番外編「エロティック観音」
――ウメボシ伝説シリーズ6――
前回に引き続き、「菅家瑞応録」だ。
是善卿儒学ノ秀テ玉ヘルノミナラス兼テ仏乗ニ帰依シ給ヒ唐ノ白居易カ詞ニ此土ノ人嬰児ト云トモ事アレハ必ス西ニ向テ掌ヲ合セ阿弥陀仏ヲ称ス此ニ知ヌ此土ノ人ハ必シミタ仏ニ縁有ル事ヲト云ルニ原殊ニ弥陀尊ヲ仰信アル北ノ方ハ友氏ニテ是モ同シク法ニ帰依マシマシ朝暮称讃浄土経ヲ日課トシテ念誦セラル然ルニ尋常是善卿夫婦ノ間ニ嗣子ナキ事ヲ愁ヒ玉ヒ夫婦朝懺暮悔ノ暇ニハ然ルヘキ一子ヲ得ンコトヲノミ弥陀世尊ヘ祈誓アリケル世ノ習程悲シキハナシ角マテ栄ヘマシマシケル御中也シカ承和ノ春ノ頃何トナク北ノ方病ニツカセ玉ヒケレハ是善卿ノ御嘆キ限リナクさまさま介抱アリケレトモ其甲斐更ニアラシ咲花ノ姿モタチマチニ仁明帝承和七庚ノ申年二月十八日御年廿四歳ニテ空ク化野ノ露ト消玉ヒシカハ是善卿御嘆無限夫ヨリの地ハ弥増上求菩提ノ御営ミ浅カラス躬ハ束帯ニ縛ナカラ心ハ解脱ノ相ヲナシ玉ヒケル一夜北ノ方忌日ニ当リタリトテ持仏ニ終夜誦経マシマシケルカ不圓睡眠アリケル夢中ニ洪荒タル郊野ヲ歩ムソコハカトナク山野を歴テ一ツノ大河ヲ渉リ向ニ鉄ノ城門幾千重甍ヲナラヘテ見ヘタリケレハアナ不審トハ思ヒナカラ足ニ任セテ到リ玉フ閻魔ノ庁ニテソアリケル閻王是善卿ヲ近ク招曰汝閻浮ノ命根今度尽タルニ非ス姑ク命スヘキコトアリ其故如何トナレハ去ル頃世ヲ早クセシ汝カ妻常ニ西方ノ弥陀尊ニ帰依シ不断誦経ノ功徳ニ因テ頓ニ往生極楽ノ素懐ヲトクヘキ処ニ娑婆ニ於テ児ナキコトヲ愁ヒテシ一念臨終断末魔ノ障トナリ未タ中有ノ迷ヲ免レサレハ弥陀尊是ヲ深ク哀憐有権リニ観音菩薩ヲシテ汝等夫婦ノ間ニ授テ一子トナシテ其願満足セシメ玉ハントノ仏勅也看々ト宣フ時ニ忽チ光明赫々トシテ空中ヨリ観音大士東方ヘ飛去リ玉フ閻王此光ヲ指シテ此レコソ救世菩薩汝本国諸神ノ止リ玉フ処ノ高天原ヘ出現マシマス表示ナリ汝チ櫃ス其効シアラント懇ニ告ト終テ早々娑婆ニ帰スヘシ後者ニ下知シ玉フト見テ夢ハ覚タリ驚テアタリヲ見玉フニ吾カ館ノ持仏前ニ有リケリ……中略
此処で道真は、観音の生まれ変わりとなっている。尤も「高野山住僧幡慶夢記」なんかには、
同(正暦)五年九月五日大県郡普光寺僧幡慶語云為無依怙欲住高野未遂本意之間夢詣彼高野之処有一宿徳僧居倚子云我弘法大師是也汝遅来此地若思衣食難歟致衣食我自可与持天台六十巻可来為見也菅丞相者我違世之身野道風者順世之身也今称天満天神遍満世間結縁衆生幡慶夢謁大師已非少縁大師入滅之後其身不乱壊●(マダレに苗)在高野希代之事也大師才智勝世也草隷得功丞相足才智道風善草隷於称後身是尤有感者幡慶頗勤修学仍有此示現歟或云第三地(乃)菩薩云々(乃至不知十地菩薩亦注故人之所博為知十地頗載或文具見于左)
とあって、道真は弘法大師空海の生まれ変わりで、後に小野道風に生まれ変わった挙げ句、天満天神に化けたってことになってる。でも、これなんかは、単に有名人を強引に繋ぎ合わせただけって感じだ。しかし「菅家瑞応録」には、
菅公十八歳法性房対顔之事
前略……菅公曰十方仏菩薩皆是弘願深シ於中以何ノ仏菩薩為帰敬願クハ教示シ玉ヘ法性房即希代ノ行者ナレハ暗ニ菅公ノ同位ヲ計ラレケルニヤ専ラ観音ヲ以本尊トシ玉ヘシと示シ申サレケル其後菅公観音ヲ信シ玉フト云ヘトモ現身一同ナラサレハ帰信専一ナリカタシ依之ニ重テ法性房ヘ申入ラレ六観音ノ内何レカ予カ所帰ストセント有リケレハ法性房出京ノ砌示六観音画像云公ノ心ニ任セ探之目ヲ閉テ一尊ヲ取リ玉フサレハ菅公生涯十一面ヲ以帰仏ト定メ玉フ其本地薩●(土に垂)ノ表示ナランカ
とのエピソードを掲げ、道真イコール観音説に、一定のリアリティーを持たせようとしている。実話か如何か分かったもんぢゃないけどもね。また、他書にも
敬白周遍法界摩訶毘盧舎那如来一代教主釈迦牟尼無上大覚世尊西方極楽化主弥陀種覚八万十二権実聖教娑婆世界施無畏者観世音菩薩別天満天神眷属諸神等言夫一陰一陽不測謂之神大慈大悲無辺謂之仏和光同塵之道暫秘本地利益方便之門遂排横扉凡闕大小神祇之威勢莫不如来薩●(土に垂)之化現於是観世音菩薩有大誓願於斯土有大因縁於我等故為化日域今作天神必成現当之願望可在内外恩徳
……中略……
次神分 祈願 勧請
今此講演惣有五門一者明垂跡因縁二者讃本地観音三者現世利益四者憑後生引摂五者揚廻向功徳
第一明垂跡因縁者二気之秀曰人百福之宗曰神古人所謂生為賢人死為明神者……列二十二社以配祖宗従千万騎以致降幸永為恒規敢不失墜一人仰鎮護之誓万姓翹帰依之誠明感如水之分千月霊鑒以鏡之写万形就中嗜文学之者殊憑其恩患虚詐之者立帰其実況又依日蔵之孤夢聞天神之霊徳号太政威徳天多部類眷属神時之災害国之病患無非其鑒察無非其管領是則観自在尊之化現衆生済度之方便也或経云我滅度之後於末法中現大明神為説空法云々薩●(土に垂)之権化無疑又清浄法行経云我今幸遣弟子三聖悉是菩薩也往彼示現摩訶葉称老子光明童子称仲尼月明儒童子称顔淵云々此三菩薩等生人間兮弘儒学在夢後以為神明今観自在菩薩現天満天神其趣一揆絶常篇仍以伽陀可読歎礼拝頌曰
本体観世音 常在補陀落 為度衆生故 示現大明神
南無帰命頂礼 天満大自在天神本体観世音菩薩(「天神講式」)
とか何とかあって、道真の正体が観音だとする傍証は、枚挙に遑がない。馬琴が、それを信じてもおかしくはない情況なのだ。
さて此処で、観音とは如何なものであるか、復習してみよう。前に「鎮西彦山縁起」を引いたが、今回は「彦山流記」を挙げる。馬琴がものした「両子寺縁起」とも無縁ではなかろう史料である。
行者発希有心願拝宝池主信心堅固捧般若法味未誦三巻先現鷹形行者云鷹是小鳥王非宝池主云重誦秘密咒現俗形是行者云俗形是世間体全非池主又誦法花経現僧形是仏法主不能宝池主此等皆偽事云次現小龍形行者尚不用之次現十一面観音光明赫々尚以不用之吾不拝宝池実体不皈云尽心信碎肝膽誦顕密貴文弥増法味己(ママ)及半月敢无見物于時従池中有声告云於宝池正体者汝不能拝罪障尚重故也云々。爰行者起大嗔恚云我是大聖明王持者三界摂領有頼悪魔降伏不疑十二大夫加護八大童子随形第六天魔王尚繋縛何況余者乎云誦経論章疏要文秘密真言神咒唱凝邪正一如観念修真二諦法理之間山動地騒四方悉如長夜闇爰九頭八面大龍出現自山高自嶺長一面有三目似春日●(ナラビに立が二つ)出九頭有三目如暁星照曜口吐大炎同迦楼羅焔其身満虚空其気如大風開眼看之再无見之行者迷悶既被呑数発強盛念力以所持金剛杵正面一眼中打留之如夢四方悉晴行者見宝池本主遂本意速下向路俄大雨降洪水漲来澗河不得渡煩途中之処山中有一小屋行者立寄見之若女人有瑞厳饗応丁寧傍又無人行者脱湿衣裸居火辺女人見之脱己衣与行者々々我身清浄不可不浄衣着云女人見行者気色云伝聞一子慈悲平等仏不嫌浄不浄適行者衣湿只着之給我且奉行者結縁云強欲令着行者尚以辞退爰行者思我未知男女交会今試思云女人云裳被嫌恐於交会哉云固辞不用之行者無道押欲犯女人不用行者発熾盛言仍女人云然者先可吸口云行者云我身煩悩依身雖汗穢不浄口是日夜誦秘密真言汝是女人口尤不清浄敢不被吸口云于時女人云然不可遂本意云間無力吸口行者舌切落地其後女人現大龍身霹靂上天畢行者絶入一時許蘓息見其処无女人无小屋又我舌无山中独居心中観念奉恨不動明王八大嗔恚抑件女人何仏変化何菩薩所作慥顕之給千度触犯不捨離身者誰人誓願是明王本誓一持秘密咒生々而加護者何仏誓願明王弘誓奉仕修行者猶如薄伽梵者大聖尊願力示現二童子者為凡夫所現速顕之給我舌如本成給念願念不動明王本誓凝煩悩即菩提観念誦秘密神咒安実教要項歳十四五許童子出来摩頂思我舌如本身心安楽也于時空中有声告云我汝法施依妙雖現種々身形云真実正体極楽世界被云阿弥陀娑婆忍界被云十一面観音……
くだくだしいディテールを省略しつつ簡単に訳すと以下の通りだ。
修験者が「宝池」の主に会いたいと願った。鷹が現れた。修験者は、鷹は小鳥の王に過ぎず、此奴が宝池の主ではあり得ないと考えた。法華経を読むと今度は僧侶が現れた。修験者は、僧は仏法の主だが、やはり宝池の主ではないと考えた。次に小さな龍が現れた。修験者は無視した。すると次に、十一面観音が光に包まれて示現した。修験者は、これをも否定した。否定しながら修験者は、宝池の主に会うまで帰らないと心に誓った。顕教でも密教でも何でも良いからと、様々な経を唱えた。半月ばかり何も現れなかったが、或る日、池の中から声がした。「オマエみたいに罪障の深い人間が、宝池の正体を見ることなんか出来ん!」。修験者は逆上し、とくにかく凄い呪文、「経論章疏要文秘密真言神咒唱凝邪正一如観念修真二諦法理」を唱えた。山が動き地が騒ぎ、真っ暗闇になった。山ぐらいの大きさの龍が現れた。九つの頭に八つの顔、顔のそれぞれに照り輝く目が三つ。口から炎を吐き、気がまるで大風のように迫ってくる。体は目の前の空間いっぱいに拡がり、何処から何処までと、境目すら分からない。行者は行く道に迷い、独り身悶える。あふんあふん。ジタバタするうち、持っていた金剛杵/杖で、正面に見える龍の目を打った。急に明るくなり、龍の姿は消えた。修験者は、宝池の主に会って本意を遂げたと喜んだ。下山の道に差し掛かると、豪雨に見舞われた。川は激流となり、渡れない。ウジウジしていると、山小屋が目に付いた。修験者が立ち寄ると、中には若く美しく、そして何処かしら高貴さを漂わす女が独りで居た。むらむら。若く美しい女は、修験者を丁寧に饗応した。若く美しい女は修験者に、ねっとりした声で囁いた。
「ねぇ……脱いで」
「え?」
「ほらぁ、濡れてるから風邪ひくわよ」
「は、はぁ……」修験者は全裸になる。女人は換えの服を差し出すが、
「不浄の衣は身に付けん!」と腰に手を当て、偉そうにブラブラさせる。恐らく、露出狂なのだろう。
「仏は、浄・不浄を差別せず慈しむと聞きます。やせ我慢せずに服を着なさい」ブラブラに動じず女性は言い返すが修験者、更にブラブラさせて
「いいや、儂はこれで良い。鍛え方が違うから、風邪などひかんのぢゃ。それに、ほれ、心頭滅却すれば、火も又涼し」と言いつつ、イソイソと囲炉裏に近付き暖まる。
体が温まってくると、心にゆとりが生ずる。冷気からの攻勢で守りに回っていた心が、膨脹/攻撃性を纏いだす。修験者は想う。(そういや俺って女とセックスしたことないんだよなぁ。やりてぇよなぁ)。修験者は女に向かって、
「セックスしよう」
「はぁぁぁ?」女は驚くというより、呆れたようだった。
「セックスしよう」
「アンタ、さっき、女の衣は穢れてるから着ないって言ったぢゃん。穢れた女を抱く積もりなの? 坊さんには稚児がお似合いだよ」と拒むが、修験者は女を無理遣り押し倒す。女は受け入れない。修験者は激怒し、狼藉に及ぼうとする。
「分かったわ……乱暴は止して」女は抗っていた腕の力を抜く。
「ぐふふふふ、やっと観念したか」
「えぇ、でも、いきなりは嫌」
「ふむふむ。では、まず何をするのぢゃ?」
「唇を……唇を吸って」女は目を閉じ、濡れた唇を半ば開く。が、修験者は、
「嫌じゃ」
「なんで?」
「儂の口は常時ありがたい経文を唱えておるから清浄なのぢゃ。五辛肉食もせんし。穢れた女の口を吸うなぞ、思いも寄らん」
「何が清浄だよ、この口臭オヤジ。モノには順序ってもんがあるんだよ。だいたい濡れなきゃお互い痛いだけなんだよ。気持ちよくしたいんだったら、まず唇を吸ってアタシを濡らしてみな。唇を吸わなきゃ絶ぇぇぇ対っに、しないからね」
「うーむ、仕方ないのぉ」
「吸うだけぢゃダメなんだよ。ちゃんと舌を挿入て絡め合って」
「絡め合う?」
「そう、レロレロと」
「れ、レロレロとなっ!」修験者は覚悟を決めて女の口を吸うことにした。セックス出来るんだったら、もう何でもする気になっていた。恐る恐る女と唇を重ね、舌を挿入る。案外に硬い感触のヌラヌラした物体が絡んでくる。表面は少しザラついている。導かれるままに修験者の舌は伸びきり、吸われる。魔羅が硬く膨れ痛みを感じるほどだった。修験者は夢中になって、女の唇を貪った。れろれろれろれろ。
「ぎゃあああああっっ」絶叫と共に血を噴き出して修験者は蹲った。目の前に、女に噛み切られた舌が落ちている。朦朧としていく意識の中で修験者は、若い女が龍に変じ、昇天するのを見た、ような気がした。修験者は失神した。
一時ばかりあって修験者は正気を取り戻した。目の前に落ちていた舌はなくなっていた。見上げると、山小屋さえない。不動明王に祈ると、十四五歳の少年が現れ、修験者の頭を撫でた。修験者の舌は元通りになり、心も落ち着いた。その時、天から声がした。「儂は十一面観音ぢゃ。オマエの術が仲々だったから色々な儂の姿を見せてやったのぢゃ」……
龍が即ち観音の化身であることを示す逸話だ。考えてみれば、「宝池」、観音の在所・補陀落山にある池だろう。だいたい彦山は三つの峰「南 俗体嶽(伊弉諾尊釈迦垂迹)北 法体嶽(天忍骨尊阿弥陀垂迹)中央 女体嶽(伊弉册尊千手垂迹)」(「彦山流記」)に見立てており、女体嶽は千手観音/伊弉册であるとされている。妄想を逞しうすれば、陰の甚だしきモノは太陰であり、太陰は水であり月である。水を湛える<池>自体が女性性を秘めており、雨神としての龍が棲むのも適当だ。卵と鶏、何連が先かは別として、「彦山流記」が典型的に示す、観音−龍−女性のセットは、日本人の伝統的な空想世界の中では、ピッタリ嵌っている。まぁ、このような<三所権現>の信仰は、別に彦山の専売ではない。例えば、徳川家康を祀る日光山/二荒山にも見られる形態だ。まぁ、龍と観音の組み合わせに限れば、何て事はない、馬琴の住む江戸にだって、 観音を祀った「金龍山」って寺があった。浅草寺だ。
とにかく観音と龍は、かなり親近性が高い。八犬伝序盤、里見義実が安房へと逃げ出すとき、白龍が現れたは、単に国を支配する前兆というのではなく、終盤で明かされる、伏姫・観音習合の伏線だったのだろう。また、ツイデに言えば、上記「彦山流記」で女人が行者の舌を噛み切る場面は、辻君となった船虫が、次々に男どもを餌食にする場面を思い出させぬでもない。彦山流記と船虫描写には直接的な関係は無いであろうが、魔羅の挿入行為よりも或いは、口吸い/ディープ・キスの方が淫らであったかもしれず、このような描写で昔の人が、現代人より濃厚なエロティシズムを感じたであろうことは、容易に察せられる。馬琴、実はエロ小説家としても一流になれたかもしれない。
馬琴の妖しくも無量広大、且つ重層の空想世界は、更に如何ような相貌を秘めているのであろうか。(お粗末様)