筆者はヘブライ語なんて皆目解らないし、そもそも基督教徒ではない。しかし学生の頃に口語訳で読んだ強烈な印象が残っており、「知る」が「犯す」だということだけは憶えていた。だいたい聖書を読んだのも、確か授業の夏休み課題で感想文だか何だか書かされたからである。そんな折、マトモに読む筈がない。しかし今回、「知る」が「犯す」だと書くに当たって、やはり当該箇所だけでも原文を読んどかねばならぬから、大阪府立図書館にあったヘブライ語・日本語対訳の聖書を開いてみたのだ。

 ……セム語系なんだから仕方ないにせよ、横書きで右から左に読むのが、こんなに苦痛だとは。いや日本語も昔は横書きのときは右から左へと読んだ……って云ぅか、日本語で横書きは例外であり、縦書きが右から左に読むから、横書きに見えるが実は【一字で改行している縦書き】と考えた方が良いのかもしれない。こんな言葉と英語を小さい頃から両方読んでいたら、きっと頭が良くなるぞ。少なくとも目の筋肉が発達し秋波は巧くなりそうだ。

 

 さて、有名な話だが、ある時期まで日本語の聖書では、性的陵辱を「知る」と表現していた。いや今でも見かけるけど。日本語で似た「しる」を思い浮かべると「領る」がある。領有、支配を意味する。敬語の「しろしめす」は天皇にも使う。まさに大航海時代、世界を侵略掠奪しまくっていた西洋人の感覚が、「知りたい」であったろうか。

 そして最も有名な「知る」は、ソドムの街を滅ぼすため神に遣わされた二人の天使(男性名詞)を、ソドムの老若男男が集団で犯そうとする場面だろう(創世記十九章)。

 ロトは旅人二人が街の広場で休んでいるのを見かけ、自分の家に泊まるよう誘った。二人は断るが、ロトは承知せず家に連れ帰った。二人はソドムを滅ぼすため神に遣わされた天使(男性名詞)であった。ソドムの老若男男がロトの家に押し掛け、二人を「知りたい」から引き渡せと迫る(hotsiem  ele-nu  vened'a-/彼らを出せ私たちに、私たちは知りたい)。「知る(ネドゥアnedah)」は英訳版で「have sex」とあるから、お話をしたいってんぢゃぁない。老若男男は、天使を庇う老人ロトを抑え付け、「さあ彼らより先に、お前を痛い目に遭わせてやる(aha-h   nara-  leha-  mehe-m/勝手に音写しただけ。因みにハイフンは音引き。以下同)」。急に扉が開きロトが引っ張り込まれ、天使がソドムの老若男男に目潰しした。扉を閉じ、天使はロトたちに縁者を連れて逃げるよう命じる。結局、ソドムの老若男男は天使二人を陵辱することなく滅ぶ。

 幸いロト側には被害者がなかった。ロトが揉みくちゃにされただけである。ロトが引き渡そうとした娘二人も無事だったようだ。……が、考えてみると、聖なる天使は人間でないので、人間ごときが何を仕掛けても傷付くことはない筈だ。減るもんじゃなし、何故させなかったか解せない。死刑囚は最後の願いを聴いて貰えるんぢゃないのだろうか。

 対して士師記第十九章は更にエゲツナイ話で、此方こそ救われて然るべきであった。

 或る男が家来だか使用人だかの若い男と側女を連れて旅をしていた。側女が浮気をして実家に帰ったのを連れ戻しているのだ。三人が街の広場で休んでいると、老人が声を掛けてきた。広場ではなく、自分の家に泊まれと誘う。男は断るが、老人は強いて一行を自宅に連れ帰る。すると街の男達が集まってきて、「お前の家に来た男を出せ。我々はその男を知りたいのだ(hotse-  et  hai-shu  asher  ba- el  beteha-  venedae-nu)」。老人は、自分の処女の娘と男の側女すなわち女性二人を引き渡すことを逆提案する(hineh-  viti  habetola-h  ufilagshe-hu  otsi-ah  na-  otam  veanu-  otam  vaasu-  lahem  hato-v  beenehemここに処女であるわたしの娘と、あの人の側女がいる。この二人を連れ出すから、辱め、思い通りにするがよい)。しかし街の男どもは承知しない。女性二人より、男一人の方が良いというのだ。お供の若い男も求められていない。とにかく主人である男一人だけが欲しいらしい。よほど色っぽい男だったのであろう。しかし男は、自分の側女を放り出し扉を閉めてしまった。

 

 vayedeu-  otahah   vayitealelu-  va-ha    kol  halayilah-  ad  haboker  vayeshalehu-ha    kaalot  hasha-har

 彼らは彼女を知り そして彼女に乱暴した すべての夜   朝まで  そして彼女を放した あけぼのが昇るとき

 

 vatavo-  haisha-h  lifnot  habo-ker   vatipo-l    petah  bet  hai-sh  asher  adone-ha           sham  ad  hao-r

 そして女は来た  朝に向かうとき そして倒れた 彼女の主人がそこにいるところの人の家の入り口で 光差すまでそこにいた 

 

 このあと男は側女の体を十二に切り分け諸部族に送った。此の許し難き犯罪を告発するために。諸部族は起ち、罪を犯したベニヤミン族の殺戮を開始する。しかし色々あって、断罪する側も苦衷を舐めたり面倒なことに陥ったりする。

 士師記を読むだけでは、側女の死亡時刻が、よく判らない。戸口に倒れている側女に男が「さあ、行くぞ」と声をかけたとき答えがなかった。現代の感覚では、無言の抗議にも思えるが、此のとき既に死んでいたのか。男は側女を故郷まで連れ帰り、其処で彼女の体を切り刻んだ。連れていた若い男は、いつの間にか登場しなくなっている。何処へ行ったのか……。筆者が用いた対訳本は、ヘブライ語部分をレニングラード写本とかいう毛並みの良いものから引いてきたらしいが、此が成立するまで原話から改変されているのかもしれない。

 それはさておき、今は側女の人権が街の男どものみならず主人によっても徹底的に踏みにじられている点には触れない。此処で注目すべきは、創世記と士師記のリフレインである。共に広場で休もうとしていた旅人を老人が自宅に連れ帰る。街の男どもが押し掛け、旅の男の肉体を要求する。老人は代わりに処女娘を差し出すからと申し出る。片や、まさに欲望の対象にしていた男二人に追い散らされ神によって全滅させられる。片や、欲望の対象にしていた男が差し出した側女を代わりに一晩中犯し、結果として他部族に殺戮される。単純な繰り返しではないが、原因と結果は同じだ。また士師記でも、ベニヤミン族を殺戮するは他部族の人間ではあるけれども、其の戦闘は神に指導されている。ベニアミン族を神が他部族に引き渡すのだ。しかし、ベニアミン族を滅ぼすときに色々と人間は失敗を冒す。神の意に完全には沿っていなかったからだ。創世記と士師記の差は即ち、完全無謬の神と不完全な人間の対比を目論んでいるように思える。リフレインによる対比、此は八犬伝でも有効な分析視角となっている。……と、実は、此が云いたかっただけ。

 

← Back