番外編「両子山再び」

 
                       ――ウメボシ伝説シリーズ3――

 前回に続いて両子寺縁起である。

仁聞ははやその意を暁りて彼処に尋ねゆき給へば崛中に沙門あり。その名を問へば法蓮と告ぬ。仮に師壇の義を結びて日夜法問し給ふに法蓮毎度説破せられて只妬しとのみ思ひけり。かくて日来歴るほどに一日霊蛇明珠を銜み巌を穿ちて出しかば法蓮加持して蛇を退け、やがて件の珠を獲て鍾愛大かたならざるを仁聞つらつら臠して法蓮に告給はく、原わがこ丶に来つるよしは、その珠を求ん為のみ、抑又この珠はわが母の形見なるに曩に両子山を出るときとり失ひて今こ丶に又この珠を見ることは北辰の教によれり、速く返し給ひねと懇に乞ひ給へども法蓮敢て許諾せず。珠はわが法力もて獲がたき物を稍得たるに故なく人にやは授ん、和僧も是を得まほしかば法力をもてとらば取れ、さらずば与ふまじけれとて、うけ引気色なかりしかば、仁聞易き事也とて法蓮が握り拿たる珠に対ひて加持し給へば、その珠飛で空中に光を発鳴動霹靂めき六郷の中に落ると、やがてその地に清泉涌き出て水中赫奕たり。よりて仁聞三山を草創の後、その処に又一个寺を建給ふ。彼中山の分末たる玉井山光明寺其霊迹といひ伝ふ。さる程に仁聞は崛中を走り去、落たる珠を取給へば法蓮これを追蒐て臼野の辺りに来つるとき猛火忽然と燃出て前路を遮り留めしかば、その地を焼尾と名づけたり。今現に臼野の荘焼尾の岩屋は此なりき。か丶りけれども法蓮はなほ哀惜の向ひ火つくりて下毛郡(豊前国にあり)なる諫山の郷猪ノ山の絶頂に攀登り声ふり絞りて叫びしかば、その声遠く伊予にかよひて石鎚山にぞ響きける。仁聞これを憐み給ひて件の山にわけ登り又法験を見し給へば忽見る金色の鷹黄毛の犬とともに法蓮がほとりに顕れて草に偃たる小鳥を追立迭に捉んと争ふにぞ。法蓮俄然と開悟して瞋恚の炎焔愛惜の欲火を頓に滅却し、わが法力の仁聞に及ざるを知覚して又改て件の珠を仁聞に献り和解て徒弟となりしかば、この時二僧の尻かけ石を和与石と呼做しつ丶此は是法蓮が和解て珠を授与せし故也。又彼黄犬金鷹はそがま丶に石と化して今なほ猪山に存在せり。時に仁聞欣然と法蓮に告給はく、わがこの珠を獲たりしも又和僧に値偶せし事も皆北辰の郷導によれり、か丶れば大願成就の日には必これを祭るべしと宣ひしが、果して三山開闢の後一宇を建立し給ひけり。当初本山分流の末院なる伊多井の妙見則此なり。又中山の冠首なる両子寺の境内に北斗峰といふ高峰あり。是も亦その余波といへり(北辰は北極也北斗は七星也)かくて又仁聞は華厳覚満体能といふ三人の徒弟を獲て法蓮と共にすべて四人(一説に能行能智大神の比義思徳先達等この五人の同行草創の功を補けまゐらせしといふ)無二の同行となりまゐらせて作事経営一日も懈ることなく孝徳天皇の大化四年戊申の春の比より元正天皇の養老二年戊午の秋八月迄星霜凡七十余年にして数の山をひらき夥の寺を建給ふに鎮西九ケ国の国司郡司及豪富の良民等木石資料おもひおもひに布施せずといふ者なく伽藍悉落成す。その寺には武蔵安伎国前伊美田渋来縄の六郷に(解按ずるに和名鈔国郡の部に武蔵来縄国前阿岐伊美の五郷ありて国崎の郡に属せり但田渋の一郷のみ抄に見えず。速見郡に田布の郷あり是ならんか)延満したれば軈て三山の総名を六郷山延力寺と名けらる。其谷の数二十八寺の数二十八は則二十八品に表し本山中山末山の三山は大中小乗序正流通の三にわかちて法華全部の文字の数六万九千三百八十余尊の神影仏像を造り奉り、これを九十九ケ所の霊崛一百余院の精舎に安措したてまつりて遂に大乗経王の全部の霊山とぞなし給ふ。開基の次第左の如し。

   ○序分 本ト山 凡八ケ寺
第一 本尊薬師如来    後山金剛寺
第二 本尊阿弥陀如来   吉水山霊亀寺
第三 本尊聖観音     大折山報恩寺
第四 本尊(仏号逸す)  鞍懸山神宮寺
第五 本尊観世音菩薩   津波戸山水月寺
第六 本尊薬師如来    西叡山高山寺
第七 本尊薬師如来    良薬山智恩寺
第八 本尊阿弥陀如来   馬城山伝乗寺

   右本山 分末寺 凡三十三院
辻小野山西明寺  小渓山大谷寺   河辺岩屋
西蓮山間戸寺   伊多井妙見    大日岩屋
中津尾山観音寺  轆轤山正光寺   最勝岩屋
上御門      中御門      下御門
鼻津岩屋     普賢岩屋     妙覚寺
海見山来迎寺      蓮華山富貴寺   清瀧寺
花井岩屋     文伝寺      良医山西山寺
朝日岩屋     夕日岩屋     開山御堂
五仏岩屋     稲積山慈恩寺   日野山巌脇寺
雁目山愛敬寺   今熊山退蔵寺   光明寺
宝寿坊      随求坊      払地蔵

   ○正宗分 中カ山 凡十ケ寺
第一 本尊千手千眼観世音(後世為総山) 足曳山両子寺
第二 本尊薬師如来           長岩屋山天念寺
第三 本尊千手観音(当初の総山)    金剛山長安寺
第四 本尊正観世音           加礼川山道脇寺
第五 本尊(仏号逸す)         久米山護国寺
第六 本尊馬頭観音           黒土山(寺号逸す)
第七 本尊薬師如来           小岩屋山無動寺
第八 本尊千手観音           大岩屋山応暦寺
第九 本尊千手観音           補陀落山千燈寺
第十 本尊薬師如来           横城山東光寺

   右中山 分末寺 凡三十二院
払地蔵    宇和堂観音    毘沙門堂
次郎丸堂   大満房      走水観音
付属寺    峰観音      小両子岩屋
龍門岩屋   玉井山光明寺   吉水山万福寺
山口地蔵堂  多福院      赤松山
間簾岩屋   後之岩屋     石堂岩屋
払岩屋    光明寺      唐渓山弥勒寺
毘沙門多宝院 丸小野寺     内迫御堂
平等寺    真覚寺      大不動岩屋
小不動岩屋  尻付岩屋     普賢岩屋
五之岩屋   薬師堂

   ○流通分 末山  凡十ケ寺
第一 本尊阿弥陀如来   見地山東光寺
第二 本尊薬師如来    大巌山神宮寺
第三 本尊薬師如来    石立山岩戸寺
第四 本尊文殊師利菩薩  峨嵋山文殊仙寺
第五 本尊千手観音    夷山霊仙寺
第六 本尊六観音     小城山宝命寺
第七 本尊阿弥陀如来   龍華山成仏寺
第八 本尊不動明王    参社山行入寺
第九 本尊延命観音    西方山清浄光寺
第十 本尊(仏号逸す)  懸樋山清巌寺

   右末山 分末寺 凡二十院

普賢岩屋    与岩屋    経岩屋
三十仏岩屋   龍本岩屋   西裏岩屋攸
調子岩屋    獅子岩屋   毘沙門岩屋
赤子岩屋    上品寺    今夷岩屋
焼尾岩屋    願成就寺   虚空蔵寺
浄土寺     金剛山報恩寺 吉祥寺
貴福寺     杉山瑠璃光寺

右同名の寺院同名の霊崛ありといへども当時本中末を被て呼ぶときは紛れず分明なりといふ。寔に鎮西第一番の大刹前代未聞の霊場なり。かくて養老四年庚申の秋の頃(旧記は養老三年とす。非也。今続日本記ママ水鏡によりてこれを改む)大隅日向の隼人等朝廷に叛き奉りて国中を横行し或は官物を掠奪し良民を残害す。その沙汰大かたならざりければ宇佐の神官宣旨をうけ給はりて軍を起し推よせて戦ふといへども賊軍酷つよくして官軍難義に及べるよし屡天聴を驚し奉りしかば帝宸襟安からず。公卿僉議して六郷山の仁聞に俄に宣旨をなし下され朝敵降伏の修法国家泰平の祈祷をつかまつるべしとぞ仰らる。これによりて仁聞法師は法蓮華厳体能覚満等四人の徒弟を将て五智の岩屋に引籠り則自筆の不動明王の画幅を掛け奉りて一室五壇の秘法を修し丹誠を抽身心を擲て昼夜祈り給ふ程に忽海上に千炬の龍燈閃き冲り数百の白鳩浦曲のかたより松の梢をはなれつ丶西を投してぞ飛去ける。さればこの日に朝敵等は宇佐の官軍に皆撃れて擾乱頓にしづまりぬ。か丶れば彼前に見えたる千燈山五之岩屋は龍燈奇瑞の所なり。かくて縡の趣を国司奏聞し奉れば帝叡感浅からず。即六郷山を定額寺になし下され剰仁聞には菩薩号を勅許ありけり。その略に仄聞六郷山延力寺は仏法相応の霊場、観音薩●(土に垂)の宝崛たり。加旃開基の住持仁聞は八幡大菩薩の権化として、その身は異朝の公子たれども、はやく天朝に投化して仏法弘通の夙願を愆たず苦行七旬の星霜を歴て周旋券縁の功を豊後なる六の郷に成すのみならず衆徒を教化し愚民を教導し予て天下泰平のおん祷怠らず。剰此度勅に応じて莫大の法験更に踵を旋らさず朝敵早に誅伏せり。是併宇佐と六郷と神釈一体分身の義に相称ひたる権者の法力空しからずといはん。しかれば又自今以後海内鎮護朝敵降伏のおん祷いよいよ間断すべからず。よりて三山二十八ケ寺七十五ケ末院の坊料として八百余町の荘園を寄さし給ふべき旨、及仁聞菩薩自画自筆の不動明王の尊像と法華経二十八品の巻軸を齎してはやく上洛つかまつるべしとなん頻に召させ給ふものから、大士は老躯長途に堪がたしとて固辞まうして参内し給はず。石立山の先達明賢に画幅の尊影法華の経巻を齎して京へ登し則叡覧に備へ給ひしかば帝忝く天冠を傾け給ひて尊影経巻を恭く御覧じて叡感大方ならず。抑修験の尊影は禁闕に留させ給ふべきにあらずといへども、せめて結縁の為、表装の風●(代の下に巾)のみを宮中に留めさせ給ふぞとて二種の霊宝はそがま丶に返し下され剰使僧明賢をこのとき律師になされけり。是よりして彼尊影を風●(代の下に巾)なしの不動明王と唱奉り三山随一の寺宝なるを今なほ当山に相伝せり。又この時に賊首の首級は平城の皇都へ入られず明賢これを乞まうして六郷へ将てかへりわが山に埋葬して石を畳て其●(アナカンムリに夕)を塞ぎしかば山号を石立山、寺号を岩戸寺と唱けり。則末山の第三番、既に前に見えたり。さる程に仁聞大士は風●(代の下に巾)なしの不動の外に別に自作の不動明王両尊を造立し一尊は随身仏とし又一尊は長講堂に安措して異賊朝敵降伏の為長日の修法をおこなひ給ひしより以来、今猶断絶する事なし。かくて是年十月に法蓮法師は日総観を光源嶽に修し給ふに更に霊瑞ありしかば、おなじき五年に帝勅召をはしまして法蓮を南都に召のぼし大和尚位に叙し給ふ。これによりて法蓮和尚は豊前国に鷹栖山観音寺を建立し六郷開基成就の後、神亀改元甲子年まで七ケ年在住せり。その間仁聞大士は四人の同行もろ共に件の高峰を巡礼し給ふ。又同年の秋八月に放生会をはじめらる。その事宇佐と相同じ。この後又法蓮は山本に移住し給ひ(本尊虚空蔵)華厳は鷹栖(本尊如意輪)覚満は来縄(本尊薬王菩薩)体能は高山(本尊薬師如来)に在住し給ふ。凡この四箇の大寺は当会の為体、奇麗壮観眼前に九品の浄刹に入るごとく梵音洋々乎として耳に満、唄文彬々として口に絶ときなし。二十五の菩薩は羅綾を翻し百八の煩悩は无明の酔と共に醒む。彼ノ去此不遠の金言目今爰に顕然たり。かくて天平二年庚午の春正月十三日、是より先仁聞大士は小倉山にましましき。時に法算百七十九。この春件の山を出て御許山雲仙寺に移らせ給ひ華頬の洞に入給ふ。本尊は釈迦牟尼如来、脇士は文殊普賢の二菩薩、又多聞持国の二天也。抑当山を御許と唱る由は養老の朝敵大士の法力によつて誅伏の時、勧賞の坊料八百余町は末代といふとも改易あらせじと思召す叡慮の旨を表せよとて六郷山の一名を御許の山と呼せ給ひしかば仁聞大士いと辱く思ひ奉りて雲仙寺建立のときやがて山号に用ひ給ひぬ。さればこそ此の所は不断勤修の道場として衆生利益の霊窟たり。彼の上宮より南の方、寝仏より坤に当りて二の岩窟あり。所云華頬の洞は是なり。洞中には両界の諸尊の影像を安措せり。是則仁聞大士御入滅の処この岩窟を相去ること僅に二町許なり。一方は艮に向へり。この裡に不増不滅の霊水あり。又一方は南面にして高く聳たり。肉眼の及ぶ所計るに一十余丈なるべし。かくて天平九年丁丑の五月十五日に建立せられし日足弥勒の禅院は大士の開基なりといへども意に称ずやをはしましけん。十あまり三とせの後、法蓮和尚に付属して宇佐の地に移させ給ふ。かくて許多の年を歴て桓武天皇の延暦二年癸亥の冬十月廿六日、仁聞大士仙寿二百三十二歳、道顔仙骨なほ健に見えさせ給ふものから、予て入寂の期を知食て、この日俄頃に寂を示し華頬の洞に入給ひて竟に再び出給はず。又一説に大士入寂の地は補陀落山千燈精舎の霊窟是その所也といへり。この余示寂の地に異説あれども年序悠遠にして一定しがたし。当下三山二十八箇寺七十五箇院の衆徒、山下の郷民遠近の壇越、毛属飛禽に至るまで釈迦の涅槃にあへる如く赤子の母を喪ふ如く哀慕し奉らざるものなし。扨あるべきにあらざれば乃至この月この日をもて開祖の忌日と定めつ丶今なほ報恩謝徳の法昧を備へ奉る所なり。かの四聖の同行も程なく入滅し給ひけり。華厳は山との安倍野の里正紀中務が一子也。この聖は豊前ノ国下毛郡落合の荘に于て遷化せり。又法蓮は平城の人安倍中納言の庶子なりき。この聖は宇佐ノ郡恒松の荘高並村にて入寂せり。又覚満は肥後ノ国菊地の人喜野親家が先祖の子也。この聖は豊後ノ国速見郡向野谷にて示寂せり。又体能は能登の人、その俗姓は定かならず。示寂の地、覚満と相同じ。おのおの齢百八九十の上寿を保給へり。そが中に法蓮和尚尤長寿にして開士に劣らずとぞ聞えたる。袷といひ恰といひ過世の契をはしましけん、斯有がたき仙寿をたもちて開祖不可思議の成功を補け給ひし事、寔に稀世の道徳なり。

                  ●

今回挙げた箇所は、重要な情報を満載している。▼前回にチラと登場した「明珠」を仁聞は「母の形見」と言っているが其んな記述はなかった▼異民族と言っても過言ではなかった「大隅日向の隼人等」が朝廷に牙を剥いたとき仁聞は自筆の不動明王に祈って隼人討伐を助けた▼不動明王を加持した後に仁聞の一番弟子・法蓮は帝から大和尚位を授けられたが「これによりて」「観音寺」を建立した▼仁聞は死を予期して洞窟に籠もるが「一説に大士入寂の地は補陀落山千燈精舎の霊窟是その所也といへり」――などだ。実は、此処迄の引用で、ほぼ事足りるのだが、せっかくなので次回も引用を続けることにする。(お粗末様)
 
 

 

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