番外編「地獄に堕ちた帝王」
――ウメボシ伝説シリーズ2――
まずは前回言いかけていた地獄の様子を紹介しよう。
四鉄山相去四五丈許其間有一茅屋々中有四筒人其形如灰{炭?}一人有衣覆々背上余三人裸形也蹲居赤灰曾无床席悲泣鳴咽獄領曰有衣一人上人本国延喜王余三人其臣也君臣共受苦云々王見仏子相招給仏子即入茅屋敬屈奉王曰不可敬冥途無罪為王不論貴賤我是日本金剛学大王之子也然而堕此鉄窟苦所我居位年尚矣其間縦種々善亦造種々悪報先就大感得此鉄窟報出鉄窟之後善法愛重故当生化楽天云々仏子言大王治天下間犯重倫何故堕給此所自他作業重故堕此獄所其他物太政天也其天神以怨心令焼滅仏法損害衆生其所作悪報惣来我所我為其怨心之根本故詔太政以下十六万八千悪神為其眷属含恨報怨我聖父法主天慇懃誘喩彼天神遮妨其悪雖然其十六万八千鬼兵作悪不止是故我苦相続不断何時生化楽天父子苦愛楽我生前犯罪取大有五云皆是因太政天之事也今悔不及令我父法王深温世事如天険路行歩心神因苦其罪一也自居高殿令聖父坐下地焦心落涙其罪二賢臣事没流其罪三久貪国位得怨滅法其罪四令自之怨敵損他衆生其罪五也是為根本自余罪枝葉无量也受苦無休息苦哉悲哉地獄来人還出期遠寄誰伝此事念間今上人来還而逢■喜一二陳而已努力々々如我辞可奏主上我身在鉄窟受大苦毒幼主居位安穏不坐我身切々辛苦早々救済給……略(道賢上人冥土記)
有鉄窟地獄云少別所在縦広八百由旬満猛火鉄城内鉄壁如金剛山利剣無足路所猛風四方鳴動火炎覆黒雲空有鉄觜●(テヘンに鳥)鳥抜在任之脳眼有鉄牙狗●(ニスイに食)罪人脳或獄卒怒眼振剣或虎狼競走開口以鉄●(国に爪)製面僅残骸骨獄卒以鉄棒打研罪人従頭至以利剣切割厨者似屠肉其中亦如焼炭罪人有叫喚声聞忝有延喜帝御声急此由急此由問獄卒答云聖人見知乎此罪人秋津洲主延喜帝不終云貫鉾投入大火之底不当見目心憂中中無計云々(北野天神御縁起)
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一般人だって此処迄酷い目に遭うことは少ないだろうに、天皇の身で、道真一人の為に凄惨な罰を受ける。天皇は不可侵な存在では、決してなかった。道真一人に、容易く粉砕されるのだ。所詮、権力者は人々の想像力、例えば恐怖心だったり利権への期待などを操作し、若しくは其に取り縋って保身を図る寄生虫みたいなモンだが、人々の想像力は逞しく自由なので、至極簡単に、実在の権力者より強力かつ上位の何かを捏造する。御子様でも解ろう理屈だ。
道真の悲劇を触媒として、人々の想像力が、軽々と天皇を超えた。日蓮の場合、凌駕の対象は北条執権家であったが、道真の場合は延喜帝であったのだ。それだけのことだ。そして、八犬伝の場合は……。
えぇっと、日蓮と菅原道真を取り上げてきたが、どうも此の二人、けっこうヒネた性格だったようだ。そこで、もう一人、性格の悪さなら劣らぬ人物を持ち出さねば収まらぬ。だが此奴、性格が悪い上に超人だから始末に負えない。他ならぬ神変大菩薩、八犬伝の主宰神だ。
「鳥だ スーパーマンだ いや、役行者だ!」でも紹介したから本稿の読者は役行者に就いて既に御存知だろうけど、前に使わなかった史料で彼の生涯を振り返る。
小角者和州葛木上郡茆村人也姓賀茂役公氏其先大己貴神之児味●(金に且)鷹彦根神亦名鷹鴨神十一世孫大鴨積命磯城瑞籬朝御世賜賀茂君姓小角母氏其苗裔矣角母面貌甚醜莫敢娶者至年二十四詣熊野神祠神啓殿戸授縁起文感得還郷秘在筺底夜夢化人来宿入懐其夜又夢有小牛角従天而下飛入口中覚而便娠有胎七月舒明六年正月朔旦誕焉母無痛苦児有奇相合掌唱曰化一切衆生皆令入仏道作是語已又無余詞自後結舌不語状類●(ヤマイダレに音)●(ヤマイダレに亞)之人阿母喜悲交懐有舅氏願行者因母瑞夢為与小字曰役小角年甫七歳復唱前句自此已後弁舌如流稟性聡明至孝仁慈……中略……母曰汝父化人夢中来入我懐又一牛角自天下入口故我有孕及汝之産光明出臍飛去南方留紀州牟婁郡備里想是汝父之住処歟……中略……年十三敏悟博識早得霊感縛鬼降神有同竺仏円澄善誦神咒役使鬼物至十六歳入和州平群膽駒嶽駆逐二鬼以為使令一名善童一名妙童……中略……年十七棄家入葛木山棲居……中略……斉明四年春三月十七日二十五歳登摂州箕面山傍渓沂流行至巌下仰観嶮崖有三丈許黒●(虫に也)幡屈淵底時出見人卓杖於?踏石攀躋其杖足跡今猶在焉……中略……名曰雌瀧可高十五丈許水従巌上懸流望之如掛瀑布頂有瀧穴其深不測有瀧色班長三丈余動興黒雲暴●(サンズイに樹のツクリ)大雨飛流點額難可登踐於是小角至竭誠修供弥月其年四月十七日夜夢見為欲知龍穴底編剣著身懸●(糸に亘)于腰沈入淵底可一里許有一大城石門牢封聞門内有伎楽之声声甚清徹小角怪跪門側誦咒洛叉于時門内有声問誦咒誰答言日本役小角也未審問者是何人乎答言我是徳善王也即与開門引手上殿小角生難遭想四望瞻眺即有金楼銀閣玉殿……中略……正面宝座龍樹菩薩弁財天女●(立が二つ)座儼然宇賀神王十五童子侍衛左右似世皇居時徳善王用壇上香水灌小角頭額舒手摩頂告曰是名密灌汝還本所竭力流伝焉小角感喜顔面礼足夢覚心地洞明昔●(田に比)盧舎那仏以秘密真言印付金剛薩●(土に垂)薩●(土に垂)伝瑜伽之法咒密印大●(即の下に)感悟本朝此時未聞密教之名而夢伝授自非宿智所憾孰能与於此哉化野神君曰此国普賢龍樹伝密教之地也由是観之宜乎小角里謁受龍樹也其歳十月十七日箕面瀧側営構伽藍安龍樹像……中略……伝曰役君不動明王応化也天智六年三十四歳負母登大峯相攸于池岑構茅屋掩柴扉令母棲焉乃有異禽怪獣銜果●(クサカンムリに瓜ふたつ)来授之小角居山九載之間回峯四十五度水菽温清未嘗有缺一日小角在深山宿欲洗浴身四顧惟巌無由致水以独鈷杵刺石清水崩注三次至乎七日身心清潔智慧益明尋躋剣嶽有一骸骨其長九尺五寸形骸不折支節全連左手持独鈷右手把利剣仰面而臥眼孔生樹小角見之感怪欲取剣杵竭力挽之雖?石動不敢放手小角弥怪持念乞明王援明王夢告曰汝七生閻浮初生西竺次生東震後皆日本今此枯骨汝第三世生之遺骸也念誦千手神咒五返般若心境三巻輙可獲之夢覚如教而取果得焉……中略……持統帝辛卯春復攀葛嶺一言主神与角互相合心合徳為法導師遍遊諸国抜衆生毒伏群魔障……中略……小角大怒将咒縛之小角自嚮以咒術称朝散大夫韓国連広足師焉至此嫉其勝能讒以妖惑于時一言主神乗其幣託宮人曰我是管逆寇之神也竊見役小角潜窺国家不急治殆乎危宮人以聞文武帝下勅召小角……中略……便配豆州大嶋……中略……大宝元年正月朔日放廻……中略……凌虚飛行葛嶺●(勵の力なし)声誦咒以石索縛一言主神曰若有斉我行者解縛不爾慈民下生当解放之纏繞七匝繋之深谷至今名曰一言主谷者即是也越泰澄入葛嶺欲解縛索持念作法其縛三匝已解忽空中有声叱之澄乃息縛如元大宝辛丑之夏小角欲赴唐登箕面山謁龍樹像辞徳善王時王社大震動有悲泣声煙炎欝騰小角結印洒水其火即滅……中略……詣誉田社神告曰蓬莱之蘂不嘗無益崑崙之玉不琢不宝小角感喜其歳躬負老母飛来于彦山掛笈於一梅樹下宿経一宵向五更慌然一睡矣夢中二人老翁来曰我等是此梅樹主即普賢文殊也汝欲令満利生之願則宜求此山霊神之加持力也如是二翁垂手摩頂小角夢覚致奇異思即詣三神之霊廟至心発誓願曰我又為度衆生赴異域仰願所求悉満再来于此霊区報於神恩云々於此小角登俗体嶽途経深山至宝満嶽拾得一金鈴因知宝満権現内鑒遂下海浜自坐草座載母於鉢挙之泛海無仮風棹軽疾如飛達大唐国登崑崙山入西王母石室也小角久居唐土猶有憾郷之情由是出崑崙窟飛還日東達福智山歴宝賀原躋法体嶽時小角七十一秋也是歳至於大峯将善妙二鬼来置於此峯舞(言に告)曰汝等去此勿移他所明年自俗体嶽踰歴深山達宝満峯往赴唐国時本朝慶雲二年乙巳夏也異域斯方往返七年疾飛鳥不可及信不誣矣和銅四年東帰日本緬憶旧日謫居遊渉大嶋詣三島社乃伴明神上京至摂州淀河辺寄載越智氏玉興舟迄今其処名三島江然後明神留予州越智郡小角還於斯山乃語上足玉蓮曰吾欲重入支那達於印度故久不還此方吾旧日所経歴之三峯毎歳修之莫令断絶焉雖有三序莫要於夏春秋二季専在事行夏日一峯偏尚理観所以称之華供峯者以清浄心蓮花供自性三宝也伝持此旨行者我雖在遠域猶運道愛心於金剛坂必示霊応乃手作像置巌洞曰若有思我瞻礼此像又以我笈今付嘱汝以為法信次第伝授莫令失墜矣時和銅五年二月七日也又遣善妙二鬼置豊後日田郡戸山告曰汝共住此子葉孫枝歳々滋茂過百有余歳大権神明垂降此地擁護後昆語已向西飛去至光孝帝仁和二年正月十八日八幡大神果降霊於日田大原世伝善妙二鬼之裔迄今在日田郡矣小角久居印度旋帰支那登五台山而拝文殊文殊問曰我欲入日域而引導労生有似此山勝攸以不角対曰有之彼州西偏豊之後州国崎郡有霊鷲山者勝絶之区不下此五台峨嵋大士若遊彼我扈従猊駕大士曰汝先啓行而待我至小角許諾飛騰虚空来儀彼山鑿開巌崛而待大士一夕小角所養白犬頻吠不止出而見之大士来応即建一宇名峨嵋山文殊仙寺時嵯峨帝弘仁十二年辛丑歳也(鎮西彦山縁起)
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必要以上に長々と引用したが、概ね周知のことではあろう。ただ彦山など九州東部との関連が、やや詳しく書かれている。このうち小角が老母を負って彦山に飛来した折の記述、「掛笈於一梅樹下宿経一宵向五更慌然一睡矣夢中二人老翁来曰我等是此梅樹主即普賢文殊也」は注目に値する。梅樹の下で役行者が宿経を読む点、経を読んでいて居眠りしたとき樹の主だと文殊菩薩と普賢菩薩が老翁の姿で出現した点に値打ちがある。黒き星シリーズで、妙見と文殊師利の関係を示した。文殊シリ、自慢の尻を遣って空海を男色の道に引き擦り込むだけが能ではない。智恵の菩薩としての機能も有しているのだ。単なる妖艶な美少年ではない点は、信乃・毛野と同様である。また、「宿経」すなわち俗に謂う宿曜経、文殊師利菩薩及諸仙所説吉凶時日善悪宿曜経は、所謂占星術の経典である。役行者は、「梅樹」の下でこそ、「宿経」を読んだ。梅と星が、役行者によって、関連付けられている点は、記憶しておいて良いだろう。
ところで、上記、いきなり「鎮西彦山縁起」を引いた。役行者のような伝説的な人物の事績を挙げる場合、史料の選択は慎重でなければならぬ。そうでなければ収拾がつかなくなるのだ。少なくとも本稿に於ける史料選択の積極的な理由を明示しなければ、フェアでない。確かに私は少々サディスティックでスケベェでイーカゲンな人間かもしれないが、不公正なことだけはしたくない。せめて、そうでなければ、御天道様に申し訳が立たぬではないか。ワザに「鎮西彦山縁起」を引いた理由は、簡単明瞭だ。同文書が、彦山に関する基本文献だからである。
文化十二年、馬琴は、豪荊ぢゃなかった「豪円」なる僧に寺の縁起を執筆するよう依頼された。寺は九州・豊後にある足曳山両子寺だ。旧来の縁起が虫食いなんかで読めなくなっていたらしい。馬琴は短期間のうちに縁起を完成した。略縁起執筆も依頼され、二年後に校了している。
縁起とは一般に、其の寺の由緒書に当たる。権威を主張する為のモノだ。現在に遺る全国寺院の縁起には、慈覚大師だの行基だの、本当に其の地方に来たかも怪しい高僧知識が矢鱈と登場する。鉢は飛ぶわ、阿弥陀如来は来迎するわ、龍は暴れ、僧侶は怪光線を発して山を粉砕する。これでもかってぐらいにSFであり、とてつもなくスペクタクル。それが、縁起ってもんだ。勿論、地味で手堅い縁起も多いが、鵜呑みにするようなもんぢゃない。フィクションなのだ。しかも権威づけのものだから、流行作家である馬琴に執筆依頼することは、正当である。そして、この両子寺は天台宗寺院ではあるが、六郷山という国東半島の山地に多く在る修験道寺院の一つである、ってぇか、六郷山自体が大規模な一個の寺院/修験道場と考えるべきであって、諸寺は互いに密接な関わりがあった。八犬伝の誼夾院みたいなもんだ。江戸期には、両子寺が「総持院」を名乗っており、六郷山の諸寺を統轄していた。そして、此の六郷山は、同じく九州の代表的な修験道修行地域である彦山と、深い関わりがあった。伝説とか伝説の登場人物が共通なのだ。
では此処で、馬琴のモノした縁起を見てみよう。かなり長いが、せっかく馬琴の書いた縁起なので、何度かに分けて全文を掲載する。
六郷山両子寺大縁起
荏土 滝沢解撰
豊後国国崎郡六郷山足曳の両子寺は仁聞菩薩の開基にして日域最初の台教たり。蓋惟れば人皇四十六世の聖主元正天皇の養老二年戊午の秋八月法華序正流通の三段に分たる三山凡廿八ケ寺九十九ケ所の精舎霊崛悉皆落成せり。蓋開山仁聞大士は震旦にては陳氏の皇孫、我朝にては応神天皇八幡大菩薩の権化たり。唐山陳の武皇帝は姓は陳氏名は覇先、はじめは梁の参軍たり。屡軍功あるをもて梁の将相に拝任せられ禅を受位に即き高祖武帝と尊号せらる。帝微賤かりしとき一女ありて男子なし。そのおん女僅に七才、日輪口中に入ると夢みて忽地に懐胎し七年の後安らかに男子を出産し給ひけり。その児生る丶時に当りて奇異甚多かりければ祖父はいたく忌嫌ひて竊にこれを棄たりける。是よりして彼の児は民間に生育ものから幼少にして大志あり。年四才にして身長四尺十三四歳の童子にまして聡明叡智いふべうもあらず。常に日輪を拝しつ丶竊に天朝を景慕して投化の情愿ふかければ漫に浜辺に迷来て商船の底に隠れ万里の波海輙くも大隅国銚子の浦磯の岸にぞ着給ふ。実に欽明天皇の十六年乙亥の秋八月、唐山は梁の天子敬皇帝の時にして紹泰改元の時に丁れり。かくて彼此の浦人等は投化の童子が異なるさまを怪しと思はざるものもなく、その来歴を尋れば神童答へて、われは是梁朝にては陳氏の子たり、この土にしては第十六主誉田天皇の後身なり、素より朕が神霊は豊前豊後に迹を垂れ百王鎮護国家安泰異敵降伏の本願を果さんと思ふのみ、われ嘗て震旦の天台山を景慕して生を枯れ土に攀しかば不学して戒定慧の三学を相承し生れながらにして台教の淵源に泝りて神釈二教成就せり、けふよりしてわが名をば八幡麻呂と唱ふべし、しかれども時なほ早かり、豊後の国崎に一座の山あり、われ且彼処に山居して時の来つるを待べき也、今よりして彼嶽を両子山と唱へよかし、両子は則わが神霊一体分身して垂迹を神釈二教に示すの義なり、夫神道と仏法は一腹双生の両子の如く、これを分てば異なれ共、これを寄すればいづれを兄孰を弟と決めがたし、或は又蓋匣の義なり、神釈は国家の要道、譬ば匣と蓋の如し、須臾も離るべからず、設夫匣に蓋なくば物にして●(兀に王)弱不具なり、何をもて其用をなすべき、疑しくば今●(玄玄)より二八の春を俟、思ひあはする事あらんと、丁寧に説示し件の山にわけ入りて竟にふた丶び出給はず。か丶りけれども人信ぜず。言訪ものもなかりしに又十あまり七年の春秋暮てゆく程に欽明天皇の三十一年十月の比とかよ、豊前国宇佐郡厩の峰に程ちかき菱形の池の畔なる民家の子の三歳なるが忽に神詫して、朕は人王第十六主誉田天皇広幡の八幡也、われを護国霊験威身大自在王菩薩と称す、迹を諸国に垂る丶といへども、今見にこの地にあり、宜今上に奏聞して神社を建立すべしとぞ告給ふ、即縡の趣を朝廷に奏聞し奉れば勅して神祠を建させ給ふ。さは此時に忽然と八条の幡天降て社地の八隅に立しかば神号をそがま丶に八幡宮とまうしけり、この奇瑞にぞ豊後なる土民等は罵りさわぎて、両子の山に籠り給ひし八幡麻呂の事さへに今更に尊くおぼえて僉彼山にわけ登り木を伐り草を芟払ひて彼御在所を尋るに神童は山を出て早晩人に逢給はず。貌を更祝髪して竊に伽藍建立の大誓願を起しつ丶法諱を仁聞と告給ひて光を包み迹を埋み是よりして年あまた鎮西九国はさらにもいはず、六十余国を券縁し更に法華経を感得して豊後へかへらせ給ふ比、小倉山なる北辰妙見示現して宣はく、こ丶より西に彦山あり、こ丶に明珠あらん、聖是を獲給はば、これより意外の輔を得て夙願成就せんといふ(次回に続く)。
此処迄の部分で、本稿にとって興味深い点は、▼八幡神の生まれ変わり仁聞は大陸から来た▼仁聞は親兵衛と同様に早熟だった▼天台宗寺院としては当然だが、本地垂迹説を採用しており仏教と神道の関係を箱と蓋に喩えている(それが故に「両子寺」と称する)▼(国東半島の寺だから当然だけど)豊後を主たる舞台にしている−などだ。が、尤も重要な箇所は、今回掲載した末尾部分、明珠を求めに彦山に行けと仁聞に告げたのが、「北辰妙見」であった点だ。どうも、両子山縁起のストーリーに於いて、カギを握っているのは、妙見のようだ。妙見、「黒き星シリーズ」で毛野と密接な関係にあると断じた北極星もしくは北斗七星の化身、いったい何を演じてくれるのか。お楽しみは、後にとっておいた方が良い。まだまだ縁起は続く。今回は、此の辺で。
(お粗末様)