本編「犠牲の巫女」
史記秦徳公二年初伏注云六月初伏之節起秦徳公周代無伏郊祀志云夏至後第三庚為初伏四庚為中伏立秋後初庚為末伏凡四時之相禅皆相生者而独夏禅於秋以火剋金所畏也故謂之伏
按夏禅於秋亦間有土用則相生也(余月亦雖有土用以夏秋之交為主)然則為畏伏之義者非也蓋無別意小暑之後第一庚為初伏二庚為中伏三庚為末伏庚金見剋乎暑火伏也末伏有立秋後也亦残暑甚也
……見るんじゃなかった。簡単に言えば、「三伏」とは、残暑の候である。秋は金気の季節である。夏は火気の季節である。五行相克の理に依り、火克金、金は火に滅ぼされる。それ故、暦の上で夏至が過ぎ、即ち残暑の候、夏季の火気が旺を過ぎて勢いを弱め徐々に秋へと移っていく頃、本来ならば勢いを得る(秋の)金気が、残存する火気のために克される。庚はカノエ、金の兄であり、最も金気らしい日なのだが、その金気の日が、残存する火気に苛まれる。此を「伏」と表現しているのだ。執拗いようだが、里見は源氏であり、源氏は白旗を用いるによって、金気の氏族である。よって、里見も金気の氏族なんだけれども、其の金気が克され「伏」される現象を、こともあろうに、娘の名前にしちゃったのだ。
文学的に云えば、<伏姫は、金気の氏族たる里見家に対する邪悪なる抑圧を象徴する名前を有するによって、里見家に対する悪しきモノの依り代、人身御供としての機能をもたされている>。邪悪なるモノから集団を護るために、集団内の誰かを選び、邪悪なるモノの攻撃を一身に集めさせた上で追放する。なんてのは、よく・ある・話なんである。別に珍しい発想じゃぁない。依り代を人間ではなく、紙とか何かの人形なんかにして行うと、文明開化、今でも行っている宗教行事となる。
いや寧ろ、現代では人間の知性は退化しているらしく、依り代から逆戻り、集団内で<呪われし者>を捏造して、マイノリティー差別、<負の凝集力>を高めようとしたりする。負の凝集力があるならば、<正の凝集力>もあるだろう。人々の思いが理念化し、自由意思によって結束を高めるのが、ソレだ。が、負とは陰、正とは陽、陰と陽は根が同じだったりするから、始末が悪い。負も一見、正に見せかけている場合があって、判然としなかったりする。また、人間は陽を求める存在かもしれないけれども、一方で陰をも有つてしまう。陰を有つことが<必然>であるならば、陰を完全に根絶やしにすることは出来ないし、そもそも全く否定することは不可能である。何故なら、「必然」なんだから。が、陰を散じ、実用上無化することは可能だ。人々の呪いを特定個人に集中し疎外し追放する行為は、紙片などの依り代を<水に流す>行事へと変換/進化し得る。
此処で読者は、或る伝説を思い出しているかもしれない。走水だったか何処だったか、とにかく相模?上総/安房の海へと没した弟橘姫の説話を。古代、海上交通に於いて、海難を避けるため、一種の呪術者を乗船させたようだ。航海中、彼は決して体を洗わない。自らケガレるのだ。ケガレを集中した彼は、海難/禍/神の呪いを、一手に引き受ける。呪いを制御し処理するのだ。コレに依って、舟もしくは船団は、禍を逃れる。もし彼が処理に失敗し、海難の虞がある場合、彼自身が<処理>された。真っ先に殺されるのだ。過去に於ける<呪術的世界>の一齣である。こういった、生身の人間を犠牲にする発想は、やがて、洗練される。「洗練」は、別に難しいことぢゃない。身分の高い者が死んだ場合の殉死を禁じ、替わりに埴輪を古墳に埋める程の、<進歩>で十分だ。負の凝集性が人の<陰部>(って「観音様」ぢゃないぞよ)から発するものであるとも、負のエネルギーを拡散、減力することは、可能なのだ。……此処まで考えれば、現代の集団で、人々の陰なる部分が生み出した各種差別、マイノリティー/異物への圧迫は、過去の洗練された文化を忘却もしくは放棄した為に起こっている、先祖返りの現象であろうと、察しがつく。歴史は一定方向に向かって直線的に動くのではなく、或いは逡巡し或いは逆行し曲折し、何だか能く解らない軌跡を描く。現代人は、過去の宗教民俗を、決して嗤えやしない。逆に、<過去>から嘲笑が聞こえてくるように感ずるときもある。
……何の話だっけ。そぉそぉ、伏姫である。伏姫は、生まれたときから、この依り代の機能を負わされていたのだ。不幸になるべくして名付けられた犠牲の巫女、それが、八犬伝に於ける伏姫の、存在理由だ。……こんな名前を付けた義実が悪い。考えてみれば、此奴、言の咎により、玉梓の呪いを買った。八犬伝に於ける不幸の元凶は、間違いなく、此奴なのだ。悪いのは、義実だ。鋸山が高いのも、海が青いのも、みんなみんな義実が悪いのだ!
伏姫、まるで地獄に産み落とされた如きであるが、地獄に仏、他ならぬ伏姫その人が観音菩薩ってぇんだから、なかなか油断がならない。同情して、損した(←別に損はしないのでは?)。ところで観音様とは、女性器の隠語でもある。女性器とは即ち、男性渇仰の的である。当然、女性にも渇仰なさるムキはあろうけれども。
女性っぽい観音様は、大悲もて衆生を受け入れ包み込むって印象がある。其処に<母性>を見たか、性の排泄対象とされた遊女に擬せられることもあった。擬せられる方は堪らないだろうが、如何やら人の多くは幼児のまま大きくなるらしい。<母性>的な存在が必要なのだ。では、伏姫は、<遊女>なのか? ……多分、違う。彼女には、謎が多過ぎる。彼女は山に棲む姫神だが、同時に、海深く沈んだ弟橘姫とも無関係ではなさそうだ(「日本ちゃちゃちゃっシリーズ」参照)。海と山、何だか<逆>だが、しかし此を「逆」とは思わない心性が、嘗ての日本には、あったかもしれない。
唐突だけれど、日本書紀に拠れば、我が邦の古代史は、とてつもなくエゲツナイ。暴君だらけなのだ。雄略紀なんてのは、まさにソレである。エロ味たっぷりのバイオレンス小説。天皇暗殺事件や其の復讐劇、天皇側室の姦通と残虐な刑罰、後宮の女性を褌一枚にしてCatFightingさせたり盛り沢山だ。そうした刺激的な話の中に、次の様なストーリーが紛れ込んでいる。けっこう気に入っているので、引用して紹介する。
三年夏四月阿閉臣国見(更名磯特牛)譖●(木ヘンに考の中が丁)幡皇女与湯人廬城部連武彦曰武彦奸皇女而使任身(湯人此云臾衞)武彦之父枳●(クサカンムリに呂)喩聞此流言恐禍及身誘率武彦於廬城河偽使●(廬に鳥)●(茲に鳥)没水捕魚因其不意而打殺之天皇聞遣使者案問皇女々々対言妾不識也俄而皇女斎持神鏡詣於五十鈴河上伺人不行埋鏡経死天皇疑皇女不在恆使闇夜東西求覓乃於河上虹見如蛇四五丈者掘虹起処而獲神鏡移行未遠得皇女屍割而観之腹中有物如水々中有石枳●(クサカンムリに呂)喩由斯得雪子罪還悔殺子報殺国見逃匿石上神宮
固有名詞にJIS外漢字があるため読み辛いだろうけども、要するに以下の如きである。伊勢斎宮である皇女と若者が姦通し妊娠した、と讒言する者があった。当時、斎宮は処女でなければならぬ。姦通は大罪だ。しかも雄略には、ちょっとした事で残虐な刑を行う暴君の側面がある。若者の父は、累が及ぶのを避けようとした。件の息子を魚釣りに行こうと誘い出し、いきなり襲いかかって殺した。一方、雄略は、皇女に使いを遣って、噂が本当か尋ねた。身に覚えのない皇女は否定するが、直後に神鏡を携え出奔した。伊勢神宮のある五十鈴河を、人目につかない場所まで遡り、鏡を埋めて自殺した。雄略は皇女の不在を不審に思い、闇夜に捜索隊を出動させた。アチコチ捜した挙げ句、五十鈴河の上で、大蛇の如き、六七メートル程の虹を見つけた。虹が発生している所を掘ると、神鏡が在った。近くに、皇女の屍が横たわっていた。屍を断ち割ると、子宮には水が溜まっていた。水の中には、石のようなモノがあった。此によって、皇女の姦通が無実であると知れた。件の若者の父は後悔し、讒言者に復讐しようとした。讒言者は、聖域である石上神宮へ逃げ込んだ。
何時の世も、珍妙な情報を捏造し、当然、真実だと主張しつつ撒き散らす者はいるものだが、安易に信ずる愚かなる者どもが大勢を占めると、悲劇が起きる。愚かなる者が偶々君主となれば、暗愚と謂う。だいたい君主は暗愚なものだが、雄略も、事実は如何であれ、そう思われていたようだ。疑われること自体が<有罪判決>だったのだ。だからこそ、申し開きもせずに、皇女は自殺せねばならなかったのだろう。操を自ら汚したとアラぬ噂を立てられた女性が、自殺して潔白を証明する。似たよぉな話を読者は、何処かで既に読んでいるかもしれない。皇女の悲劇は、何故に起こったか。勿論、人間の屑だか滓だかの讒言者のセイだが、讒言者は無から有を生ぜしめる者ではない。事実をズラし、虚偽の正当性を纏いたがる。<火の無い所に煙は立たぬ>のだ。この場合の「事実」は多分、皇女の腹部が平生より膨れた、ぐらいであっただろう。其れを妊娠の兆候と決め付け、若者と密通した証拠だと言い立てたのだ。自殺した皇女の腹を割くと、其処には水が溜まっており、玉……ぢゃなかった、石が入っていた。「胎児を宿してはおらず密通の証拠はなかったけれども、何だか入っていた」のである。<何もなかった>ワケではない。即ち、<何かがなければならなかった>、説明せねばならぬ現象があったといぅことだ。皇女の腹が膨れたであろうと、此の点から知れるのだ。また、水と石が入っていた、ってぇのは、何らかの病症を想定させる。八犬伝で時々使用される「張満」だったろうか。
前に景行紀が、八犬伝の基層に触れると指摘したが、筆者は此処で、馬琴が雄略紀から伏姫や雛衣の悲劇を思い付いたと主張したいワケではない。が、日本書紀は官選国史の嚆矢であり、それ故に保存状態も良く、既に失われた物語を微かながら伝えてくれている。この列島に住み現在まで文物をリレーしてきた人々の、過去に於ける想像力を、或る程度は保存している。其れが故に、貴重なのだ。別に、叙述が史実と完全に一致しているとかは、思ってもいない。書紀は、オハナシの集大成でもあるのだ。そして、八犬伝も、オハナシの集大成たる側面を持つ。両者に共通点があるのは、寧ろ当然のことだ。書紀から直接に繋がらなくとも、書紀から発し、もしくは書紀を経由して、連綿たる人々の<想い>が、八犬伝へと流れ込んでいる。多くの支流が合わさり、滔々たる大河となっている。大河は、大海へと流れ込み、拡散する。海は大きすぎる。ドレが元の大河から流れ込んだ水か見分けが付かない。拡散し、霧消する。其れは、<無>と言って良い。散在していたモノどもが一点に凝集し、一瞬にして雲散、無に帰するのだ。にも拘わらず、其れは、元の<無>ではない。そう、信じたい。
……はっ! いったい私は何を言っているのか。そぉぢゃなくって、雄略紀である。オハナシの集大成たる書紀だから、雄略紀にも有名なオハナシがある。形を変えて、皆さんも御存知の筈だ。
(雄略)廿二年……秋七月丹波国餘社郡管川人瑞江浦嶋子乗舟而釣遂得大亀便化為女於是浦嶋子感以為婦相入海到蓬莱山歴覩仙衆……
雄略二十二年七月の或る日、丹波国餘社郡管川の人、瑞江浦嶋子さんは、舟釣りをしていた。釣り上げた大亀が、突如、女性に変じた。浦嶋子さんはゾクゾクッと感じてしまい、ヤッた(←変態め!)。二人して後になり前になり、海に入った。蓬莱山に辿り着いた。多くの仙人に出会った。
所謂、浦島伝説だが、此処では<竜宮>ではなく「蓬莱山」となっている。また、主人公が「瑞江浦嶋子」となっており、現代の感覚では女性っぽい。雄略紀には他の箇所で「十三年春三月狭穂彦玄孫歯田根命竊奸采女山辺小嶋子」とある。「小嶋子」さんは「采女(ウヌメ)」とあるから女性である。小嶋子さんが女性である以上、浦嶋子さんが女性であっても、別段、不思議はない。例えば、雌亀に首をウンと伸ばして貰い、甲羅に跨って……オホン、いや、何でもない。まぁ、話がヤヤコシくなるので、通例に従い、浦嶋子さんを男性であるとしておこうか
また、上記、浦島伝説は、風土記逸文(丹後国分)にも残っている。雄略紀との相違は、「大亀」が「五色亀」に、「浦嶋子」さんが「嶋子」さんになっている点などだ。そして、浦嶋子もしくは嶋子さんが亀と共に赴いた場所、共に蓬莱なんだけれども、描写が大きく異なる。雄略紀では、単に仙人の世界って感じで、帰って来たとも何とも書いていない。書いていないが、まぁ、仙境であるから、不老不死の薬ぐらいはあっただろう。浦嶋子さんも飲んだかもしれぬ。風土記に登場する蓬莱は、ハッキリ言うと、何が何だか解らない。鯛や平目は舞い踊らない代わりに、星が登場する。五色亀を「姫」と呼んで恭しく迎えるのが、七つの昴(ボウ/スバル)と八つの畢(ヒツ/アメフリ)なのだ。共に、古代のホロスコープ(二十八宿)で用いられた星座である。既に読者は、容易に此の「蓬莱」が何か、お解りであろう。「黒き星シリーズ」で、星の主宰者が、妙見菩薩であると述べた。妙見とは北極星もしくは北斗七星(八星)であり、北の星であるから、玄武(亀と蛇をモデルにした架空の動物)によって、象徴され得る。そして北は水気の方位だ。女性は水気であるから、オハナシの都合上、亀は雌である方が良い。
尤も、だからと言って、浦嶋子さん若しくは嶋子さんが男性である証明にはなりゃしないのだが(←執拗いぞ)。そう、風土記に於いて、嶋子さんが行ったのは、<星の世界>なんである。亀姫が光速を超える速度で飛んだから、地球上の時間とズレが生じ、本人は三年だけ家を空けていた積もりだったが、三百年後の地球に帰ってきちゃったのだ。……なんて事を言いたいワケでは決してない。決してないのだが、まぁ、風土記の叙述は、家に戻った嶋子さんが約束を破って玉手箱を開け不老不死ではなくなるっていぅ所まで書いており、現在流布している御伽話に、より近い。浦嶋子さんは知らぬ間に三百年分も齢を重ねた。普通なら死んでる。が、嶋子さんは死なない。泣きながら歌を詠んだりする。……如何やら嶋子さん、<不老>ではなくなったが、<不死>のままだったようなのだ。これほど酷い仕打ちがあるだろうか。
そぉいえば、こんな怪談を聞いたことがある。細部はウロ覚えだが、基層は間違いない。
丑三刻の海上、烏賊釣り船なんか操業していると、朽ち果てた漂流船に遭遇することがある。霧に遮られて能く見えないが、甲板には幾人もの人影、丸く口を開けて何か叫んでいるようだ。勿論、烏賊釣り船は救助に向かう。が、近寄ってみると、甲板に並んでいたのは、ゴクッ、生きた人間が丸く口を開けて叫んでいたのではなく……並んでいたのは……並んでいたのは……<ダッチ・ワイフ>であつた! 凡そ器物は、作られてから百年も経つうち、魂を得る、という。怪談だって、百話を語ると本物の幽霊が出現するといぅし、化け物の見せ物小屋もハリボテの妖怪が百体になれば本物の妖怪になってしまう、なんて話も聞く。ダッチ・ワイフが百年も昔からあったのか、だって? あった。筆者は以前、南欧の産だといぅ、総皮革製のダッチ・ワイフを見たことがあるが、まぁ、説明板に「グッチ製」とあったのは眉唾だけれども、百年以上前の製品であると指摘してあった。御覧になりたければ、愛媛県宇和島市の凸凹(アイ)神社宝物館を訪ねられたら良い。多分、まだ在る筈だ。
魂を宿してしまったダッチ・ワイフ、相手が男だったか女だったかは知る由もないが、とにかく人の手に触れ膚を重ねたモノである。百年を経ずして、生命を吹き込まれることもあろう。差し当たって、蛋白質を豊富に浴びる筈だしぃ。が、彼らの肉体は、人間と比べれば、<不老不死>である。命を持ってしまった彼らは、死ぬことが出来ない。これ以上の責め苦があろうか。無間地獄である。憂き世の呵責も、いずれ終わりがあると思うからこそ、耐えられる。苦しみが永遠であるとすれば、何を救いにすれば良いのか。ダッチ・ワイフたちは、自らを創造せし人間を男の欲望を女の欲望を、憎んだ。永遠の苦しみを辛うじて耐えるためには、永遠に復讐を続けるしかない、と彼らは思い付いてしまった。
ダッチ・ワイフの群が乗る船に不幸にも遭遇した烏賊釣り船は、全滅する。運良く辛うじて母港に辿り着いた者もあつたが、程なく衰弱死した。船の甲板には累々たる死屍と、何だか分からないが<赤玉>が人数分、転がっていた。烏賊釣り船だから勿論、烏賊臭い。乗組員の死因は、腎虚か腹上死であった。如何やら、ダッチ・ワイフの呪いで、死ぬまで精を抜き取られたらしい。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。
この怪談にはタイトルも付けられている。即ち、「彷徨えるダッチ・ワイフ」…………あれ? 「彷徨えるオランダ人」だったかな。まぁ、如何でも良い。筆者は単に、<不死>なんて実際には、この上ない苦痛にしかならぬと言いたかっただけなのだから。
今回も脱線してしまったが、次の機会には、もう少し真面目に語ろう読本本編「耐え難き郷愁」である。
お粗末様。