番外編「三韓征伐」

 
                       ――ウメボシ伝説シリーズ7――

 ところで話は前後して、八幡神/応神天皇の伝説に再び触れねばならない。まず兎園小説別集に載す所を引く。

正八幡の事 正八幡宮と申ことの先づふるく見えたるは二十二社註式曰大隅国正八幡宮(桑原郡)正宮者始在大隅国両八幡後至豊後国坐宇佐郡大隅宮大御前(大比留女兼右按之神功か)南面(応神)若宮(仁徳)西向(武内)家記云人皇三十代欽明天皇五年(甲子)顕座また帝王編年記曰後深草院建長五年三月十二日大隅国正八幡宮神殿舎屋已下焼亡のよしも見えたり按ずるに註式の説による時は宇佐石清水の御宮よりもはやく鎮座ましましけるなりさて延喜式神名帳に大隅国桑原郡一座鹿児島神社と記す者即この御宮のことなりそもそも此御宮の外に古にも今にも正しく正八幡と称し奉るはあらずしかるに諸社一覧に鹿児島神社桑原郡に在り正八幡と号す祭神二説彦火々出見尊(一説)○大隅国正八幡火々出見尊也与宇佐八幡不同(神書抄)大隅宮神功皇后乎大御前豊玉姫南面応神帝若宮仁徳帝西向武内臣也(兼右説)また八幡宮本紀にも兼右のいはく神功皇后也予をもてこれをみれば先づ火々出見尊とすること古書の所見なし此尊を八幡宮と称し奉るもそのよしかなはず又神功皇后といへるは註式に大比留女兼右按之神功歟といへるを謬り解したるものなるべしこれは大比留女とあるが八幡宮には似つかはしからねば同女神なるを配して神功歟といへるならんとおもはれたりさて正八幡の正字のよしは安斎随筆武蔵鐙巻に古き軍談の冊子等に武士の誓詞に正八幡宮も照覧あれと云語あり八幡の本地阿弥陀也とて八幡大菩薩と号するに依て神と仏と入交り紛らはしきゆゑ本地を除去正真の八幡大神宮と云意なるべし観音は三十三身に変化すると云に依て変化せざる時の正体を正観音と号するに同じといへりか丶らば宇佐石清水などには大菩薩の号もあり放生会も行はれてその縁起託宣集などいへるものにも仏語多く用ひたりければ此大隅に斎き祭れる御社こそさる故もなくいちはやく鎮座ましませしかばやがて正八幡とた丶へ奉りしなるべし
御状に御申こしの八幡本紀もよみもしつ且蔵●(土の下に弁)なしたりけるを再びよく見候へど正八幡と申名は右に引用のこと丶見ゆれど正の字のよしなど曾てあらず且その外の御説共も予が管見には未だ何の書にも見あたり侍らず
文政乙酉五月十九日                       山崎美成識

 これは正八幡の「正」の字に拘った項だが、八幡が応神であり、神功皇后や仁徳帝、武内宿祢が関係者として同時に祀られる、八幡の本地が阿弥陀であるなど、当時の一般常識を窺える。前に筆者は八犬伝読解に於いては、八幡の本地を観音と考えるべきだと書いた。馬琴が深く関わった蘊蓄集・兎園小説が八幡イコール阿弥陀説を採用していることは、遺憾である。遺憾ではあるが、上記引用文は、馬琴本人ではなく山崎美成の担当した項である。馬琴の所信であるとするには足らぬ。また、小説を創造する場合、一般的で常識的な知識を採用するとは限らない。奇説・珍説の類をこそ取り込む場合もあろう。常識的な見解ばかり繋ぎ合わせても、稗史は書けない。椿説弓張月なんてのも、生まれはしなかっただろう。

 前置きが長くなったが、本題に入ろう。「●」に於いて筆者は、現在の八幡神(原初八幡神は本稿の射程外)に纏わる神話のモトネタの一つ、朝鮮半島と日本の戦争に就いて、日本書紀に拠った。何故なら紀は、国史であるから。事実そのものとしての信憑性は確かに低いが、それは他の史料だって同じだ。同じく疑わしいものなら、責任の明確なモノの方が良い。何故なら、その「責任」故のバイアスが比較的単純に推測されるによって、嘘の表記に隠された真実が那辺にあるか、まだしも限定し易いからだ。し易いだけで、出来るとは限らないが。
 言語は、其を発する者の位置によって、解釈を変えねばならない。発する者の位置が分らぬ言葉ほど、解釈が難しいものはない。此の位置を明示せぬが嘘吐きの筆法、讒者のナライ、詐欺師の第一歩である。
 詐欺師と言えば、宗教家に如くはない。ただ、自らの構築したフィクションに殉じた良心的な詐欺師と、自分だけは醒めている確信犯・詐欺師の別があるだけだろう。人々に魅力的なフィクションを提供するのが宗教の務めであるが、政治も実は同様である。だから宗教は、政治と対立した時には革命の原動力ともなり得るが、追随すれば単に政治の補完物となる。いや、もしかしたら、宗教が一定以上に現実に対する柔軟性を持つに至れば、政治と呼んで差し支えないのではないか。逆に言えば、余りに現実/政治に妥協する「宗教」は、宗教とは呼べない。例えば日蓮宗は中世、迫害を受けた。しかし近代に至って、時の戦時体制を擁護するに詭弁すら弄した。日蓮ではなく、天皇を絶対とする論理に擦り代えたのだ。宗教と政治は本質として然程は変わり映えしないのだから、宗教は紙一重で政治の幇間に堕すのだ。
 しかし、考えてみれば、この宗教的な転向/裏切り/背信は、ある意味、筋が通っている。惟えば日蓮の論理には、淫らな宗教が蔓延すると夷敵が攻め込んでくるってのもあった。偶々元寇と重なったため、自ら予言者を以て任じた。裏返せば、夷敵への敵愾心/恐怖心を利用して、布教しようとした。デマゴーグとしては、仲々着眼点が良い。そしてまた、この筆法は<外なる者>への強烈な嫌悪感を剥き出しにする狭量さを根底に据えているだろうから、一貫していると言えば、一貫している。こういった未成熟な、唯一絶対を信ずる態度で夜空を見上げれば、北辰信仰に行き着く、のかもしれない。伝承に拠れば日蓮、伊勢・常明寺で読経した折、妙見菩薩を感得したらしい。満天の星を率いる不動の王者、彼はスターになりたかったのかもしれない。

 とか何とか言って来たが、日本仏教は古代後期以来、だいたい天台・真言の両宗に影響を受けてきた。日蓮とかも、基本は比叡山で学んだ。浄土宗祖や一遍なんかも、そうだ。仏教に於ける大学みたいなもんだったんだろう。甚だ個性的で強烈な弘法大師空海の陰に隠れがちの最澄ではあるが、実際には真言宗よりも天台宗の方が、影響力が強かった。創生期徳川幕府には日蓮宗の熱心な信者がいた。家康の側室であり「養珠院」と呼ばれ、里見と繋がる房総・政木家出身の、お万の方だ。紀州家すなわち永らく日本を支配した血脈の源である。しかし家康自身は、一時期日蓮宗僧を宗教的ブレーンとしていたようだが、後に天台宗へとシフトする。黒衣宰相と呼ばれた臨済宗・以心崇伝と共に信任の篤かった天台宗・天海は、三代・家光にも深く食い込み、自宗・日光山への家康廟遷座を成功した。戦国期に荒廃した日光山を与えられ再興したのが、天海であった。カンカンノウではないが、宗教派閥間の争いに家康の遺体が翻弄された、ってのは飽くまで現代的な視点であって、八犬伝を読むためには必要ないけど。閑話休題。

 そんなこんなで天台宗である。天台宗が長年捏ね繰り回してきた膨大なフィクションが、日本仏教全体に与えた影響は大きい。日蓮が法華経を<本尊>としたのだって、結局は、比叡山の受け売りだろう。其の比叡山は天皇/朝廷の尊崇篤く、政治とガンジガラメに絡み合っていた。中世には、<王法(天皇/王権)と仏法は両輪>とも言われていた。互いに補完し合っていたのだ。一般に、強固な対概念が互いに鬩ぎ合う方が健全なんだけど、両者が何となくズルズルベッタリするのが良いかなぁってのが<日本的発想>とすれば、正しく<日本的>だ。まぁ、「日本」なんて概念に過ぎないんだから、論者に依って何色にでも染まるんだけどもね。またしても、閑話休題。

 天台宗は、いや真言宗もだけど、神道でもある。本稿の読者は、もう「習合」なんて言葉は聞き飽きただろうけど、習合なんである。って言うか、本来の神道なんてものは、とっくの昔に廃れてしまって、如何なものだか解りはしない。儒仏やら陰陽道などによって再解釈され咀嚼され変形した別物が遺っているに過ぎない。変形したモノをも神道と呼ぶなら、ソレはソレで別に構わない。天台宗に於ける神道だって、立派に神道だし、何ならキリスト教で再解釈したって、何の不都合もない。神道なんて所詮は、その程度のモノだ。そして、「その程度のモノ」が、時に依り姿を変えた結果を見ることで、その時々に生きた人々の心が漂ってくる故に、それぞれの神道が、貴重であり存在の価値を獲得する。教義やら教団やら宗教家が、宗教の本体ではない。宗教の本体は、飽くまで、信ずる人々の心だ。若し其れが不在であれば単なるフィクション、三文小説、詐欺師の温床に過ぎない。三度、閑話休題。

 ……馬鹿話ばっかりしてても埒が開かない。天台宗に於ける神道に就いては、史料に語って貰った方が良さそうだ。異敵降伏は日蓮のみならず国家の安全保障上、重要な課題であった。故に国家と深く結び付いていた天台教学に於いて、異敵降伏の神は、関心の対象であったらしい。其れ系の話を、まずは「山家要略記」(神宮文庫版)から孫引く。

天武天皇即位元年淡海国大比叡明神傍垂迹八幡大菩薩今聖真子是也八幡大菩薩者日本武尊第二子穴戸豊浦宮仲哀天皇曾対馬嶋高麗国牧矣新羅住之開化天皇代於此嶋襲来
天照太神顕二兵降伏新羅而太多良妣●(女に羊)出現娑竭羅竜宮防抱之弼朝爾後息長宿祢女化為仲哀天皇后約而後此王治二年癸酉自大和国被遷都於穴戸偏是新羅来朝怖防之御世事仲哀天皇出於穴戸豊浦宮百寮及官兵従駕幸対馬征伐新羅嶋
天皇祈念言天龍八部庶我守勠力降伏魔軍相邦祈念貴人於天下言吾斯白鳥大神号今祈我我感応之古吾護倭有一住幸恰休官軍告者已幸而手自石磊霊檀屈請天照大神発願曰我今夜中作為此所乎城●(土に郭)矣防護新羅高麗怨賊倭安寧尊崇朝底神道祈誓石畳天童来?燈力士至自比良灘極三方山立矢採海底石築固城●(土に郭)息官軍厥内頌曰

治倭也富留神能誓濃石帖毀禹世極大倭嶋有礼

記銘于石壇号守門城而史巌●(山に咢)為海楼門扉新羅競来張陣架櫓築楯挙旌籏合戦八龍八白幡於天下上天皇則指令此幡合戦白鳥大神大将焉雷電虚空十万八龍加乎
天皇征伐若干異敵竟斬取是嶋渡新羅高麗合戦中流矢軍敗襄昆●(前のカンムリに呂の下に告がふたつ)山而玉鞍居之山巓吾末代約新羅高麗降伏焉於是嚮本朝飛白馬駕白雲来天皇仁諮於何来婆竭羅龍王使太多良妣●(女に羊)姉妣●(女に羊)太神命対進快天皇帰朝飛着対馬嶋異津山訖八幡八鳩供奉飛来此所迺為飛碕焉天皇勅宣武内宿祢告予今将崩慟矣末代憶者百皇半流邁予城已西戎競率邦泥取朝為他形無少安思之降伏念何世忘耶我不入還皇宮是垂跡守朝作摸予形体其陵仙向西海崇将称八幡大菩薩復贈安我諧介冑兵具予城八幡共城住以八幡名号而永新羅高麗累世怨賊矣世世降伏焉偏百皇守護鎮官兵擁護矣勅未●(門に癸)神功皇后上風龍虚空幸来悲嘆涕泣手自摸顕皇帝形貌●(謡のツクリの右に流のツクリ)生身爾明申日二月十五日崩終信遺勅扶入棺贈幸守門城為石龕出棺調兵具向西海入定了八幡定三●(シンニョウに一のした巾)変生八松住城即正八幡是矣
彼八幡大菩薩日吉大比叡明神傍遷幸以聖真子大菩薩顕御焉聖真子大菩薩者皇統鎮護明神異敵降伏大将也昔三輪金光勠心発誓流往葦原中国矣今同現三聖霊神為一乗鎮守凡神道の霊異権現出没以情不可思度以常例不可鑒察焉吾是如風於空中一切無障礙之身也語畢●(絛の糸が黒)忽以永隠矣奇特言説不能歎罷為伝流代梗概記之而已
貞観七年乙酉三月廿日     都良香謹記(扶桑古語霊異集)

 まず疑問とすべきは、仲哀が敗死した相手が、朝鮮半島であった点だ。国史である日本書紀には、同じ異民族でも相手は九州・熊襲になっている。しかも、それだけではなく、一般に八幡は応神の変生と言われているのに、仲哀になっている。紀に於いて仲哀は、神の託宣を冒涜したが為、熊襲に虐殺された。しかし、仏教説話・山家要略記で仲哀は高麗・新羅との戦いで、神に加護されつつも、乱軍の中で流れ矢に当たって不慮の死を遂げている。また、仏教を守護する龍神八部が深く関わっており、「白鳥大明神」を八幡とほぼ同じモノとして描いている。仲哀のことをワザワザ「日本武尊第二子」と規定する山家要略記に於いて、白鳥大明神は即ち、日本武尊であろう。且つ日本武尊が龍王と密接な関係にあることは、海神に召された彼の愛妃・弟橘姫の伝承を思い起こせば、自然と首肯し得る。山家要略記に載す説話は日本書紀よりも後に成立したと考えられるから、紀と仏教説話との間で、何等かの変遷が起こったことになる。変化の過程や理由は不明だが、冒涜者・仲哀が何時の間にか八幡神そのものになっている▼異敵が熊襲から朝鮮半島に移った−の二点が顕著に変わっている。
 まぁ仲哀イコール八幡論は後回しにして、異敵が熊襲から朝鮮半島に擦り替えられた点から考えてみよう。紀に於いて、朝鮮半島の存在すら認識の裡になかった筈の仲哀が、朝鮮半島を仇敵と定め子孫である後の皇統に侵略を遺勅している、即ち、後の天皇家/朝廷が仲哀の敗死を、朝鮮半島侵略を宿願とする原因として規定している点は、注目されて良い。後の朝廷が膨脹の欲望を正当化するために、無関係だった仲哀が引っぱり出され責任をなすくり付けられたのだ。やはり仲哀、仲々哀れな人物だ。惟えば八幡の事跡を喧伝するために書かれた「八幡愚童訓」冒頭なんかにも、例えば、

三千世界中央一四天下南辺劫初人化生寿命長無量也有光明飛行之徳有自然衣食資無貴賤上下位無合戦闘諍之愁漸果報衰地肥林茂粳味ウセ既農業ナリシカハ東作西収相論煩起サレハ慈悲深智恵サトキ大三摩多王トシテ彼随勅宣土毛以六分一可入其官庫トソ定ケル金銀銅鉄輪王ツ丶キ出世東西南北億兆遍ク靡風天無二日地無二王聖主膺運モヤミシカハ天竺ヲ五分十六大国五百中国十千小国粟散辺土出来帝王各御座此中新羅百済高麗国王臣貪欲心飽タル事ナク驕慢身不絶故討取日本国吾朝トテ攻来事数ケ度ナリ夫秋津島五畿七道悉行雲行雨社壇也一人萬民皆天神地神之御子孫ナリ去大梵天王統御離中華異域相接三韓雖皈此土吾朝未属他国三千座神祇並百王守護扉大小乗法伝衆生与楽教跡神明擁護不怠仏陀冥助無止事争傾神国誰滅仏家●(ニンベンに?)算異敵之来襲人王九代開化天皇四十八年廿萬三千人仲哀天皇御宇廿萬三千人神功皇后御代三十萬八千五百人応神天皇御時廿五萬人欽明天皇御宇三十萬四百余人敏達天皇御代ニハ播磨国明石浦迄着ケリ推古天皇八年四十三萬人天智天皇元年二萬三千人桓武天皇六年四十萬人文永弘安御宇ニ至マテ以上十一ケ度雖襲来皆追帰サレ多滅亡セリ其中仲哀天皇御時異国ヨリ責寄トテ……

とあるが、そんな大軍に、再々攻められた憶えはない。憶えはないのに、とにかく朝鮮半島の国々が攻めてきたってことにしている点が、怪しい。中世以降、九州南部は「日本」であり、仮想敵国ではなくなった。国境の向こうにある<敵国>は、まずは朝鮮半島となった。……だからと言って、過去の歴史を書き換えて良いワケでは決してないのだが、既に「日本」に組み込まれた九州南部が嘗て敵であった記憶を明示するより、現在の敵が昔から敵であったと嘘を言う方が、得だと打算したのだろう。

 歴史は、とりあえずは過去の事実の集積であり、来た道行きである。だからこそ人々の世界観に大きな影響を与え、ひいては政策決定の判断材料になる。虚構の集積は、歴史ではない。歴史ではないのだが、「歴史」だと言い切って、自らに都合良いイメージを与えたがる者もいる。それが、現実としての「政治」だ。事実を受け入れる覚悟がなければ、其れは所詮お遊び、政治ごっこでしかない。熊襲から朝鮮半島への、<敵国の書き換え>は、幼稚なレベルの政治の記憶だ。人は必ず、幼稚な段階を経る。ただし、千年経っても質的に変化しなければ単なるバカだ。

 現代人が中世以降成長しているか否か、それはさて措き、幼稚な時期には幼稚な活劇が楽しい。筆者も幼少の砌、一九六〇年代、怪獣映画を喜んだ。恐竜もどきやら、亀の化け物が活躍していた。愚かな童だったのだろう。そして、上記に引き続き「八幡愚童訓」には、まさに怪獣映画の如き活劇が描かれている。もののツイデだ。次回は、少年向け怪獣もどき活劇を紹介する。
(お粗末様)
 

 

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