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■狗子仏性、無からんや■

 夏目漱石の夢十夜は、幻想的な小品で筆者も御気に入りである。今回は、第二夜の話から始めたい。
 侍が刻限までに「悟り」を得ようと煩悶する態を、本人の一人称で書いている。刻限までに悟らねば自刃、悟れば師僧を殺す覚悟である。悟った人間が殺人を犯すや否やは措いといて、まだ侍は悟っていないから、悟れぬ自分を愚弄する師僧を憎んでいる。自他の生命を懸け極限まで思い詰めた侍の感覚は、そのうち朦朧としてくる。自己と外界の境界までもが曖昧模糊としてくる。……と、其の時、刻限に至り、話は唐突に終わる。
 恐らく実は、此の【自他の境界が曖昧模糊となった】境地が「悟り」へ繋がる過程なのだが、侍が其れに気付くか、気付かないまま自刃するか、発狂して師僧を殺すか、読者は不気味な曖昧さの中に放り出される。
 夢十夜の他作品には怪奇風味のものもあるから、一種のホラーとして読めなくもないのだけれども、此の小品が、禅の基本公案集「無門関」の第一則「趙州狗子」を元にしていることは夙に指摘されている。如何ようなものか以下に紹介するが、単独では解りにくいので、従容庵録第十八則「趙州狗子」も併せ掲げる。いつものように一読書人として読んでいるから、お坊さんの訓みとは大きく違う。

     ◆
 第十八則趙州狗子
示衆云、水上葫蘆按著便転、日中宝石色無定形、不可以無心得、不可以有心知、没量大人語脈裏転却還有免得底麼挙。
僧問趙州、狗子還有仏性也無(■欄の木がテヘン/街趁塊)。州云、有(也不曽添)。僧云、既有為甚麼却撞入這箇皮袋(一款便招自領出頭)。州云、為他知而故犯(且莫招承不是道爾)。
又有僧問、狗子還有仏性也無(一母所生)。州曰、無(也不曽減)。僧云、一切衆生皆有仏性狗子為什麼却無(■敢のした心/狗趁鷂子)。州云、為伊有業識在(右具如前據款結案)。
師云、若道狗子仏性端的是有後来却道無、端的是無前来却道有、若道道有道無且是一期応機、拶著説出、各有道理、所以道、明眼漢没■穴カンムリに果/臼、這僧問処要広見聞不依本分、趙州道有以毒去毒以病医病、這僧又道既有為甚撞入這皮袋、不知自己生入狗腹中了也、州云、為他知而故犯、一槌両当快便難逢、這僧将謂依因判果、若恁麼会作座主奴也未得、後来有僧再問、便却道無、是他得底人道有也有出身処道無也有出身処、這僧依文按本道、一切衆生皆有仏性、狗子為什麼却無、似這一拶、敢道、撥天関底手転身無路、是他款款道、箇為伊有業識在、爾且道、這僧皮下還有血麼、天童不免向赤肉瘢上更著艾■火に焦/。
頌云、
狗子仏性有、狗子仏性無(打做一団錬做一塊)、直釣元求負命魚(這僧今日合死)、逐気尋香雲水客(穿却鼻孔也不知)、■口に曹/■口に曹/雑雑作分疏(競齧枯骨啀■口に柴/■口に寧/吠)、平展演(没■足に堯/欺休廝■言に来/)大鋪舒(材高語壮)、莫怪儂家不慎初(一言出口駟馬難追)、指点瑕疵還奪璧(白拈巧偸)秦王不識藺相如(當面蹉過)
師云、狗子仏性有狗子仏性無、両段不同一併拈出正如雪竇道一有多種二無両般。天童要与趙州相見、故如是頌、応天真道、直鉤釣獰龍曲鉤釣蝦蟆、後来逐気尋香如猟犬相似、■口に曹/雑分疏枯骨上有甚汁、趙州雖大開鋪席要且只是平展商量、天童与趙州解腕莫怪儂家不慎初、帰宗問秀才、業何経史、才云、会二十四家書体、宗向空中一点云、会麼、才云、不会、宗云、又道、会二十四家書体、永字八法也不識、刺史李渤問、三乗十二分教即不問、如何是祖師西来意、宗亦竪拳云、会麼、李云、不会、宗云、這箇措大拳頭也不識、万松道、翻身師子大家看、不唯狗子仏性道有道無、只這知而故犯、業識性在、也大■日に西/顧前盻後慎初護末、史記趙恵王得楚和氏璧、秦昭王以十五城易之、藺相如奉璧入、秦王喜伝示美人及左右、左右皆呼万歳、相如視王無割城之意、乃前曰、璧有瑕請示之、王授璧、相如因持起立倚柱髪上衝冠曰、趙王斎戒五日使臣奉璧送書於庭厳大国之威以修敬也、今見王礼節甚倨得璧伝示美人、似戯弄臣無割城意、故臣復取璧、必欲急臣臣頭与璧倶砕於柱矣、王辞謝按図割城亦斎五日、相如使従者衣褐懐璧径道帰趙、趙州先縦後奪有相如手段、天童別会有頌云、趙州道有趙州道無、狗子仏性天下分疏、面赤不如語直心真必定言麁、七百甲子老禅伯、驢糞逢人換眼珠、趙州心眞語直、便是直釣元求負命魚、周文王出猟、見姜子牙■石に番/渓之谷、去水三尺直鉤釣魚、王異之曰、直鉤如何得魚、子牙曰、但求負命之魚、驢糞逢人換眼珠、此如相如奪璧也、仏鑑拈出患子数珠云、諸人還見麼、良久云、此是老僧来京師換得底、諸人各自帰堂摸■テヘンに索/看、仏鑑用患子、趙州用驢糞、万松既無用処、不会移換、諸人若信得及、依旧眼在眉毛下。
{万松老人評唱天童覚和尚頌古従容庵録二}
 第十八則趙州狗子
衆に示して云う、水上の葫蘆、按著すれば便ち転ず。日中、宝石の色は定形無し。無心を以て得るべからず。有心を以て知るべからず。没量の大人、語脈の裏に転却し、還りて底を得るを免るゝことあるや。
僧、趙州に問う。狗子は還りて仏性有りや無しや(街に■欄の木がテヘン/りて塊に趁ぐ)。州云う、有り(曽て添えず)。僧云う、既に有り、甚麼に却りて這箇は皮袋に撞入せると為すや(一款にして便ち招から領より出頭す)。州云う、他は知りて、故に犯す(且く招承することなかれ是爾に道すにあらず)。
又、僧有りて問う。狗子は還りて仏性有りや無しや(一母の生む所)。州曰く、無し(曽て減ぜず)。僧云う、一切衆生皆仏性有り、狗子や什麼に却りて無きや(■敢のした心/狗は鷂子に趁ぐ)。州云う、伊{これ}業識在ること有るが為なり(右具に前の如く款結案に據る)。
師云う、若し狗子仏性端的に是有りと道し後来には却りて無しと道す。端的に是無しとし前来には却りて有りと道す。若し道すに、有りと道し無しと道せば且に是一期の機に応ずるとすべし。拶{せま}りて著き説き出す。各、道すの所以に道理有り。明眼の漢、■穴カンムリに果/臼に没す。這の僧の問う処、見聞を広げ本分に依らざることを要す。趙州の有りと道すは、毒を以て毒を去り、病を以て病を医することなり。這の僧、又、既に有りて為甚{いかで}か這れ皮袋に撞入せるやと道す。自己の生を知らず狗の腹中に入り了んぬ。州云う、他は知りて、故に犯すが為と。一槌にして両当たる快便には逢い難し。這の僧、将に因に依り果を判ぜんとす。若し恁麼{いんも}にして会せば、座を作り奴を主として未だ得ず。後来、僧有りて再び問う。便ち却りて無しと道す。是他、底を得る人、有りと道すや出身処有り、無しと道すや出身処有り。這の僧、文に依りて本道を按ず。一切衆生皆仏性有り。狗子、什麼でか却りて無しと為るや。這の一拶の似{ごと}し。敢えて道す。天関の底を撥く手。身を転ずるに路無し。是、他、款款たりて道す。箇、伊が業識に在ること有るが為とす。爾{なんじ}且{しばら}く道せ、這の僧の皮下に還りて血有りや。天童免れず、赤肉の瘢上に向かい、更に艾■火に焦/に著く。
頌に云う、
狗子に仏性有り。狗子に仏性無し(一団を打做し一塊を錬做す)直にして元命を負える魚を釣る(這の僧、今日死に合す)気を逐い香を尋ぬる雲水客(穿ちて却りて鼻孔や知らず)噪噪雑雑、分疏を作す(競いて枯骨を齧り枯骨啀し■口に柴/■口に寧/吠)平に展演し(没■足に堯/欺休廝■言に来/)大に鋪舒す(材高語壮)怪しむこと莫れ儂家の初に慎まざるを(一たび言は口を出ずれば駟馬も追い難し)瑕疵を指点し還りて璧を奪う(白拈の巧偸)秦王、藺相如を識らず(当面に蹉過す)
師云う、狗子に仏性有り、狗子に仏性無し、両段同じからず。一併拈出すれば正に竇道に雪ふるが如し、一有多種とすれば両般無くして二つなり。天童、趙州と相見ゆるを要す。故に是頌の如し。天真道に応じ、直鉤にて獰龍を釣り曲鉤にて蝦蟆を釣る。後に来たるものは、気を逐い香を尋ぬること猟犬に相似るが如し。噪雑にして分疏す。枯骨の上に甚汁あり。趙州、鋪席を大きく開くと雖も、且く只、是、平に展べて商量することを要す。天童と趙州は腕を解く。怪しむことなかれ、儂家の初を慎まざることを。帰宗、秀才に問う。何の経史を業するか。才云う。二十四家書体に会す。宗は空中に向かい一点して云う、会とは。才云う、不会なり。宗云う、又道せ、二十四家書体に会し、永字八法を識らずと。刺史李渤問う、三乗十二分教は即ち問わず、如何なるか是、祖師の西より来たる意は。宗亦拳を竪てて云う、会とは。李云う、不会なり。宗云う、這箇や措くこと大にして、拳頭を識らず。万松道す、身を翻す師子、大家看よ。唯、狗子の仏性、有りと道し無しと道すならず。只這、知るが故に犯し、業識の性在るなり。大■目に西/前を顧み後を盻し、初を慎み末を護る。
史記の趙恵王、楚の和氏璧を得て、秦の昭王、十五城を以て之に易う。藺相如、璧を奉りて入れば、秦王喜び美人及び左右に伝え示す。左右皆、万歳を呼ぶ。相如、王の割城の意無しと視る。乃ち前みて曰く、璧に瑕あり、之を示すを請う。王、璧を授く。相如因りて持ちて起立し、柱に倚り髪上り冠を衝きて曰く、趙王斎戒五日して臣をして璧を奉り書を庭に送らしめ、大国の威を厳しうするに敬を修むるを以てするなり。今見れば王の礼節甚だ倨りたり。璧を得て美人に伝え示すこと、臣を戯弄し割城の意なきに似る。故に臣、璧を復た取る。必ず臣を急がさんと欲せん。臣、頭と璧を倶に柱に砕かん。王、辞謝し割城を按じ図る。亦、五日斎す。相如、従者をして衣褐に璧を懐かせ道を径かせ趙に帰らしむ。趙州、先に縦し後に奪う。相如に手段あり。天童、別に会有りて頌に云う、趙州、有りと道し、趙州、無しと道す。狗子の仏性、天下分疏す。面の赤らむるは語直きに如かず。心の真は必定なれども言は麁し。七百甲子の老禅伯、驢糞をして逢う人の眼珠に換う。趙州の心にありし真の語は直たり。便ち是、直釣もて元、命を負う魚を求む、といわん。周の文王、猟に出て■石に番/渓の谷に姜子牙と見ゆ。水を去ること三尺、直鉤にて魚を釣る。王、之を異として曰く、直鉤にして如何に魚を得るか。子牙曰く、但、命を負える魚を求む。驢糞をもて人に逢い眼珠に換う。此れ相如が璧を奪うが如きなり。仏鑑、患子の数珠を拈出して云う、諸人、還りて見るや。良久云う、此に是、老僧、京師に来たり換りて底を得る。諸人、各自、堂に帰るに摸■テヘンに索/して看る。仏鑑、患子を用う。趙州、驢糞を用う。万松、既に用いる処無し。会せざれば移し換う。諸人、若し信して及ぶを得れば、旧に依り眼は眉毛の下に在り。
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   趙州狗子
趙州和尚因僧問、狗子還有仏性、也無。州云、無。
無門曰、参禅須透祖師関、妙悟要窮心路絶、祖関不透、心路不絶、尽是依草附木精霊。且道、如何是祖師関。只者一箇無字。乃宗門一関也。遂目之曰禅宗無門関。透得過者。非但親見趙州。便可与歴代祖師。把手共行。眉毛廝結。同一眼見。同一耳聞。豈不慶快。莫有要透関底。麼将三百六十骨節八万四千毫竅。通身起箇疑団。参箇無字。昼夜提撕。莫作虚無会。莫作有無会。如呑了箇熱鉄丸。相似吐又吐不出。蕩尽従前悪知悪覚。久久純熟。自然内外打成。一片如唖子得夢。只許自知。驀然打発。驚天動地。如奪得関将軍大刀入手。逢仏殺仏。逢祖殺祖。於生死岸頭得大自在。向六道四生中。遊戯三昧。且作麼生提撕。尽平生気力。挙箇無字。若不間断好。似法燭一点便著。
頌曰、
狗子仏性 全提正令 纔渉有無 喪身失命
{無門関第一則}
   趙州狗子
趙州和尚、因みに僧に問わる、狗子は還りて仏性有りや無しや。州云う、無からんや。
無門曰く、参禅すれば須く祖師の関を透るべし、妙悟は窮心路絶を要す、祖関の透さざれば、心路絶せず、尽く是、草に依り木に附く精霊たり。且く道せ、如何、是、祖師の関。只、者{これ}一箇の無字。乃ち宗門の一関なり。遂に之を目して禅宗無門関とす。透りて過ぐるを得れば、但{ただ}趙州と親しく見ゆるのみならず、便ち歴代始祖と手を把し眉毛を廝結し、同一眼にて見、同一なる耳にて聞くべし。豈、慶快ならざらんや。関を透る底を要すること有ること莫しか。三百六十の骨節と八万四千の毫竅もて身を通じて箇の疑団を起こし、箇の無字に参ぜよ。昼夜、撕を提せよ。虚無の会を作すこと莫れ。有無の会を作すこと莫れ。箇の熱鉄丸を呑了するが如く、吐きて又吐きて出でざるに相似て、従前の悪知悪覚を蕩尽せよ。久久に純熟し自然の内外に打ち成せ。一片、唖子の夢を得るが如く、只、自ら知るを許す。驀然として打発せば、驚天動地せん。関将軍の大刀を奪い得て手に入るゝが如し。仏に逢えば仏を殺し、祖に逢えば祖を殺す。生死の岸頭に於いて大自在を得て、六道四生の中に向かい遊戯三昧たり。且く作麼生、撕を提ぜん。平生の気力を尽くし箇の無字を挙せよ。若し間断せざれば好し。法燭一点すれば、便ち著くが似{ごと}し。
頌に曰く、
狗子の仏性、正令を全く提す。纔に有無に渉れば、身を喪い命を失う。
     ◆

 通常、「無門関」に於ける趙州和尚の答え「無」は「無{む}」と訓む場合が多いけれども、筆者には下心があって「無からんや」と訓んでいる。「従容庵録」の「無」は、意味からして仏教で謂う所の「無{む}」ではないようなので、「無し」と読んだ。
 さて、無門関の「趙州狗子」は、第一則であるから、禅問答の基礎を語っているようだ。繁く人口に膾炙する「逢仏殺仏。逢祖殺祖。於生死岸頭得大自在。向六道四生中。遊戯三昧」、就中、「仏に逢えば仏を殺し、祖{師}に逢えば祖{師}を殺す」は別に、殺人鬼と化すことを勧めているわけではない{……と思う}。【我】が爆発寸前になるまで思考を突き詰める謂いである。仏に逢えば殺人的圧力で疑問をぶつけ、祖師に逢えば裂帛の気合いを以て自論を投げつける。「思考」と謂っても、脳裏で論理を滑らすのではなく、末肢の細胞まで全感覚を総動員し自己の存在を懸けて突き詰めるものだ。夢十夜の侍は、此の境地で煩悶している。「生死の岸頭に於いて大自在を得」るとは、【我】の消去であろう。侍は、まさに此の境地に到ろうとしている。
 「無門関」でも「従容庵録」でも、「趙州狗子」は犬に「仏性」があるかが問題となっている。「無門関」では解りにくいが、「従容庵録」では明確に、同じ質問に対して同一人が対を為す答えを述べている。狗子の仏性は【有ると答えるべきであり、また或る場合には無いと答えるべきもの】だと解る。端的に言えば、質問者の意図によって答えが変わるのだ。
 種明かしは、単純明瞭である。「有」と「無」の内包が、完全に背反となっていないだけの話だ。現代日常の言い回しでも「有るといえば有るし、無いといえば無い」は可能である。たとえば、実用上、或る資源は一キログラムあって初めて一単位として有用になる場合、一キロ未満では用をなさないから、「無い」ともいえるけれども、存在はしているのであるから「有る」ともいえる。そして、前近代には物理学が粗雑であったし精密な測定機器もなかったから、差し当たって【目に見えない物質は存在していない】と考えられがちであった{勿論、目に見えなくとも怨霊やら神やらは存在していたし、其等は時として顕現していた……らしい}。乳からヨーグルトが出来るからといって、乳とヨーグルトは別物であるし、乳の中にヨーグルトそのものが隠れているのでもない。乳に必要な物質を加え、且つ特定の状態に置くことで初めて、乳はヨーグルトになる。乳の中にヨーグルトそのものは含まれていないが、ヨーグルトを作るためには乳が必要であり、乳にはヨーグルトに変化すべきものが潜んでいる。乳は、特殊な条件があって初めて、ヨーグルトになる。
 「仏性」には複数の意味がある。要素面からいえば、仏性の元となるモノ{正因}、己の仏性に気付く理知もしくは其の結果たる仏性{了因}、発露するための善行{縁因}だ。また成熟度の面からいえば、仏になる可能性を秘めたレベル{自性}、そして学習や修行で目覚めたレベル{引出}、最後に仏陀として完成したレベル{至得}がある。また、禅僧なんてもなぁ「仏に逢えば仏を殺し、祖に逢えば祖を殺す」といぅ物騒な代物だから、仲々に油断がならない。「無門関」に登場する質問者も「従容庵録」の其れも、純真無垢な心で純朴に質問しているわけではない。相手の言葉尻を掴み屁理屈を捏ね回してでも罵倒しようとしている……わけでもなかろうが、一筋縄の回答で満足するタマではないのだ。ゴータマさんの最期に亘る晩年記録集「涅槃経」に「一切衆生悉有仏性」とのテーゼが明記されているのだから、狗子だろうが何だろうが、衆生/人鳥獣は仏性の元{/仏種}を有する。此の意味では、「無し」との回答はあり得ない。しかし、少なくともゴータマさんと同等の【完成した仏性】は恐らく、狗子に無い。此の意味では「有り」との回答は、あり得ない。ちなみに、「無し」ではなく「無{む}」と答えた場合、「無」には有を生ずる根源状態としての意味もあるから、無難な回答となる。故に「無門関」に於ける場合、日本語で「無からんや/有るようでもあり無いようでもある」と訓じ、以て曖昧さを残す手法もある。但し、従容庵録に於ける場合には、無門関に於ける両義的な「無」を、「有」「無」の二字に分割表現しているから、明確に「有り」「無し」と訓ずるべきだろう。
 結局、無門関も従容庵録も、狗子なる一個の生物を複数の側面から見れば相貌を変えること、「無」の一字に深意のあることなどを語っている。無門関が第一則に趙州狗子を掲げる意味は恐らく、読者に融通無碍の柔軟な思考を勧めるためだろう。

 漱石の「夢十夜」第二夜で、主人公の侍は、仏に逢えば仏を……いや、己をも殺すほど差し迫った状態に追い込まれ、自己と外界の境目さえ朦朧となっていく。まさに無門関の趙州狗子が勧める境地に至らんとしている。漱石が無門関を参考にしたことは多分、間違いない。
 漱石は、【無であって無ではない】状態があることを知る者である。惟えば、彼の小説は己の内的経験を記した、事実であって事実ではない、フィクションであろう。此の事情は端的に、愛媛県松山市の俳誌に寄せたデビュー作「吾輩は猫である」で示されている。即ち、主人公/苦沙弥先生は漱石の投影であるが、苦沙弥とは当然……フィィィックションッ、あぁ風邪ひいたかな、苦沙弥は勿論、自分であって自分でない、【フィクションに於ける自分】ほどの含意であろう。己の裡にある人間観・世界観を以てフィクション世界を構築する。小説を書くに当たって、基本的な所作である。

 さて、問題は馬琴である。篠斎との評答集に於いて馬琴は、次の如く語っている。

     ◆
答て云古の翁ハいとゝ仏きらひ那る故にかゝる傍若無人那る
過当の評さへいて来しなむ作者也とて仏を好ミて佞
媚て冥福を求るともからにハあらねとその好不好とは
志ハらく閣{ママ}て稗史にハ亦この物なくハあるへからす佐連婆とて
この分説ハ翁の評せられしこと幾犬江に仏性ありといふ義にハ
あらす拙劣なから此詩歌ハ作者の自作にて深意なきに
志もあらすかしいかにとなれ婆狗児仏性ハ禅録に見えたり
伝に曰或問趙州和尚曰狗児有仏性乎曰無この
無の一字に至妙の理あり犬江ハ佐ら也自余の七犬士も都て
古の無字に似たり因て狗児仏性趙州曽知相接犬
牙先独突然といへる也古の八言二句の心はへハ或問作者著作
堂曰八犬伝所載如犬江者可有之乎曰無かくの如く見
れハ狗児仏性趙州和尚ハ仮語にて犬士の有無を解くる
借用志たるを知るに足らん歟抑古の無字に無はかりの深意ある
やといふに古の無字ハ無念の無と同してナシとよめハなしナカラ
ンヤとよめハある也世に親兵衛か如きハ佐ら也凡八犬士のこと/\うち
揃ふたる英雄ハなきにもあらすあるにもあらす看官その有無を
度外に閣きて古に出来つ也なほ詳に余情を以はゝ次句
の犬牙云々の犬か即親兵衛也かゝれハ親兵衛に抹香臭き意
味ハ毫もなし又中帙の扉ハ木魚の古物を見たれハ写させ置
けるを用ひしのミにて狗児ハあしらひなから狗児仏性の義にも
なれり木魚の色さし朱と墨にて摩り尤たる処原本ハ写真
なるに板元のあつらへ歟画工の思ひたかへる歟あらぬ色さしに志たれハ
古物の真面目を失ひにきかの扉なといふものハ文外の思ひつきにて
毎輯毎年の事なれハ作者毎に古まるものなから深意なとある
ともあらす然しも翁の英才もて思ひ古ゝらに及れすハ黙
志て已なん仏をいとゝ憎むのあまり歟傍若無人過当の
批評ハ玉に疵あるこゝちていハさる事を得さる也
{答て云く、この翁はいとど仏嫌いなる故に、かゝる傍若無人なる過当の評さへ出で来しなむ。作者なりとて仏を好みて佞媚て冥福を求むる輩にはあらねど、その好不好とは暫く擱きて、稗史には亦この物なくばあるべからず。さればとて、この分説は翁の評せられしごとき、犬江に仏性ありといふ義にハあらず。拙劣ながら此の詩歌は、作者の自作にて深意なきにしもあらずかし。いかにとなれば、狗児仏性は禅録に見えたり。伝に曰く、或るもの趙州和尚に問いて曰く、狗児に仏性有るや、曰く無。この無の一字に至妙の理あり。犬江は更なり自余の七犬士も都て此の無字に似たり。因て狗児仏性趙州曽知相接犬牙先独突然といへるなり。この八言二句の心映えは、或るひと作者著作堂に問いて曰く、八犬伝に載せしところ犬江の如きは之あるべきか、曰く無。かくの如く見れば、狗児仏性趙州和尚は仮語にて、犬士の有無を解くる借用したるを知るに足らんか。抑も、この無字に無ばかりの深意あるやといふに、この無字は無念の無と同じて、ナシとよめばなし、ナカランヤとよめばあるなり。世に親兵衛が如きは更なり、凡そ八犬士のことごと打ち揃うたる英雄は、なきにもあらす、あるにもあらす、看官その有無を度外に擱きて、ここに出で来つなり。なお詳らかに余情を云はば、次句の犬牙云々の犬が即ち親兵衛なり。かゝれば親兵衛に抹香臭き意味は毫もなし。又中帙の扉は、木魚の古物を見たれば写させ置けるを用いしのみにて、狗児はあしらひながら、狗児仏性の義にもなれり。木魚の色差し朱と墨にて摩り尤たる処、原本は写真なるに、板元のあつらえか歟画工の思いたかへるか、あらぬ色差しにしたれば古物の真面目を失いにき。かの扉などいうものは、文外の思いつきにて毎輯毎年の事なれば、作者毎に困るものながら、深意などあるともあらず。然しも翁の英才もて思い此処らに及れずば、黙して已なん。仏をいとど憎むのあまりか、傍若無人過当の批評は玉に疵ある心地て、云わざる事を得ざるなり/八犬伝篠斎評九輯上帙}
     ◆

 第九十六回末尾にある「狗児仏性趙州曾識、相接犬牙先独突然」を廻る評答だ。
 要するに表層のレベルに於いて「狗児仏性……」は、里見家に視点を置いた謎掛けになっている。此の時点まで読者は、親兵衛以外の七犬士が活躍する様を見てきたわけだが、里見家にとっては、まだ見ぬ段階だ。まだ「無い」。しかし、七犬士は確かに作中、存在している。既に「有る」。「無い」と「有る」を混ぜ合わせた状態が、「狗児仏性」に就いて「趙州曾識」る所であった。よって、「狗児仏性趙州曾識」の八字は、八犬伝の里見家にとって親兵衛以外の七犬士が「有りて無き」状態を示す。「相接犬牙先独突然」は、読者にとって「無い」状態、ましてや里見家にとっては幼くして生死不明となった報告しかない親兵衛が、予期せず突如として登場する予言である。即ち絶対神馬琴の、預言である。

 更に云えば、馬琴は同じ評答に於いて、創作/フィクションに就いての態度にまで言葉を及ぼしている。「世に親兵衛が如きは更なり、凡そ八犬士のことごと打ち揃うたる英雄は、なきにもあらす、あるにもあらす」。親兵衛に代表される犬士を馬琴は、実在しそうであり実在しなさそうである人物として描いた。世に「有りて無き」者どもだ。
 馬琴が自ら強調しているように、俗流仏教を妄信し念仏だか御題目だかのみで浄土に至ったり利益を得たりするとは考えていまい{説法としては省略するだろうが、人として殺生なり何なりの悪業を重ねねばならぬゆえ良心的出家者と同様の生活実践が出来ないまでも心の底で仏教の掲げる理念に惹かれることが悪人正機の必要条件であるべきであり、そうでなければ端的に「殺せ、祈れ、救われる」とのみ言えば済む}。また、馬琴は「無」一字を通じて趙州狗児/禅から論理組み立てを引いたと思しい。よって、「仏性」は仏教/涅槃経に登場する語彙としての内包ではないものの、馬琴にとって何等かの理想を込めた言葉であることが諒解せられよう。
 仏教/涅槃経では、仏性を目覚めさせるものが【八正道】である。所謂、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定だ。仏性を別の理想に置換した馬琴であるから勿論、八正道も別の理念に置き換えている。即ち、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌である{尤も八正道自体は仁義智信の総体と重なりそうだ。抑も仏教は恩愛からの離脱を説くから忠孝悌は不要だ。馬琴当時の生活実践としては礼忠孝悌も要請されたってこととも言える}。
 上に掲げた評答から、八犬伝に於ける「仏性」は、【英雄になる資質/可能性】とでも言い換えられそうだ。
 一切衆生悉有仏性。人は皆、犬士や伏姫の如き英雄になり得る資質を有している。しかし其れは、発菩提心、自らの良心に目覚めることをスタート地点とし、努めて自強し仁義八行を積み重ねることで、英雄に近付いていく。但し、巡り合わせもある。河鯉守如や巨田道灌らのように、英雄となる資質/仏性を有し自ら努めても、暗愚の主君に仕えていれば、英雄に数えられはするけれども、悲劇に結果する。
 いや抑も、英雄であるから幸せな晩年を送るわけでもない。善行を積み自強し続けても、悲劇に終わる者は後を絶たない。元々、徳は孤なのだ。だからこそ孔子も、わざわざ「徳は孤ならず、必ず隣あり」との空虚な慰めで弟子を鼓舞せねばならなかったのだろう。徳は孤なのだ。
 しかし、孤であっても徳は捨てるべきではない。河鯉守如だって、徳を捨て、籠山縁連らに与すれば、少なくとも、あの時点で自刃しなくても済んだ。巨田助友も、扇谷上杉家中で孤立せずに済んだ。徳は孤ならず、なんてのは、八犬伝に描かれる里見家のような理想的集団内でのみあり得る珍現象なんである。現実には、ほぼ、起こりえない椿事だ。
 ……そんなことは解っている。しかし、政治的には現在より遙かに地方ごとの社会であった前近代に於いても、仏教や儒教は東アジアもしくは日本国内で現在より遙かに強く共有されていたわけだし、江戸期にはPublic/公儀なる概念も存立し得た。価値観を博く共有できる時代であった。英雄/善者の定義も共有できた筈だ。犬士たちの英雄性に憧れる心性こそ、正因もしくは自性の仏性である。狗子にもあるレベルの仏性だ。そして己の仏性に目覚め、仏/英雄たらんと思うことこそ、【発菩提心】に外ならない。如是畜生発菩提心、此の瞬間、虐げられた生/LifeLikeADogは、社会に共有せる善を発露する。現実に虐げられていた理想が、矛盾を蓄積して極限に至れば、鹿威しの如く一瞬だけ逆転し、現実を変える。其れを革命とも謂い、或いは、変動とも呼ぶ。

 実のところ、犬士のような英雄/善者は、現実世界にいるものではない。無である。しかし、【善】を社会で個々人が共有しているならば、善者/英雄/犬士は出現し得る、と想定可能だ。一切衆生悉有仏、善の芽は誰もが有っている。善者は、無からんや/有りて無し。結局は、有である。「無からんや/有りて無し」、此れは、勧懲を宗とする稗史、即ちジュブネイルとしてのフィクションの立ち位置を示している。即ち、馬琴の信念を示す言葉だと記憶したい。{お粗末様}

・・・蛇足・・・

     ◆
【二十七オ】
歟そはともあれかくもあれ加しことこゝとハ右にいへる弁する
ところ異なれは高下をいふへき事にはあらす
○狐龍弁天のいきほひすさましく句々目撃する如く
戦栗セらるゝはけしさ妙也両人湿吹気をうけさるも
精細例の用心あるかな政木か孝嗣に別を告親兵衛
に丁寧托し今ハ時来ぬ名残をしやと此ところ九尾
の白狐になり去るにても尋常おもしろきを狐龍ハ何なん
意外の新奇かへす/\もおもしろし扨こゝにいさゝか一ふ
しんにあかすおもふ事あり老狐功を積み徳をかさ子ね
白龍と化るは賀すへきなから三年にして命終るとか是
【二十七ウ】
すなはち本文の奇事記の言をおそはれて又夷■サンズイに旡ふたつ鬲/郡
雑色村に石降云々ハ彼村に蟠龍石なとの有るあらん
そをおもひよセられて黄石公のおもかけをも取ましへつゝ
書連しなるへくかれこれの撮合もちろん妙にていかにも
おもしろきハ面白けれともかの驪山下の一白狐ハ人を驚撓
すの悪狐なるに天誅を遁るゝのミならす龍とだいりて
三年まて猶飛騰を自在にセしハ僥倖のいたりといひ
つへし政木老狐ハ功徳の善狐龍と作りて天地とともに
猶寿を長くするにこそ三年にちゝむるほとならハ九尾
霊狐のまゝにして日月宮に往来し長く神獣にて
【頭註朱筆:四行目】
物始あれハ必
終あり高成
子も残し彭
祖浦嶋子も
死セりこの狐
龍三年か十
三年か化石と
なるか作者の
趣向也則ち
死而{シテ}不亡是
【二十八オ】
あるこそよから免龍にて死セんハ俗にいふありかた過て
めいわくならんか但し長寿の霊物もおのつからに又数あ
るへく加の仙伝の奇編なとにさるさまの事無きにもあらす
かつ狐と龍とにハその位する所品級あらんかされは朝に道を
聞きゆうへにハの君子にハ其見いかゝ志ら子とも小人おのれハ
政木のためすこふるきのとくにおもふ也翁の見のことならん
ハもちろんの事にハあれと小人婦幼も玩味する勧懲を
む子と書るゝなるに善果悪報そろはんの合さる事の
あるへきならすよりておもふに政木霊狐こゝに世縁つき
て龍と化し又三年後の成る果をも示して永訣する
【頭註朱筆:一行目】
謂神のこと也
結局を見て
再評有へし
     ◆

 篠斎は、善玉/政木狐が河鯉孝嗣/政木大全を救って三年後に石化することを惜しんでいる。龍になって短命に終わるぐらいなら、狐のままで長らえた方が良い、龍になること自体「ありがた迷惑」だと断じている。また、善を積んだ結果が「短命」では勧懲に悖る、とまで言い募る。馬琴の答えは、「長命を保った彭祖も浦嶋子も何時しか死んでしまう。寿命は有限である。政木狐が化した龍も三年か十三年かして石になるのが趣向である。死して亡びず、是は、いわゆる神のことだ。結局を見て、あらためて評価してほしい」。
 現代日本語でも、スピリットの事を「精神」と表記する。もともと「神」とはスピリチュアルなものであって、実体のないものだ。天変地異を含む自然現象一般の【原理】/物理法則さえ、「神」で片付けていた。即ち「神」とは超常のモノ、人智を超えたモノさえも指していた。
 馬琴は、実体が亡び滅びても、実体を動かしていた意思なり何なり実体のない要素が残れば、其れは「神」だと云う。こう書くと馬琴の所謂「神」はニュートラルな存在のように思えるが、八犬伝には「怨霊」も登場するので、どちらかと言えば、「神」は善側なのだろう。ってぇか、現代人ならニュートラルと考える自然現象を「どちらかといえば善」と捉えていた疑いもある。だからこそ、多くの人を犠牲にする天変地異さえ、例えば為政者の悪を糾弾する【神の意志】と感じたのだろう。八犬伝でも、蛇九郎……ならぬ暴風舵九郎は伏姫の操る雷に肉体を裂かれ、素藤の奸計に討たれた里見家中は伏姫の操る強風で安房まで送られた。善人と思えた者が天変地異で被害を受ければ、窺い知れぬ【前世の因縁】が原因とされたりした。人智を超えたレベルの【善悪判断】に依り、自然現象は、天災だったり僥倖だったりするのだ。現代人には、それこそ荒唐無稽のフィクションに感じられるのだが、さりとて現在でも、或る程度の自然現象は物理科学法則で説明したりしているものの、いまだ自然は窺い知れぬ部分を有するし、人間関係なんぞの範疇では、いまだに迷信レベルの衆愚政治/詐欺フィクションで右往左往しているのだから、さほど偉そうに出来るものではない。抑も地動説だって当時の世界を其れなりに説明し絶対的な地位を得ていたのだから、今後も再びコペルニクスが現れぬとも限らない。現時点の科学とやらは当然、「現時点の科学」に過ぎない。諸行は無常であるとの地平こそ、人文をも含む「科学」の基礎であるだろう。則ち、人間の構築する科学なんぞといぅものは所詮【人間にとっての科学】を超えられないし、恐らく超えるべきでもない。肉体に執着するからこそ人間であり、執着を捨てれば、肉体を放棄すれば、それこそ「死而不亡是謂神のこと也」、神か怨霊になるしかない。「そんなの厭だ、生きていたい」と素直に叫ぶ者こそ篠斎であり、思念レベルでは涅槃の境地/自然と完全一体化した状態を夢想できる者こそ馬琴である。馬琴は時として、生命を基盤とした合理主義者である篠斎を理屈屋として非難するが、実のところ恐らく、生命を基盤とした解り易い「合理主義」/現実主義から理を以て遊離しようとする馬琴の方が「理屈屋」だろう。
 また、「死而不亡是謂神のこと也」からすれば、個人の肉体が活動を停止もしくは消滅しても何かが残る……こともあるらしい。通常は、人間個体の識別は、肉体による。特定の肉体を、特定の人格を持つ個人だと、一般には認識していよう。此の意味で、特定の肉体こそ特定の個人である。しかし、肉体が活動停止もしくは消失しても何かが残るとしたら、当該個人は消滅したのか、していないのか。肉体のみが個人なのか、それとも目に見えないスピリチュアルなモノをも個人と呼ぶべきか。肉体は目に見えるし、愛撫もでき抱きしめることさえできる。「有」と表現せざるを得ない。しかし、いつか肉体は、活動を停止する。活動を停止しても、肉体は存在する。体温を失い大気と同じ温度となっても、まだ肉体は存在し得る。生命を失っても、肉体は存続し得るのだ。が、肉体そのもののみを「個人」と認識していたのか、それとも、微笑めば微笑み返し、触れれば体温を伝え返すことを以て、「個人」と認識していたのか。
 多分、肉体も生命も「個人」なのだ。両者が併存しているうちは、「どちらが個人か」なんぞと疑問を抱かずに済む。しかし、肉体に生命を感じなくなった瞬間、戸惑ってしまう。
 人は通常、生命と共にある肉体を個人と認識しているわけだが、肉体が個人なのか、生命が個人なのか、と考え始めると容易には回答に辿り着けなくなる。遺骸を保存し、場合によっては信仰の対象にしてきた点に注目すれば、生命の抜け出た物質としての肉体も、十分に「個人」の資格がある。逆に生命そのものは、肉体と共になければ、存在していることを認知されにくい。いや、そもそも生命とは、肉体という極めて特殊な組成に特有の反応系を指す言葉とも思える。「肉体」で起こる各種現象の結果が「生命」であるとすれば、「生命そのもの」は、肉体なくして存在し得ない。
 とはいえ八犬伝では、「神」がいまし「悪霊」がいる。肉体と共にあれば肉体を支配的に操り得る霊的なものが、肉体とは独立に存在する世界だ。其れを生命と呼び、生命と共にある肉体を個人と認識しているならば、「生命」こそ個人の本体であると考えても良い。こうした世界では、肉体の滅亡後も生命は、輪廻したり地獄に堕ちたり極楽に迎え取られたりする。生命は肉体よりも長く存続する。よって、こうした世界では、生命は肉体を離れても何処かにある。ウジャウジャあってウロウロしている、と考えるも可だ。場合によっては、古びた器物さえ生命を有するに至る。しかし、其処等辺に生命がウロウロしていても、一般に人は認知しない。偶に幽霊とか何とか可視の姿をとれば、「あ、いた」と認知するけれども、そうでなければ、「無」である。それが何かの拍子に肉体を得て、「有」となる。特定の生命は、状態により「無」とされ「有」とされる。即ち八犬伝のような世界では、生命は「無」であり「有」である。「死而不亡是謂神のこと也」との認識は、生命/精神の在り方、即ち馬琴の世界観をも語っているようだ。精神/生命も「有りて無し」、仏性も「有りて無し」。仏性の正体は、生命そのものかもしれない。
 「死而不亡是謂神のこと也」を、狐のみならず人間にも適用できる生物から神への変換モデルとするならば、伏姫・ヽ大・犬士も同日に論ずることが可能となろう。伏姫は富山の女神となった。ヽ大は尸解した。犬士は仙化した。神道・仏教・道教と纏う色彩は違うけれども、実は一括りに広義の【神格化】と謂ってよかろう。八犬伝は、仏教だけでも神道だけでも道教だけでも儒教だけでも民俗だけでも、割り切れない。ひと皆おなじであるが、それぞれの分野の専門家でもない限り、流通する複数の原理を併せ持つ。人みな複合体なんだが、特に馬琴は、巨大な思想コングロマリットである。
{お粗末様}

・・・蛇足二・・・

 仏教ついでに結城大法会に関して、自説の補強を試みたい。

      ◆
【九十一オ】
ろあるき此おもふき面白し○小乗屋の屋号何
ならん何かこゝろの有へきやう思はるれとも思ひ得す仏法に
大乗と小乗といかいふ名目あるよしされともそれか此所にゆゑ
有へくもおもはれす志かしなから猶意ひてそれを牽つけて
いひも見は施行の事こゝにての商議にてなすなれは
さる事ハ仏教中にハ加の小乗とかいふらんかたによれる
の事にあるなとにてそれより出たる名にてもある歟加く
意ひ見てもそのかたハ猶いうにも物遠し此編にかきらす
諸編すへて研中に生り出る人々の作名ハ筆下一時乃
即興におもひの外の物をおもひよセられていはゆる秘事ハ
【頭註朱筆:二行目】
念仏供養ハ
則小乗の義
也大乗ハ即
念もなく仏
もなし
施行ハ弥
小乗中の小
乗のものにて
有漏の縁也
古の家号この
意をもて名
つけたり
     ◆

 結城法会に先立って犬士らが宿泊した旅籠の屋号が「小乗屋」である所以を尋ねられ、馬琴は答えた。「念仏供養は則ち小乗の義なり。大乗は即ち念もなく仏もなし。施行は、いよいよ小乗中の小乗のものにて、有漏の縁なり。この家号、この意をもて名づけたり」。

 「念仏供養は、自分が極楽浄土へ迎えられるため行うものであって、小乗の行為である。一切衆生が救済されるよう願う大乗には本来、念も仏もない。施行は、その功徳で自分が救済されるよう願うものであり小乗の最たるモノである。与える者も与えられる者も、煩悩を消去していないからこそ行うモノだ。故に、結城法会・施行に当たって宿泊する旅籠の屋号を小乗屋とした」。
 抑も「小乗」とは大乗仏教側から謂う蔑称である。現在でこそ前近代に「小乗」と呼ばれたいた宗派を上座部とか何とか呼ぶが、日本仏教では古くから一般に大乗を大義名分とし、小乗は劣った教えと考えられていた。また、馬琴は念仏さえ小乗だと手厳しく決め付けるが、確かに其ぉなんだが、念仏を広めることは大乗だとも謂えるから複雑なんだけれども、馬琴が「小乗」に否定的ニュアンスを籠めているとなれば、結城法会を如何に理解すべきかが問題となろう。馬琴は、ヽ大畢生の仏事を、犬士が初めて勢揃いする機会を、否定し去り貶め尽くそうとしているのか? ……余りに変態的な理解であろう。素直に考えれば、結城法会が小乗レベルだとしても、犬士らは、より高い次元、大乗へ至ると考えた方が良い。結城法会は、途中地点に過ぎないのだ。まだしも敵身方を峻別し、身内の成仏のみを願う結城法会は、まだ小乗レベルに留まるものだ。また、結城法会に先立って、犬江親兵衛が一度は蟇田素藤を討伐したものの過度な仁気により再叛を招いた。決して更生せぬ敵悪玉への無意味な愛は否定され、そして身内のみの平安を願う態度も「小乗」/不十分だと断じられる。ならば、両者の至らぬ部分を克服した地平へこそ、犬士は向かわねばならない。仏教は古来、総てを許し何でも甘やかす宗教ではない。穏やかそうな如来も、悪しき心に対しては明王へと変貌する。勿論、明王は相手が憎いのではない。あくまで比喩の話だが、ただ屠殺しか救済の手段がない場合にのみ、死を以て遇する。第一次素藤乱の処置が不十分であることは、再叛から明らかだ。素藤は罪を重ねてしまったから、救済が一旦遠くなる。親兵衛の罪とも言える。
 実際面から云えば、素藤は道具に過ぎず黒幕は浜路姫掠奪を唆した妙椿が悪の本体である。妙椿が「発菩提心」即ち成仏の縁を得て救済されることが八犬伝の目的であるから、素藤本人も救済されている。遅くとも、敵の魂さえ救おうとする洲崎沖大法会に紛れて成仏したと思しい。洲崎沖大法会こそ、小乗レベルの結城大法会を受けて八犬伝の到達点を示す大乗の祭典なのだ。

 筆者は既に八犬伝本文のみから、以下の如く断じた。「犬士らが落ち着く先は、旅籠『小乗屋』であった。結城大法会は、里見家のことさえ考えていれば良い【小乗】段階の頂点に位置する。故に祭祀の対象は、里見季基等あくまで結城側に限られる。八犬伝は此処までに、個人的な怨恨を晴らすべく動いてきた。毛野は父一家の怨みを思うさま晴らし、道節は満足できていないようだが一応は扇谷上杉定正の兜を射落とし溜飲を下げた。信乃に至っては、理不尽な怨みを定正に向け、無理遣りに五十子城を陥落させ、早くも単純な復讐の限界を指摘している。大角・小文吾・荘介・現八に敵対した船虫は、牛角に劈かれて刑戮された。個人的事情を清算した七犬士は結城大法会に列して、里見側の冤鬼を慰撫する。里見および犬士側の怨みは晴れ、ステージの次元が上がる。自らのみを覚醒させるべき【小乗】のステージから、敵さえも覚醒させるべき【大乗】の次元へと進むことになる。味方のみ慰撫する結城大法会から、敵さえも懐に抱き締めようとする洲崎沖大法会への昇華が、八犬伝後半のテーマである」{「小乗から大乗へ」}。
 此の論理は、今回引いた馬琴評答により補強されたと考える。{お粗末様}
   
   
   

  

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