番外編「容れられざる者」
――ウメボシ伝説シリーズ1――
いきなりだが、日蓮の「種種御振舞書」を少しだけ引用する。
ゆいのはまにうちいでて御りやうのまへにいたりしかばいそぎいでぬ。今夜頸切られへまかるなり。この数年が間願いつる事これなり。此の娑婆世界にしてきじとなりし時はたかにつかまれねずみとなりし時はねこにくわれき。或はめこのかたきに身を失いし事大地微塵より多し。法華経の御ためには一度だも失うことなし。されば日蓮貧道の身と生れて父母の孝養心にたらず国の恩を報ずべき力なし。今度頸を法華経に奉りて其の功徳を父母に回向せん。其のあまりは弟子檀那等にはぶくべし、と申せし事これなり、と申せしかば左衛門尉兄弟四人馬の口にとりつきてこしごへたつの口にゆきぬ。此にてぞ有らんずらんとをもうところに案にたがはず兵士どもうちまはりさわぎしかば左衛門の尉申すやう、只今なりとなく。日蓮申すやう、不かくのとのばらかな、これほどの悦びをばわらへかし、いかにやくそくをばたがへらるるぞと申せし時江のしまのかたより月のごとくひかりたる物まりのやうにて辰巳のかたより戌亥のかたへひかりわたる。十二日の夜のあけぐれ人の面もみへざりしが物のひかり月よのやうにて人人の面もみなみゆ。太刀取目くらみたふれ臥し兵共おぢ怖れけうさめて一町計りはせのき或は馬よりをりてかしこまり或は馬の上にてうずくまれるもあり。日蓮申すやう、いかにとのばらかかる大禍ある召人にはとをのくぞ近く打ちよれや打ちよれやと、たかだかとよばわれども、いそぎよる人もなし。さてよあけばいかにいかに頸切べくはいそぎ切るべし、夜明けなばみぐるしかりなんとすすめしかども、とかくのへんじもなし。
はるか計りありて云く、さがみのえちと申すところへ入らせ給へと申す。此れは道知る者なし。さきうちすべしと申せどもうつ人もなかりしかば、さてやすらうほどに或兵士の云く、それこそその道にて候へと申せしかば道にまかせてゆく。午の時計りにえちと申すところへゆきつきたりしかば本間六郎左衛門がいへに入りぬ。さけとりよせてもののふどもにのませてありしかば各かへるとてかうべをうなたれ手をあさへて申すやう、このほどはいかなる人にてやをはすらん、我等がたのみて候阿弥陀仏をそしらせ給うとうけ給わればにくみまいらせて候いつるにまのあたりをがみまいらせ候いつる事どもを見て候へばたうとさにとしごろ申しつる念仏はすて候いぬとてひうちぶくろよりすずとりだしてすつる者あり。今は念仏申さじとせいじやうをたつる者もあり。六郎左衛門が郎従等番をばうけとりぬ。さえもんのじようもかへりぬ。
其の日の戌の時計りにかまくらより上の御使とてたてぶみをもちて来ぬ。頸切れというかさねたる御使かともののふどもはをもひてありし程に六郎左衛門が代官右馬のじようと申す者立ぶみもちてはしり来りひざまづひて申す。今夜にて候べし、あらあさましやと存じて候いつるに、かかる御悦びの御ふみ来りて候。武蔵守殿は今日卯の時にあたみの御ゆへ御出で候へば、いそぎあやなき事もやと、まづこれへはしりまいりて候と申す。かまくらより御つかいは二時にはしりて候。今夜の内にあたみの御ゆへはしりまいるべしとてまかりいでぬ。追状に云く、此の人はとがなき人なり、今しばらくありてゆるさせ給うべし、あやまちしては後悔あるべしと云々。
其の夜は十三日兵士ども数十人坊の辺り並びに大庭になみゐて候いき。九月十三日の夜なれば月大にはれてありしに夜中に大庭に立ち出でて月に向ひ奉りて自我偈少少よみ奉り諸宗の勝劣法華経の文あらあら申して抑今の月天は法華経の御座に列りまします名月天子ぞかし、宝塔品にして仏勅をうけ給い嘱累品にして仏に頂をなでられまいらせ、世尊の勅の如く当に具に奉行すべし、と誓状をたてし天ぞかし、仏前の誓は日蓮なくば虚くてこそをはすべけれ、今かかる事出来せばいそぎ悦びをなして法華経の行者にもかはり仏勅をもはたして誓言のしるしをばとげさせ給うべし。いかに今しるしのなきは不思議に候ものかな、何なる事も国になくしては鎌倉へもかへらんとも思はず、しるしこそなくともうれしがをにて澄渡らせ給うはいかに、大集経には、日月明を現ぜず、ととかれ、仁王経には、日月度を失う、とかかれ、最勝王経には、三十三天各瞋恨を生ず、とこそ見え侍るにいかに月天いかに月天とせめしかば、其のしるしにや天より明星の如くなる大星下りて前の梅の木の枝にかかりてありしかばもののふども皆えんよりとびをり或は大庭にひれふし或は家のうしろへにげぬ。やがて即ち天かきくもりて大風吹き来りて江の島のなるとて空のひびく事大なるつづみを打つがごとし。
夜明れば十四日卯の時に十郎入道と申すもの来りて云く、昨日の夜の戌の時計りにかうどのに大なるさわぎあり、陰陽師を召して御うらなひ候へば申せしは大に国みだれ候べし、此の御房御勘気のゆへなり、いそぎいそぎ召しかえさずんば世の中いかが候べかるらんと申せば、ゆりさせ給へ候と申す人もあり、又百日の内に軍あるべしと申しつればそれを待つべしとも申す、依智にして二十余日其の間鎌倉に或は火をつくる事七八度或は人をころす事ひまなし、讒言の者共の云く、日蓮が弟子共の火をつくるなりと、さもあるらんとて日蓮が弟子等を鎌倉に置くべからずとて二百六十余人しるさる皆遠島へ遣すべしろうにある弟子共をば頸をはねらるべしと聞ふ、さる程に火をつくる等は持斎念仏者が計事なり。其の余はしげければかかず。
同十月十日に依智を立つて同十月二十八日に佐渡の国へ著ぬ。十一月一日に六郎左衛門が家のうしろ塚原と申す山野の中に……(略)
かくてすごす程に庭には雪つもりて人もかよはず。堂にはあらき風より外はをとづるるものなし。眼には止観法華をさらし口には南無妙法蓮華経と唱へ夜は月星に向ひ奉りて諸宗の違目と法華経の深義を談ずる程に年もかへりぬ……(略)
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さて、上記物語を本稿の関心に引き付けて読めば、「ゆいのはまにうちいでて御りやうのまへにいたりしかば」が、まず気になる。「御りやう」が「御陵」なら親類縁者の墓を気取って言ったとも考えられるが、「御霊」なら例えば牛頭天王や菅原道真って解釈も可能となる。自分が嫌われるのを<理不尽な迫害こそ正しさの証明>みたいに考えていた日蓮が、御霊/天神/菅原道真に深いシンパシイを感じたとしても、全く不自然ではない。日蓮に就いて不案内な私は此の点、先学の教示を俟たねばならぬ。次に、「種種御振舞書」ハイライト所謂「竜の口法難」がある。北条執権家の勘気に触れた日蓮が、処刑されかけた事件である。記述では「江のしまのかたより月のごとくひかりたる物まりのやうにて辰巳のかたより戌亥のかたへひかりわたる」とある。
現在、龍口寺のある位置を「法難」の現場だとすれば、江の島は南/午ではあるけれども、「辰巳(南東)」とは言い難い。龍口寺は日蓮宗の霊場本山で、「法難」を記念し中世のうちに建てられた。ワザワザ見当外れの場所に建立するとも思えないから、やはり現場は此処等辺なのだろう。ならば、江の島から発した月の如く光る鞠のような物体は、一度東へ走り、それから戌亥方向へと飛んだことになる。いかにも不自然だ。まぁ、不自然ではあるが、そう解釈しても別に構いはしない。また、「江のしまのかた」と辰巳が重複だとする。現在の地図ではオカシイが、日蓮も磁石を持ち歩いていたワケではあるまい。誤解だとも十分に考えられる。何連にせよ、月のように光る玉は、江の島から発した。
そして最も興味を惹く箇所は、九月十三日条、日蓮が月に向かって駄々を捏ねるシーンだ。傲慢、此処に極まれり。こういうのを増長慢って謂うのだろう。隣にいたら迷惑千万な性格だが、遠目に見る分には滑稽かつ愉快なオジサンだ。まぁ、日蓮の性格なんて如何でも良い。問題は、「天より明星の如くなる大星下りて前の梅の木の枝にかかりてありしかばもののふども皆えんよりとびをり或は大庭にひれふし或は家のうしろへにげぬ。やがて即ち天かきくもりて大風吹き来りて江の島のなるとて空のひびく事大なるつづみを打つがごとし」である。「明星の如くなる大星」は、まるで同義語反復、知性を疑いたくなる表記だけれども、「明星」は「明星天子」の省略形と解するべきだろう。そう読めば、同義語反復の誹りのみは免れる。免れるけれども、苟も文章を書く者は、こんな誤解を生ぜしめ得る言い回しをすべきではない。……いや、そんなことを言おうとしたのではなかった。「梅の木」である。星は何故に、梅の木に墜ちねばならなかったのか。Because they are there. 其処に其れが在るから、本間六郎左衛門の館に偶々梅が植えられていたから、ではなかろう。それに大体、見逃してならぬのは、日蓮が言いがかりをつけた対象は、あくまで月天/名月天子である。なのに、明星天子が墜っこちてきた。名月天子に因縁をつけたら、俺の主張を正当と認めて明星天子が墜ちてきた、だから俺は正しい、と日蓮は御得意の強引な論理を展開している。名月天子を誹謗したのだから、月が墜ちてきて然るべきだ。まぁ、星を月の眷属と考え、月が星を使として寄越したぐらいの解釈が穏当だろうか。日蓮のことだ、奇妙な事象でも、自らの無謬性を主張するためなら、どんな強弁もするだろう。だから、突っ込む価値はない。
しかし其処を敢えて突っ込めば、いくら月を中傷したとて、星こそ墜ちてこねばならなかった。日蓮に倣って、少々強弁を弄すことにしようか。星が墜ちてきた場所に、偶々梅があったのではない。梅があるから、星が墜ちてきたのだ。古来、梅と星は密接に繋がっている。日蓮系寺院の多くには、星の神、妙見が祀られているようだ。月に理不尽を言い募る部分に続き、佐渡に流された日蓮の日常として「眼には止観法華をさらし口には南無妙法蓮華経と唱へ夜は月星に向ひ奉りて諸宗の違目と法華経の深義を談ずる程に年もかへりぬ」とあるは、日蓮が妙見信仰なる月星への迷信に耽溺したことを示していよう。更に又、月を譏ったとき「江の島のなるとて空のひびく事大なるつづみを打つがごとし」と、またしても江の島が登場していることから、妙見と江の島が日蓮の中で結びついてことが分かる。
江の島は、言わでも知るき、日本三弁天の一である。弁天ってやぁ別嬪だが、陰であるによって水であり、月である。月星の女神とも解釈可能だ。惟えば、幼き日の信乃を守護したのは滝野川の弁天であった。弁天は歌舞に縁あるから、毛野を思い出させる。信乃は玉兎に喩えられたが、毛野は星/妙見と無縁ではない。ツイデに言えば妙見は、妙(たえ)なる見かけ、と解した江戸人によって別嬪の神とされ、遊郭などで信仰されたという。さすが、毛野の係累である。
ところで梅といえば天神、天神といえば梅だろう。天神は御霊(ごりょう)の一つとされる。個人的にはオンリョウと読みたいぐらいで、臣籍にあった者のうち最強/最凶の怨霊だ。天満天神、菅原道真といえば政争に敗れて遙か九州・太宰府に左遷された挙げ句客死、今や学問の神様になっている。梅を愛した彼の館は紅梅殿と呼ばれ、左遷の旅へと赴く折「東風吹かば匂いおこせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ」と詠じた。梅尽くしの彼を祀った天満宮は梅花を紋章としているけれども、此を俗に「梅星」と呼ぶ。だいたい「天満天神」なんだから、「星」は仲々に似合っている。
彼は学問、就中、詩文を以て知られているが、十一歳のときに処女を喪った。早いと御思いだろうか。しかし好色一代男・世之介は、同年代の頃、十歳の時すでに美々しく着飾って媚びを振りまき、「よきとほむる人のあらば。只は通らじと、常々こころをみがきつれど」と、男どもの欲望を自ら漁っていた(無責任随筆・猿の山「週に一度は……」参照)。
勿論、私は道真が誰かの稚児だったと言いたいのではない。其の様な話題は本稿にそぐわないし、男色の疑いなら、彼の政敵・藤原時平の方が濃厚だ。時平は美男子だったらしい。当時の感覚だから色白ポチャポチャ系だったろうけど、彼は延喜帝の寵を受けた。だからこそ道真を蹴落とせた。道真に同情する必要はない。今も昔も同じなんだから、取り立てて道真だけが不幸なのではない。よく・ある・話だ。例せば、時平が生きた百年後いわゆる院政期、各人の政治力は帝・上皇などとの男色関係の濃淡に比例した。椿説弓張月の端緒となった保元の乱なんて、衆道の鞘当てが原因だったかもしれないのだ。美男子・時平が秀才・道真を追い落とすカギは、まぁ男色も含めた延喜帝との<関係>であったようだ。但し、時平の名誉の為に付言すれば、彼は女色にも溺れていた。老いた叔父から若妻を奪い、しかも相手に責任をなすりつけるなんて狡猾さを示した。叔父は憤死した(新蒟蒻物語「若妻を取ること」参照)。
道真の処女喪失は十一歳のときだった。勿論、男色の話ではない。其の様な話題は本稿にそぐわないし……(以下略)。詩文に就いての話である。彼の処女作は「月耀如晴雪 梅花似照星 可憐金鏡転 庭上玉房馨」だとされている(北野天神記など)。「金鏡」は玉兎、月のことだ。玉房は、玉梓と八房を足して二で割ったのではない。房は「閨房術(寝室作法すなわち性交術)」と言う如く、部屋のことだ。だから玉房は一般に、「美々しく玉を鏤めた部屋」ぐらいになる。なるけれども、此の場合は違って、「玉みたいな部屋」ぐらいの意味も付随する。「美しい玉のように丸い部屋」だ。それが「馨る」んだから、「玉房馨」は「美しい玉のような花が馨っている」となる。花弁が半球を構成したとき見頃となる梅を指すと解すべきであろう。八房の「房」は(牡丹の)花を意味していた。そして、此の漢詩中、本稿が注目すべきは、「梅花似照星」なるフレーズだ。上で天満天神の梅花紋を「梅星」と呼ぶって言ったけど、天神本人が両者の親近性を宣言している。勿論、彼の独創に依るのではなく、彼以前に醸成された日本人としての感覚ではあろうが、其の感覚を彼本人が受け入れていたことは重要だ。
ところで先程、道真が最凶の怨霊だと口を滑らせたが、簡単に理由を述べよう。抑も日本は神国である。別に他国と比べ優越しているワケでは決してないのだが、神国だって言うんだから、兎に角、神国なんだろう。別に如何でも良いようなものだ。そして、神国の神々を率いるのは天照大神であり、天照大神の子孫もしくは司祭が、天皇である。故に天皇は、天照大神を首班とする八百万神に守護されている筈だ。
また、天皇は、仏教によっても(霊的に)手厚く保護されていた筈だった。仏教は公伝した後、聖徳太子とか何とかゴチャゴチャあって、<国教>になった。反論なさるムキもあろうかとは思う。日本の国境は神道であると。確かに、理にも合わぬエゲツなくイーカゲンな神話の集合体も宗教ではあろうし、其を国教にしたって、別に構いはしない。国教だってんだったら、国教なんだろう。しかし、仏教も国教であった。国教の定員が一つだと決め付ける発想自体、何だかバタ臭くって賛同できない。国教なんて、幾つあっても良いだろう。国教とは何かってぇと、例えば、対外的に政府と認められた朝廷が、全国の神社を秩序づけ、場合によっちゃぁ官位を与え、国庫から支出して祀ったりすることだ。神道が、此に当たる。
同様に、古代前半、民間寺院が戒壇を持つまでは、僧侶になるための許可は官立寺院の独占であった。勝手になったら、私渡僧などと呼ばれた。官立寺院は国家の機関であり、僧侶・尼僧は公務員であった。少なくとも国家資格を有する者であった。鎮護国家、仏教は国を治める術であり、寺院は行政機関であった。ただ単に、今日的な意味での「行政」を担当していなかっただけだ。各国に国分寺・国分尼寺が置かれ、奈良・東大寺が統轄した。因みに東大寺の建立に協力し守護していたのは、応神天皇・八幡大菩薩だったりする。八幡、伊勢と並び天皇の「二所宗廟」とされた神社だ。古代後期以降、僧の任命権が民間に移ってからも、天皇は明治トンチンカン政府が勘違いを犯すまで、長く仏教に帰依し且つ保護者であった。尤も伊勢神宮などでは仏教を禁忌としていたが、表面上だけのことであり、天皇と仏教は千三百数十年間、概ね蜜月の関係にあった。
そんな天皇だから、仏教の地獄に堕ちる筈はない。例外として、現職天皇に対し謀反した崇徳上皇なんかは墜ちたかもしれないが、一人の臣下を不幸にしたぐらいで地獄に堕ちた天皇は、理論上存在し得ない筈なのだ。が、論理・原則を超越して、最強である筈の天皇に対する霊的ガードを、いともた易く打ち破った男がいた。菅原道真。彼が最強/最凶である所以である。
寵愛する藤原時平にケツの毛まで抜かれたか、延喜帝は地獄に真っ逆様に墜ちていき、墜ちるだけではなく、鬼どもに折って畳んで裏返されトコトン陵辱され弄ばれ痛めつけられた。目も当てられぬほどグッチャングッチャンにされる。……まぁ、「目も当てられぬ」なんていうのは嘘になるかな。どうせ他人事だから、どんな残虐な仕打ちでも見る分読む分には、痛くも痒くもない。……っと地獄の様子を紹介しようと思ったが行数が尽きてしまった。それでは今回は、此迄。(お粗末様)