和魂幸魂奇魂術魂之品各形質異雄神和魂女像多矣女神荒魂男体多矣幸魂大底人形奇多分物姿吾大神状就中尊長多面多手依魂異状不悦委語故不具奏(出地祇本記也)由是漢之男形女像境不可得而測者也

蓋青龍寺鎮守曰摩多羅神又名金比羅神也金比羅神十二神王之其之一也唐訣本名宮毘羅大将宋釈本名金毘羅神王也薬師経曰爾時衆中有十二薬叉大将倶在曾座(宋訳本名為神主然大将領鬼神故名大将神通主領故名神王)……中略……此十二薬叉大将一一各有七千薬叉以為眷属同時挙声白仏言(都為八万四千薬叉也)世尊我等今者蒙仏威力得聞世尊薬師瑠璃光如来名号不復更有悪赴之稀我等相乎皆同一心乃至尽形帰仏法僧誓当荷負一切有情為作義理饒益安楽随於何等村城国邑空閑林中若有流布経或復受持薬師瑠璃光如来名号恭敬供養者我等眷属衛護是人皆使解脱一切苦難諸有願求悉令満足云々

金毘羅神者十二神将中亥神也十二枝中之終也薬師経連十二神名以宮毘羅為始由是観之金毘羅神者終而在始首尾一般而有摂十二枝之意是故揚金毘羅一神為守護神歟青龍寺摩多羅神与金毘羅神二神之鎮守亦其可有深理乎蓋大師感見有釈迦薬師弥陀像又根本中堂安置薬師如来也由是観之金毘羅神之衛護叡嶺後爰疑焉又大宮権現者大己貴大神即大黒天神也由是観之大黒天之眷属摩多羅神之擁護自然理也大己貴大神即大黒天神者是一神別号也三輪大神大己貴尊有多名具録三輪鎮坐記也地祇本記曰三輪大神教大田田根子命曰我有幸魂神名玄躬大神同夜冥事職富福物職夜行鬼子月冬中而造藤餅又醸甘酒祭此神者解諸鬼災富饒長寿(玄躬大神者大黒天神也斯即其司職徳功同釈典大黒天也)神社本記曰上皇第三代時(地神三代亞肖気大神時)大己貴大神譲瑞朗国於天孫遷到西極国遂帰至這処(尾張国受智郡津島神社也)知西国名云牛頭大神領世界疫神豊浦宮天皇時託曰吾有四魂荒魂云天形星王和魂云牛頭天王幸魂云大黒天君奇魂云泰山府君寿天福災咸主云々大己貴大神幸魂大黒天神可見也

南海寄帰伝曰西方諸大寺処咸於食厨柱測或在大庫門前彫木表形或二尺三尺為神王状坐把金嚢却踞小林一脚垂地毎持油拭黒色為形号曰莫訶焉羅即大黒天神也……後略

大宮 是日枝社社也

大国主大神鎮坐又名大黒天君也此大神有多名多続詳三輪大神鎮坐記也

本地者十一面観世音菩薩也

或曰釈迦如来中古已来説也

蓋十一面観世音菩薩者帝皇本記曰三輪大神托於巫告教曰吾元神形者(元神者本地造)十有一聖面比於聖顕上(是十一面観世音也)以這尊像鏡面鋳為懸於祠衷心国中悪神多来拒神明祠見此像恐退諸人見此像消禍而得福神有二類常世大聖化成大神天極大魔化成荒神其荒神等皆嫌鏡像這大神等皆有元像宜鋳鏡像時至告之依之奏朝朝廷遣使於国邦於大社国社懸社奏神楽請神託随神言鋳像鏡先是於代々年々毎国懸数有神軍発毎度暴雨暴風損護国傷庶民此後無神軍仍無損田憂云々是神社懸正体鏡其法之元也即本地仏菩薩之始也大国主大神其本地十一面観世音菩薩斯神託宣教也又国邦諸社皆曰奏神楽諸神託随神言鋳像鏡也由是観之諸社本地皆神宣也非凡夫迷情之憶説也……後略

二宮 山王権現

摩多羅神及金毘羅神也是准天台山青龍寺之鎮守也山家要略曰天台山之青龍寺准天竺霊鷲山叡山亦准青龍寺者仏在霊鷲山祭十二神十二神之中由金毘羅神云々

本地薬師如来也国史曰人寿二万歳以来薬師如来此国之地主也至末代者薬師如来成此山之王久可護仏法法皇法之誓約也是故謂二宮本地薬師如来於山王権現

聖真子

八万大菩薩也……中略……(本地者阿弥陀如来也)……後略

八王子

千手観音垂跡灌頂大法王子也故云大八王子本地千手千眼観世音菩薩……後略

     

 金毘羅は摩多羅とセットで扱われることも一体と見做されることもあった。金毘羅は大国主の眷属とも言われ、同体であるとも言われた。更に、金毘羅は十二支に配される薬師十二神将の一であり、最後に数えられる亥である。八犬伝では里見家の対管領戦終盤で、猪/亥が活躍する。そして金毘羅は最後に数えらるべき亥神であるにも拘わらず、経典では冒頭に掲げられてもおり、首尾一般、金毘羅一神を以て十二神全員による守護が表現されるとも云う。金毘羅は、流石に日本国の大魔縁・崇徳院と習合されるだけあって、かなり強力な神格らしい。また更に重要な点は、金毘羅、俗説では龍王となっている。印度では鰐の神格化だった、とも云われている。山の神なのに何故に龍王か、と私に云われても困る。そうなのだから、仕方がない。琴平の金毘羅は現在でも全国区の海神として崇拝を集めている事実が、傍証となろうか。……って所を指摘しておいて、次回は八犬伝に話を戻そう。今回は、これまで。

(お粗末様)

 

 

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