◆五行革命論◆

 

 本シリーズでは五行革命論に言及してきた。日本書紀に載す壬申の乱である。自ら火気を僭称し、一方で皇位の正統継承者(ちなみに甥っ子)を金気だと勝手に決め付け、火克金の理により排除しようと企てた挙げ句、実際に滅ぼした、水っぽい名前の大海人皇子を見れば火を見るよりも明らかなように、五行革命論は、政争の愚を表現する政争の具に外ならない。

 

 ただ実は五行革命論と云っても色々ある。しかも唐を土徳に比定するところぐらいまでが、せいぜいで、後には余り真面目に論じられなかった印象もある。実際の王朝に五行を配当する作業は諸説あるし、必ずしも成功しているとは受け取れない。が、実在の中国各王朝が自らを五行に配当しようとしてきたことは事実だ。日本でも例えば、源氏は金気だから、火克金、火気の平姓である北条氏に取って代わられた、とか云いたがる人が現れるぐらいだ。論理の正当性には甚だ疑問があるが、論理そのものとして人を惹き付けてきたことは否めない。そんなわけで五行革命論を知っておくと、過去の文物を読むツールとして便利なんである。但し、筆者は五行の専門家ではない。日曜史家として有している若干の道具を示す。

 

 当初の五行革命論/終始説は、周末期に鄒衍が提唱して広まった。鄒衍は、自分の生きる時代を「火徳の時代」と考えた。そして革命とは王朝が交代することなので、素直に相克論を原理とした。名詮自性の定点、名前からして土気以外とは考えられない黄帝を、順当に土コと考え、どうも其処から適当に塩梅して理屈を付けただけのよぉな気もするんだが、とにかく、政権推移の理論を捏造……いやまぁ、理論を打ち建てた。周までの五行配列では(→▼呂氏春秋)、黄帝は順当に土徳だが、禹夏は木、殷(商)は金、周は火となっている。相克説に従っている。しかし殷とか周とか放伐によって政権が代わったので相克説が適当だけど、五帝なんかは禅譲だった筈であり、何となく納得いかない部分もある……。まぁ学者が象牙の塔で何を言おうが勝手だ。好きにすれば良い。が、希代のオカルトマニア、不老不死を目指し徐福と童男童女三千人を海外派遣したほどのド変態野郎、秦王政が、此の五行革命論を真に受けた。机上の空論が現実を独り歩きし始めた。此ほど危ういことはない。

 秦始皇帝は、だだっ広い帝国の統治に法家を採用したり、群雄割拠の元となる封建制を排除したりと、善悪は別として、能吏の素質は十分にもっていた。現実的な想像力に恵まれていたのだろう。しかし此の豊かな想像力は、現実のみならず、妄想の域にまで止めどなく広がる性質のものだったようだ。五行革命論も、本来ならば妄想の領域である。が、政治は妄想でも十分に動く。心にもない温情や妄想などの目眩ましで心裡に訴えかけ味方を増やすことは、古今東西、政治家/亡八者の常套である。とにかく、オカルトマニア始皇帝が自らの政治イデオロギーとして革命論を採用したため、現実世界に於いて政治の道具となってしまった。此処から様子がオカシクなるのだ(→▼史記)。

 秦王政は、革命論で周が火コとされていたから、自分を水気と規定し、王権の継承が必然であると主張したかったのだ。勿論、始皇帝が偶然だけの積み重ねで中国を統一したと云いたいのではない。地勢の利や先代まで積んできた原初蓄積が前提としてあったし、其れなりに有能であったからこそ覇業を成し遂げたのだろう。実用上、十分な必然性があったからこその達成だ。彼としては此等の諸現象、一切合切が「水徳」に依るのだろうが、単に覇業を、未来永劫に絶対化したがっているようにしか見えない。本来の五行説は循環を前提とするが、土克水、例えば土の王朝に跡を譲る積もりは毛頭なかったようだ。単に勝ち逃げしたかったのである。オカルトマニアならマニアで、オカルト/五行に殉ずるならば真のド変態として敬意も表するけども、覚悟のない似非ド変態、ド変態にもなれぬ者なら白眼を以て遇するしかない……と昔の中国人が思ったのか如何かは知らず、いや単に焚書坑儒をしたからって漢儒に憎まれ史上最大の悪人に仕立て上げられただけのような気もするけれども、実在最初の皇帝である彼を無視する者も現れる(→▼史記)。

 高祖劉邦である。彼は立派に無学だったようだが、戦いの過程で五行説ぐらいは聞き知っていただろう。だろうが、想像力とは思考によって鍛えられるものでもある。彼にとってオカルト五行革命論は、如何でも良かったのかもしれない。彼は秦の優れた制度を模倣したが、何と水徳まで承け嗣いでしまっている。相克革命論で順当に行けば、彼の建てた漢王朝(西漢)は、土克水、土気の王朝となるはずだった。後世の評論では、悪逆非道な始皇帝は天命を受けた一個の王朝と認められず、故に周を嗣ぐ王朝は漢だとして水徳に当てたことになっている。ただし、劉邦は始皇帝と同時代人だ。始皇帝は水を最終の徳と考えていたようだ。自らの王朝を絶対化する甘えた妄想であったとしても、焚書坑儒もした皇帝の意見だから、無視は出来ない。周囲の漢儒は憎い始皇帝を云々しただろうけど、劉邦個人は単に、当時の思潮を受け容れ、秦に続いて【最終の徳】である水気を帯びただけって気もする。案外、劉邦は始皇帝に憧れており、「政を嗣ぐのは、あんな馬鹿息子どもぢゃなくって俺だ!」とでも思っていたのかもしれない。庶民にも天命が降ると信じた彼だから、赤の他人なのに継承権があると考えても、別に構わないではないか。そう考えた方が、例えば、稗史を書く場合には面白かろう。

 復た但し、何だか劉邦がテキトーに水気を帯びた如く書いている前出・史記の作者が司馬遷ってところも、実はアレなのである。五行革命論は漢の時代に二転する。一度目の転換で、司馬遷は関係者だった。漢王朝は当初、上述の如く、水徳であった。しかし当時の暦だから修正の必要に迫られ、司馬遷らが改訂作業を行った。だいたい劉邦の時代から百年後である。此の作業の中で、秦を水コと認め、自分たちの漢王朝は土気だと訂正しちゃったのだ(→▼史記)。

 孝文帝のとき、公孫臣が漢朝は土徳であるべきだと進言した。丞相の張蒼は、水気だと主張し公孫臣を退けた。しかし後に土徳の瑞祥が現れたために、漢朝は土徳に転換した。司馬遷は両論併記をすることがある。秦始皇帝政に就いては、本紀には父を子楚だとしているが、列伝では呂不韋が実父と書いている。上の如く史記は、劉邦が自ら水気の瑞祥を感得したために秦の水コを嗣ぐ形で採用したと書いている。しかし一方で、土気の瑞祥が現れたことも事実として認めている。ただ、劉邦が自ら水コだとしたことは劉邦個人の談話が根拠となっている。対して土気への転換は、まぁ「瑞祥」を信じる所が歴史的限界とはいえ、当時としては、より客観的な事実から肯定されている。どうも史記を読む限りでは、高祖劉邦の旗色が悪い。結果として司馬遷、劉邦を否定しちゃっている。武帝に嫌われるわけだ。

 ともあれ、漢(西漢)は途中から土徳に転換した。が、いつの時代にも要らんことする奴は現れる。漢王族でありながら、冷や飯ぐらいのプロだった劉向である。王族だからって何か勘違いして的外れな期待でも持っていたのか、権柄に弄ばれながらも擦り寄ってしまうタイプと思われる彼には、場面を変えて後にも登場してもらうが、此処では五行革命論が問題だ(→▼漢書)。

 劉向は司馬遷より七十年ほど以後の人間だから、史記には載っていない。テキストは漢書に代わっている。漢書に拠れば当初、【忙しくて手が回らなかった】ため、服色を定めなかった。劉邦が水コの瑞祥を見たと主張したことなんか、何処かへ飛んで行ってる。張倉(蒼)が水コだと定め。公孫臣らは土徳を主張したが証明できなかった。文運盛んとなり、司馬遷らが主張し、土徳に転換した。此処で秦が水コの王朝として承認され、土克水の理により漢朝が代わったとの相克説が確認できる。しかし劉向は、高祖を赤帝と重ね合わせる伝説を持ち出し、漢朝が火徳だと決め付けた。更に、革命論の原理として、相克説ではなく相生説を採用した。まさに革命論の革命的転換であった。おかげで従来の五行配当が、黄帝以外すべて変わった。従来は、黄帝を土、禹夏を木、殷(商)を金、周を火、秦を水、漢を土としていた。これが、黄帝を土、禹夏を金、殷を水、周を木、秦は無かったことにして、漢を火とした。劉向は、とにかく秦を否定したかったのかもしれないが、劉邦に纏わる火気の伝説と定点・黄帝を結び付けることに成功した。

 始皇帝を憎む漢儒の秦否定論→偉大なる将軍様・高祖も始皇帝を憎んでるに違いない→高祖も実は始皇帝を憎み否定していたんだよ(多分……)→なんか火気に纏わる伝説があったよ→でも黄帝の土気は動かせない→時の移り変わりは相克じゃなくって相生なんだよ→相生説で且つ漢を火徳と考えれば秦を否定し黄帝は動かさなくってもいい→高祖が見た水気の瑞祥は何だったの→そんなこたぁ知ったこっちゃアルカイダ、ぐらいの流れがあったと妄想すると楽しい。ドタバタ稗史ぐらいにはなりそうだ。舞台は幼稚園で、如何か。

 

 あだしごとはさておきつ。五行革命論は、今から政権を取りに行く集団が簒奪を正当化しようとするか、既存政体が自己の正当性を僭称する場合に弄ぶ為のものだ。が、劉向が革命的な革命論を提唱し、息子が三統暦を作ったりした数年後、漢朝は実質的に滅亡、善人面した王莽に国を奪われた。最期は王莽を暗殺しようとして逆に殺されたが、劉向の息子は三統暦を採用され、王莽のもとで高官となっていた。

 さて、王莽は数年間ながらも皇帝となり新朝を建てた。一応は、火生土、土気とされる。しかし王莽は赤眉乱の混乱で殺され、劉一族の劉玄が即位するが赤眉に殺された。此の後、赤い衣を着た劉秀が赤眉を制圧、光武帝として漢朝を復活させた。光武中興である(東漢)。復活した漢朝は暫くして新たな暦を制定、火徳政権としての儀式を完備した(→▼晋書)。後に司馬彪が洗練した暦の志は、後漢書に採用されている。しかし端倪すべからざる巨大な足跡を残した秦朝を「無かったことにした」漢朝である。恨み骨髄の新なんか認める筈がない。西漢に続く東漢も同じ劉一族で火徳だから、新も、無かったことにされた。此処で概ね、劉向系の五行説が定着してしまう。

 光武帝が思い入れたっぷり、赤い衣と大きな冠で目立ちまくりのデビューを果たしている。但し乗っているのが馬ではなく牛であるから、かなり間抜けな図ではある。まだ馬を手に入れていなかったのだ。

 東漢に続く三国時代、魏は当然の如く、火生土、土徳を称する。一応、東漢帝から禅譲の形を受けるので、魏の土徳には説得力ぐらいはある。北魏に至っても、五行説に対する、かなりの拘りを感じさせる(→▼魏書)。

 しかし考えてみれば、三国時代から西晋、東晋と十六国、これが南北朝となり宋が建つ。中国は暫く分裂時代を送っているので、いったいドレが正統王朝か、よく判らない状態だ。混乱した状況下、正統性を主張する論拠が欲しい気持ちは、解らないでもない。

 まだ宋の辺りでは、五行革命論が真面目に論じられている印象だ(→▼宋書)。しかし、北史、旧新唐書を読むと(→▼)、何だか不思議な気になる。隋は火徳、唐は土徳なのだ。隋が勝手に火徳を名乗っただけなら構わないが、続く唐が土徳を称している以上、遡って隋を正統王朝と認めていることになる。火生土だから良いって? いや、隋は二代目の煬帝が殺されて滅んだ王朝だ。三代目で滅んだ秦より脆かった。それでも唐は、順当に土徳なんである。隋を無視していないようにも見える。或いは唐、隋から禅譲されたから、自らの正当性を保つため、自分たちに禅譲した隋をも、正統と認めねばならなかったのか。

 因みに持統天皇と同時代で「日本」なる国号を承認した武則天も、しっかり金徳を名乗っていた。勿論、此方は後世、通常は認められていない。結局は、五行革命論、其れを語る者たちが都合良いよぉにテキトーなことをデッチ上げているだけなんである。但し、中国史の都合良いことに、間に分裂時代を挟んでいるため、王朝を取捨選択し、唐の土徳は、好きな過去の王朝に繋げることが出来るようになっていた(→▼宋史)。

 宋史まで来れば、もう如何でも良くなる。片や当初の相克革命論から説き起こし、途中の王朝を、やれ「昔者秦祚促而暴、不入正統」とか何とか、五代なんて当然すっ飛ばして結局、唐は土徳。片や劉向系の相生革命論から説き起こし、やっぱり唐は土徳なんである。完全に御都合主義に陥っているようだ。やはり五行革命論は、物語や稗史を読む上でのツールに限る。

 

 で、何が言いたいかといえば、最も一般的であるのは劉向系の相生革命論であり、禹夏は金、漢は火、ってだけの話なんである。ただ、其れだけ云うと誤解を招くので、他説の存在も述べ、且つ実際の過去の政治で利用されたことのある五行革命論ではあるが如何ほどテキトーで信ずるに足らぬものかを示したかっただけだ。元々今回は、資料提出に過ぎない。

 

 此処で五行革命論(五行「終始」論とも謂う)に対する馬琴の意見を聞いてみよう(→▼玄同放言)。

 馬琴は五行説による王朝終始説明に対し、結論としては、恵美押勝やら道鏡やらを誑し込んだ孝謙朝が五行大義を採用していたことから、捨てることも出来ないし、かといって信用することも出来ない、と云っている。則ち、少なくとも歴史に於いては実際に五行説が現実に影響を与えていたから、無視はできないとする一方、信奉するわけでもない。馬琴は引用文の中盤辺りで、漢朝の興廃終始に就いて、嬉々として五行論を以て説明しているが、前半で「天数は偶然にして人事は必然なり」と断っている。此の場合の「必然」は、合理的な因果律であり、例えば、帝の暗愚に付けこみ堕落させ王朝簒奪を可能とした、などだ。火気だ土気だと云うのみならず、事実と事実の間に因果があるとの立場である。但し、因果ストーリーには本来、固有名詞は必要ない。物事の流れがありさえすれば良いのだが、登場人物を名詮自性、火気の国を覆した者の名前が「黄皓」(黄は土気の色)であることから、火生土の相生革命論を適用している。コジツケではあるが、確かに事実と符合している。結局、馬琴は歴史を読むとき、合理的な因果律による流れを解析すると同時に、妖しい因縁めいた雰囲気も楽しんでいるよう見える。王朝の興廃や帝王の堕落など、数多い歴史ストーリーの中で、偶々五行説と符合した事実を見付けては、「ふむふむ、やはり……」と面白がっているようだ。現在から見れば、歴史を稗史の一種として読む態度と云える。

 

 以下に馬琴も読史に当たって適用した劉向系の相生革命論に関し、和刻もされた「独断」のシンプルな記述と、漢書の、やや詳しい説明を掲げて本稿を閉じる(→▼漢書・独断)。

(お粗末様)

 

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