番外編「ウサちゃん神宮」

 
                     ――ウメボシ伝説シリーズ4――

自分でも長いと思うが、両子寺縁起は、まだ続く。

かくて夥の年を歴て淳和天皇の天長年間能行といふ聖ありけり。俗姓は宇佐氏にて豊前国の人なりき。嘗開祖の先蹤を追ひ奉り三山九十九箇所の霊窟を巡礼せばやと思へども、その道の順逆をしるものなし。●(ニンベンに尚)覿面に仁聞大士の示現を蒙るにあらざりせば素徳を遂るに由なしと只願に思ひとりて大誓願を発しつ丶津波戸の岩屋に参籠して勤行三十余年に及べり。時に文徳天皇の斉衡二年乙亥の十月廿六日、異声倏忽馥郁として霊窟の中に満ち光明赫奕として深山幽谷を照らし電光の下石室の上に相貌端●(ニンベンに嚴)の老僧忽然と出現して能行に告給はく、善哉勤修苦行の沙門、われはむかしこの山をひらきそめたる行者なり。汝この夥の年来六時懺法懈らず、精進ますます勇猛に深心最堅固なるその功徳によりて罪障滅却し機感の時到れる故に今眼前に示すもの也。大約この山を修行するに二条の路あり。後山の岩屋よりはじめて横城に赴くべし。かくて又海浜を巡歴するを順路とす。むかしわれこの山を修行の序かくの如し。勿論東三郷は安岐武蔵国東是なり。又西の三郷は伊美来縄田渋是なり。皆この山の敷地ぞかし。生をこの地に稟んものはこれわが徒弟なり。就中汝は結縁いと深く得脱も亦ちかきにあり。わが法脈を嗣んと思はば敷地の四至に殺生を禁断し法音を絶ことなく後仏の出生を俟。しからばわれ亦長久にこの峰を護持すべし。自今僧侶汝がごとく先縦を追ふて巡行せば法門も亦繁昌せん。しかれども盛者必滅の理り、壮なるものは必老ふ。後世国賊仏敵起らばわが山も凋廃せん歟。われ当初序正流通の三山廿八箇寺を建立して大乗経オウ全部の霊場となせし時、足曳山両子寺を中山の冠首とせり。抑彼山はわが投化のむかし両子山に山居して宿願竟に成就の名詮深意もこ丶に包蔵せり。されば長講堂の本尊阿弥陀仏如来、奥の院は岩屋の千手観音、医王善逝、護摩堂の本尊不動明王、凡山内許多の霊窟寺内に安する諸尊像は過半わが作るところ、絶て闕遺なしといへども、猶惜むべくは当山に守護神の祠なし。汝も亦これを思はば両子寺の山内に一宇の神社を建立して両所権現と崇まつるべし。夫両所も又両子の義なり。むかしわれ当国の郷民等に示していへらく、両子は宇佐と六郷と神釈一体分身の義也、又或は蓋匣の義也、蓋神道と仏法は猶匣と蓋の如く一日も離るべからず。こ丶をもてそのはじめ山居の峰を両子と名づけ中山には両子寺を建立し、その末院には小両子の岩屋をひらきぬ。加旃末へ山の分末には亦赤子の岩屋あり。両子寺の山内に胞衣嶽(土俗は訛りていやが嶽といふ。方言に胞衣をえやといふ。則後産の義也)鳩嶺(鳩嶺此には彼登賀尾といふ。下皆倣之)あることは、昔し神功皇后の三韓征伐外人の日、筑前ノ国宇弥邑にて皇子誉田降誕ましぬ。よりてその地を宇弥邑といふ。胞衣赤子の峰窟はその義これと相同じ。かくて皇子のおん胞衣は箱に蔵めて地に埋み松を栽て標とせり。その松欽明の御宇に及びて一夜に幹を蠧みて戒定慧の三字なれり。因てその地を箱崎といふ。箱と蓋匣は又同一、か丶れば蓋匣の守護神は八幡大菩薩ならずして抑亦何かあらん。加旃鳩嶺はむかし養老に朝敵調伏のとき、数百の白鳩西に群れ飛び宇佐八幡の神助を示し、わが修法成就せし即その古蹟也。汝これらの由を告て衆人と相謀り両所権現を勧請せよ。しからば他山は衰るとも両子寺は繁昌せん歟。努努疑ふべからずと、いと叮寧に示し給ふ妙音は耳に留り尊容ははや見え給はず。能行は感涙を法衣の袖に拭ひあへず、わが所願成就して衆望もこ丶に足なんと天に歓び地に喜びて霎時おん跡を伏拝み次の日本坊に下向して三山の僧侶と相謀り両子寺に神祠を建立し宇佐八幡と開祖仁聞を勧請して、これを両所大権現と崇め奉る。今なほ当山の鎮守にておはします両所権現則是なり。かくてこの年をはじめとして開士の旧蹟、峰入の式、巡礼作法あり。是より毎年一乗妙経全部文字の神影仏像を巡拝の為、開祖の行業を相承せる時の住職大越家職を相勤て六郷山一結の僧衆笈仏二厨子を負奉る。一の笈仏は不動明王、二の笈仏は仁聞大士の画像也。その式作法多端なれば今詳にこ丶に贅せず。抑この入峰は千丈の高峰を踰百仭の幽谷を渡る。その行場々々毎に秘密の行法を勤修すれば今もなほ奇異の事あり。鹿の峰に至るときは忽然として鹿あらはれ郷導をするものに似たり。この他の奇瑞又多かり。これを入峰の修行といふ。開祖の霊蹟多かる中に出家の峰には(馬城の峰より南四五町に又高峰あり。こ丶を出家の峰といふ)開士の宝冠と髯髪とその剃刀の匣なんど悉皆化石となりて顕然とおがまれ給ふ。しかれどもその処を知るもの稀也。无二の信者にあらざれば遂に邂逅しがたかるべし。かくて朱雀天皇の天慶年中、南海の族藤ノ純友誅伐のとき養老の嘉例によりて六郷山の僧徒宣旨をうけ給はり風●(代の下に巾)なしの不動明王を掛奉り一室五壇の秘法を勤修する程に純友純素誅伏して南海西国静謐せり。かくて又年を歴て後宇多天皇の弘安四年、このとき北狄蒙古の君(名は忽必烈)宋朝をうち滅して元の世祖皇帝と尊号し百蛮を威服せし勢ひに乗じつ丶我邦を襲へとて、その臣下范文虎阿刺罕忻都洪荼兵等を大将にて、その勢すべて十万騎、六万艘の兵船を筑紫の浦にさし向たり。時に鎌倉の将軍久明親王、執権相模守北条時宗朝臣、鎮西の武士筑紫の探題に御教書を賜て防禦の軍議区々なりと聞えしかば朝廷にも合戦の安危をいといと心もとなく思食て諸社諸山へ幣帛をたつまつらせ異敵退治のおん祈又他事なかりけり。就中当山は養老天慶の先例に任せられ、はやく異賊調伏の秘法を勤修せしむべしとぞ則宣旨の趣を六波羅より伝らる。こは吾山の面目なるかな。開祖の誓願愆ずば世ははや澆季に及ぶとも法験なでふなからずやはと六郷山の僧衆一処に集会て風●(代の下に巾)なしの不動尊を一室五壇の中央に懸奉り修法の力を戮しつ丶異口同音に祈りけり。されば護摩壇の煙は中天にたち冲りて鷲の高峰の雲かと疑ひ念珠の音は地に響きて龍沙の水の落るに似たり。日夜の修力厳重なれば諸神本誓の妙用を化現し冥衆不測の利益を垂施し神風忽然と西海に吹暴れて異敵を陸にあげ立ず。六万の兵船は巌に砕けて波上に散乱し十万の賊軍は溺れて階梯に沈淪す。当下鎮西の武士菊地原田松浦党その残兵を追討し八角島に迫め著けて鏖にしければ、はじめ十万騎と聞えたる蒙古の軍兵僅に三人存命せり。かくは当山三たびの法験を朝廷も柳営も特に歎賞したまひて綸旨を賜り御教書を下されしかば当時の住職上洛し養老の例によりて風●(代の下に巾)なしの不動明王を叡覧に備にければ、帝叡慮を傾させ給ひて御感尤浅からず。百王鎮護異敵降伏のおん祷いよいよ怠るべからずと仰出されて種々の恩贐あり。扨尊影を返させ給ひぬ。か丶れば当山不動の修法朝敵異賊降伏の法験凡三たびに及び風●(代の下に巾)なしの尊影を天覧に備奉りし事も再度なれば旧録或は誤りて養老の朝敵を蒙古襲来の事とせり。しかれども養老に異賊の入寇国史に見えず。且蒙古は北狄の種落也。漢にはこれを匈奴といひ或は單于といひ唐にはこれを突厥といひ宋にはこれを契丹といふ。天朝に蒙古といひしは乃宋の契丹也。養老四年は唐の玄宗皇帝の開元八年に丁れり。此ときいまだ蒙古の事聞えず。その誤しりぬべし。斯て海内浪た丶ず、世は長閑やかになりにければ、武家にも尊信大かたならず。是より法燈光りをまして六郷山の繁昌は開祖の時にも超過せしに、室町将軍の季の世に、大友宗鱗ぬし当国の守護たるとき、数度の兵乱によりて六郷三山廿八ケ寺大かたならず凋落し剰文禄二年夏五月羽柴太閤朝鮮を伐給ふとき、当時の国主大友豊後守義統ぬし戦場不覚の罪ありてその采地を没官せらる。さは常言にへることあり、兎烹られて狐患ふ、その禍の及べばなり。信なるかな大友家徴禄のとき六郷山の坊料も此彼となく削られて御許の名もその甲斐なく多くは無縁の廃寺となりつ丶只当山と二三の蘭若ところどころに存在せり。しかりといへども古来の道場百王鎮護の霊山なれば後の領主も遐棄し給はず、文禄に杉原伯耆守長教ぬし速見の杵築を領せしより慶長五年に及びては細川越中守忠興入道三齋翁に御加恩の地となりしとき両子寺を六郷山の?持院となし給ひて僅に寺料を寄布せらる。よりて細川三齋翁肥後守光尚朝臣自筆の書翰当山に蔵む。又その家臣長岡監物松井織部松井采女有吉頼母長岡式部音宗右衛門数輩の寄付状、山内の諸法度等種々の翰札これを蔵む。大友杉原細川家今の領主に至ても代々祈願の道場なれば、いぬる寛文三年に領主よりまうさせ給ひて東叡山に隷させ給ふ令旨さへなし下されて法親王の御門下たる事、現泰平の余沢にして莫大の国恩也。よりて開祖の先見、彼能行に教化の金言他山は凋落したれども両子寺のみ余波にてその千百の一を存せり。不幸の中の幸ならずや。さればちかき延宝年間当山に住持せし順慶法印は法器具足の善知識にてをはせしかば三山再興の志ふかく、いくばくの年をかさね又いくばくの苦心を●(蘊のクサカンムリなし)て頽廃せし廿八ケ院を再興し且檀越の戸数を剖属して●(敬の下に手)燈の資禄に充しかば、その功徳无量にしてその法賑莫大なり。この故に各院件の道徳の霊牌を置ざることなく、その恩沢を仰ずといふものなし。或はいふ順慶道徳常に呟きまうされしは仁聞大士この山を開き給ひし年月僂て推すときは比叡山の開基より八十年先だちたれば、はじめは台宗ならざるべしと物にも記しもうされたり。しかれども本山の序分八ケ寺の第六に西叡山高山寺といふありて本尊は薬師如来、開祖の同行体能道徳当寺に在住し給ひし事旧記によりて灼然たり。况当初六郷山の大地たる事比叡山にも劣らずありけん。西叡山と名づけたる縡のこ丶ろを按ずるに当山はそのはじめ台教ならずといふべからず。さはれ比叡と西叡と台教の前後遅速を今更にいふによしなし。疑しきは闕こそよけれと、こ丶にこれらの事を贅せず。又三山開基の次第、中山分末の中に見えたる走水の観音堂は今なほ当山本坊より十町許南にあり。又両所の神社は本坊を相去ること北のかた三町ばかり北斗峰の麓にあり。又本坊の北に石橋あり。その石凡二丈あまり。当初開祖に随従せし恩徳先達といふ大力の道徳が、これを掛たりといひ伝ふ。又本坊の前鐘楼の辺に杖石といふ巨石あり。是も件の恩徳坊が鹿杖の化石なり。或はいふこの石を杖とせし故に名とす。この他胞衣嶽鳩が嶺北斗峰は前に見えたり。又仁王門の橋下の右辺に下馬石あり。領主もこ丶より下馬せらる。其処より下に入峰の貝吹石あり。入峰の行者この処にて貝吹鳴らすを作法とす。又鹿の爪石は北斗峰の麓にあり。石面鹿の蹄の跡あり。この余の霊蹟、烏帽子嶽熊嶽槊立仏供石目付石権現の装束石金毘羅の神祠等巨細に注するは恐ければこ丶に略せり。就中当山の護摩堂は開士伝来の密室たり。養老の修法より星霜一千九十七年勤修の香煙絶ゆるときなく、毎年正子五九月の祈祷、月次三日、五節供には一山の僧侶を尽して天下泰平仏光増輝領主繁昌五穀豊登万民快楽の義願祈念今に至て懈ることなし。又正月の修正会は弘安の嘉例たり。八月の放生会は養老の旧規たり。本尊の弘世圓通観音薩●(ツチヘンに垂)は福寿无量の本誓たり。又風●(代の下に巾)なしの不動明王、鎮守両所大権現は怨敵降伏百王鎮護の威神力、動なき世を守らせ給へば孰か仰ぎ尊ざらん。我釈門の庶幾する所、仏日香土を遍照して不測の旨淵を開済し凡後生法種の海衆開祖の芳躅を跋渉し苦修煉行して真俗二諦、一年三千の妙旨をここに相承せんもの世々間断することなく尚且不二の法燈を龍華の暁に伝へまほしく、今この伝記を改正して後世に遺貽す攸目は他事なし玄籍これに因て訛ことなく法系これに由て紊る丶ことなからんには、この書寔に当山の牡鑰万代の亀鑑になん、聊又その微旨を付記すといふ。吁加志古。

六郷山両子寺大縁起畢

当山原有縁起一巻不知何人之所記、年序悠遠、漸蝕不可読焉、予嘗患之、然乏著書之才、莫奈之何、俛仰之間又歴数年。今●(玄玄)幸而奉遇東祖二百年御忌因辱参向東都預日光山法会、法務之暇一日訪飯台著作堂而告宿志即使主翁別作縁起一書主翁宏才渉猟和漢博通儒仏二教是以其書不日方成予受読之旧記所存寺説所伝、不敢漏之、間亦攷索史伝記載作者所発明、其要在芟繁補不足撈実●(シメスヘンに去)虚與夫無稽俗伝飾文曲筆大愆権者面目者不同宜為亀鑑者可謂当山至宝矣因浄書十襲以貽法孫云。

文化十二年乙亥秋八月 六郷山総持院両子寺現住豪圓跋于東叡山客舎

右八月九日に稿し果て更に馬場氏に浄書をあつらへ、おなじき十六日に院主へ進ず。院主明朝西帰すといふ。故に尤急迫にして校正の暇なし。定めて浄書に誤脱ありけん。就中跋文要在の在の字を傭書誤て有に作る。そを改て在にすべく思ひながら、いそがはしきにうち紛れて、そがま丶に遺せしを程経て思ひ出つ丶もせんかたなし。かさねて郵書もて彼処へいひやらんとおもふのみ。この外にもなほあるべきを既に山河万里を隔ぬれば、その書を見るに、よしなきや、靴を隔て癬を掻といふ諺に似たり。遺憾々々。

乙亥秋八月十七日     著作堂主人記

おなじき九月十四日、豪圓上人、三文圓覚院大僧正のおん許出されし返翰到来、右要在の在有に作りしを、こなたより申遺したる如く在とせしよしを申こさる。その文言尤懇懃也。その扈従主計も又書をもて昔日の謝義を述、余こ丶にはじめて安心せり。又略縁起を懇望せらる。かさねて草を起すべし。文化十四年丁丑八月略縁起(凡三丁)稿なりぬ。おなじ月の十九日二十日板下清書。廿一日の夕、定飛脚もて豊後へつかはしおはんぬ。

                  ●

 ふぅ、やっと引用が終わった。今回掲載の部分には、重要な点は多くない。ただ、▼仁聞が描いた不動明王の絵が、藤原純友の乱や元寇の折にも引っぱり出され、官軍を勝利に導いたこと▼嘗ては隆盛を誇り一大修験道場として多くの坊・院が栄えた六郷山も室町期の戦乱で凋落し辛くも法灯を守っていた(が江戸期になって領主の庇護で両子山は息を吹き返した)――ぐらいには目を向けても良かろう。

 余りにも長い引用だったので、前に何を言っていたか実は憶えてないのだけれども、話を進めよう。要するに、馬琴の謂う所に従えば、八幡神が仁聞として日本・豊後に現れ、其の仁聞は「補陀落山千燈精舎」で入寂したと伝えられる如く、観音と緊密に関わっている。
 私は以前、三人の美少女と共に両子山を訪れた。ウサちゃん神社、別名。宇佐神宮にも詣でた。羨ましいだろう。わっはっはっ。あ、いや、それで、両子山の奥の院は(千手千眼)観音が本尊だが、両脇侍のような形で、八幡と仁聞を併置している。少なくとも奥の院が表現する理念としては、観音が本地であり、日本への垂迹が、或る時代には八幡すなわち応神であり、或る時代には仁聞であったことを示している。「少なくとも奥の院が表現する理念としては」と限定を設けた理由は、此処等辺ちょっと微妙なのだ。天台宗、比叡山などでは八幡は「聖真子」と呼ばれ、本地を阿弥陀如来としている。一般の解釈では、そうだろう。また一般に、観音は阿弥陀の脇侍とされている。とはいえ、観音が本来は阿弥陀の脇侍に過ぎなくとも、其の寺が観音を本尊とする場合、本来の主である阿弥陀を従の格で合祀することは十分にあり得る。日本の神社でも、神体は下位の神とし、上位の神を従の格で祀ることがある。全体の信仰体系としてはメイン・サブの神格であっても、サブの神格に注目すれば、メインの神格は単なる<背景>となる。信仰は所詮フィクションの体系であるが、小説や物語でも、本編で脇役だった人物が、外伝とか番外編で主役を張ることは、ままある。そんな感じだ。
 しかし矢張り、仁聞が「補陀落」で死んだとの説がワザワザ両子寺縁起に引かれている点からすると、仁聞の正体は、どうやら観音であるようだ。馬琴が執筆した両子寺縁起に於いて八幡イコール観音であれば、一般の解釈が如何であろうと、誰が何と言おうと、本稿では其の説を優先する。仁聞の正体が観音であれば、即ち八幡の正体も、観音である。
 仁聞が「母の形見」として求めた「明珠」が、彦山にあると告げた者が、妙見だった点も、注目に値する。このような説話が生まれたのは、或いは必然だったかもしれない。ってなぁ、宇佐神宮に纏わる説話に、降臨した八幡神を導き現在の場所に坐せしめたは、それまでの地主神・北辰神だったってのがある。
 それ故か、宇佐神宮には八幡を祀る本殿の脇に、小さく「北辰社」が寄り添っている。北辰は日本仏教に於いては妙見となる。古くから八幡と妙見が深く関わっていたことの証左であり、仁聞は八幡の生まれ変わり即ち同値の存在であるから、やはり妙見に導かれるのだ。八幡/仁聞に妙見が付き物だと分かる。
 中途半端だが、今回は此処等辺で筆を擱こう。次回は、八幡の話をする予定だ。
(お粗末様)
 
 
 

 

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