番外編「ウサちゃん神宮」

 
                      ――ウメボシ伝説シリーズ5――

 筆者は以前、九州は豊前、宇佐神宮に詣でた。一部ではウサちゃん神社として親しまれている(?)大社である。三人の美少女に同行していただいた。一生の思い出である。宇佐八幡は 京から遙々と勅使が出向いた格の高い神社だが、謎が多い。丹塗りの中門を入ると、それまでの参道を、ほぼ直角に曲がり、神殿に対面する。神殿は三つあるが、造作は同様で、貴賤は感じられない。正面が「比売神」、向かって右すなわち中門から見て奧が「三女神」、左が応神/八幡で、此の左側に小さな「北辰社」がある。この位置関係は、不自然だ。宇佐神宮の主祭神は、当然ながら、八幡であるべきだ。しかし、それにしては、中門に一番近い場所すなわち<外側>、しかも拝む場所から見ると、正面ではなく右側に放り出されている。中央の比売神を拝む場所が、最も立派だったりもする。こりゃ、比売神が一番偉いって、明言しているようなものだ。八幡神社だと言いつつ、八幡/応神が下(しも)に追い遣られている。これではまるで、<比売神神社>だろう。
 比売神、三女神、八幡神、いずれも記紀に登場する。まず三女神だが、これは安芸・厳島に祀られている三人の女神だ。宗像三女神と言えば通りが良いかもしれない。
 根国への追放を宣告された素戔鳴尊が、今生の別れだからと高天原に住む姉・天照大神に会いに行った。天照は乱暴者・素戔鳴尊が高天原を侵略しに来たと疑い、心底を探ろうとした。河で素戔鳴尊に子神を産ませ、自らも産んだ。素戔鳴尊が産んだ五神は何連も陽神であった。此により、素戔鳴尊の心が清らかだと証明された。天照が産んだ三神は何連も陰神であった。この三女神が、宗像三女神、田心、湍津、市杵島の三姫神である。しかし、陽神を産むが清らかな証拠になるなら、陰神を産んだ天照の心根って……。まぁ、無視して話を進めよう。
 そして比売神だが、やはり彼女が最も印象深い。人間だったときの称号は、神功皇后だ。彼女は飽くまで「皇后」であって、摂政にはなったようだが、践祚したとは記紀に書いていない。だから「天皇」ではない。なのに紀は一章を立て、歴代天皇と同格に扱っている。天皇ならざる天皇、神功は、朝鮮半島に渡って高句麗・百済を降伏せしめた強力な征服王(女王?)だ。だいたい「天皇」なんて背伸びした称号は、朝鮮半島に対して優位に立とうとする外交態度の産物だろう。まず偉そうにして他者との関係を有利に運ぼうってなぁ畜生レベルの卑しさだし、そんなのは無視されりゃ虚しいだけの筈で稚拙に過ぎるが、まぁあり得ない発想ではない。このような発想のもと、則ち、<いまだ服従しない者に対する威嚇もしくは支配権を絶えず膨脹させようとする意思を秘めた>称号が天皇であれば、神功皇后、そんじょそこらの天皇なんかより、よっぽど天皇らしい。悲願の朝鮮侵略に、親征して(記紀表記に拠れば)勝利を収めた。しかも、殆ど戦わずして相手が降伏した(ことになっている)んだから、最高のトライアンフだ。にも拘わらず、「天皇」の称号を与えられなかった辺りに、古代天皇制/創生期天皇制の特徴があるのだろう。まぁ、んな事ぁ此処では如何でも良いんだけど。
 神功の偉大さは、妊娠したまま戦争した点にある。別に誉めてるワケぢゃないけどね。でも、凄いのは凄い。既にオナカが大きくなっていたが、朝鮮侵略に出発するに当たり、「暫く出てくんなよ」と胎児に命じた。胎児は母の言いつけ通りに、オナカの中で大人しくしていた。神功が日本に帰って漸く生まれた。此の胎児が、後の応神天皇/八幡神である。妊娠中の伝説として、八条の幡が天から降りたことになっている。故に応神が神格化されたとき、「八幡」と呼ばれるようになった、ってぇのが流布している話だ。
 母親に比べて、応神は地味だ。まぁ確かに、母親に「出てくるな」と言われて出てこなかった点は、珍しいと言えば珍しい。此の一点を以て、応神が人間でない何かだったと考えても良い。が、生まれてからの事績は、偉大なる母の前で、かなり霞んでしまう。だいたい累代の忠臣・武内宿祢を讒言によって殺そうとしたバカだ。しかも讒者を許した。暗愚の見本みたいな天皇だ。まぁ、そういう天皇は多いんだけども。せいぜい凡百の王に過ぎぬ。でも、そんな彼にだって自慢が無いワケではなかった。神功皇后の息子ってことは、即ち仲哀天皇の息子だってことだ。
 因みに、此の仲哀も珍しい天皇だ。だいたい諱号からして珍しい。「仲」とか「哀」なんて字は、諱号に似合わない。勿論、彼が望んだのではなく、後世、勝手に付けた。天皇ならざる神功が(実績として)最も天皇らしい天皇だったとすれば、仲哀は天皇にあるまじき天皇であった。外敵・熊襲との戦いで殺された天皇なんてのは、珍しい。臣下に虐殺されたのは他にいるが、殺されても朝廷内の利権関係が修正されるぐらいのことで、国家として最悪の事態ではない。別に如何でも良いことだ。しかし、外敵に殺されたとなると、話が変わってくる。或る集団が、集団として自己を存続/防衛する為にこそ、権力者の存在は許される。そうでなくて、何故に寄生虫を飼わねばならぬのか。集団維持の機能のうち、「天皇」は対外的な側面を強く有している。他国への優越を主張するためにこそ、「天皇」なんて称号を捻出したのだ。なのに、外敵に殺された。存在の意味が全く否定されたことになる。国内に天皇がウジャウジャ登場して、互いに殺し合ってサバイバル、残ったのを天皇として存続させるなら、まだしも「天皇」の理念は守られる。「天皇」にとって、あってはならぬ死に様、それが、外敵による敗北だ。敗北した時点で天皇は「天皇」ではなくなる。仲哀は、敗死した。紀は、(日本の)神の言を信じなかったからだ、と苦しいイーワケをして、如何にか「天皇」の理念を守ろうとしている。敗死したとき仲哀は、既に神の信任を喪っており、真の天皇とは言えないと、天皇でありながら天皇ではないと、詭弁を弄したがっているのだ。「天皇」の理念をこそ<歴史>によって証明しようと躍起になっていた者にとり、とにかく邪魔に感じたのが、仲哀だったろう。もしかしたら、「仲哀」なんて天皇としては不都合な諱号は、其れによって例外/鬼っ子であると明示し、且つ永遠に辱めようとする陰湿な意思の表れかもしれない。そう考えると仲哀、仲々哀れな天皇だ。悲劇の王と言える。
 悲劇の王の息子であることが、応神の自慢になるのか。そうではないかと私は疑っている。いや、応神/八幡神、仲哀の息子ってことは即ち、日本武尊の孫ってことなのだ。仲哀の父は日本武尊である。残念ながら、母は弟橘姫ではないけれども。日本武尊と仲哀、共に雄々しく外敵と戦い、そして神の加護を喪って野垂れ死んだ英雄は、印象を共通にしている。似たもの親子であったのか、はたまたフィクションによるリフレイン、天皇らしからぬ仲哀の末路を説明するために捏造されたのが日本武尊かもしれないけれども、そんなことは八犬伝を対象とする本稿の射程外だ。とにかく、八幡が日本武尊の嫡孫だって点を確認できれば良い。

 八幡は源氏の氏神だが、八犬伝序盤の主人公・里見義実は殊更に自分が源氏であることを強調する。頼朝の真似ばかりしているのだ。相模から安房へ逃げて一旗揚げるが、押し立てた旗は大中黒や二両引きではなく、源氏の白旗だった。戦勝を祈願して八幡宮に詣でた折には白鳩が舞った。仲間になる武士が追いついてくるのを、橋で待ったりしている。義実−源氏−八幡の延長線上には、村雨ならぬ水気の剣・天叢雲剣を携えた日本武尊もいる。連環は、此処に留まらない。
また、八幡社の謎、如何見ても八幡本人よりも比売神を尊重する配置は、抑もの八幡社の機能が、応神を祀ることとは別にあったと想定させる。何かの都合、こういう場合は時の関係者の現世的な利害が絡みがちだが、何等かの理由で応神を前面に押し出さねばならないために「比売神」を背後に押し込めた。偶々神話が固定され現在に至った、と考えられるのだ。現在の一般に行われている八幡を中心とする解釈だって、正しいとは限らない。それらも後世の史料に拠る所が大きく必ずしも証拠があるとは言えない。しかも、本稿の対象は、飽くまで八犬伝であり、八犬伝中の現象を説明できれば良い。八幡だろうが何だろうが、其の解釈は総て、八犬伝読解に従属する。
 宇佐八幡で配置上、八幡より比売神が優位に立っている事実を、単純に解釈すれば、神格としても比売神が八幡より尊重されて然るべきだ。そして、馬琴が縁起を執筆した両子寺では配置上、観音が本地、八幡/仁聞が垂迹であるよう表現されていた。仏に性別は無いと言われるけれども、日本人にとって観音は、女性だ。少なくとも女性と、より深い関係を感じさせる。八犬伝に於いて八幡は、里見家の氏神であり重要な存在だ。伏姫は、神格化し比売神と呼ばれる一方、観音が正体であるとされている。宇佐神宮に於いて最も尊重さるべきは比売神であり、八幡/応神は眷属の位置にある。両子寺では端的に、観音が八幡と習合されていた。宇佐八幡・両子寺で表現されている宗教的な遠近感が、八犬伝に投影されているように思えてならない。

 八幡神は一体、何者なのであろうか。特に本稿では、里見家ひいては源家の氏神としての八幡の性格に焦点を当てたい。見回すと、神奈川県寒川町・安楽寺が目を惹く。此の寺を建立したのは、古代末/中世初頭の菅原氏長者・是綱と清房の兄弟だった。「安楽寺」なんて名の寺は、恐らく全国に多いだろう。しかし、菅原氏長者が建てた寺が、道真の廟と同名であるとなれば、看過できぬ。道真を祀っている本社は太宰府天満宮だ。別名、「天原山安楽寺」である。則ち、相模寒川・安楽寺は、太宰府天満宮/天原山安楽寺を<勧請>したに他ならぬ。
 えぇっと蛇足すれば、前近代の宗教観に於いては、まぁ例外的なハネッ帰りはイツの時代にもいたんだが、一般に神仏は習合していた。其の習合は、理念のみならず寺社の形態にも表現された。両子寺では境内に鳥居があって、潜った先に八幡と観音を祀った奥の院がある。以前に紹介した千葉妙見は、寺でもあった。愛媛県には、二匹の狛犬ならぬ狛狐によって守られている寺もある。太宰府も、神社としては天満宮だが、寺としては安楽寺なのだ。
先学の業績に拠ると、菅原是綱・清房を相次いで相模権守・相模守に補任させて招き安楽寺を建立せしめたは、源頼義・義家父子であった。また頼義・義家は菅原氏長者と縁戚関係を結んだ。相模寒川・安楽寺の立地も興味深く、一つの古墳を境内に取り込む形で建立されている。源家は此の古墳を、応神塚と呼んだ。応神、即ち八幡である。道真菩提所の境内に、八幡が坐す。天神と八幡を一体化したことになる。寒川町は、また、当然の如く、寒川神社の所在であり、寒川神社は源家の氏神だ。即ち寒川は源家の聖地であった。聖地にある古墳を応神/八幡塚と見なし、塚のある場所に道真の菩提所を築いたのである。菅原氏長者と源家嫡流の縁組みは、両家祭神の一体化に対応したものだと解せられる。源家による八幡と道真の一体化は恐らく、天皇をも凌駕する強力な天神を自分の裡に取り込もうとする一種の<政略>でもあったろうが、後世の私から見ても、両神は全く無関係ではない。毎度のこと乍ら寄り道をしつつ、道真の身元を洗ってみよう。まず「菅家瑞応録」からだ。

(道真は)天穂日命ノ後裔ナリ
日本紀神代巻云……素戔鳴尊乞取太神髻鬘及腕所纏八坂瓊五百箇御統濯天真名井●(歯に吉)然咀嚼而吹棄気噴之挟霧所生神号云正哉吾勝々曰天忍穂耳尊次天穂日命(菅家先祖也)次天津彦根尊次活津彦根尊次熊野杼樟日尊凡五男也矣……右五男中第一忍穂耳尊地神第二代之主也第二男穂日尊菅家之遠祖也考日本紀天穂日命十四世野見宿祢ト申セシ人有日本無双大力ナリ即人王十一代
追加天神七代国常立尊国挟槌尊豊斟渟尊泥土煮尊沙土煮尊大戸道尊木戸辺尊面足尊●(ニンベンに皇)根尊伊弉諾伊弉冉地神五代天照大神忍穂耳尊瓊々杵尊彦火出見尊●(盧に鳥)●(茲に鳥)草葺不合尊(已上)
人王十一代垂仁帝治世第七年比大和国当麻里勇悍無類大力アリ……其力量鉄棒ヲ引延ス事童ノタワムレニ異ナラス恒ニ村里ノ人ニ語テ云四方ニ於テ如何程尋ルトモ吾勇雄ニ雙者アラシ若強力ノ者有テ吾カ力ニ勝コトアラハタトヒ死ストモ恨無ケン時天皇聞召テ群臣ニ詔シテ曰朕聞当麻蹶速トテ天下ノ力士アリ若シ此ハ雙人アリヤ時ニ一臣{中納言是安}進言臣聞出雲国野見宿祢ト云人アリ試ニ召シテ蹶速ト力ヲ比シメ玉ヘト天皇大ニ悦ヒ即日遣長尾市野見宿祢ヲ召玉フ於是野見宿祢到京都即当麻蹶速ヲ召シテ野見ト禁門ノ外ニヲイテ捕力トラシム二人相対シテ立合各々足ヲアケ相蹈ム則蹶速カ脇骨ヲフミヲル亦腰ヲフミ折テ殺之誠ニ宿祢ノ大力比類ナシ天皇叡感不浅蹶速カ居所ヲ奪テ悉ク野見宿祢ニ賜宿祢都ニ留テ仕官ス而ルニ宿祢其力量ノ勝タルノミニラス才智又秀逸ノ聞ヘ有ケレハ帝ノ任用シ玉フノミニアラス百官諸公仰コト少カラス夫ヨリ廿六年過テノ後垂仁帝三十七年ノ秋七月皇后崩玉フ然ルニ吾神国ノ習ニテ万ノ事ニ物忌強神代ノ古風ニヤ人死スレハ多ク殉葬トテ其死人ノ親シキ者ヲ生ナカラ墓ヘ埋ム事ヲ習トス
夫レハ今皇女崩シ玉フコト後宮ノ中ヲ選ヒ両三人之官女ヲ御葬之供ニナシ玉ハン事時ニ其人ノ嘆キ無限皇帝聞之甚タ痛ミ玉フ野見宿祢奏シテ言殉埋之事非益国利人仁政吾本郷出雲国ヨリ土師トテ土細工ノ人百人ヲ召シ埴ヲトリ人馬●(立ふたつ)ニ種々ノ形ヲ造リ皇女ノ埋埋ニ随フヘキ官女ヲ三人造リ玉座チカク背ヲ置キ天皇ニ奏シテ云是三人ノ官女以て黄泉ノ侍女タルヘキト天皇其容兒ノ人ニ似テ美麗ナルヲ叡覧有テ大ニ感シ玉ヒ即チ勅シテ殉埋タラシム茲因テ永ク此国ヲ殉皆此例タルヘキトテ其後土工ノ作形ヲ以テ事ヲ治メケルコト誠ニ野見ノ臣カ功ナリトテ土師ノ姓を賜フ其後野見ノ臣モ日月立過生齢七十余歳ニシテ死去セリ即チ其家ヲ土師トテ菅家ノ遠祖トス其土師ノ臣後裔遠江介土師ノ宿祢古人ト云臣光仁帝天応元年奏シテ云吾居所地即大和菅原ト云里ナレハ菅原ヲ以名字トセント願ヒ申ケレハ即チ天皇勅許シテ初テ賜フ菅原氏(是菅原氏ノ元祖ナリ)古人ノ子清公ト云清公ノ子ヲ是善ト云而ルニ代々才智ノ家ニシテ博識ノ佳名殆ント異朝迄モカクレナシ於是是善公ハ父清公卿ノ才ニモ尚勝レ玉ヒケレハ時ノ帝仁明天皇其器ノ秀逸ナルコトヲ寵シ玉ヒテ日本大儒ノ美誉を賜ヒ……

 素戔鳴尊が珠を噛み砕いて産んだ五つ子のうち二男が、道真の祖先だという。天照大神が三女神を産んだときの話だ。十四代下った出雲国の野見宿祢は日本無双の怪力だった。他の力自慢と文字通りのデス・マッチを行い生き残って、天皇に仕えた。文官としても才能があり、皇后が薨じたとき、当時は殉死の風習が残っていたが、陵に埴輪を埋めたら殉死の代わりになる、と天皇らを上手く丸め込んだ。殉死の風習はなくなった。……なかなか感慨深い逸話だ。筆者は「犠牲の巫女」に於いて、

 いや寧ろ、現代では人間の知性は退化しているらしく、依り代から逆戻り、集団内で<呪われし者>を捏造して、マイノリティー差別、<負の凝集力>を高めようとしたりする。……中略……陰を有つことが<必然>であるならば、陰を完全に根絶やしにすることは出来ないし、そもそも全く否定することは不可能である。何故なら、「必然」なんだから。が、陰を散じ、実用上無化することは可能だ。人々の呪いを特定個人に集中し疎外し追放する行為は、紙片などの依り代を<水に流す>行事へと変換/進化し得る。……中略……古代、海上交通に於いて、海難を避けるため、一種の呪術者を乗船させたようだ。航海中、彼は決して体を洗わない。自らケガレるのだ。ケガレを集中した彼は、海難/禍/神の呪いを、一手に引き受ける。呪いを制御し処理するのだ。コレに依って、舟もしくは船団は、禍を逃れる。もし彼が処理に失敗し、海難の虞がある場合、彼自身が<処理>された。真っ先に殺されるのだ。過去に於ける<呪術的世界>の一齣である。こういった、生身の人間を犠牲にする発想は、やがて、洗練される。「洗練」は、別に難しいことぢゃない。身分の高い者が死んだ場合の殉死を禁じ、替わりに埴輪を古墳に埋める程の、<進歩>で十分だ。

と述べた。マイノリティー差別への道行きは、同時に、奸佞なる讒者が無辜の人物を陥れるときにも応用される。埴輪を創出した人物は、道真の祖先とされている。祖先は集団内での陋習を打ち破ることに成功した。一方、道真は、讒者によって陥れられ、故郷を遠く離れた太宰府で客死した。ボンクラではない、聡明で人間洞察にも優れていた道真なら、佞人の為した事など見通せたであろう。見通した上で、何も出来なかった。賢ぶった暗愚の君主をもつ臣下の宿命だ。よく・ある・話、同情にも値しない筈だが、同情を禁じ得ない。……などと寄り道をしている間に、やっぱり行数が尽きた。次回は、道真出生に纏わる部分を紹介することになろう。(お粗末様)
 

 

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