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■天惟時求民主■

 Democracyとは、人民が直接に若しくは人民に撰ばれた者が、政府を統制する政治形態である。共和制と訳すべき言葉であって、我等が大日本帝国とは無縁の言葉であるが、「民主主義」なる曖昧な言葉に変換すると、何となく日本と関係ありそうな気になってくる。言葉とは、不思議なものだ。
 だいたい「主義」とは何かと云えば、理想を標榜することだ。例えば国粋主義は本来、【国の粋たる伝統文化を維持保存しよう】との真っ当な主張である。間違っても拝米売国の族が隠れ蓑として誤用/悪用すべき言葉ではない。此の場合の「粋」は即ち精華であり、「理想」でもある。日本民族が理想として希求し続けてきた所の者が、「国粋」だ。
 則ち、「民主主義」とは本来、単に「民主制が良ぃなぁ」と漠然と思えばオッケーなワケであって、真に人民の為にならなくても許される。日本が「共和制国家」と呼ばれず「民主主義国家」と云われる所以である。
 だいたい国際連合に加盟する百九十二国のうち殆どが、国名で「RepublicOf」「KingdomOf」{英語表記}などと政体を明示している。地域名のみを国名とする者は極一部に過ぎない。日本は、天皇が領しめし給う神国でありながら主権在民を謳い議院内閣制だったりもする。英吉利などと同類と見れば「TheGreatEmpireOfNippon」と名乗るべきなのだが、何故だか日本は政体を明示しない。しかも、正式名称が「日本」か「日本国」かさえも、判然とは決めていない。とことん曖昧なんである。

 抑も、日本に於いても暴虐の帝が領しめし給うた記録がないでもないが、帝が「人民なんて虫ケラ。俺さえ気持ちよければ全くオーライ」と公言したことがあるとは、寡聞にして知らぬ。少なくとも二千六百七十年に亘って、勿体なくも帝は人民のため大御心を砕き給うてきた……ことになっている。
 神道・仏教と並び儒学・道教は日本に抜きがたい影響を及ぼしてきたわけだが、例えば、書経には「民主」なる言葉が登場する。周書巻十七「多方」である。タイトルになっている「多方」は、「みんな」ぐらいの意味であって、此の場合は「ねぇ、みんな」との呼び掛けだ。周公が、殷の遺臣に語り掛けた演説を指す。
 書経・多方で使われた「民主」は、民を主とす、ではなく、民の主である。王を意味する。帝である。
 周公の演説要旨は簡単なものだ。【天命は、民を蔑ろにした殷から、民を大切にする周に移った。殷が特別に愚かだったわけではなく、ただ民を思う心を失ったからこそ滅亡したのだ。いや、愚かであっても民を思って思って思い抜けば、聖人/帝ともなるのだ。未だにオマエら殷の遺臣は好き放題しくさって、民を賑わそうとする周に対し非協力的である。このまま非協力的な態度を続ければ、天命に逆らうことになる。罰せられても周を怨むなよ。オマエらが悪いんだからな】。
 要するに、帝は【民の主】であるから、民の事を第一義に考え行動せねばならず、民を蔑ろにすれば、滅亡するしかない。資質が優れているから帝位の資格が与えられるのではなく、ただ民を思い念うことのみが、民の主たる必要条件だ。民を蔑ろにする支配層には天誅が降る。
書経は所謂「四書五経」の一である。革命を積極的に肯定しない一部流派が無いわけではないが、儒学は本来、民を蔑ろにする支配者を放逐するための理論たり得る。故に儒者は、玉座の上に吊るダモクレスの剣たらねばならない。

 八犬伝の理想とする政治も、書経・多方が標榜する【民主主義】であることは論を俟たない。本シリーズで縷々述べてきた通りだ。儒学の政治哲学である。

 英雄/民主とは結局、周囲の希望と自分の意思を一致させた者だ。詐術により自分の意思に周囲の希望を誘導した者と対極に在る。即ち英雄とは、人々の理想/善を実現するための強力な者、である。人のエネルギーは負方向にこそ迸りがちだ。正方向/善のエネルギーは比較して弱い。理想を求める人々の、ひとつ一つでは脆弱な善なる念い、其の念いを集約する器が、英雄である。
 巨大で邪悪なる魂は、弱き善なる者たちを次々に虐げ撃破していく。しかし歴史上、例外なく、支配者は亡び転覆し消滅してきた。支配者すべてが必ずしも邪悪であると決め付けはしないが、邪悪なる者も必ず滅亡することは確かだ。古今東西、絶えず優勢にあるかの如く見える邪悪なる者どもは、実のところ必ず滅ぶ。恐らく膨大なるエネルギーを有する邪悪なる者は、善を分断し各個撃破し続けるけれども、滅ぼされた善が蓄積し拮抗し逆転すれば、滅亡せざるを得ない。理の当然である。

 と、長々述べてきたが、今回は実のところ、「政治」も「民主主義」も関係ない。ただ、書経・多方を持ち出すことが目的であった。
 書経・多方で有名なフレーズと云えば勿論、「惟聖罔念作狂。惟狂克念作聖」だ。上記「殷が特別に愚かだったわけではなく、ただ民を思う心を失ったからこそ滅亡したのだ。いや、愚かであっても民を思って思って思い抜けば、聖人/帝ともなるものだ」と意訳した部分である。此の部分は特に、千字文に引かれているから「有名なフレーズ」と断じて良い。書経に大きく紙幅を割いたので詳細は略すが、千字文は、古代中国で編まれた千字で構成する文章であって、近世日本の寺子屋などで教科書として採用されていた。馬琴時代の日本人にとって、耳馴れたフレーズであった。

 漸く、馬琴に話題が移る。馬琴は、「八犬伝篠斎評九輯下帙下套中」で「克思狂為聖」と答えている。篠斎が、一旦は地味だと評した洲崎沖海戦に就いて考え直し重要性と構成の緻密さを改めて賞賛した箇所に対してである。当然、政治とか「民主主義」とかとは関係ない発言だ。しかし、いくら相手が気安い知音であっても、せっかく考え直して正解に至った評に対し、「まぁ狂者でも必死こいて考えりゃぁ聖になるって云うけどさ」は失礼ではないか。御世辞を言う必要はないけれども、「当れり」ぐらい云ってやれよ。まったく傲岸無比の親爺である。
 尤も馬琴は、知音の評に対して「古の人曰読書百遍可始以通其意」{「八犬伝畳翠君評」答}みたいなことを何度か云っている。三国志好きの馬琴らしい董遇三余であるが、【バカでも頑張れば何とかなる】ほどに解釈すれば、内包を無闇に拡大した「狂克念作聖」と通底する。

 無知蒙昧でも百回読み込めば経書の意味を理解できるし、愚者も善にのみ専念すれば聖者となる。極端に対照的な二つの概念は流動し得る。こうした思想が馬琴の根底には在る。則ち、八犬伝の根本にも、在る。だからこそ、【勧善懲悪】が成立する。善を勧め悪を懲らす、とは則ち、悪しき者が善き者に変化することを期待している。人間が善悪二種類に峻別され固定されているなら、抑も「勧める」ことが出来ない。善でない者を善に誘導しようとすることが、「勧善」である。八犬伝冒頭で絶対的な悪として屹立する玉梓でさえ、発菩提心、成仏できる世界観だ。{お粗末様}


   
   

  

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