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◆金碗八郎切腹の理由◆

 

 仁/飴と義/鞭の均衡は、実際に難しく、玉梓の助命嘆願に仁ゆえ蹌踉めいた里見義実は、まさに言の咎に陥った。後に仁一点張りの親兵衛は、一度は許した蟇田素藤に裏切られ、第百十六回では本来の性質・仁を忘れたかのように敵を追ったため、文字通り陥穽に落ちる。仁に寄っても義に偏っても危ういとの、中庸理を背景にしている。此処で親兵衛/仁とも荘助/義とも親(ちか)い信乃が御都合主義的に登場して、親兵衛を救う。

 抑も、物語冒頭付近で、まぁ善い奴ではあるんだが迷走しまくる里見義実を導き、安房の領主にまで引き上げる立役者は、金碗八郎である。八郎は、玉藻前にも比すべき玉梓が里見家に食い込むを阻止した。里見義実は序盤で源頼朝に擬せられているようだが、源頼朝は重耳に擬せられることがある(→▼撈海一得)。未完成の仁君・里見義実を、赤誠もて守護するは重耳の二狐に擬すべき木曽・杉倉、理によって導くが金碗八郎の役回りだ。名詮自性、金碗すなわち金気であり、八は木気の成数だ。彼も金かつ木である。

 再々の確認になるが、八郎の切腹は、忠のみの発露では決してない。「故主」なる言葉に惑わされてはならない。神余家に対する八郎の【申し訳なさ】は、里見家に重用されることで初めて発動した。裏返すと、重用されなければ、切腹する必要はないんである。「忠」ならば、里見家の関係には依存せず、神余家との結びつきのみで発動せねばならない。

 忠の権化、犬山道節は語る。「昔唐山晋の趙無恤は魏氏韓氏と諜じ合して撃て智伯を滅したり。しかるに予譲は智伯の与に独趙氏を仇として■穴した鬼/ふて韓魏をもて怨とせず。是趙氏は正敵にて韓魏は傍仇なればなり。我定正を仇として山内を怨とせざるも事情は相似たり」{第九十三回}。晋予譲は、古来、忠の代名詞であったが、馬琴も忠の犬士・道節の性格設定で、予譲をモデルにしていると判る。道節は、仇に追い詰められた予譲が仇の衣を乞い受け剣で貫き僅かに志を果たす故事を、定正の兜のみ射落とした武勲に重ね合わせてもいる。周知の如く予譲の論理は、仇の差別化のみならず、忠の対称をも選別するものである(→▼史記)。

 豫讓は嘗て、范氏と中行氏に仕えたことがあった。智伯に乗り換えた。智伯は范氏と中行氏を滅ぼした。智伯は趙襄子に滅ぼされた。このとき豫讓は山の中に逃げ込んだ。此処で有名な誓いを立てる。「嗟乎、士為知己者死、女為説己者容、今智伯知我、我必為報讎而死、以報智伯、則吾魂魄不愧矣」。士は己を知る者の為に死し、女は己を説(よろこ)ぶ者の為に容(かたちづく)る。豫讓は、智伯が「知己」であったため、身命を捨てて仇に報いようとした。

 因みに旧約聖書で「知る」とは「犯す」の意味である(→▼)。豫讓と智伯はデキていたらしい……とは全くの冗談で、此の場合の「知己」は【自分の真情を完全に理解してくれる】ぐらいの意味であろう。馬琴は百年後に知己が現れると信じて八犬伝を書いたが、こればっかりは見当はずれで、いまだに現れていないようだ。閑話休題。

 豫讓に仇と狙われた趙襄子は、智伯に嫉妬したようだ。趙襄子としては、憎んでも憎みきれず殺したばかりか髑髏に漆を塗って飲器にまでした智伯のため、何故に豫讓は命を投げ出そうとしているのか。嫉妬に狂い、豫讓を問い詰める趙襄子。もしかしたら豫讓が美少年で、惚れちゃったのかもしれない。豫讓は答えた。「臣事范中行氏、范中行氏皆衆人遇我、我故衆人報之、至於智伯、國士遇我、我故國士報之」。以前の主君であった范氏も中行氏も、自分を他の臣下と同じように扱った。だから両氏が滅ぼされたとき、自分も他の臣下と同じく仇も討たずに過ごした。しかし智伯は、自分を國士として遇した。國士とは徳を備え國のため尽くす者であり、自分は國士を自認し國の為に尽くしていた。其の真情を理解し、自分を國士として遇した智伯にだけは、國士として命を懸けて報ぜねばならない。

 恐らく趙襄子の喉元まで次の言葉が出そうになったかもしれない。{いや、だから、智伯って其んな善い奴じゃなかっただろ。最低だぜ、アイツは。お前の望み通り國士として遇したのは、お前の肉体が目当てだったに違いないんだよ。だからさぁ、俺の……悪いようにはしないからさぁ}。しかし人目がある。皆、豫讓の言葉に感動して目が潤んでいる。趙襄子は汚れ役を引き受け、豫讓を殺して悲劇のヒロイン(ヒーロー? しかし既に筆者の中で豫讓は女性化している)に仕立て上げるしかなかった。豫讓の名前は歴史に残る。豫讓の敵役として自分は言及される。ならば、せめて悪役ではなく、【恰好いい敵役】になるしか道は残されていない。趙襄子は、{畜生、惜しいよなぁ、好い肉体してるし顔も可愛いし……帰ったら智伯の髑髏、叩き割ってやる}とか思いながら、豫讓の望み通り自分の衣を与えた。……勿論、冗談だ。が、セクシャルな部分はアレとして、史記の描いたココロの流れは概ね上記の如きではなかったか。

 要するに、忠の代名詞として語られる豫讓からして、主君が臣下の真情を理解し其れなりに遇することで、初めて忠を発動しているのだ。好き放題しといて、臣下だけ片務的に忠を尽くしてくれるなんてなぁ、甘えたガキの幻想、いいところ、閉塞し流動しなくなった滅亡間近の世襲社会でしか通用しないだろう。少なくとも豫讓を忠のサンプルとして提示した八犬伝、足利持氏とは一代限りの関係だと宣言する里見季基と持氏の息子・成氏と対決する義実・義成を主人公に置く八犬伝、我のみ許す許我公方、暗愚の成氏を逸早く見捨てて脱藩する犬飼現八、里見に寝返った正木大全や太田助友を善玉として描く八犬伝では、そんな甘えは通用しない。君、君たらざれば、臣も又、臣たらず。少年の頃とはいえ、何等かの理由で主家を出奔した馬琴のことだ。他は知らず、魂魄を懸けて綴った八犬伝で、片務的な忠が本来の忠として描かれる筈はない。

 八郎は、(実質的に)暗愚の神余家を滅ぼした山下定包を討つべく豫讓の真似をして全身に漆を塗りたくった。因みに変装した豫讓は妻に会うが気付かれず、友人にはバレた。豫讓の肉体に就いて妻より友人が熟知していた理由を、史記は書いていないが、さて、八郎は、范中行氏レベル(未満?)の神余家を、智伯なみに扱った。が、金碗八郎は神余家の一族でもあり、「忠」以外の関係もあった。一見、八郎の行為は「忠」じみており、何か其んなことも云ってるが、かなり上げ底された「忠」だ。本来なら履行しなくてもよいほど、既に【過剰な忠】なんである。それ故に殆どの読者は、もしも八郎が里見義実の意思通り郡主になっても文句は言わなかっただろう。が、そうなってしまえば物語は先に進まない。均衡が破れ、再び安定することを求め流動する。即ち恒常性が物語の原理である。本来なら【場違いな忠】の論理まで引きつつ、とにかく安定している現状の均衡を破らねばならぬ。実はトンチンカンな八郎切腹は、物語上必要であったが故に為されねばならず、論理の不自然な部分は「玉梓怨霊」なる不可思議な存在によって、漸く許容されるのだ。且つ、八郎の不必要な迄の忠を見た読者は、他文芸に描かれた同様の忠を目にしたときの如く同情し「天晴れだが其処までしなくても」と思ったのではないかと疑える。文芸は虚構であるから、誇張した形をとりがちだ。しかも大輔が登場する。読者は「八郎、死んじゃ駄目だ、大輔は如何なる!」と思わないだろうか。なぜに八郎は、忠からも義からも必要性の薄い、しかも読者も望んでいない、切腹をせねばならなかったのか。

 

 八犬伝第七回、死につつある八郎は説明した。彼が死ぬ理由は「定包を撃んずと思ふばかりに存命ても、身ひとつにては事を得遂ず。かくは時あり縁ありて、君に値遇し奉、犬馬の労を竭せしより功に過たる恩賞を、今更に受候ては後なくなりし故主の枉死を、わが幸とするに似て存命かたきひとつなり」。二君に仕えること自体ではなく、光弘の死の結果として大きな恩賞を得る居心地の悪さが問題となっている。二つ目の理由は、「杣木朴平無垢三等は、原某が家僕也。彼等が武藝は某が剣法を伝へしかば、しらぬ事とはいひながら、下司の兵法大疵の基を開きし孝吉が誤に似て愉からず」であった。神余光弘殺害の実行犯である洲崎無垢三・杣木朴平の元主人で武芸の師であった結果責任もしくは縁座責任が重くのしかかっていたことも、切腹の理由となっていたのだ。まず第二点から考える。

 神余家の滅亡は山下定包が主犯であるが、錯誤があったとしても八郎の眷属が実行犯であるから、八郎は道義的責任を感じていた。「道義的」と限定する理由は「しらぬ事」、関知していなかったためだ。八郎には勿論、悪気はなかった……どころか安房に居なかったんだが、自分の眷属が主君の神余光弘を殺害し、色々あって結果として、安房里見家の重臣として高禄を約束された。別に自分を見捨てた暗愚の君から、賢明な仁君・里見義実に乗り換えること自体は、罪悪でも何でもないとは既に本シリーズで縷々るーと述べてきたし、後にも述べる。

 共謀関係がないから現代では責任を問われることがないけれども、前近代の主君殺しだから本人だけの処罰で終わらない場合も十分に考えられるのだ。毛野の実家・粟飯原家は、主君を殺したわけではないが裏切りの容疑を掛けられただけで、正妻・長男・長女と一家全員が皆殺しにされた。光弘殺害実行犯の無垢三や朴平は家族までは殺されず、子孫の磯波南弥六も山林房八も元気に育っているものの、筋だけでいえば、光弘殺害の累は、元主人の八郎まで及び得るだろう。第四回、既に八郎は、無垢三・朴平が定包の策略に掛かって錯誤のうちに光弘を殺したとは推量している。しかし推量に過ぎない。読者である我々は神の視点から見ているから事情を熟知しているものの、八犬伝世界では、八郎を疑おうと思えば疑っても良い状態なのだ。事情を知っていた妻立戸五郎と岩熊鈍平は、既に刑戮されている。

 やや潔癖すぎる、奇妙な論理ではあるが、挿絵で、切腹する八郎の腹から玉梓怨霊が漂い出て、心地よさげに八郎苦悶の表情を見守っていることから、八郎の異常性に玉梓怨霊が深く関わっていることは明らかだ。

 結論から言えば、伏姫も八郎も、命を懸けて玉梓に当てつけをしているだけの話だ。伏姫・八郎は、常識を以てすれば弁明も出来る状態でありながら、敢えて潔く不幸に陥ることで、常識を以てすれば甘えた戯言に過ぎない玉梓の言い訳を完璧に封じ込めている。伏姫・八郎は【過剰な責任】を負うことで、若しかしたら一般社会でも見逃しがちになっているかもしれぬ玉梓系の甘えた言い訳を追及している。此処では偶々玉梓が女性だから云うが、女性がアワアワしいから責任がないなんて、亀篠や船虫が活躍する八犬伝世界では、絶対に通用しない論理だ。或る種の良心的な女性、雛衣とか浜路が(芯は強いけども)アワアワしいことは認めるが、八犬伝に登場する女性すべてに当て嵌まる論理ではない。別種の良心的な女性、音音なんて、決してアワアワしくない。アワアワしさを売り物にしている玉梓も、決してアワアワしくない。どちらかと云えば玉梓は、バブリー/虚飾との意味でアワアワしい。アワアワしいと自ら評価しながら最期の場面で猛々しく呪詛を投げ付ける有様が、彼女の虚飾性を語って余りある。確かに馬琴当時、女性の多くが比較的アワアワしい立場にあったとは否めぬが、だからと云って、暗愚の君の側室という特殊な立場にあってアワアワしくない玉梓を免罪する理由には決してならない。

 勿論、筆者は続けて指摘せねばならない。上記の論理は当然、男にも当て嵌まる。八犬伝では後半、男色絡みの話が幾つか持ち上がる(前半でも馬加大記と小姓の関係は甚だ怪しいが)。枝独鈷素手吉のように親兵衛をレイプしようとする善玉もいるのだが、此は彼の猛々しさを表現しており、まかり間違えば悪役に転ずる中間的な存在であることを示すだろう。しかし彼は里見家に従うことで、悪の側面を表出せずに済む。一方で、善に導く上位者をもたない最大の権門・細川政元は自律をせねばならぬのだが、それが出来ずに親兵衛の肉体を渇仰する。渇仰の理由は勿論、第一義としてムチムチ親兵衛が好みに合っていたからだろうが、もう一つの理由が目を引く。有能な親兵衛を自分に繋ぎ止めておくための手段として、親兵衛を犯そうともしているのだ。技巧に自信があったのだろうか。馬加大記ならぬ台記を読めば解るように、帯刀先生道節ならぬ帯刀先生源義賢(木曽義仲の父)を夜の玩具にしていた悪左府・藤原頼長が、随身を犯して手なづけ気に入らない者を暗殺させたり藤原一族の名門少年を犯して関係を構築し政治派閥を作ろうとした論理に近い(→▼台記)。尤も頼長は政元と違って遊女と戯れてもいるのだが。里見義実には元々杉倉・木曽という股肱の臣がいたが、旗揚げしたときの義実ぐらいの年代である細川政元も股肱の臣が欲しかったのか。どうも政元、股と肱を遣って肉体奉仕をしてくれるのが「股肱の臣」だと勘違いしていたのではないか。例えば確かに森蘭丸は織田信長の股肱の臣といえようが、偶々だろう。武芸知略など一般的な資質と忠誠心までを兼備すれば股肱の臣だ。これに美貌まで兼ね備えるなど、極めて希少だろう。そんな勘違いをしているから、秋篠広当に美味しい所を攫われるのだ。閑話休題。

 

 玉梓の罪は「玉梓に賄賂ものは罪あるも賞せられ、玉梓に媚ざれば、功あるも用られず。是より家則いたく乱れて、良臣は退き去り、佞人は時を得たり。……中略……現女謁内奏は、佞人の資也」{第二回}が中核である。此の中で特に山下定包を引き上げ神余光弘を狙い撃ちできるポジションに据えた一方、対抗できる忠臣を遠ざけたことが問題となっている。玉梓は、かなり積極的に関与しているので、「女はよろづあはあはしくて、三界に家なきもの、夫の家を家とすなれば、百年の苦も楽も、他人によるといはずや」{第六回}は、社会制度の犠牲となっていた殆どの女性には適用できるが、玉梓の違法性棄却事由にはならない。ならないが、彼女が積極性を発揮して悪を成し得た背景には、彼女の色香に迷った男どもの愚かさ安易さがある。彼女に手を貸す男どもがいて初めて、彼女は大悪玉となったのだ。金碗八郎も、濃萩の色香に迷ったことがある。八郎も、男の愚かさをもつ一人だったのか。玉梓を断罪するとき、濃萩の姿が浮かんだや否や。

 勿論、玉梓が玉梓なりの幸せを追求する自由そのものは認めるが、其れでも他者の不幸と引き替えにするには其れなりの理由が必要だと思っているから結局、玉梓の言動は認められない。玉梓タイプの者は、例えば国で最高の位置に留まることを「生き残り」と言い募り、まるで生存権の如く強固に認められるべきものだと強弁するかもしれないが、そんな贅沢な生存権など聞いたことがないので、やはり認められない。しかし、読者や金碗八郎ほど神余家の事情に通じていない里見義実は、玉梓が他の一般女性と同様に社会制度の犠牲者であるかもしれないと考え「女子なれば助るとも、賞罰の方立ざるにはあらじ」とトンチンカンなことを云う。特殊なことを為した者を、一般の者として扱えというのだから、ハナから間違っている。好い人ってのは実は、責任ある立場に就くと最も危険な人物になったりするものだ。義実は典型的な「好い人」だ。多分、此の時点の義実なら、玉梓に籠絡され耽溺するであろう。濃萩は悪女でなかったようだが、若き日の八郎同様に、義実も女色に溺れてしまいそうだ。

 金碗八郎の場合は、神余家の事情に詳しく、しかも被害者側であるから、玉梓が実際に為した悪事を知っていたからこそ断罪できた。しかし言葉は一度表れたら、無かったとこにはできても、無には帰さない。免罪は出来ても、無化は出来ない。玉梓は叫ぶ。「赦んといふ主命を拒て吾儕を斬ならば、汝も又遠からず、刃の錆となるのみならず、その家ながく断絶せん。又義実もいふがひなし。赦せといひし舌も得引ず、孝吉に説破られて、人の命を弄ぶ、聞しには似ぬ愚将也」。呪いだから是非は関係ない。ただ怨みがあればよい(→▼閑際筆記)。

 怨念は本人の主観に芽生えるものだから、客観的に正当なものもあれば不当なものもある。玉梓は、せっかく許そうとした主君を否定し玉梓を殺そうとする八郎への怨みと、死罪という深刻な決定にあって一度は許そうとしたが反対されて簡単に翻る義実の安易さへの怨みを抱く。結局、里見義実を騙せそうだったのに騙せなかったことへの怨みなんだが、最高責任者である義実に最も大きな問題がある。義実が助命を考えた原因は、美しい玉梓がしおらしく哀れっぽいことを云ったからだ。既に義実は玉梓の術中に落ちていた。確かに、此の時の義実は安易だ。但し非常に人間臭い。人として解り易い落とし穴に嵌っている。三十歳なら単なるバカだが、まだ二十歳にもならぬ若者だ。仕方のない面もある。八郎が誤りを正し、義実を陥穽から引っ張り上げた。即ち義実の安易な失言が根本にあり、八郎が是正をしたため、二人して玉梓に呪われている。義実の安易な発言がなければ、呪いは発動しなかったことになる。

 情に流され安易に重大な決定をしてしまう義実の性格は中年になっても治らず、八房に伏姫と結婚させてやると云う。相手が犬だから冗談の積もりだったに違いないが、ただの犬でなかったから面倒なことになる。犬は玉梓であった。即ち玉梓は、伏姫を渇仰する、女性同性愛者であった……わけでもなかろうが、今度こそとばかりに、玉梓/八房は約束の履行を強硬に求める。前回は(自分に都合の良い)約束の履行を求めたが、容れられなかった。そして今回は、約束が履行されること自体が、呪いの成就に繋がる。伏姫は犬の妻となり同居することで見かけ上の「畜生道」に堕ち、更に犬である八房と相感し犬士を産み出し完全に「畜生道」に入った。同時に八郎の一子・大輔は仏門に入ることになり、子孫をつくれない立場に置かれる。里見家が畜生道に落ちること、金碗家の子孫が絶えることが、玉梓の呪いであった。呪いは成就した。

 玉梓が呪う理由を推察すると、以下の通りだ。玉梓は、奸佞なる山下定包を挙げ八郎ら賢臣を遠ざけ、元々暗愚の素質十分な神余光弘を決定的に堕落させた。また一方で定包を出世させ、神余家乗っ取りが可能なポジションに就け以て結果として乗っ取りに踏み切らせた。御膳立ては、玉梓なんである。イーカゲンな筆者が考えても、玉梓はA級戦犯だ。但し一見、間接的な関与に留まっているようにも見える。見えるけれども、定包を台頭させた原因となっているし光弘に諫言もしなかったので、明らかに共犯だ。光弘から信頼されている立場にあって、虚言を撒き散らし定包を挙げ八郎らを退けた以上、光弘堕落の責任は免れない。虚言を撒き散らした以上、積極性があるのだから、「云ってみただけだもん」では許されないのだ。常識である。しかも特に八犬伝では、【まさか本気にはしないだろう】とのレベルでも、里見義実が伏姫と八房を婚姻させるなんて、誰が聞いても冗談と思える約束をしても、履行せねばならぬ。若しくは、「云ってみただけなのに、責任を取らされた」と恐らく玉梓は勘違いしたまま死んだだろうから、「誰が聞いても冗談と思える約束」であったとしても、「約束だからね」と履行を迫る。伏姫を得られぬ八房が凶暴化した所以である。

 しかし呪いが成就する直前、玉梓は成仏していた。このとき結界となっていた河が、大輔を受け容れた。大輔が河を渡ることが、呪い成就の前提であろう。にも拘わらず、玉梓の成仏、即ち怨霊の浄化、呪いの無化も期待される其の瞬間に、呪い成就の前提が確保されてしまう。挿絵では、玉梓の隣には役行者がいる。八犬伝の主宰神・役行者が、河開きに関与している。禍福は糾える縄の如し。割腹した伏姫から八犬士が迸り出る。大輔は出家する。呪いは外形として完成する。

 しかし妖艶の美女・玉梓が清廉の美少女・伏姫を霊的に犯した結果たる八犬士は、里見家に仇為す者ではない。ならば、恐らくはテクニシャンであろう玉梓が、霊的に伏姫を姦し胎内に精を撃ち込むは、遅くとも川面に映った伏姫の顔が犬に見えた時点までと考えられるが、このころ既に八房は菩提心を発しているように描写されている。成仏には至っていないものの、玉梓怨霊は浄化されつつあったようだ。浄化は伏姫と接し相和し姦して精を撃ち込むことによって為された。恐らく玉梓怨霊の成仏と同時に、犬士の気は完成し、伏姫の胎内から奔出する期が満ちた。玉梓に愛された部分から自然分娩したのではなく、帝王切開によって生まれた。抑も通常の受胎ではなく霊的なものだから、自然分娩する必要もない。しかし女嫌いの禹は母の背中を切り裂いて生まれたし、女色を遠ざけた仏陀は母の脇から生まれるなど、異能者が自然分娩以外の方法で生まれた例もある。何だか帝王切開で生まれた犬士も女嫌いに育ちそうだが、果たして彼等は里見八姫との結婚まで、少なくとも女性とは、性交渉をもたない。伏姫と八房の不幸な結婚は、里見八姫と犬士との幸福な結婚により、繰り返され且つ逆転する。玉梓の呪いが、延長線上で福に転じている。役行者の予言通りであった。

 

 玉梓怨霊の呪いは、玉梓成仏により福へと転ずることになった。しかし依然として金碗八郎切腹と義実の失言問題は残っている。伏姫の切腹/セルフ帝王切開による犬士誕生と金碗大輔の出家は、畜生道への落下と子孫根絶の呪いを実現した。但し元凶となった失言の責任を義実は果たしているのか。彼は娘を悲劇的に失ったが、天寿を全うしたようだ。当主として里見家を繁栄に導いている。一番重い責任を負うべき者が、逃れている。此で良いのか。……此で良いのだろう。馬琴は「又玉梓が悪念は、良将義士に憑ことかなはず、その子その子に紆縁て、一旦不思議のいで来る事、その禍は後竟に、福の端となる、この段までは迥なり」{第六回}と云っている。「良将」は里見義実だから、馬琴が免責していたことが判る。「義士」と呼び得る者には、木曽・杉倉両氏と金碗八郎がいる。八郎は若い頃に一人の女性を不幸のどん底に陥れているが、目を瞑って義士の列に入れておく。って云うか、玉梓に怨まれそうな人物は、義実と八郎だけなのだ。だから「良将義士」が二人であるならば、義実と八郎を当てなければならない。義実は如何考えても義士ではないので、八郎が繰り上げ当選するのだ。ならば、玉梓の呪詛「汝も又遠からず、刃の錆となるのみならず」が、八郎切腹と直接には繋がらないことになる。しかし八郎切腹の挿絵で、正に八郎の腹から玉梓怨霊は漂い出ている。実は玉梓怨霊は、八郎の腹中に潜んでいたのだ。が、馬琴は「憑ことかなはず」と断言している。共に事実である。答えは簡単明瞭で、玉梓怨霊は、憑いてこそいないが八郎の腹の中にいた、である。近世で通例を見れば、憑とは、狐憑きとか色々、取り付いた相手の精神もしくは運命を一時的にでも完全に支配統制下に置くことを謂う。狐憑きに遭った者は、憑かれていた時の記憶がないのが普通である。例えば、弓張月で、寧王女を白縫姫の霊が乗っ取り、九州美人から琉球美女の肉体に乗り換え、褐色の肌もて、よりワイルドに為朝を貪ったか否かは知らぬが、其の様な情況を、「憑」と謂う。取り付いていても、取り付かれた相手が平常通りに行為できるなら、「憑」とは謂えぬ。八郎は、玉梓怨霊の支配統制下にあったから自殺したのではない。此は八犬伝の絶対神・馬琴の言から直接容易に推せる定理である。

 では何故に八郎は、切腹したのか。筆者流の言葉で結論を言えば、【面倒臭かった】からだ。玉梓怨霊は、八郎の腹中に潜んでいた。玉梓は、「犬の様に、此処をお舐め」とか「其の汚らしいもので奉仕するのよ」とかの形では、八郎を支配できはしなかったのだが、斯く言い続けることは出来た。即ち、「更に里見に随て、滝田の城を落し給へど、兎の毛ばかりも先君のおん為にはなるよしなし。しかれば各栄利の為に、彼に仕、これに従ふ」、鼬ならぬ玉梓の最後っ屁である。「正義面してるけど、アンタだって!」。自分の感覚を基準にした邪推によるキメツケが、彼女の放った最後の矢である。論理として正当でないから決定打にはなり得ないものの、義士には却って、ジャブ攻撃となった。裁きの庭で、八郎は即座に反論し正当性を証明してはいるが、悪事は千里を走り佳事は門を出でず、他者の善を認めたがらず悪しき者と思い込み以て自らの悪事を自ら許す愚者が社会に存在する以上、渇して盗泉の水を飲まぬ態度で処すべきだと考える者もいる。疑われた時には、自死を以て潔白を証明しようとする嗜好(指向とは書きたくない)の者もいるわけだ。八郎は、そういう性格だったのだ。死ぬこと、即ち重賞を捨てることを以て、利益を得ない態度を見せつけ、玉梓の邪推を否定する。しかし玉梓だって、本気で言ったわけではなかろう。適当に、人間(じんかん)で成立し得る言語を駆使し、嫌がらせをしただけだ。相手が真に受ければ儲けもの、無視されたら新たなキメツケを捏造すれば良いだけだ。彼女には、真理も真実も必要ないのだから。

 金碗八郎は、玉梓の言葉を、否定するために切腹する。玉梓は、自ら放った誣告悪態を否定されはしたが、八郎が刃の錆になることで、願いを叶えられる。言葉の正当性を認められるや否やは、それこそ義士の重んずる所であって、玉梓には如何でも良い。結局、玉梓の思い通りの結果になったのだから、挿絵で嬉しそうに笑っている。また、玉梓怨霊が八郎の腹から漂い出ている、即ち直前まで八郎の腹中にいたことは、玉梓の最期の言葉「栄利の為に、彼に仕、これに従ふ」が、此の時まで八郎の腹中に蟠っていたことを示している。玉梓は義士・八郎に憑くこと叶わなかったものの、八郎の腹中で邪見による誣告を繰り返し、八郎を追い詰めていった。呪いは、呪われている自覚のある者の心の裡に巣くい成長する。己の潔白性を自問自答していたか。其れ故に、もう一人の呪いの対象である里見義実にしか、玉梓怨霊は見えない。挿絵で木曽氏元なんて身を乗り出して八郎を見つめているのに、玉梓怨霊が見えてない。玉梓の言葉「栄利の為に、彼に仕、これに従ふ」と八郎切腹の間にある因果関係を、氏元は思いもかけていないのだ。

 しかし直後に論理が揺らぐ。八郎も認知していなかった、生まれたと思っていなかった息子・大輔が、いきなり登場する。八郎は自身への重賞を拒むが、義実が大輔を重用すると約束したことに対しては、拒否の態度を見せない。「これを冥土の苞苴にして、仏果を得よや八郎、と呼び激されて孝吉は、鮮血に塗るゝ左手を抗、主君を拝み奉り」と感謝しているようだ。もう苦しくて拝むのが精一杯だったのか。馬鹿な義実には、もう何を言っても無駄と思ったのか。とにかく此の時点で八郎は、息子・大輔の栄達を拒んでいない。尤も、後に大輔は、八房を射殺し伏姫を傷つけたため出家し、城主にはならないし子孫を残せなくなる。玉梓の呪いは、八郎が義士であるが故に八郎が勝手に切腹して叶えてくれたし、息子の大輔に対しては八房に憑依することで叶えられた。呪いは成就した。

 呪いは成就した。しかし上記の如く、八郎は、忠に悖るからと自殺したのではあり得ない。やはり義士として、潔白性を証明するための自殺であった。が、息子の栄達は拒否していない。矛盾がある。息子の栄達を拒んでいないのだから、実は八郎が自殺する理由は、潔白性の証明でもなかった疑いがある。いや、表面的には潔白性こそが理由に間違いなのだが、真の理由は、他にある。

 馬琴は、八郎が邪魔になったのだ。より精確に云えば、世代交代のために、八郎は死なねばならなかったのだ。八郎は設定上、協力者の里見義実と同年配でなければならない。ならば義実の娘・伏姫とは絡めない。八郎と同等の立場で若い二世代目が登場しなければならない。犬塚家では、信乃が最も良い時期に最も適齢で登場するべく、匠作・番作の二代は不自然な人生を送るが、金碗家も同様に、此処で世代交代をせねばならぬから、八郎は死ななければならなかったのだ。死ななくても良い八郎は、悪霊・玉梓に憑かれて死ぬことも許されず、漸く潔白性の証明をイーワケに切腹することが出来た。後に犬塚番作も、唐突で理由の乏しい切腹で慌ただしく退場し、信乃を姉夫婦と同居させる。

 

 また、二代目・大輔の登場とともに、八郎の過去が暴露されている。八郎は神余家から出奔して程なく、上総で濃萩を姦し、妊娠したら堕胎を勧めて姿を眩ませていたのだ。しかし馬琴は、農民の娘・濃萩を、夜這いを肯定する一般の農村習俗と一律に考えていたかは別として、一作の口を借りて、淫奔に見えて淫奔ではないと、断言している。此処で一作は、父親として娘と金碗八郎の性交を許している。密通ではないと、許可を与えている。故に「淫奔」ではないのだ。が、其れだけではなく、八郎を一途に想い、遂には想い死ぬ濃萩の末路が、読者に対する「淫奔にあらず」の本義であろう。悲劇的末路から濃萩の真情が露わとなり、八郎との野合を正当化しているのだ。簡単に言えば、一見すれば淫奔に見えても、死によって結果的に赤誠を証明している。濃萩は正式には八郎の妻ではないが、敢えて夫婦と呼ぶならば、此の夫婦は正に一対である。夫の八郎も、同様の運命を辿っている。

 

 結論である。金碗八郎は、「栄利の為に、彼に仕、これに従ふ」、邪見に対し身の潔白を証明するためにのみ、さほどの必要性ないまま切腹して果てた。此は【過剰なまでの義士】であることを表現するとともに、次世代にバトンタッチするため、退場するための切腹であった。また、外ならぬ此の場で、濃萩との野合が暴露される。濃萩は八郎と野合し、「淫奔」と邪推され得る立場にあったが、両親の許可を得て密通の汚名は雪がれ、且つ想い死にした悲劇的結果を以て、真に愛していたことが証明されて、公私両面で「淫奔」ではないことが明らかになった。邪見邪推を撥ね返し、過剰なまでに義であり貞であることを証明してしまう二人は、まさに似た者夫婦といえる。勿論、馬琴は此の不幸なリフレインで、金碗八郎の義士ぶりを強調しようとしているのだろう。やや無理のある切腹ではあるが、馬琴としては退場の花道の積もりもあったか。

(お粗末様)

 

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