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■龍種の牛馬■

 馬琴は天保七年五月朔日付畳翠君評答に於いて、青海波と須本太牛が「対応」していると明かした。両者は共に八犬伝本文で、「龍種」に擬せられている{第百六回・七十三回}。抑も八犬伝に於いては、「龍の性は淫にして交ざる所なし。牛と交れは麒麟を生み、豕に合へば象を生み、馬と交れば龍馬を生む」{第一回}とされている。龍が牛や馬と交合し子を成すは可であり、場合によっては犬さえ孕せるかもしれない。
 但し、青海波・須本太牛と龍の関係は、推測に留まり、断定されていない。元より八犬伝は冒頭部分で龍の実在を明示した。ただ、登場する者と龍との関係を、確実には明示しない。此の【距離感】も、馬琴の隠微なところだ。

 青海波は、如何な馬であったろうか。其れは即ち【杣木朴平の出身地・青海巷産の悍馬であったが独り親兵衛にのみ懐き南関東大戦時、活間野 目奴九郎にオメオメ盗み出されたけれども御蔭で京都から帰国しようとしていた親兵衛と再会し物語末尾では主要登場人物と並んで末期の記述がある】ほどか。付け足すならば、青海波には、走帆なる分身がいる。安房ならぬ阿波の産で、変態管領細川政元によれば「蓋世の龍馬」{第百四十四回}であった。実のところ、走帆こそ大活躍を見せる。親兵衛は走帆を駆使して画虎に対した。青海波といえば、南関東大戦に参加するものの、親兵衛を乗せたまま大穴に落ちるぐらいしか見せ場がない。本当に「名馬」かと疑いたくなるけれども、走帆の根本は青海波と同一なので、走帆の手柄は青海波の手柄だ。釈然とせぬ所は残るものの、やはり、青海波は「名馬」なのだ。そういう事にしておこう。

 一方、須本太牛の役廻りといえば、せいぜい【地方牛相撲の横綱であったが群衆の中で突如として凶暴化し偶々居合わせた小文吾に制せられ大人しくなった】ぐらいのものだ。しかし、青海波も本人{馬?}は大した事を成していない。分身の走帆こそが大活躍したのであった。ならば、須本太牛にも自身に代わって大活躍してくれる分身はいないか。
 筆者は須本太牛の分身として、「牛鬼」とも呼ばれた鬼四郎牛を挙げたい。理由は、ほかに選択肢がないからだ。だいたい八犬伝で名前のついた家畜は限られており、牛相撲の場面以外で、名のある牛は鬼四郎だけなのだ。
 鬼四郎牛は「龍種」とはされていない。しかし、並の牛と比べ幾倍もの体力があった。「龍種」と云わぬまま、龍種だと云っているようなものだ。また、八犬伝では登場人物の重要性尺度は一般に、無名<有名<末期の記述、と見て良いが、鬼四郎牛には、「末期の記述」がある{第九十一回}。最上級の「登場人物」として扱われている。勿論、牛の中では最高の待遇だ。須本太牛をも超える{青海波も馬のくせに末期記述があるが、実際に活躍した走帆の末期記述の方が詳細であり礼記を引き手厚く葬られ差別化されている:第百六十六回}。
 また、何よりも、船虫刑戮と須本太牛が登場する闘牛の場面は、【照応】している。照応とは、「譬ば律詩に対句ある如く彼と此と相照らして趣向に対を取るをいふ。かゝれば照対は重複に似たれども必是同じからず。重複は作者謬て前の趣向に似たる事を後に至て復出すをいふ。又照対は故意前の趣向に対を取て彼と此とを照らすなり。譬ば本伝第九十回に船虫媼内が牛の角をもて戮せらるゝは第七十四回北越二十村なる闘牛の照対なり」{「八犬伝第九輯中帙附言」}である。後にも引く「閲黙翁所批拙編八犬伝第八輯評定報于此書」で馬琴は、「闘牛牛刑の照応ハ及ハすなから数年来の腹稿より出たる也」と明かしている。
 なるほど、闘牛の場面では、暴れ出し襲い掛かる須本太牛を小文吾が鎮圧するけれども、偶々行き会わせた船虫が小文吾の存在を認めて付け狙うようになった。対して牛刑の場では、偶々行き会わせた小文吾が船虫の存在を認めて捕縛し、鬼四郎牛に襲わせ殺した。
 赤鬼四郎牛が須本太牛の分身ならば、両牛の記述総体と、青海波・走帆/両馬の記述総体は「対応」している筈であり、何等かの共通点があってもよい。共通点の一は、云う迄もなく「龍種」だが、其のほかで考えられるものは、「盗まれた」ことである。
 信乃の指揮する岡山陣地から青海波が盗まれた状況は、不明である。盗難が発覚する直前に田税逸友が、関東連合軍の包囲網を擦り抜けて国府台城との間を往還している。何処かに隙があったとも思うのだが{第百六十五回下}、信乃は「昨宵岡山の陣営は三面寄隊に戦車もて囲れたれば鼠も暢はず且背の方は暴河なるに他いかにして潜入て馬さへ窃出しけん。神変不測といはまくのみ。現活馬の目抜郎が窃術こそ怪しけれ」{第百六十九回}と驚いて見せた。また、盗み出された青海波は、目奴九郎が二四的寄舎五郎らと商談中、あっさり逃げ出し、親兵衛のもとへと走った。
 青海波は元来、親兵衛にのみ懐いた悍馬である。外人が下手に近寄れば、噛み殺されるか蹴殺されるか、白妙の人喰馬とは云わないが、兎に角、無事では済まないだろう。しかも現場は、警備の厳しい陣営厩である。少しでも騒げば、誰かが気付く筈だ。然るに奇妙千万ながら、凶暴悍馬/青海波が、全く騒がず無抵抗のまま奴目九郎に連れ出され、大人しく属いて行ったのだ。
 「神変不測」である。如何やら青海波は、「盗まれた」のではない。何等かの下心があって、何者かが【盗ませた】のだ。「何者か」とは当然、伏姫神霊もしくは神変大菩薩/役行者である。「下心」とは、旅路で斃れた走帆と入れ替えようとしたのだ{若しくは、霊馬本体である青海波と入れ替えるため走帆の寿命が限られていたと云える}。
 則ち、墨田河原で親兵衛と感動の再会を果たすため、【移動】しただけの話だ。青海波が厩を蹴破って脱出しても良いのだが、余りに不自然だし、脱出した段階で、何より、読者が親兵衛との再会を予見してしまう。物語性を豊かにするため、【技術上の必要性】から、青海波は、奴目九郎に盗まれる形をとったのだ。如斯き技術上の工夫を、「作者の用心/苦心」と謂うべきか。

 鬼四郎牛が「盗まれた」背景も、青海波のケースと同様である。鬼四郎牛にとって最大の役目は、舩虫・媼内に対する死刑執行だ。雛衣を死に追い遣り、小文吾や荘介の命を危うくした舩虫は、殊更残虐に殺される必要があった。

 馬琴時代の法制で、最悪の刑罰は鋸引だが、江戸幕府に実行する意思は薄く一般に、磔獄門が極刑とされた。他には火刑と斬首、切腹がある。 斬首は恐らく、刃が首に当たった瞬間ショック死できるから、受刑者にとって最も安易だ。切腹は痛そうだが、斬首介錯で楽になる。火刑も途中で気絶できなければ苦しむことになるが、原則として放火犯専用の刑罰であった。
 磔といっても、中東方面で大工の息子が処せられたヤツではない。当時、彼の地の磔刑は、磔にしはするが、釘で手足を打ち付けるだけで、日干しにして殺す。鎗で突いたなんて嘘八百だろう。対して江戸期の磔は、左右から数十本の鎗を次々に刺し込んでいく。大塩平八郎の場合は、死後に拘束されたため、塩漬けのうえ遺体を磔にして三十本の鎗で刺した。既に死んでいるから痛くも痒くもなかっただろうが、生身に何十本も鎗を次々刺されたら、なかなかに痛そうだ。唐山には、生きながら少しずつ肉を削ぐ刑罰もあるけれども、斬首の如くスッパリ殺すが、温情というものだ。
 椿説弓張月では、白縫姫が夫/源為朝を裏切った密告者を全裸に剥いて五寸釘を体中に突き立てネチネチ殺す場面がある。しかし犬士が手を下すなら、一刀のもとに殺さねばキャラクター設定に支障をきたす。まさか一太刀ずつ浴びせて嬲り殺しでもあるまい。
 牛角で何度も何度も突いて最悪の苦痛のうち舩虫は死ななければならなかった。馬琴時代、一般的なもののうち最悪の磔をイメージさせる死に方だ。
 実のところ、八犬伝では磔より残虐な殺し方が掲載されている。南関東大戦後、箕田馭蘭二・根角谷中二・穴栗専作が豊島の民に受けた私刑だ。「先手を斫落し足を斫落し胸を劈き大小腸を裂出し、竟に首を撃落すに、猶怨尽ざる荘客の悍く壮なる者毎は其宍を啖ふもありけり」{第百七十八回}。忍岡城進駐軍の指揮官が、未完の復讐鬼道節だったればこそ実現した。私刑だからこその残虐さである。犬士の舩虫・媼内殺害も、私刑ではあるが、其処は其れ、常識豊富な犬士としては、公刑に準じた体裁をとらねばならぬ。こうした制限のうち、目一杯の残虐さで読者の溜飲を下し、且つ誰の手も借りず、しかも自ら手を汚さずに行う復讐として、馬琴が捻り出した処刑法が、鬼四郎牛による殺戮であったと思しい。則ち、公刑で行われる最悪の刑罰/磔に類する必要があったが、犬士がネチネチ一突ずつするわけにもいかないので、猫の手ならぬ、牛の手を借りる必要があったわけだ。また、「作者の用心ハ上帙の闘牛の照応に、こゝにて牛の角にてつきころされるか大趣向にて、その余の事ハ潤色の筆に成りし也。牛裂ニせすして角もてつきころさせしにて闘牛の照応なるを志るへし。且磔ハ画くことも、ものニかくことも禁忌也。故ニ牛の角にて磔の姿を見せたる也」{閲黙翁所批拙編八犬伝第八輯評定報于此書}との事情もあった。当時、磔は絵にも文字にも写してはならなかった。出版統制である。

 また、刑戮に用いるなら角か牙があれば都合良いけれども、鹿や猪ではなく牛が撰ばれた理由として、其処等にいるというだけではなく、やはり「仁獣」{第百十三回}であることも関係しているであろう。

 船虫刑戮は、親兵衛・毛野を除く六犬士立ち会いの下で行われる。論者によっては、親兵衛の不在を当然視するくせに、毛野の不在をこそ論い、 毛野と船虫との関係を云々するムキもあるようだが、論とは刺激的であれば良いというものではないので、筆者は採らない。
 だいたい元々、船虫・媼内を殺害するほど怨むべきは、せいぜい、大角・小文吾・荘介・信乃ぐらいのものだ。現八は、雛衣自刃に無関係ではなく、大角への義理立てで、刑戮に参加してもよい。道節は、まぁ……一番の乱暴者なので、惨刑を提案するために居てもよい。居なくても良いが、居ても問題は無い。毛野は、船虫と無関係ではないけれども、殺すほどの怨みは無い筈だ。
 寧ろ、親兵衛は、船虫は伯父/小文吾の仇敵なのだから、刑戮に参加した方が良いだろう。まぁ、親兵衛にだって色々と事情がある。其のムッチリした白い餅肌を変態管領細川政元に求められねばならないとか何とか、色々と忙しい。参加しなくても可ではある。しかし、親兵衛が参加せぬのなら、毛野が参加せねばならぬ必要性は、全くない。船虫刑戮時、毛野の不在は、全く問題ではない。居る必要が全く無い場所に、毛野が居なかったからといって、其れを根拠に妄想を膨らませるこそ、奇怪千万である。
 勿論、右に書いた如く{いや、筆者の基本は縦書きなので}、毛野は船虫と無関係ではない。父/粟飯原胤度が籠山逸東太に暗殺された時、嵐山の笛と雪篠の両刀を船虫らが奪って逃げた。馬加大記の依頼に依る。即ち船虫は、馬加に傭われて事件に関与した。
 しかし毛野は、馬加と籠山のみを仇として付け狙った。船虫なんざ名前も知らないだろう。また、船虫が胤度に一太刀でも浴びせたとは、八犬伝には書いていない。船虫は、馬加に盗人として傭われ、笛と刀を奪っただけだ。実のところ、胤度を殺した後、馬加と籠山が秘蔵していれば良かっただけの物どもだ。が、秘蔵していれば、嵐山の笛が小文吾の無実を証明することはなかったし、雪篠の両刀が荘介の手元に戻ることも難しかっただろう。笛と両刀を流通させることで、馬琴は物語に豊かさを与えた。其の為にのみ、胤度殺害そのものへの必要性は全くないまま、船虫は関与したのだ。毛野に怨まれる筋合いは無い。よって、船虫刑戮に、毛野は関与しなくとも良い。

 船虫刑戮時、抑も毛野は平行して自らの敵討ちを遂行中であった。道節{そして信乃}のため六犬士が、扇谷上杉家に対する旧怨を晴らす事件{A}と、毛野が親の敵を討つ事件{B}は、一纏まりの事件である。毛野は与り知らないけれども、道節ら六犬士もしくは読者にとって、A・Bは一纏まりの復讐劇だ。毛野が鈴ヶ森、道節らが五十子方面などと、二手に別れて一つの復讐劇を演じているのだ。毛野は既に、毛野が知らないだけで、他六犬士と共に在る。且つ、船虫刑戮{C}と扇谷上杉家への攻撃は、一続きの事件として扱われている。それだけの事だ。
 則ち、毛野が蟹目前・河鯉守如から援助を受けた物語の都合上、毛野はAに関わることを許されない。関わるどころか、道節が身近にいることを認知することさえ許されていない。関われば蟹目前・守如を裏切ることになるし、道節らの意思を知りつつ参加しなければ同盟犬士としての分{ぶ}が立たぬ。毛野は蚊帳の外に置かれなければならない。
 一方、いくら勇猛無比の穂北住民を率いているとはいえ、道節ら六犬士だけで扇谷上杉家を壊滅することは不可能だ。奇襲を以て五十子城を一時的に占拠、定正を追い放ち兜を分捕るぐらいが関の山だ。一応の成果を上げたら、即座に離脱せねばならない。

     ◆
 当下毛野は遽しく道節們と談するやう、「犬塚生の奇計により、五十子既に落城して、那里に敵のあらずといへども、那河鯉の義をおもへは、我身ばかりは各位と、倶に那里に到らんこと、忍びかたき処あり。今より与之七主と倶に、舩に在りて凱陣を等ん。さばれ各位も亦、速に退きて、海に浮むを妙とすべし。顧ふ扇谷の管領(定正)は、必是忍岡の、城を投て走りしならん。這里よりして那里へは、路の程二里に過ぎず。はやく那里の城兵をもて、更に推寄来ることあらば、初の戦ひと同じからず。疲労たる我小勢をもて、新隊の大敵に当らんこと、危しとも最危かるべし。然らでも西北に大塚の城あり。北に赤塚石浜の援あり。又鴛鴦嵒槻、河肥の諸城あり。迥に五十子の兵火を観ば、近きは二三時刻の程、遠きも必通宵走りて、援の軍兵いで来つべし。この義を思ひ給へかし」{第九十四回}、
     ◆

 よって、Aの後、七犬士打ち揃って船虫を刑戮するとの選択肢はない。毛野は道節と接触する以前にBを遂行しなければならないため、AとBは同時並行である必要がある。よって、CはAに先行しなければならない。毛野がB以前に道節と合流できないとは、同時進行のA以前に道節と合流できないことを意味する。CはA以前に行われなければならないから、毛野はCに同席できない。理の当然である。

 勿論、船虫刑戮の時点を、道節による復讐と大きく引き離せば、或いは、毛野の参加も可能となる。しかし、現行の八犬伝を大きく書き換えることになる。実のところ、馬琴も船虫刑戮に毛野が同席することに否定的ではなかったように思える。
「閲黙翁所批拙編八犬伝第八輯評定報于此書」に於いて、船虫は粟飯原胤度暗殺事件に関与してはいるが主体ではないため仇を討つ必要がないと結論づけているけれども、同席してはならないとは云っていない。そして、物語の登場人物は作者の思惑を超えて動くものだと付け加えている。 則ち上記此書の文脈からすれば、船虫刑戮に毛野を同席させる積もりだったようだが、【物語の都合上】同席させられなかったようなのだ。「物語の都合」とは、縷々述べてきた如く、道節らと行動を別にしなければならない期間に、船虫を刑戮しなければならなかった点だ。此書は、小文吾・荘介が、粟飯原胤度暗殺事件に脇役として関与した船虫を懲らすことで、二人に毛野への恩返しをさせた、と{取って付けたように}云っている。即ち、小文吾・荘介が代行しても良い程度の、船虫への復讐資格を、馬琴も毛野に認めてはいる{個々の犬士の為すべきことは犬士間で交換可能だとは本シリーズで縷々述べてきた:「信乃と親兵衛の貸借対照表」など}。
 船虫刑戮に於ける毛野の不在に、積極的な意味はなく、馬琴の【隠微】も潜んではいないのだ。少なくとも此の不在を以て、毛野と船虫の関係を云々するなぞ、全く根拠のない得手勝手な妄想に過ぎない。但し筆者に大衆小説の意味を限定する趣味はないので、読者それぞれ如何に読んでも結構だとは思うが、人様に吹聴するような読解ではない。

此処で「閲黙翁所批拙編八犬伝第八輯評定報于此書」の関連部分を掲げておく。

     ◆
第九十一回貴評御問難の一条はしめに馬加常武か謀りて粟飯首を害する段に並四郎と舩虫ハ馬加にたのまれて小篠落葉の両刀を竊ミしもの也。勿論、毛野か親の仇は常武縁連二人なれとも、かの両刀の紛失より常武か讒奸いよ/\行れて、粟飯原一家滅亡に及へり。かゝれハ舩虫を毛野に撃せすして、小文吾にいけ捕せしは、なほ■口に兼/らぬこゝちそする。さハれ舩虫ハ三たひ強盗の妻になり又妖怪の妻にもなりて貞女雛衣をさへ謀りて害したる大毒婦なれハ、毛野一人に撃せんより、六犬士の聚合たる所にて牛裂の戮に就しむるをよしとす、といふとも、毛野をもその隊に加えさりしを遺憾とすとある貴評の事。摘要。
作者答て云、御論ハ誠にそのよしもあれと、愚か構思は古れと異也。初粟飯原か籠山逸東太に撃るゝ折、並四郎・舩虫ハ、かねて常武にかたらハれて、小篠落葉の両刀を竊取りしより、常武か奸計いよ/\行れて、首か妻并に粟飯原夢之助等惨刻の罪を蒙るといふとも、その奸計は常武一箇の奸悪より出て、並四郎舩虫か計りしにあらす。よしや並四郎舩虫か彼両刀をぬすミ得すとも、常武か老奸なる、千葉氏の暗昧なる、粟飯原一家いかてか安然として恙なからんや。かゝれは並四郎舩虫か仇なす所、粟飯原氏より犬田のかた重かり。よりて並四郎ハ、小文吾に殺されたり。尓後舩虫ハ、仮一角の妻になりし折、角太郎雛衣を誣て一角の悪を資けしかは、雛衣ハ刃に伏しにき。此時に当りて、その怨、又小文吾より大角のかた重かり。尓後舩虫ハ、越後にて小文吾を刺んとしたる事、又荘介をすら欺きて、竟に酒顛二に殺させんとしぬるに及ひて、その毒悪すへてかの身の方寸より出たれハ、初並四郎を資けて馬加か為に名刀をすぬミたると、罪の軽重なき事を得す。古ゝをもて、司馬浜の段に到りて舩虫ハ、小文吾に捕へられ、大角荘介等の六犬士相聚たる所にて、牛の角もて突殺させしハ、磔罪に擬したる也。古は牛裂の刑とおなしからす。古れらの事ハ、桂評の答に評にした連ハ、そ又古ゝに具にせす。かの答論の一通を松坂より返し那は、異日に回覧奉ルへし。かゝれは、古の処に毛野をつとへすとも、作者ハ遺憾なしとおもへり。礼記に所云、君父の讐にハ共に倶に天を戴かす、是を春秋ハその当仇を撃て類仇を撃たるをもて貶すへからす。されハ智伯か趙城を水攻にしぬる折、趙無恤、潜に人を城より出して、よせ手の陣へ遣し、韓氏・魏氏に説薦めて、倶に智伯を滅しつ。遂にその地を分ち取りて、三晋鼎足の勢ひ成連り。古ハいハても君か知られたることなから、智伯の臣豫譲か仇を狙撃んとするに及ひて、唯趙無恤を刺またほりして志を遂す。僅にその衣を得てこれを刺して自死したるを当時義士と相称へて韓魏を撃さりしをもて拙しとせす彼韓魏の資け那からましかハ趙氏は趙氏は智氏をほろほすことをならす。韓魏か趙と計を合したる故をもて、智伯ハはか那く滅ひぬるすら、豫譲の為に類仇なれハ、その怨趙にあり。古の故に初より韓魏二氏を撃まくほりせす。古の理義をよく思ひ給ハゞ、毛野に舩虫を撃せすとも、又舩虫か牛角の戮に就ぬるその夜さり、毛野かそこへ立入らすとも難なきよしを悟り給ハん。曽我弟兄か父の讐祐経を撃たれとも、なほいまた足れりとせす、頼朝卿ハその大父祐親の仇なれハとて、又これをしも撃まくせしハ、彼北条にそゝのかされたる、只是一時の惑ひのミ惜むへし。その勇ハ誠にあまりありといへとも、うたてやその智の足さるよしハ、質屋庫に論せし如し。そハとまれかくもあれ、又舩虫ハ、小文吾・大角・荘介の素より怨あるものなれとも、就中、小文吾ハその身を危くせられたる一度ならす二度に及ひて、その対応をなせし事も犬村犬川より深かり。古ゝをもて小文吾に司馬浜にて舩虫を生拘せしハ、既にしてかの身の為に怨を雪るのミ那らす。小文吾ハ石浜の旧阨におもハす毛野か資を得て、彼処を脱去ることを得たり。只この恩義のミ那らす、湯嶋の段に至りても毛野ハ小文吾・荘介か為に、次団太の厄を救ふて代里て恩義をかへ志たり。古の故に舩虫ハ毛野の為にも類仇なれハ、最後に小文吾これを捕へて、荘介并に大角・信乃・道節とのち共に、古ゝに愉快の誅戮を行ひしハ、石浜の幇助、湯嶋の会計、皆是毛野の徳義に答る作者多年の腹稿なりき。もし毛野をして舩虫を撃するときハ、小文吾ハ毛野に両度の徳義を受て、これに答るすべなかるへし。縦毛野に舩虫を撃せすとも、毛野を古ゝに至らせては、小文吾か毛野に報恩の義浅くなるへし。作者の構思かくの如し。知らす、僻言ならんかも。金聖歎か三国志演義の外書に、魏(を蜀漢にほろほさせすして司馬氏の簒奪に遭せしか乃天の配剤也因果の道理天罰の至る所当にかくのことくなるへしといへり本輯の舩虫か毛野に撃れすして小文吾に捕へられ軈て牛刑にあへりしも小大その差あるものから因果天罰同一理と)いハん歟。作者又云、人間必倚伏あり。はか那き草紙物語といへとも、初より志て恁々と作者は思ひ得さりける倚伏なきことを得さる也。古ゝをもて、さまての役をつけしと思ひしものも後に至りてよき役のつくことあり。又他(カレ)ハ死さしと思ひしも、後に至りて殺さねハならぬ時宜になるものあり。畢竟作者ハ小造化にて、その物語の世界人物すへて、作者の方寸よりうみ出すものから、作りものてゆく勢ひにて、案外の遇不遇あり。看官ハ初より作物語也と見る故に、動もすれハ侮らんことをしも求め給ふ批評さへ聞ゆれとも、そは手つから筆を握りて綴りなして見給ハぬ故に、作者意外の遇不遇もおのつからにいて来事、或ハその人物に作者意外の倚伏さへありて、志かせされハならぬ勢ひに至るよしを悟り給ハぬ故也けり。譬ハ毛野か司馬浜のまとゐに立入らさりし事、又木工作か横死雛衣か自刃のとき勢ひ已ことを得さるよしありて、かくのことくになりもてゆく也。是作り物語といへとも、その人物に禍福幸不幸遇不遇あること天然のことし。そを只一理を推て備らんことを求めらるゝとも、決して志か志かたき勢ひあり。古れらの意味ハ大賢といふとも、みつから筆を把りつゝ魂を紙上に移すに至らねハ、得悟りかたき事に那ん。いとをこかましきときことなれとも、よく物の本を作るものハ、なから川の鵜飼の一人にて十三羽の鵜を使ふかことし。鵜ハおの/\に魚を逐ふて水中をひまなく奔走しぬるまに/\、十三すちの鵜つなもてあちこちと操りて、一トすちの乱れなきハ、只鵜飼の修煉にあり。作者も亦志か也。数十人の列伝を一世界に綴りなして、聊も乱るゝことなく、その大くゝ里をよく志ぬるは、只是修煉の至り也。鵜舟に猟と不猟ハありとも、鵜の情を得て使ふに方あり。才に二羽か三羽の鵜にすら、あくみて網を古くらかすものハ唐(カラ)山にも、かいなての作者にあり。彼等ハとし/\に筆をとるとも、かゝるわけあるよしを悟らて、生涯さめぬも多かるへし。又云貴評ハすへて対照と反対をよく見出し給ふ故に当らさることあること鮮し志かれとも上帙の闘牛ハ司馬浜の牛刑の為にしも作りたる対応なるを志か/\と思ひ合せ給ハぬならん……後略」{「閲黙翁所批拙編八犬伝第八輯評定報于此書」:句点・句読点は筆者}
     ◆

 やはり、船虫刑戮時の不在を以て、船虫と毛野の関係を云々することには、かなりの無理があるようだ。

 船虫刑戮に牛が使われた理由に於いて、磔のように突殺する必要性、犬士が残虐に手を汚さないようにするため、の二点が根幹であろうが、「仁獣」であることも付け加えるべきだろう。
 此の点に就いては、船虫への怨みが大きい小文吾と「仁」との親近性が関わっていよう。小文吾は何や彼や云っても殺されなかったから、妻/雛衣を死に追い遣られた大角が、最も深く船虫を怨んでいるはずだ。が、大人しい大角は黙然としているのみで、船虫に救いを求められ初めて激高した。船虫を生捕った所からしても、此の場の主人公は小文吾のようだ。小地谷で須本太牛とも絡んだ。本人も、どちらかといえば牛さん体型で、恐らく爆乳だけれども、其れは措き、小文吾は牛と縁がある。仁は堪忍にも通ずる所があるけれども、山林房八に辱められても刀を抜かなかった小文吾は、堪忍の男といえる。元より悌は、上長へ従順である徳質だ。自発的な従順とは元来、恐怖や利害に依り従うことではなく、相手の意思を許容し尊重することであるから、堪忍/仁に庶{ちか}い。故にこそ、仁犬士/親兵衛の伯父に設定されてもいるのだろう。実際、小文吾みたいな妹ならば、「最近、太ったんぢゃないか」と其の爆乳を鷲掴みにしても、「いやぁん、もぉぉぉぉっ、きゃはははは」で済ましてくれそうな気がするが、如斯き妄想を許す雰囲気が、小文吾にはある。……いや、爆乳は如何でも良いが、包容力ある小文吾の佇まいは、「仁獣」である牛に重ね合わせても可だろう。

 また筆者は、以前から執拗に言い募ってきた如く、小文吾の「悌」を水気に比定している。親兵衛の「仁」は一般に木気とされる。八犬伝で牛は仁獣だから、木気である。馬/午は一般に火気に配当される。順理すなわち五行相生説に拠れば、木生火、水生木だ。子は母を扶{たす}けなばならぬから、相生を相扶の関係を変換すれば、火扶木、木扶水となる。火に馬、木に親兵衛もしくは牛、水に小文吾を代入すれば、馬は親兵衛を扶け、牛は小文吾を扶けねばならない。観音を正体とする伏姫神霊は龍と関係が深い。親兵衛は、龍馬とされる青海波と相性が良く、小文吾の存在により龍牛と目せる鬼四郎が登場し船虫を刑戮する。

 如斯く考えれば漸く、馬琴が青海波と須本太を対応関係にあると云った意味が浮かび上がってくる。
 鬼四郎牛が拒絶しようとすれば、媼内なんぞに連れ出されることはなかっただろう。伏姫神霊もしくは役行者の差し金で【連れ出した】からこその、無抵抗であった。悍馬青海波が、目奴九郎ごときに盗み出された事情と同様である。伏姫神霊もしくは役行者の意思により、青海波は墨田河原へと走って親兵衛と再会を果たし、鬼四郎牛は司馬浜に出て船虫を刑戮した。青海波と走帆が一纏まりの存在であれば、須本太牛と鬼四郎牛も一纏まりの存在として「対応」している。両者は、龍神に関係の深い伏姫神霊に感応し犬士を扶ける、龍種の馬であり牛であったのだ。
{お粗末様}


   
   

  

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