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■男色は悪か■

 男色は現在、男性同性愛の意味で使われることが多い。しかし字面からすれば、「男の色{気}であるから、性欲の対象となるべき男の様子、ほどの意味が派生する。江戸芳町では、やや薹の立った陰間は、女性にも肉体を売った。現在のホストが、男としての色を{女性に対し}売って身を立てているならば、「男色家」を名乗って然るべきだ。勿論、冗談である。
 性に纏わる語彙は、往々にして、男を暗黙の主語とする。「男色」そのものは、女も主語とし得るが、特に断らなければ、男が男に性愛を向けていることを前提としている。よって比翼文の自叙で語られる男色は、やはり男同士の話だ。しかも権八の相手は、播随院長兵衛である。比翼文に、権八と長兵衛が直接に絡む部分は多くない。何といっても最高潮は長兵衛が木陰から飛び出し助太刀する瞬間、数十字のみだ。あとは幾度か、長兵衛が一方的に、念者らしい濃やかさを見せるぐらいで、性描写は、仄めかしすらない。にも拘わらず、馬琴は自叙で、男色にこそ多くの紙幅を割いた。
 理由は簡単、馬琴は「男色」をめぐる物語をこそ、書きたかったのだ。自叙で此処まで書かれたら、読者は厭でも、権八と長兵衛の関係を、本文に書かれていない所まで見透かして/妄想してしまう。いや、自叙で権八と長兵衛の男色関係が宣言されてしまったのだから、読者は二人の間に男色関係を見なければならないのだ。鈴ケ森では長兵衛がのしかかって屈脚位だったか、権八が跨る騎乗位だったか、はたまた木にしがみついた立ちバックだったか、長兵衛が抱え上げる駅弁スタイルだったか、其処までは分からない。性交に至らず、ただ深く濃く思い合っていただけかもしれないし、長兵衛の片思いであっても、筆者は困らない。

 男色が主要テーマの一つだと断定できる理由は、自叙の記述だけではない。ストーリー上からも看て取れる。権八の人生を振り返れば、幾つかの転機がある。最初は、云う迄もなく、本所助太夫を討ち取った場面だ。しかし此の場で権八は、思慮なく蛮勇を奮ってはいるが、父の名誉を傷つけられたからこそ逆上したのであって、動機自体は純粋なものだ。刊行当時にあって全否定されるべきものではなかった。
 次の転機は、長兵衛との出会いだ。もともと権八は上方まで逃げようと考えていた。此の時点で長兵衛は、権八が、大河一つ隔てただけの場所で事件を起こしたとは知らず、即ち詳しい事情も聞かぬまま自分の家に連れ込んだ。よほど姦りたくて切羽詰まっていたのか。一発抜いて賢者モードになったのか、このまま自宅に置いておくと仇に見つかるのではないかと心配する。しかし長兵衛は、権八を遠くに逃がそうとはしない。「このまま自宅に置いておくと危険だ」とは解っている。だからこそ「このまま」ではなく、女装させた。逃がせば良いものを、長兵衛は権八を手放さなかった。上方へ逃がせば権八……もとい、犬飼現八のように道場でも開いて、平和に暮らせたかもしれない。
 三度目の転機は、小紫との出会いだ。表記上は、此れが決定機となっている。互いの美しさに惹かれ、しかも小紫は権八の誠実さを愛するようになる。遊女に入れ揚げ、金に詰まって悪事に走る……近世文物の御約束ともいえる黄金パターンだ。御約束だから、美男/権八と美女/小紫が出会った時点で、後の宿命は自動的に決まる。よって、権八と小紫が出会うに至った経緯こそが、作品の眼目となる。長兵衞が、権八を如何しても手放さず、アレコレ工夫したことこそが、権八と小紫を出会わせた。実のところ、権八の運命を大きく歪めたのは、長兵衞の男色嗜好なんである。

 自叙によって作品が定義されるならば、小説比翼文は明らかに、【男色小説】の側面を有している。但し勿論、男性同性愛のみを描いているものではない。ってぇか異性愛と同性愛を絶対的に隔絶するは、幻想理念を絶対化し現実に目をつむる西洋近代の悪弊に過ぎない。本能が既に破壊され、【純粋な動物】ではいられなくなった人間に、性愛と生殖活動が全くの等値だと規定してみせた所で、全く空虚、全く無意味なのだ。我らが信乃は如何したか。雷電神社で、生殖活動と、心捧げる恋愛とを、理念上、峻別して見せた。生殖活動と性愛が別物となっている現状に於いて、当たり前の態度だ。此れで生殖目的のみの配偶者が出現すれば、当該女性の人権ガーと云えなくもないだろうが、双方とも納得づくなら其れも善し、実際には信乃の場合、生殖と恋愛で一人の対象に収斂したから全くノー・プロブレムである。仮定は、無意味だ。
 生殖活動と性愛を別物とすれば、異性愛と同性愛の間に人工的な遮蔽物を置いて絶対的に差別することこそが、無意味な愚行であることは明らかだ。既に喪われて久しい本能とやらを取り戻すには、少なくとも現行の文明を放棄せねばならぬ。新たな文明の次元へと進むか、文明そのものを捨て去るか。そうでなければ本能そのままで生きられやしない。例えば筆者が男性同性愛に陥らない理由の一つは、「ケツに挿入たらクソ臭いに違いない」との嫌悪感だが、臭いに対する嫌悪感は絶対的なモノではない。世にはスカトロ趣味の御仁もゐるという。勝手にしてろ、但し近寄るな、としか云い様がない。神は人間を万物の霊長として規定した。人間は【動物】ではなくなった。人間の本能そのものを破壊したことが神の意思ならば、【性の逸脱】を許容することも神は織り込み済みでなければならない。
 また当然、鈴ヶ森で切り結ぶ美少年やら女装美少年のイメージは、八犬伝の犬阪毛野に繋がっている。ならば毛野に絡む犬田小文吾は、単なるポッチャリさんではいられない。行徳界隈を仕切る侠客であった。そして其の侠客こそが、女装犬士/犬坂毛野と絡み、半ば翻弄される。水の如く自由に流れ行く奔放な美少女を、大海のような寛容さで温かく見守る役回りだ{但し実は、悌犬士なので理念上は末弟だったりするけれども}。まさに小説比翼文に於ける長兵衛の役回りだ。少女のように華奢な毛野と大柄な小文吾の組み合わせは、馬琴の理想イメージだろう。
 考えてみれば、小文吾の実家は、各地からの交通要衝たる地方都市/行徳の旅籠であり、本人も経営に携わっていた。旅人を流れる水とすれば、旅籠は、ひととき水が回遊するダム湖のようなものだ。犬阪毛野は小文吾の豊かな胸に飛び込み、ひととき交わって、未練なく姿を消した。水は濁らないまま清らかに流れ去ったのだ。一方で小説比翼文の権八は、長兵衛という侠客の元に引き留められ、そのまま澱み腐った。ちなみに犬塚信乃と出会う以前、既に小文吾は犬飼現八と義兄弟の契りを結んでいた。いい歳をして前髪を落とさずにいたのだから、「義兄弟の契り」を男色関係に置き換えれば当然、小文吾が稚児で現八が念者となる。小文吾は犬士として実家から旅立つに当たって漸く、前髪を落とし【男】となる。後に毛野と出会う。嘗ての稚児が前髪を落として男となり、念者の立場をとる。衆道の再生産過程である。

 上記の如く、男色に対しニュートラルな視点に立ち、小説比翼文に於ける馬琴の態度を見ると、男色を肯定も否定もしていないことが判る。嫌悪感すら表明していない。当然の話だ。小説比翼文に於いて、明らかに男色関係にある権八と長兵衛の二人に対する扱いを見れば解る。権八は掘られ……いや、惚れられた【消極的男色家】であるに対し、長兵衛こそ【積極的男色家】であり、仁侠を維持して善玉であり続けた点だ。長兵衛が実在の歴史人物であり、江戸庶民の人気を集めたからでもあろうが、馬琴は決して、長兵衛に非難を向けていない。男色家であること自体は、当人の価値を減ずるものではない。寧ろ長兵衛の場合、男色性愛が背景にあることで、已むに已まれず罪を犯した者を匿うという、仁侠者らしさを殊更に発揮している。少なくとも此の作品内で破滅はしていない。長兵衛の描き方からすれば、男色家への嫌悪感すら感じられない。長兵衛は絶えず、評価に値する人物として叙述されている。
 即ち、小説比翼文執筆の時点で、馬琴には男色そのものに対する嫌悪感は全く感じられない。そして後の八犬伝執筆時点でも、犬江親兵衛仁に対し細川政元と枝独鈷素手吉の二人が、激しい性愛を燃え上がらせるけれども、政元は悪玉、素手吉は善玉である。しかも政元は親兵衛が靡くことを期待し自宅に軟禁しただけだが、素手吉はレイプしようとしたのだ。いやまぁ実際にはレイプに至らないからこそ素手吉は善玉なのだが、男色嗜好を有することは隠しようがない。政元と素手吉ともに男色嗜好を有しており、善悪に分化するならば当然、男色は悪の絶対的な要件ではない。政元の【悪】は、男色以外の点に求められねばならない。

 付言するならば、八犬伝に於いて、室町幕府管領/細川政元の男色嗜好は、愛宕行者として女色を遠ざけた結果だと説明されている。超越的な力を得るため神仏を恃む性格なのだ。八犬伝で善玉も神仏を恃むことはあるが、具体的な力を得るため祈りはしない。ただ困難に当たって守護を願うとか、其の程度だ。呪術的な力を得ることは、犬山道節が火遁術を放棄した如く、否定されている{里見家・八犬士は伏姫の呪力に守られているが殊更に願ったわけではなく伏姫の一方的な好意に過ぎない}。政元は、努力以上の力を得るため呪術に期待する【理不尽な人物】なのだ。また、秋篠将曹は見抜いていたようだが、政元は親兵衛に国家の重宝/駅鈴を貸与し、私的に使用した罪で捕らえて自由を奪うことを画策したと思しい。捕まってから政元に手渡されたと申し立てても遅い、室町幕府管領/政元が裁判の主宰となるのだから知らぬ存ぜぬと言い張れば、親兵衛の単独犯行にされてしまう。自由を奪い、亀甲縛りにするか如何するかはアレだが、親兵衛の豊満な肉体をネチネチ愉しむ算段だった。親兵衛の親代わり/信乃の映し身である秋篠は、だからこそ急いで親兵衛から駅鈴を取り戻し、政元に突き返した。但し京都の宮廷人らしく、秋篠の口上は「ぶぶ漬け」式の遠回し、政元は苦笑して受け取るしかなかった。政元が、親兵衛を安房に帰国させると見せ掛け罪を着せた挙げ句レイプしようと謀ったことは明らかだ。最後の一発逆転で、親兵衛に一発ぶち込もうとしたのだが、失敗に終わったのである。策を弄してレイプしようなんぞ、陰険にも程がある。
 また、男色といえば近世説美少年録の末朱之介を想起せざるを得ないが、彼は自らの美貌を積極的に利用して悪を為した。真性の男色嗜好者というより、自らの性的魅力を使って出世しようとする偽装男色家かもしれないが、外形上は積極的な男色家である。彼の場合は、とにかく羽振りの良い者に靡く八犬伝の玉梓を男に置換した類型と捉えるべきだ。玉梓が側女として神余光弘とセクロスに及ぶことは寧ろ正当である。ならば朱之介が主君に求められセクロスしたって別に、双方の同意に基づく以上、其れ自体は何の罪にも当たらない。当時の日本に鶏姦罪なぞ存在しなかった。玉梓や朱之介の罪は、あくまで色を以て暗愚の主君を誑し込み操ったことであり、女色でも男色でもない。

 馬琴が男色嗜好者を悪玉に設定する場合、其れは男色ゆえではなく、「裏切り」だったり「性的放埒」であったり「理不尽」であったり「色を以て出世しようとする性根」であったり、とにかく【なおき心】に反することを要件としていることが多い。小説比翼文の権八は、長兵衛という憎からざる念者がいるにも拘わらず、小紫に乗り替えた。此の【裏切り】は、権八の進む道筋を狭めた。売れっ子遊女と恋仲になれば、色町で評判になる。敵に見付けてくれと云っているようなものだ。また本来庇護者であり念者であった長兵衛の支援が期待し難くなる。権八は長兵衛の愛を受け容れた消極的な男色性愛者に過ぎないが、小紫と恋に落ち其れが故に外道へと転落した。

 贅言すれば、「裏切り」や「色を以て出世しようとする態度」であっても、美しく性的魅力に恵まれていなければ、悪玉として成立し得ない面もある。例えば八犬伝の玉梓が醜女であったならば、神余光弘も山下定包も、見向きしなかったであろう。悪玉として人様に多大な迷惑をかけるためには、それなりに権力を有するか、権力者を自在に操らねばならない。暗愚な権力者に懸想され操るためには、性的魅力が必要である。いくら性格が悪くても、醜女であれば、玉梓にはなれないのだ。
 権八の場合は逆に、美しかったからこそ長兵衛に思われ、小紫に愛された{加えて長兵衛にとっては向こう見ずなほどの凛々しさ剛胆さ、小紫にあっては誠実さが不可欠ではあった}。権八が美貌でなければ、小紫と深い仲にはならなかっただろうし、そもそも長兵衛に愛され足止めされることなく小紫とは出会ってもいなかっただろう。八犬伝の玉梓や近世説美少年録の末朱之介のように、自らの美貌を積極的に利用して悪を為すのではなく、美しさ故に愛され、自らの裡にあった【悪】を芽生えさせていく。権八が不細工だったら、長兵衛に懸想されることなく、故に小紫と出会わず、出会っても深い仲にならなかったであろう。

 平井権八は、【男】でありつつも【色/性的魅力】に秀でているため、播随院長兵衞の独占欲を刺激した。手元に留められ、其れが故に小紫と出逢って、人生を狂わせた。そして【男】としての【色】によって、小紫の人生をも狂わせていく。権八にとって、【美しさは罪】なんである。「罪」の因は、父/右内が雉のツガイを二羽とも射殺した昔日の出来事である。此処に於いて、男も女も惹き付ける権八の美貌/性的魅力が、人も羨む果報ではなく、破滅の原因となる父の悪報であったかとが明らかとなる。権八の場合、長兵衞に掘られ……いや、惚れられたことは、不可抗力だから責めるには当たらないかもしれない。しかし加賀前田侯が鼻毛を伸ばして痴呆に見せ掛けた如く、慎む術があっただろう。
 一方、右内は武芸に秀で義に篤く、助太夫から理不尽な辱めを受けても我慢する常識人であった。十分に善良だと認められる。とはいえ八犬伝で、四六城木工作は十分に善良な人物だと認められるが、若い頃から狩猟/殺生を好んだため、横死した。周囲と良好な人間関係を構築する「善人」であっても、其れは人間にとって「善人」であるに過ぎず、【天】から見れば、殺生を好む者は必ずしも「善人」ではないのだろう。しかも右内は、藤原保昌の子孫である。保昌は平安期の有名な武人だ。が、事実ではなかろうけれども、袴垂の兄だとの伝承がある{宇治拾遺物語}。袴垂は保昌と同時代の盗賊/追い剥ぎだ。比翼文で謂う所の「辻斬り」である。希代の武人と辻斬りが兄弟なのだ。まぁ辻斬りだって武芸が拙かったら出来ないわけで、単に武芸に秀でた一族だったというだけかもしれないが、右内・権八が藤原保昌の子孫であるとの設定は、高邁な武人/右内と凶悪な辻斬り/権八とが、共に発生し得る家系だと暗示するものだ。家系・父の殺生・長兵衛との出会い……複数の因果の糸が絡み合い、権八物語が成立していることが解る。

 ところで、「週に一度は……」{→▼}で挙げた如く、好色一代男/世之介は、女護嶋へ旅立った五十四歳までに「たはふれし女」は三千七百四十二人、「もてあそ」んだ「少子(男の子)」は七百二十五人であった。このほか世之介を抱いた男も登場するから、ウケも経験していたけれども相手の人数は不明。一方で江戸笑話には、野暮な田舎者が、江戸の粋人たちに男色は未経験だろうと冷やかされ、男色のスカトロ側面/変態性を指摘して反撃する話がある{「きのふはけふの物語」}。野暮は男色を知らず、好色一代男が五対一の割合で女色と男色を愉しんでいたとするならば、一般に、男色嗜好は好色と親和性が高いと推定される。平たく云えば、好色が嵩じて男色にも手を出す、といったところか。好色の度合いが一定以上となれば男色に進出し、更に好色の度合いが高まれば女色に対する男色の割合も高まっていく、のかもしれない。八犬伝の信乃が精神面での【一生一穴主義】を宣言したように、馬琴は男の側にも貞操を守るよう要請した。男であっても、好色は褒められたことではないとの意識があったのだろう。好色とは、性的放埒である。
 小説比翼文の権八は、長兵衛の愛を受け容れつつ、同時に遊女/小紫と愛し合った。権八の好色/性的放埒を示しており、此の放埒さが一線を越えて辻斬りまで行い始めるキャラクターの核心である。そう考えれば、物語序盤で、助太夫に侮辱を受けた父/右内が家族のことを慮って耐える一方、権八が激昂した場面が思い出される。名誉を重んじる武士の子らしい反応とも云えるが、我慢を知らぬ放埒さをこそ表現していたのだ。放埒でなくとも激昂すべき状況ではあるけれども、馬琴は殊更に父/右内の思慮深い言葉を書き込んでいる。其れを聞いても興奮が収まらず飛び出し斬殺事件を起こしたのだから、実は放埒さを表現しているのである。放埒とは、欲望が自律を超えることだ。また、危険であると警告されながら鈴ヶ森に向かう剛胆さは、長兵衛さえも魅了したけれども、此れも放埒さの表現であった。名誉心や復讐心、剛胆さは一見、放埒な向こう見ずと見分けが付かない場合が多い。例えば同じ絶世の美少年でも、八犬伝の犬阪毛野なら、復讐という目的のみを凝視し深慮遠謀を巡らす。女装して敵の馬加大記に抱かれ犯されながら隙を窺う。いわば、犬ならぬ狼の忍耐強さを備えている。権八には其れが欠如しており、後先を考えずに行動してしまう。直情径行、可愛らしくて魅力的ではあるが、悪い面に出れば、欲望を達成するため辻斬りにまで堕落する【弱さ】を露呈する。権八は、庇護者である長兵衛に愛されると受け容れ、小紫に好意を告白されると深い仲になってしまい、金が足りなくなると辻斬りをしてしまう。剛直に見えて、実は流され易い甚だ弱い人間性を有っている。
 人倫を超えてまで欲望を肯定したがる新自由主義が蔓延っている現状では、権八に共感するムキも多いかもしれない。「辻斬りはイケナイけど、気持ちは解る」。しかし思うに、世の犯罪というものは須く、自分への言い訳を重ね自らの欲望を許容し続けるうち、自然と至るべきものではないか。転がり落ち始めたら、加速度がつく。知らぬうち、なかなか止まらなくなる。一度手を染めたら抵抗感が薄らいでいく。権八も罪悪感を全く喪ったわけではない。辻斬り現場に現れた長兵衛に諭され、羞じている。羞じてはいるが、小紫のもとへと向かってしまう。死の危険を顧みず、欲望を抑えきれないところまで自律心が磨り減ってしまっているのだ。小紫を連れて逃げるが、離れ離れになって切腹せざるを得なくなる。
 史実の権八は、自ら出頭して刑死するのだが、馬琴は切腹させた。先行する文物と同様に馬琴も、権八に【名誉の死】を与えている以上、同情を寄せていることになる。また、権八の悲劇は父/右内が雉のツガイを殺した祟りが原因であり、武人と強盗を共に発生させる平井家の血脈であることが前提となっている。小紫/おきじと愛し合い配偶すれば横死することは、夙に占いで宣言されていた。宿命であったのだ。こうした「宿命」は、権八自身の罪を減刑する仕掛けである。馬琴は権八の、いや【欲望に引かれてしまう人間の弱さ】に共感し同情しているのだ。歌舞伎の世話物なんてのは概ね、人間の弱さに同情を寄せるものだが、小説比翼文執筆当時の馬琴も、此の風潮に同調している。世の風潮に迎合するは、大衆作家として当然の態度だ。しかし後の八犬伝では、家族のため国法を破る庶民/糠助などは別として、人間の弱さゆえ転がり落ちる武家の登場人物たちへの同情は薄い。悪に転がり落ちるないよう踏み止まることを要請している。美しい玉梓に嘆願され助命しようとする、里見義実が顕著な例だ。玉梓を生かしておけば、如何な災厄が里見家に降りかかったかは、精確に分からない。但し、玉梓の相似形と云える舩虫は、犬士に仇為し、何度も助かり何度も犬士を付け狙う。助けられたからと云って玉梓が、悔い改めて善人になるとは思えない。悪いと思っていないから悪事を積み重ねてきたのだ。最期の陳述でも、女の自分が責められるなら、男でありながら神余光弘の死後、山下定包に従った者たちも責められるべきだと言い募る。玉梓は、自己正当化が得意技なのだ。悔い改めることは決してない。玉梓を断罪せねば災厄も断てないし、そもそも理が立たない。よって玉梓は断罪されなばならないし、玉梓怨霊のため伏姫の悲劇は起きるものの、伏姫が犠牲になった結果、犬士が里見家に結集し関東連合軍を打ち破って領国を強固にする。動もすれば同情すべきかに聞こえる玉梓の陳述を跳ね返し理を通すため、若しくは万人を納得させるため、金碗八郎は【過剰な義】を自らに適用し、必要のない切腹をせねばならなかった。玉梓を排除するため八郎が犠牲となり、玉梓を排除したため伏姫が犠牲となった。二人の犠牲の上に、里見家および領民は栄えた。言い換えると、玉梓に象徴される【欲望に引かれる人間の弱さ】を否定するため、二人の魅力的な登場人物が犠牲にならなくてはならなかった。それだけ読者の間にも、【欲望に引かれる人間の弱さ】を肯定したがる性向が強いと想定し得たのだ。

 江戸期、権力/大名の居所で、政務を執る場を表、性行為を含む私的領域を奥と呼んだ。政治決定は表の議論によって進められるが、大名/主権者の内面は「奥」で形成されることがある。権力過程の表面は、男の世界であった。表の世界さえ我利我利亡者の化かし合いであるのに、男が奥に入り込んで主権者/大名と私的関係を結べば、「公」というものが滅茶苦茶になる。青砥藤綱摸稜案の「再篇摸稜案序」冒頭で馬琴は、「治天下之道、惟公而已。公、則胡越一家。私、則肝膽楚越。此古聖人所以視天下為一家」と宣言した。胡越/利害の反する者同士を、一家として組織するためには調整が必要だ。最小限ずつであっても人々の欲望を広く認めて調整する空間が「公」なんである。其処に支配者の「私」/恣意が入り込めば、調整は失敗する。背景には、儒学すなわち「私」/恣意を抑制することが「公」を主宰する支配者に強く求めるという思想が在った。
 やがて八犬伝では、多様な意識をもつ庶民が「一家」として暮らせるよう、為政者/武士に極めて厳しい倫理を求めることになる。現実世界/田原藩にあっては、家老格の渡辺崋山は為政者と同一化し藩士の俸禄を極限まで切り詰めることを考えたが、より下級の小姓格の者たちは俸禄の不足分を補うよう要求した。為政者/武士といっても階層/権限により意識が変わってくることは已むを得まいが、支配階級でありながら上位者へのみ責任を負うとの意識は、庶民に対する責任放棄と表裏一体だ。八犬伝刊行当時、江戸末期に於ける武家の頽廃は、既に「めっぺらぽんのすっぺらぽん」などで言及した。八犬伝は飽くまで、支配階級/武家に対して「甘えるな」と云っているのみである。別に犬士並の倫理観を庶民に求めているものではない。
 小説比翼文{享和四/文化元/一八〇四年}段階で、ただ【欲望に引かれる人間の弱さ】を肯定していた馬琴は、其れを肯定する読者が多いと想定しつつも、否定して社会を前へ進めようという強い意志を持つに至った。まさに【欲望に引かれる人間の弱さ】から脱皮し、より強固な勧善懲悪指向へと成長したのだ。{お粗末様}

 

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