■北方の女王■
五十子と対極に設定されている箙大刀自を通し、五十子の聖性を逆照射する。箙大刀自の立場は特殊であり、定正の妻/蟹目前の母である故に南関東大戦で出兵した。馬琴が参考にした史料は恐らく、越後長尾頼景の娘が白井長尾景春の父である景信の妻となり、且つ、景信の娘が定正の正妻であるというものだ。八犬伝では、箙大刀自が蟹目前の母とされている。箙大刀自は蟹目前の自殺時、犬士らに「独越後の長尾の家臣、稲戸津衛由充のごときは得かたし。且長尾景春の嬶々箙大刀自は伝聞の訛舛にて我們を憎むこと執念深に過ぎたれども邪智奸悪の婦人にあらず、北越数郡を威服してその子の与に扞城となりしはこも女丈夫といふに庶かり。這主従を除くの外に称すべきものなかりしに」{九十四回}と、高く評価されている。
しかし箙大刀自が、何か善なることを積極的に為したかと言えば、心許ない。彼女と犬士が交流する場面は、酒顛二征伐の条だ。酒顛二の盗賊団を壊滅させた荘助と小文吾が却って捕らえられた。箙大刀自の長女は大石憲儀の妻で大塚殿、二女が千葉介自胤の内室橋場殿であった。
そういえば、荘助が大石家の臣に捕らえられ処刑されそうになったとき、信乃・現八・小文吾が救出した。其の折、大石家の軍木五倍二・簸上社平・卒川菴八・丁田町進らが討たれた。千葉家では馬加大記一家を毛野・小文吾が皆殺して逃げたことになっている。此の為、大刀自は可愛い婿たちのため荘助・小文吾を捕らえ処刑することにした。小文吾が毛野の殺戮に荷担した部分のみは無実だが、他は事実だ。但し、大石・千葉両家が、自分たちに都合良く大刀自に伝えていた。一方的に犬士らは、犯罪者にされていた。【伝聞の錯誤】である。娘の蟹目前は伝聞の錯誤故に自殺し、母の大刀自は伝聞の錯誤ゆえに善なる犬士を殺す決定を下す。此も対称だが、さて措き、由充は、何処で聞いたか、正しく事情を説明し伝聞の錯誤を正し、荘助・小文吾を許すよう勧めた。しかし大刀自は、反論する。事情を薄々悟った上で、敢えて大石・千葉両婿の武威を示すためにも刑戮が必要だと言い立てる{→▼}。
此処まで大刀自の行為は男の暗君と差がないように思うのだが、単なる暗愚ではなく、ただ婿のことを大切に思い家の統治権を強化することが目的であると明かされる。それ故に処刑の対象である荘助さえ、「犬田は何と思ひ給ふぞ箙殿の■言に献/断は公道ならず聞ゆれども婦人に稀なる勇敢智計この年来長尾殿の鋒さき強しと世の風声も搗鬼にはあらざりけり」{七十八回}などと、まるで人ごとのように誉めるのだ。背景として大刀自の性格設定「箭竹心の直かる本性」{百十八回}がある。荘助・小文吾の処刑は、いわば政治的な犠牲だ。しかも大刀自は真相に薄々気付きつつも、真相ではない錯誤した伝聞を敢えて信じて、処刑を強行しようとしたのだ。現代ならば決して許されないし里見家でも否定されるだろうが、統治権を維持するため大刀自がとった詐術は、荘助に容認されている。但し、続く小文吾の言葉は、今まで悪者のため苦労ばかりさせられたが由充のような善人の手に掛かって死ぬなら構わない、と余りにも悲壮であった。人生に疲れきっている。荘助の言葉も、少しく割り引くべきか。不幸に慣れ過ぎて、感覚が麻痺していたのかもしれない。しかし、とにかく大刀自は、犬士に悪印象を与えていない。
八十八回で蟹目前は景春の叔母とされており、八十九回で蟹目前は大刀自を自分の兄嫁だと言っている。即ち、大刀自は出自詳らかならずといえども{恐らくは越後白井家出身}、白井長尾家に嫁いできた女性であった。また、九十四回で、景春には妹が二人いて、大石・千葉両家に嫁いでいる。此処までは整合性が取れており、蟹目前は、大刀自が嫁いだ白井長尾景信の妹である。大刀自にとっては、義理の妹だ。蟹目前は景春の姉妹ではない。しかし百十五回で、大刀自の「亡女(なきむすめ)」となっている。実は、百十五回で語る大刀自は、政木狐が化けたものであって、本人ではない。とはいえ、「政木狐が勘違いした」のではないだろう。馬琴が勘違いしたか、設定を変化させたかだ。馬琴は自分の間違いを明らかにして、訂正する場合がある。しかし、義理の妹から娘への変換に、其れはない。百五十二回、両管領による出陣催促の条で、大刀自は蟹目前の母として確定している。馬琴は、嘗て蟹目前を大刀自の義理の妹としていたことを憶えていたか否かは解らないが、とにかく最終的には、大刀自は蟹目前の実母であると確信していた。イノセントゆえの確信か、自覚し変更したうえでの確信犯かは判らない。
蟹目前が大刀自の実娘であれば、義理の妹より密接な繋がりをもつことになる。何度か八犬伝は、蟹目前を仁慈、大刀自を廉直と表現している。共に善に連なる者の対称形として設定していると思しい。ファロスもつ蟹目前より、更に大刀自は男性性が強いようだ。八犬伝の表記では其処まで誉めるべきか疑問に思うが、荘助なんかは上述の如く、大刀自の統治能力を高く評価している。しかも大刀自の統治範囲は北越数郡に亘り、立派な戦国大名だ。中世には女性が武家当主になることも可能であった。守護とか幕府の任命に依るポストに例は思い浮かばないが、当主ってのは其の家で決めるものだ。認めなくなったのは、武士統制が強化された近世以降である。近世には越後の上杉謙信女性説まであったぐらいで、同じ越後で女性大名とも云える大刀自が活躍しても、驚くほどのことではない。中世の越後には最強女兵と称えられた板額御前がいたし、巴御前も晩年は越後に住んだ。此等からの連想で、越後に女性の王国を設定したかったのか。越後は北国であり、其の更に北部の地方を統治する女君主。北は水気の方位であり、八犬伝で女性は水気だ。大刀自は北国の女王であり、娘の蟹目前は、女性の聖地たる五十子を守ってきた。より強力な女神/伏姫の分身たる信乃が突入するまで。それまで守ってきた女性の聖地を伏姫に明け渡す仕草が、現世に於ける第一次五十子城攻略であろう。真打ちが登場すれば、前座は姿を消さなければならない。
そして、蟹目前は伏姫系のファロスもつ雄々しき女性であるが、彼女は八犬伝で仁慈なる存在として語られている。一方、母である北方の女王/箙大刀自は、対称的な者として、廉直と表現される。生前の伏姫は、まさに廉直であった。いや愚直と言って良い程に、父が醸した言の咎を引き受け、一生を棒に振った。蟹目前は自らの赤誠を証明しようと自殺した。彼女への仁慈なる評価は、毛野の願いを容れ無実の罪で収監されている石亀屋次団太を赦免するよう実母/箙大刀自にしたことに因るだろう。無実の次団太を赦免することは、正の平衡だ。正の平衡は、仁慈である。伏姫の亜流として登場する蟹目前が仁慈であるならば、彼女の母親/箙大刀自は、伏姫の母/五十子と如何な位置関係にあるか。対称である。レベルを考えず指向性のみ考えると二つの母娘関係は、{廉直}箙大刀自←蟹目前・伏姫→五十子{仁慈}となる。
また箙大刀自・蟹目前を廻る挿話をイメージの側面から見れば、北方守護/多聞天となる毛野と絡んだ蟹{目前}は、箙{大刀自}に願って石亀{屋次団太}を解放した。また蟹{目前}の嫡子朝良は南関東大戦に於いて、毛野の指示を受けた鮹{舩}貝{六郎茂足}に捕らえられた。蟹・蝦・亀・蛸{貝}と水棲動物尽くしのエピソードは、水兄の犬士/毛野によって主宰されているのか。また、蟹目前は美少女毛野との出会いで自滅に追い込まれるが、毛野を呼び込んだのは、木に登った猿である。木に登った猿のため、蟹が死ぬ物語と言えば、猿蟹合戦だ。毛野による第二次五十子攻略に先立ち、音音・曳手・単節・妙真が五十子城に潜入する折、活躍した端役は、狙岡猿八であった。まさに妙真らが五十子に潜入するため、投げ飛ばされて頭を割り、死んだ筈の狙岡猿八である。此処で管領側の間諜天嵒餅九郎が引っ掛かり、妙真らを信用する。まったく天嵒、「甘いわ」である。そして、「甘いわ」が「餅」に続き「九郎」に繋がる。「餅喰らう」である。続けて言えば、「甘いわ、餅喰らう」だ。餅の縁語には、臼もある。猿蟹合戦で、蟹を殺した猿を懲らしめるは、臼の役目だ。しかし騙されているから、天嵒、「甘いわ」なんだろう。復讐の未完を宣告されている。南関東大戦は、扇谷上杉定正の心象に限って言えば、蟹目前の弔い合戦でもあるのだから、猿蟹合戦に拘わる部分があっても良かろう。其処ん所は里見側のサービスとして、狙岡猿八の血糊袋で解消する。表面的には、ちょっとした馬琴の遊び心だろうし、より本質的には、既に此の時点で、単純な個人的復讐、負の平衡は馬琴の採る所ではないのだ。神話は、殺し合い奪い合う次元から、更なる先のステージに進んでいる。閑話休題。
ところで箙大刀自を語る上で、稲戸津守マゾ由充とのコンビネーションは抜かせない。箙大刀自の臣稲戸津守由充は、荘介らを助けたことがあり、南関東大戦に大刀自の代軍として参加しつつも戦闘意欲がないためグズグズしていた。若い頃に自分を責め苛んだ継母の面影を見たか、マゾッホの係累だったに違いない由充の忠は、女王様/箙大刀自にのみ向けられているのであって、関東連合軍なんて如何でもよいらしい。だいたい由充の主君長尾景春は、関東管領への忠誠心なぞ一欠片もない男であって、自分の為に参戦し里見義通を追い詰めただけである。女王様命{はぁとまぁく}の由充だって関東管領なんて眼中になかったのだろう、まともに戦わないまま里見側に生け捕りにされ、客人として遇される。
ついでながら扇谷上杉朝良に就いても触れておこう。朝良は、ストーリーに影響を与えることが殆どない、ジャリキャラクターだ。しかし南関東大戦後の処遇で、特別な人物であることが強調される。其れまで善玉らしい素振りを全く見せていない扇谷上杉定正の嫡子朝良も、そ知らぬ顔をして、由充と共に客人として遇されているのだ。
朝良は千五百の手勢をもち、千葉自胤と共に行徳攻めの大将であった。両大将と言っても、自胤にとっては主家筋の嫡男だから、「爾程に寄隊の総大将扇谷朝良は、この朝副将千葉自胤に墨田河なる敵を撃払せんとて一万余騎を分ち授けて行しめしに」{百六十四回}と、一応は格上である。そして、朝良が、どんな人物かといえば、「尚是乳臭き少年なれば倶に血気に惴るのみ敢老党を敬はず」「自胤も朝良も士卒を用るに拙き者也」「両大将朝良自胤は年少ければ思慮足らず倶に血気に惴る」{百六十三回}と、評価は高くない。荘介に攻め立てられて、敗走する。逃げ込んだ先が、稲戸津守マゾ由充の陣であった。小文吾に追い詰められた朝良を庇って由充が、「這御曹司(朝良をいふ)は、我箙大刀自御前の外孫なるに人もこそあれ和殿の為に我身と倶に蜻蜒の命空しくなり給はゞ我旧恩は倒に今日の仇に做れるのみ。是豈自他の本意ならんや。和殿那義を忘れずは、いかで一歩を譲らずや」{百六十四回}と嘆願する。小文吾は二人を逃がす。しかし、小文吾のことなら体の隅々まで知っており何処を如何責めれば如何に喘いで反応するかまで知悉していたであろうテクニシャン美少女毛野が、小文吾の背後に控えていた。毛野は、由充が相手側にいる以上、小文吾が手心を加えると予め想定し、更なる捕り手を用意していた。由充と朝良は捕まった。
朝良は情けを懸けるべき善玉ではない。しかし只、箙大刀自の外孫すなわち蟹目前の息子であることが引っ掛かる。しかも捕らえた犬士が、毛野だ。小文吾が逃がそうとした朝良を捕らえた者は毛野なのだ。逃がしただけでは敵ボスキャラ定正に対する扱いと同じであって、何が何だか判らない。敢えて捕らえて、他の虜囚とは違った扱いをすることで初めて、荘介・小文吾と交情した由充と、毛野と想いを通じ合った蟹目前の息子朝良が、特別の存在だと際立たせることができる。そして南関東大戦後、朝良が客人として優遇される理由は、ただ蟹目前の息子であるという一点に因ってであろう。朝良の守役として短慮を諫めていた大石憲重は、庶長子朝寧の従者に異動し虜囚第三房に入れられた。とにかく朝良は、特別扱いされている。更に言えば、系図上、朝良は定正の実子ではない。定正の庶長子とされる朝寧とは実の兄弟で、二人の実父は、定正の弟である朝昌であった。即ち八犬伝が、箙大刀自の外孫、蟹目前の息子としているのは、史実から離れ物語上の必要から設定したものであると知れる。しかも実の兄である朝寧を異母兄にズラし、蟹目前との血縁を改めて否定した上で、虜囚第三房へと放り込んでいる。とにかく馬琴は、蟹目前の存在を強調したかったとしか思えない
荘介・小文吾は由充から三舎を避け、恩義を感じていることを明らかに示した。毛野にも隠微ながら、蟹目前との心の繋がりを表現する行為があって然るべきだ。南関東大戦は、犬士らの恩讐を清算する場でもあるのだから。
また如何でも良い話だが、千葉自胤は南関東大戦に於いて、上記の如く、「年少ければ思慮足らず倶に血気に惴る」武将であるが、彼は毛野の父である粟飯原首胤度が存命中、既に武蔵千葉家で君主として振る舞っていた。南関東大戦が起こった文明十五年ともなれば、胤度が殺され約二十年が経っている。妙に長い青春時代を送っている。まぁ何時までも若々しく思慮も足らないアホタレデンガクは、どの時代にもいるだろうから、敢えて追及はしない。
話を箙大刀自に戻そう。箙大刀自は当初、蟹目前の義姉に過ぎなかった。其れが何時の間にか、実母となっていた。共に同性尊属である義姉と実母の決定的な違いは一般に、血縁の濃さである。馬琴は、蟹目前と箙大刀自との間に、最も濃い血縁を設定せねばならなくなった。蟹目前の存在が、八犬伝物語に於いて甚だ重要であることは既に述べた。其の蟹目前に最も濃い血縁者として箙大刀自は設定し直された。何処にでもいる傍迷惑なサディスティック女王から、八犬伝に欠くべからざる或る象徴的存在へ昇格したのだ。
箙大刀自が、まだ蟹目前の義姉だった頃、早くも女傑としての評価は得ていた。七十七回から七十九回辺り、荘介・小文吾を捕らえて処刑しようとする挿話である。大刀自は、真実に薄々勘づいていながら荘介・小文吾を処刑しようとした。結局は暗愚な行為に過ぎないのだが、一族を愛し保護しようとするがゆえ個人的判断を超えて雄々しく政治的決断をしようとしている。此の【愛】が重要なのだ。故に南関東大戦でも、仁義云々ではなく婿定正のため、オートマチックに参戦しなければならないキャラクターである。困ったチャンである箙大刀自が何故だか八犬伝で純粋な悪役とは認定されていない点、折に触れ犬士らに高く評価されている点からして、実は八犬伝が糾弾する【暗愚】にも条件があることが想定し得る。暗愚な箙大刀自の違法性棄却事由は恐らく、母性愛だ。しかも箙大刀自の性格、廉直も加わる。【まっしぐらな母性愛】箙大刀自が有するキャラクターの本質が、暗愚の違法性棄却事由であろう。そして、馬加大記のように自分の息子を領主にしようとするも父性愛と強弁するムキはあろうが、此は不正愛であって、既に膨張の私欲を根本とする下克上である。大刀自の愛は、膨張ではなく防衛、一族の威信低下を防ごうとするものであった。即ち八犬伝は、箙大刀自の有する、一族を守ろうとする真っしぐらな母性愛そのもの、焼け野の雉子の如き愛を、評価していることが解る。こうした偉大な愛の前には、暗愚だったり敵側に連なることなど些細な瑕疵だ。
但し、動機は違法性を棄却されたとしても、現実に里見家と敵対し損害を与えては仕方がない。其処で稲戸津守マゾ由充という、ガンジガラメに緊縛され激しく責め苛まれても其れを愛として反転出力してしまう被虐趣味……いや忍耐強い忠臣を緩衝材として挟み込むことで、箙大刀自の罪は漸く無化される。南関東大戦で由充、定正らの催促など涼しい顔で受け流し、ノラリクラリとしてれば良いのだ。
箙大刀自は、五十子と同じく母性愛の権化として現れている。但し五十子の深い仁慈を伴わず、却ってファロス持つ雄々しい母を演じている。激しく深い母性愛を共通しつつ、五十子とは極端なまでに対称である。
また、偉大なる母性愛を象徴する記号、箙大刀自の存在は、実は其れまでの伏姫の行為も、偶々敵対者が悪玉だから目立たなかっただけで、一族への偏向した愛/擁護に過ぎなかったとの疑いを立ち上げる。道節が関東管領扇谷上杉定正に襲いかかるため管領家の家臣らが多く殺され、毛野によって馬加大記や籠山縁連の眷属が殺されるが、大規模な戦闘には至らない。悪役の側近たちは、やはり悪人だろうから、同情する必要は余りない。ただし里見義通が諏訪神社で掠奪されたとき、戦闘が起こる。このとき伏姫の態度は、戦死した里見側兵士を生き返らせ、蟇田側兵士を生き返らせず、しかも手づから梟首するものであった。相手の兵士は、悪人に仕えているとはいえ、名前も出てこない小者、取るに足らぬ者たちだ。悪の帳本を逃がしておいて、小者だけ梟首する幼い伏姫には、まだ五十子の仁慈を感じない。ただ一方的に里見家を贔屓する氏神に過ぎない。箙大刀自と、本質は一般である。
とはいえ、我が子たちを愛する熱烈な母性愛を、非難するは憚られる。暗愚であっても一方的であっても、母性愛そのものを否定することは難しい。一族を守ろうとする愛に於いて、伏姫と箙大刀自は、共通する。当然、蟹目前も五十子も共通している。そして伏姫の場合は、読者の非難を浴びないよう、行き過ぎないよう、注意深く描かれいるだけだ。途中まで、敵と目する相手には一切、情けを懸ける素振りを見せない。対して箙大刀自は、一族の威信を守るため、可愛い婿たちを守るためアカラサマに、荘介・小文吾を政治的な犠牲として殺そうとする。馬琴は、此の激しくも偏向し、不義にさえ踏み入っているよう思われる愛さえ、容認しているのだ。AllYouNeedIsLove……愛さえあれば、それで良いのか。
勿論そうではない。伏姫に欠けているものを、箙大刀自は強調して見せているだけだ。際立った四人の貴女、五十子・伏姫・蟹目前・箙大刀自の四人とも一族への強い愛を持っている。うち蟹目前は、朝良と絡む場面がないため母性愛を発揮するチャンスがないけれども、蟹目前と交情した毛野が、朝良を捕らえ、そして何故だか客人として優遇しているところから、広い意味で蟹目前の擁護/徳が朝良に及んでいると見て良い。
八犬士もしくは里見家擁護に限定し所詮は社会的な広がりを持たず氏神レベルに留まっている伏姫は、身内の武威を維持するため義士/荘介・小文吾を敢えて殺そうとする箙大刀自と、本質として何等変わらない。只それが廉直であり純粋な母性愛に基づくとの設定が馬琴にあったが故、暗愚なる男どもとは峻別され免罪され、且つ尊ばれる。
蟹目前の奸臣排除計画も、扇谷上杉家凋落を防ごうとするものであった。其のために美少女毛野を暗殺者として抜擢した。籠山縁連殺害は、毛野の望む所でもあり顧みる必要はないものの、此の段階では、毛野の討ち死にが確定していたといえる。作中事実として、元許嫁の小文吾らの助太刀がなければ、縁連殺害の可否は別として、逃走は不可能であったと容易に推測できる書きぶりだ。まぁそぉでもなければ折角に助太刀した他犬士らが無能な傍観者/デクノボーにならねばならぬのだが。
蟹目前は、縁連殺害を依頼したのだが、事実上、扇谷上杉家安泰のため美少女毛野に「死ね」と言ったに等しい。毛野の側からすれば、縁連の行動に就いて貴重な情報を与えられ仇討ちの足掛かりを得たものの、蟹目前の協力を得られなかったし望みもしなかった。仇討ちさえ完遂できれば死んでも良い、若しくは結果に拘わらず仇討ち行為に着手することが目的であったのだろう。
今度は対牛楼での馬加一家皆殺しとは、ワケが違う。馬加一家惨殺は、屋内で行われた。屋内の戦闘は、例えば典型を言うと、廊下に立ち塞がれば一度に一人二人しか相手にしなくて済む。天上や鴨居の高さに規制され長い得物も使えず遠隔攻撃が難しいし、飛び道具も制限される。襖や畳は防護壁ともなる。抑も奇襲を受けた守備側は軽武装のまま戦わなければならない。屋内は準備をした少数精鋭部隊に有利なのだ。対して開けた土地では、大部隊による包囲殲滅が可能で、数がものをいう。二眼二手では、一度に対戦できる数は限られている。さすが八犬伝は出来るだけ多勢を不利に陥らせるよう殺害現場を水田地帯に置いている。此ならば、畔を通るしかないから、大部隊の投入に時間が掛かる。とはいえ縁連は使者であるから、其れなりの武装をしており、屋外だから飛び道具も使える。実際には周囲を囲まれかけたわけだし、重武装の小文吾・荘介が現れなければ結末は目に見えていた。美少女剣士毛野を元許嫁の小文吾らが救う魅力的な大活劇になっているから見落とされている虞もあるが、蟹目前の腹案では、毛野は助かりようがなかったのである。毛野を救ったのは、馬琴の筆だ。
要するに、箙大刀自・蟹目前は一族を愛する点では評価に値するけれども、一族外の犠牲には無頓着なのだ。自分チさえ助かれば良いのだ。極めて現代的な感覚とも云えるし、八犬伝でも容認されている。伏姫だって、偶々自分たちが善人で悪人に限って敵に回るから目立たないだけで、自分チさえ良ければ構わないとの態度は同じだ。箙大刀自・蟹目前による犠牲者候補が、偶々読者の感情移入した犬士であるから、気になるだけの話なんである。より精確に云えば、蟹目前は一族を愛するが朝良に対し、南関東大戦後の優遇という隠微な形でしか母の愛を見せないが、一族に対する愛の形を見れば、他者への冷淡さは否めない。伏姫は犬士に対する擁護を与えるが、例えば、どうせ親兵衛を奪い去るのだから梶九郎を股裂き虐殺までする必要はない、いや殺す必要さえなかったにも拘わらず殊更な虐殺を伴う場合さえある擁護であり、かなり敵対者への憎悪を強く伴っている。箙大刀自に至っては、どうやら無実らしい犬士らを殺してまで、婿たちの武威が低下することを嫌った。三人の母は、他者の犠牲や敵対者の虐殺を伴っても、身内を擁護するアグレッシブ/攻撃的な愛情の持ち主である。負の平衡の温床だ。ファロス持つ母、男魂もつ母親たちだ。母である以上、産み出す者ではあるが、彼女らは共に、【産み出し且つ殺す者】の系列だ。怒り狂った伊弉冉が伊弉諾の子を日に千人殺すと誓い{改心前の}鬼子母神の如く振る舞うが、イメージとしては其れにも庶いスサマジサだ。但し乱世に於いては、此の雄々しいファロスもつ母が有用であり、それ故に、八犬伝では、十分な評価を得ている。しかし、希求さるべきイデア世界に於いては、更に高みの聖性が存在する。
五十子である。彼女も一族もしくは娘のことしか考えていない。しかし、一族外の犠牲も望んでいない。伏姫のように、甥が掠奪されたからといって敵兵を梟首になんかしない。ただ只管に、不幸な娘を心配するだけだ。ただ仁慈を与えるだけの存在である。四人のうち、五十子だけが、ファロスを持たぬ母、唯一、正の平衡を希求し得る【産み出す者】すなわち【聖母】である。相似形に、浜路や荘介の母などがいる。
簡単に云えば、箙大刀自・蟹目前・伏姫・五十子、四貴母のうち、五十子を除けば、【ファロスを持たない聖性を欠如している】。言い換えれば、五十子のみが【ファロスを持たぬ聖性を有する】。ファロスが飛び交う乱世の中心で、独り静かに佇んでいる。五十子は、目立たないが、正の平衡という仁慈の方向性を示している。奪い合い殺し合う乱世の地平ではなく、与え合い産み出していく、正の平衡である。世界の原理を逆転すべき者。五十子は、絶対的に貴い存在であり、存在自体が奇跡である。
多くの物語は、個人的な復讐を完遂してハッピーエンドとなるかもしれない。その方が解り易いし、読んでいても楽しい。水滸伝だって、七十回までで良いとする意見があって当然だ。しかし七十回本水滸伝を否定した馬琴の書いた八犬伝だ。解り難いが、血湧き肉躍る個人的復讐/負の平衡/ドタバタ活劇を突き抜けた地平まで書き及んでいる。魅力的な復讐譚も個人レベルに留まっていれば、平衡を取り戻す意味で、ハッピーエンドたり得る。
しかし戦争ともなると、話が違う。戦争は、第一次蟇田素藤征伐に始まり、南関東大戦まで続く。特に関東管領が催促した南関東大戦ともなると、個人的な恩讐を超えて、例えば稲戸津守由充まで管領側として参戦しなければならない。戦争ともなれば近臣に限らず、或いは不遇を託つ善人も出陣せねばならない。領民も臨時徴発される。仇討ちは、私刑ではあるが、近世までは認められていた。【刑罰】の一種である。しかし戦争は、領内の人々の生活を巻き込む、最大級の【政治イベント】だ。故に、仁を発動すべき局面でもある。戦場の混乱のうちにも、悪と非悪を峻別し、或いは殺し或いは甦らせ或いは生け捕って辱めねばならない。第一次蟇田素藤征伐完了までには、物語の中に仁気が漂い始めなければならない。船虫刑戮に於いては、犬士さえ過剰な残酷さを帯びていた。負の平衡、復讐心のみで南関東大戦を戦えば、忠であり孝であり智であるかもしれないが、個人的なカタルシスを追求するものに過ぎず、仁ではない。
簡単な話だ。それまで負の平衡を希求していた八犬伝世界の原理は、浜路復活により正の平衡を提示、伏姫が十一二歳の幼い姿に退行し敵への冷酷さを垣間見せ船虫刑戮で犬士らも残虐さを発揮するが直後の第一次五十子攻略で親兵衛と毛野を除く六犬士が仁慈のシャワーを浴び、親兵衛が再登場し仁の理が本格的に導入され始め、南関東大戦で里見家が仁戦を標榜し、最後の残虐さを洲崎沖海戦で露わにした毛野が直後に五十子を攻略して漸く犠牲の血を洗い流す。そして敵兵にも伏姫の秘薬が施される。此の段階では、里見軍は天の軍となっている。悪玉諸侯によって引き起こされた南関東大戦であるが、悪の度合いによって量刑され、一部の悪徳官吏を除いて死を免れる。道節が幾ら騒いだところで、扇谷上杉定正を殺せない。基準は里見家との関係ではなく、【天/公儀】との関係に移行していく。検察側冒頭陳述は、それまでの八犬伝記述に明らかだ。そして結局、里見家さえ、天の理に背き、滅び去る。里見家専属氏神の伏姫が、万人の母/観音菩薩へと昇華したためだ。
此処では細々と八犬伝で描写されてきた善悪は如何ようなものであったか、なる問いは意味を失っている。個人的な行為の関係性ではなく、ただ共に生きようとする願い、負の平衡を希求し殺し合う原理を棄て、正の平衡、ただ共に生きることを求める態度そのものが善である、此が八犬伝の結論だろう。里見家の氏神だった伏姫は成長し、観音菩薩となった。仁義礼智忠信孝悌は本来、人々が共に生きるための道具的手段であり当たり前のものだ。取り立てて言うべきものどもではない。しかし此等の当たり前の基準が無視され蔑視される乱世に於いて、社会の復元力として強調される場合が多い。このため、そうでない者たちを否定する基準として現れてしまい、何やら教訓じみてしまうし、小五月蠅く聞こえる。しかし当たり前に、共に生きるため、如何するか、が此の八字に込められている。八字を以て殺し合うは、八字の前提を否定するに外ならず、ナンセンスの極みだ。しかし……。共に生きることを求める正の平衡、其の連鎖は、いまだ稗史の中でしか、実現できていない。(お粗末様)