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■処女懐胎■

 文章を書く上で人みな刺激的な語彙を使いたがる。文は「アヤ」とも訓む。内包に若干のズレがあっても、字面の派手さを優先しすることもあるだろう。営利を目的としていない本サイトでも、誘惑に駆られることが多々ある。商業メディアなら、尚更だろう。そして正に安手の政治家は、言葉の狭義と広義の狭間や解釈のズレを利用して、実質として嘘まで吐く。此処までくれば、日本語への冒涜である。
 今回のタイトルを「処女懐胎」とするに当たり、少しだけ悩んだ。言うまでもなく伏姫の八犬士懐胎に関して述べるのだが、既に「処女懐胎」と表現している論者も多くいる。其れ等の論は概ね、伏姫が八房犬と肉の交わり/セクースを致していないことを以て、「処女」だと言い募っているように見える。なるほど確かに、伏姫と八房は、セクロスしていない。故に伏姫は「処女」であるのだが、其のレベルに於いては「懐胎」もしていない。当たり前だ。懐胎していたら、八犬伝の構想が根底から崩れてしまう。
 肉体レベルに於いて、伏姫は処女である。然るによって、伏姫の子宮に胎児はいなかった。則ち「懐胎」していない。胎児の不在を以て伏姫は、八房と肉の交わりを致していない証拠とした。厳然たる作中事実である。勿論、犬の八房に突っ込まれても元々ヒトとして胎児は発生しないのだから、胎児の不在は交合していない証拠になりはしない、との突っ込みは可能に思えるかもしれない。しかし実は、証明可能なのだ。暗黙の前提として、伏姫は懐胎していた。だからこそ、伏姫は八房と肉の交わりを致していなかったことが、証明可能なのだ。理の当然である。……悪い癖で、わざと解りにくく書いてしまう。文は「アヤ」とも訓む。
 伏姫の「懐胎」は、牛飼童子/役行者の告知で明らかになる。「懐胎」は伏姫と八房の【気】が相感したことにより、果たされた。八犬士を懐胎したとは、あくまで「気」レベルの話なのだ。八犬士は、木の股から生まれたわけではない。それぞれ肉親としての母と父がいる。例えば犬塚番作さんと、腰つきが甚だ艶っぽい手束さんが、ハァハァアンアンと致したからこそ、信乃が生まれたのだ。コウノトリが運んできたワケぢゃぁない。手束さんを処女だと思いたがる者がいるとすれば、2chに巣食う変態オタクだけだろう。処女なんかでなくても、手束さんは甚だ魅力的だ。いや、そんな話をしようとしたのではなかった。
 俗に言う伏姫の「処女懐胎」は、肉体レベルの「処女」と気レベルの「懐胎」を混合しており、全く意味が無い。手束さんが肉体レベルで処女であり且つ信乃を産んだのであれば、驚くべきだし、まさに「処女懐胎」として特筆するに当たる。しかし伏姫は、肉体レベルで処女であり、肉体を有つ胎児を生成しなかった。処女たるが故に懐胎せず、と言うべきである。また、気のレベルでは相感し、懐胎した。「相感懐胎」とも言って良い。しかし「処女懐胎」だけは、戴けない。営利を目的としない本サイトでは、言葉の詐術を用い、殊更に刺激的な字面を採用する必要性を感じない。安易に「処女懐胎」なんて言う族は、田舎者を驚かせて教勢を拡大しようとする低俗な宗教詐欺だけだろう。真に受ける方が、如何かしている。
 にも拘わらず、今回のタイトルは「処女懐胎」である。種を明かせば単に、「処女」の意味を解体し、「懐胎」に繋げているだけだ。処女とは何者か。其れは未だ特定個人と配偶していない無垢の存在である。だからこそ処女の儘に出産することは、誰にも拘束されず、誰にも愛を偏向させない、万物の母/観音菩薩たる資格を獲得する。それだけの簡単な話だ。実は以前にも書いたが、論点を少しだけ整理し直した。

 但し其の前に、天岩戸神話を復習する{→▼}。此処では、各語句が何を象徴しているかとか、各部族の系譜が如何とか、瑣末な事柄には立ち入らない。また、神話が如何なる歴史事実を暗喩しているかも、考えない。ただ、神話を神話として読む。
 まず、日本書紀本文。死んだ妻/イザナミを追って黄泉へ赴いたイザナギは、死という【穢れた状態】を実見し恐怖に苛まれる。漸く妻と訣別し、現世に戻る。三貴子/アマテラス・ツクヨミ・スサノオを独りで産み、それぞれ高天原/天界・海・天下/地上を治めさせる。既に髯ボウボウになるほど成長しても、スサノオは泣いてばかりいて地上を統治しない。母を慕って根国/黄泉に行きたいという。イザナギは怒り、スサノオを根国に追放する。ところで、スサノオはイザナミの死後、イザナギ単独で産んだ神である。イザナミはスサノオにとって、父の元妻に過ぎず、母ではないのだが、まぁ細かいことは措いておこう。其れにしても、未練がましさは父親譲りか。古事記では、スサノオの泣き喚きにより、緑豊かな山々も枯れ海も涸れ悪しき神々が湧き出て、ありとあらゆる禍が生じた、ことになっている。此処で髯はスサノオが成人していることを示している。性徴である。そして後に追放されるに当たり、髯を切られているので、其れは男性性ひいては暴力性を象徴しているようでもある。
 但し、宇宙の三分割統治に関し「一書」には、アマテラス・ツクヨミの二柱が天を、スサノオが海を支配するよう命じられ、アマテラスの命によりツクヨミが地上/葦原中国に派遣されて保食神を殺す記述がある。アマテラスはツクヨミの残虐を嫌い、同時に天上へ昇ることをしなくなった。現在でも、地上から見た太陽と月の動きはズレている。古事記で、保食神に当たる大氣津比売神を殺す者は、スサノオだ。殺害の動機は紀一書のツクヨミと同様、排泄物を喰わされた点による。排泄物といっても、保食神だから清浄な食物だが、取り出し方が気に食わなかったのである。アマテラスによって天界から放逐されたスサノオが、途中でオオケツヒメを殺すことになっている。ツクヨミは文字通り月読だから、月神だ。月は太陽に対して太陰である。同じく天空に在って陰陽に分ければ、太陽が陽、月が陰になる。現象として太陽を陽、其れを隠す暴風雨を陰とすれば、スサノオこそ太陰神となる。同じく太陰であるによって、ツクヨミ/月とスサノオ/暴風雨は、混淆し入れ替わり得る。閑話休題。

 根国に追放されるスサノオは、天界に昇って姉アマテラスに挨拶しようとする。元来の神性が凶暴であるため、海は逆巻き山が咆哮した。暴風雨神の面目躍如である。アマテラスは、スサノオが天界を奪う「黒心」を抱いているかと疑う。試験の結果、スサノオは無邪気であること、「赤心」を証明できた。云う迄もなく心の色は、黒が陰、赤が陽である。黒/陰は相手を害せんとする心、赤/陽は其の様な野心のないことを示す。ただ、しかし、暴風雨神/スサノオは、悪気があって天候を乱し人を殺すのではない。人を害せんと意図してはいない。暴風雨神である故に、【自然】と人に害を及ぼしてしまうのだ。アマテラスは、スサノオの無邪気を認定して天界に入れたのだが、無邪気であるからといって無害であるとは限らないことを、思い知らされることになる。ちなみに、此処まで日本書紀と古事記の記述に、大きな異同は無い。

 漸く、天岩戸神話である。根国に赴くに当たり、姉に挨拶しに行ったスサノオは、何故だか天界に居座る。大人しくしていれば良いのだが、暴風雨神としての本質が抑も凶暴であるから、無邪気のうちに乱暴を働く。日本書紀本文に拠れば、乱暴は三つの段階を経る。アマテラスの領田/天狭田・長田に於ける生産活動を妨げる。続いてアマテラスの収穫祭/新嘗に於いて、糞尿を捲き散らし穢す。此処までアマテラスは、何もリアクションを取っていない。そして遂にスサノオは、アマテラスの機屋に、皮を剥いだ馬を放り込む。死の穢れである。驚いたアマテラスは梭で自らの身を傷付ける。初めてアマテラスは激怒し、天岩戸に隠れた。余りに有名な条{くだり}である。
 本文に続いて「一書」が三つ掲げられている。便宜上、表記順にA・B・Cとする。Aでは、機屋に馬の死体が投げ込まれたとき、機女が事故死している。Bでは、田の破壊後、馬の死体が投げ込まれた事案が発生、それでもアマテラスは怒らなかったが、スサノオがアマテラスの座に糞を仕込んだことで、漸く怒ったことになっている。Cでは、アマテラスにのみ美田が設定され、スサノオは貧しい痩田しか所有しておらず、此の不均衡ゆえスサノオがアマテラスの領田を破壊したことしか明示されていない。スサノオの乱暴は「云云」で纏められ、他にもあったように書かれてはいる。但し、何がアマテラスを怒らせたか、因果関係は書かれていない。更に云えば、古事記では、紀一書Aと同様、機女が死んでいる。

 紀一書Cは、アマテラスが怒った原因を書いていないので一旦、除外する。一書Bは、聖別されていたであろうアマテラスの座を、スサノオが糞で穢したことを、決定的な行為としている。一書Aと古事記は、スサノオが馬の死体を機屋に放り込むことにより共同体へ死の穢れを持ち込んだだけではなく、機女が事故死する悲劇を語っている。紀本文では、スサノオは死の穢れを持ち込むが、事故死した者はおらず、アマテラスが負傷するのみだ。

 記紀の本文では共に、スサノオが馬の死体を機屋に放り込むことで死の穢れを発生させたことを、決定事としているようだ。紀に一書群が載せられていることから明らかであるように、編纂時まで多系列の神話が存在していた。機女が事故死した神話も存在しており「一書」中、筆頭に掲げられている。また其れは古事記に採用されていた。正統神話として有力なもののうちの一つであったのだろう。対して紀本文では、馬の死体により死の穢れは発生しているものの、事故死した者はおらず、アマテラス自身が負傷することで、怒りへの道筋が明確化されている、とも言える。
 また、事態の深刻さを比べると当然、機女の死亡という悲劇を記す、一書A・古事記が最も重い。紀本文は、一書A・古事記と同系列だが、表記上は、やや悲劇性が薄らいでいる。一書Bは、スサノオの悪戯が、新嘗儀式全体に糞尿を捲き散らすものではなく、アマテラスの座に照準を絞ったものとしている。更に一書Cは、スサノオが田を毀つことしか明示していない代わりに、其の理由を豊かさの不均衡に求めており、日常感覚レベルで説明している。また、アマテラスとスサノオの領田を明確に分けており、個人{神?}間の争いであるとの側面を、最も強調している。
 スサノオの悪戯は、一書Cで個人{神?}間の確執という要素が最も濃くなる。一書Bは、新嘗という共同体儀礼が被害を受けるものの、実際に糞が仕込まれたのはアマテラスの座であり、照準は絞られている。アマテラス本人の権威失墜を狙ったものだ。一方、裏返すと、一書A・古事記は、スサノオの悪戯が、共同体全体に向けられた傾向が最も高い。共に、アマテラスの親族か眷属か、機女が事故死したことで、アマテラスとスサノオの対決を超えて、共同体に被害が及んでいる。一書B・Cと、一書A・古事記の中間に在るのが、紀本文である。但し、上記は飽くまで表記の問題であって、天界の族長たるアマテラスに対する挑戦は、取りも直さず、天界共同体全体に対する挑戦に、外ならない。

 記紀本文ともに載す、死の穢れ発生こそ、スサノオが為した悪戯のうち最悪のものとして、最終的に認定されたものであった。一書Bは、新嘗に於いてアマテラスの座に糞を仕込んだことを最悪としているが、「一書」の立場に甘んじている。何連が原初の形態か、明確な証拠の残らない現在、論じても仕方がない。紆余曲折を経たであろうが、結果として勝ち残って記紀本文に採用された事実により、正統性を認定する外ない。そして本文に採用されたことにより、後世に最も強い影響を与えたことも、想像に難くない。記紀読者にとって、死の穢れを最悪のものとする立場は、本文に採用されていることを以て、【正統】と受け取られることだろう。
 ただ、記紀の本文同士を比べた場合、アマテラスの御子孫/天皇家の神話を窺う上で、古事記の方が、より正統派だったと疑うことは出来る。天武天皇の勅命によって編まれた可能性があるからだ。対して日本書紀は、同じく天武天皇の勅命によって編纂事業が開始したと疑えるものの、本文の他に複数系統「一書」が併記されていることそのものが、当時の各部族間調整の痕跡となっている。国史編纂とは、穿って見れば権力者による都合の良い「歴史」の確定なのだが、日本書紀の場合、本文という形で編纂者の意図は汲めるものの、他系列の神話を抹殺していない。いまだ絶対性を獲得し得ていない権力の脆弱性を表現しているのか、とにかく【調整の結果としての本文】には、複数部族の主張を調整した結果としてのバイアスがかかっている可能性が生じる。天武天皇の私撰とも云うべき古事記と、国家事業編纂としての日本書紀には、自ずと違いが生じるだろう。このような事情を勘案するとき、古事記の方が、天皇家として正統な神話を伝えている疑いが残るのだ。

 記紀とも本文は、スサノオが共同体内に死の穢れを発生せしめたことを、アマテラスが天岩戸に隠れた原因としている。そして天岩戸隠れの責めを負わされ、千座置戸/千引岩も負わされ髯を切られたスサノオは、天界から根国へと放逐される。しかしスサノオは、さっさと根国に行けば良いものを、地上に立ち寄る。八岐大蛇を退治し、天叢雲剣を獲得、アマテラスに献上する。漸く根国へと至る{古事記では根国行きは明示されていない}。出雲/地上ではスサノオの子孫が栄えるが、天界からの軍に征服される。
 スサノオが天界から放逐された後の神話は、アマテラスの御子孫が天皇としてしろしめしたまう正当性を主張している。スサノオが根国に行くことは、天岩戸神話以前、イザナギの決定による。まず天界に寄り道して、天岩戸神話の原因をつくる。続いて地上へも寄り道して、天叢雲剣を天界に献上し、やっと大人しく根国に向かう。根国への追放途上、天界・地上、二度の猶予/モラトリアムは、アマテラスに天岩戸神話と天叢雲剣を付与するためのものであった。天岩戸神話は、日蝕だか何だか、太陽は一度隠れても、其れは完全な死滅ではなく、適正な儀礼/手続きを経れば、復活し得ることを教えている。だから、誰の遠祖が鏡を造っただの、誰の祖先が儀式で何をしただのを、クダクダ書いている。太陽神復活の儀式に、誰が関与するかの主張を盛り込んでいる。そして天叢雲剣は、水を呼ぶ呪物であるから、暴風雨神/スサノオのパワーそのものだ。天叢雲剣を献上するとは即ち、スサノオが自らの力/暴風雨の制御権を、アマテラスに捧げるに外ならない。則ち、天界は、日蝕など太陽が隠れた状態から回復する作業を成功させ、しかも太陽と対立し影響力を弱める暴風雨を制御するパワーを得た。自然現象/天候を制御することは、農耕社会に於いて、最も切実に求められるパワー/権力だ。スサノオの神話は、農耕社会を統べる正当性を説明しようとしているのである。更に云えば、スサノオはイザナギから、地上の統治を命じられていた。しかしスサノオは根国へと追放された。地上は空白地帯となる。そしてスサノオのパワーは、天叢雲剣という形で、アマテラスのものとなる。剣の献上に続いて、天孫による地上侵攻の物語が幕を開ける。付言するならば、イザナギは当初、三人の姉弟に宇宙を分与した。アマテラスは天界、ツクヨミが海、スサノオが地上である。海/龍宮と天孫は、二代に亘り婚姻関係を結ぶ。イザナギが三つに分けた宇宙は、天孫のもと再び統合へと向かう。

 再び、天岩戸神話に戻る。「天なるかな命なるかも」で八犬伝に於ける【天命】の意味を探り、【天】の性質を、「生命を愛する」と断じた。「生を好し死を憾むは、即天の心なり」{第三十七回・犬田小文吾}。「現天道は生を好して、殺を憎ませ給ふこと、是日の神の御こゝろ也」{第七十回・犬塚信乃}。「我大皇国の神の教は、死を忌て生を善し」{第百三十二回・里見義成}などがある。八犬伝に於いて、日本の【天】は、生命を愉しむ者である。こうした思考の始原が天岩戸神話に辿り着くことも指摘した。が、言及が余りに雑であるため今回、補足した。紀に載す一書群まで含めれば、アマテラスが実弟スサノオさえ追放せねばならなかった原初の理由は、必ずしも「死の穢れ」ではなかった可能性も生じる。しかし、最も正統たる記紀本文に於いて、「死の穢れ」こそが決定的な罪悪として記されている事実は重い。後世に最大の影響を与えたであろうからだ。此の論理は、「死の穢れ」を人為として生ぜしむる【殺】こそ、最悪の罪悪とする感覚に繋がるであろう。生命を愉しみ愛する態度と、殺を憎む心は、根を同じうする。
 其れにしては、八犬伝で人が多く死ぬ。犬まで死ぬ。凡百の物語と、何等、変わる所は無い。しかし犬江親兵衞仁が犬士として登場すると、雰囲気が変わる。親兵衞は、人を殺さない。殺さないどころか、伏姫に与えられた神薬を用いて、敵兵を甦らせもする。人は、MortalBeings/死すべき存在である。其れは天孫/瓊瓊杵尊が、妻として木花開耶姫を選んだ時から、何人も逃れられぬ運命となった。死こそ必然であり、甦生こそ天理に悖る。
 しかし其れは、生命を愛する故、親兵衞の勇み足/過剰と解すべきか。親兵衞は【仁】の純粋形として、富山で育まれた。故に人界に於いて、過剰な【仁】を発動してしまう。他の犬士、例えば信乃は程良く仁を有っている。しかし色々苦労した甲斐あって、適度に社会化されており、珍妙には至らない。此の「過剰」は、親兵衞の性質が仁であることを強調する、稗史作法と云えなくもない。

 ところで蟇田素藤と親兵衞の対峙は、蟇六と信乃の対立を映し替えたものだ、とは既に述べた。蝦蟇を土性とすれば、土剋水、信乃/水性は敵わない。しかして信乃は、山林房八への義理によって、親兵衞の親代わりとなる。相生の理は親子関係に擬せられる。親兵衞は仁であるが故に、木性である。故に、水生木、且つ木剋土。親兵衞は「蟇」なる者を打ち倒す。子は親の仇を討つ。
 そもそも、後に親兵衞と配偶する姫は、靜峯である。にも拘わらず、蟇田素藤と里見家との確執は、信乃と二世の縁ある浜路姫が原因となる。素藤は浜路に欲望を向けた。靜峯ではなく浜路が問題となる理由は、親兵衞が信乃の代行者とならねばならぬ点にこそ在る。親兵衞が信乃の代行者とならねばならぬ必然性は、信乃と親兵衞が疑似親子関係を結ぶ点に生じる。親兵衞が、信乃に代わって浜路を救う事案は、二人が疑似親子関係にあることを強調して示している。

 親には、父と母がある。信乃は、房八が自分のため犠牲となったことから、親兵衞を後見すると誓う。疑似親子関係の始点だ。また、房八が信乃と身代わり可能なほど、二人は似ていた。入れ替わるほど似ていたのであるから、中身も似たようなもんだろう。元々置換可能であったのだ。よって、差し当たり信乃は、親兵衞にとって、父親{代わり}となる。
 一方、八犬伝読者は既に、幼少のころ女装し与四郎犬に跨っていた信乃が、伏姫の映し身として提示されたことを知っている。そして信乃が親兵衞の親代わりになると宣言したと思ったら、色々あって、親兵衞は神隠しに遭ってしまう。伏姫神に攫われたのだ。富山の奥で伏姫に育まれる。伏姫は親兵衛にとって霊的な親であるから、「親代わり」との言い回しは、適切でないかもしれない。とはいえ「親代わり」だって親のうちだから、細かな所は気にしない。とにかく、両親を喪った親兵衛に対し、信乃が房八への義理によって親代わりになると宣言し、伏姫が親兵衞を富山に引き取って育む、との流れが注目されるのだ。則ち、信乃の親代わり宣言は、其れ其のものとして南関東大戦に於いて履行されるから空文ではないものの、伏姫が親兵衞を攫って養育することの、隠微な伏線となってもいる。女装して犬に跨る信乃が、伏姫の映し身であった作中事実を、忘れてはならない。

 伏姫の本体は、観世音菩薩であった。観音は女性性を多分に認められてきたが、元より菩薩は、性と無縁だ。三十三変態には、男もあり女もある。
 死期迫った伏姫は、法華経を読む。八歳龍女が成仏する箇所に目を止め、心惹かれている。原始仏教に於いて、女性は成仏できなかった。男の欲望を掻き立て精神を堕落させる肉体を有つ女性は、存在そのものが罪悪であった。女性は成仏できない、此の不可思議で強固な制限に、法華経は突破口を拓いた。女性としての肉体が問題なら、女性としての肉体を捨てれば、無問題。このため八歳龍女は成仏するとき「変生男子」、男子の肉体に変じた。説話レベルであれ、如斯き珍現象が起こる前提は当然、肉体が存在の本質でないとの考え方だ。思考や記憶の反芻、悦びや憎しみの感情などや欲動、一個の肉体内で起こり肉体を動かす動機となってきた心裡現象を古来、精神とか心とか呼んできた。八歳龍女の説話は、存在というものが肉体と、肉体ではない精神/霊的なものとを、共に含むことを前提としている。肉体と精神/霊の明確な分離である。実存なる肉体は女性であっても、八歳龍女の精神/霊は成仏の要件を満たした。肉体面での要件を満たすため、八歳龍女は女子としての肉体を捨てた。原始仏教はアレとして、後に日本で展開した仏教は概ね、肉体に比べると霊が永続すると考えた。成仏が死をも意味する如く、成仏は死後に達成可能だとされた。此の場合の「死」とは肉体が滅し、存在としての活動を停止することを指す。ならば一般に、精神面での要件を満たせば、肉体が滅んだ死後、精神/霊のレベルで女性の成仏を妨げる者は何もない。肉体と精神を分離することを前提に、八歳龍女の成仏を描く法華経は既に、「女性は成仏できない」とのルールを空文化している。仏陀直接の教えではなく偽経であろう法華経の段階では、女性にも成仏への道が拓かれていた。女体を有することは、必ずしも成仏への進路を、絶対的には妨げない。

 卵子は原則として、一つの精子と結合した瞬間、他の精子を拒もうとする。此の事実は女が、唯一人の男と配偶することを意味しない。精子が男そのものだとしても、予め卵子は、総ての精子に対し開かれている。結合した瞬間、其れは新たな個体になるべく予定される。新たな生命の予定者が発生した瞬間、他の精子{其れは取りも直さず新たな生命予定者の発生に寄与した男の分身であるに変わりはないのだが}を排除する。故に卵子が原則として、一つの精子と結合した瞬間、他の精子を排除することは、新たな生命/子にこそ、女/母が独占して関わり、男/父をも排除し得ることを意味している。女が男を尊重するとしたら、其れは子を庇護する父としてだ。夫は、飽くまでオマケである。こうした緊密な母子関係は、慈愛や自己犠牲など、夥の美談を産み出してきた。しかし其れは同時に、自分の子と他の子どもを差別化することでもある。ヒトとして全く正当ではある緊密な母子関係は、動もすれば、人として狭量なものともなる。いやまぁ人は元々狭量な者ではあるが、其れを増幅するのだ。稗史や文楽なんかにも、我が子を犠牲にして主家/自分の属する共同体を守ろうとする女が登場する。「我が子を犠牲にする母」が、余りに例外的であるからこそ、感動を呼ぶのだ。母にとって我が子を犠牲にすることは、或いは我が身を犠牲にするより辛いかもしれない。だからこそ、希有な「例外」となる。当然事なら、誰も感心しやしない。
 一方、処女は、まだ精子と結合していない卵子と同様に、万物に対し普く開かれている。生きとし生ける者すべてに、愛を向けることが可能だ。勿論、我利我利亡者の処女も実在しているわけだが、親が新自由主義者だか何だか、哀れなことに、育ちが悪かったのだろう。


 伏姫は、何者か。云う迄もなく、八房の妻であり、八犬士の母である。しかし実体としては、如何か。富山隠棲の状態でも八房は、伏姫の夫とは言い難い。抑も犬に、婚姻制度なんて通用しない。彼等の配偶は、生殖を目的とした、オートマチックなものに過ぎず、其れ以上ではない。富山隠棲後、八房にとって伏姫は実際、飼い主といえる者ですらない。仲間/群れの範疇であろう。オオカミが少女を育てるなら、八房が木の実を捧げて伏姫を養っても良い。いやまぁセックスもさせぬまま貢がせる女も最近はいるようだが、伏姫は、そんなに育ちが悪くはない。
 実のところ、伏姫が八房の妻だというのは、里見義実が勝手に言い出したことだ。其れを引き取って、伏姫が強引に主張しているだけ、とも言える。伏姫は富山隠棲以後、八房の妻どころか飼い主らしいことさえしていない。お姫様の儘だ。八房にとっても「妻? 其れって美味しいの?」と小首を傾げるより外、ないではないか。
 犬士の母として、伏姫は如何であろうか。犬士の精/気は、伏姫と八房の気が相感して生じた。牛飼童子/役行者の言葉にあるから、八犬伝に於ける天理と見做して差し支えない。しかし犬士の実体は、伏姫の胎内に無かった。此の事を以て伏姫は、八房と交合していない証拠とした。また、伏姫の切腹は、自死と同時に胎内の虚で潔白を示すものであるが、帝王切開に擬すことも出来ようか。但し、安全な出産を目指したものとは言い難い。伏姫割腹は、第一義に、八房と肉の交わりがなかったことを証明するために行われたと考える。言い換えると、八犬伝世界に於いて、肉体を有する胎児が生ずるのは、肉の交わりを結んだ場合のみであり、肉の交わりによりヒトとイヌとの間にも子が生じるのだ。
 云う迄もなく、犬士には、それぞれ肉親としての父母がいる。犬塚番作と手束が、ハァハァアンアンと致したからこそ、信乃が生まれた。我々八犬伝読者は、犬士が母なる伏姫に庇護されていると刷り込まれる一方で、犬士それぞれに肉親としての父母がいることも、受け容れている。要するに、伏姫は気/霊レベルの母であり、肉体上の母でないことを諒解している。犬士の気と肉体は、それぞれ別の存在により別の日時に別の場所で、生成された。八犬伝に於いて、気/霊と肉体は、峻別されているのだ。肉体の生成は、セクースに依る。では、気の生成は如何なものか。八犬伝では、伏姫/ヒトと八房/イヌの相感により、犬士の気が生成した。太平記を通じ、女性/ヒトと鉄柱/鉱物が相感した事例を挙げているから、ヒトとイヌの気が相感することへの疑問を封じ込める態度を、八犬伝は採っている。
 また、伏姫・八房の記憶は、犬士に継承されていない。犬士はヽ大に聞かされ、初めて里見家との縁を知る。肉体を伴う通常の出産でも記憶は継承されない。気/霊そのものは、記憶を蓄積していく。浜路姫に憑依した浜路の幽霊、犬村大角の実父/赤岩一角の幽霊、富山で親兵衞を養育する伏姫、何連も過去を語っている。よって、伏姫と八房の気が「相感」したことによって生成した気は、両者の気が単純に混合するのではなく、何等かのメカニズムにより、新たに発生したものと思われる。要するに、犬士の肉体は、肉親としての父母に授けられたものであるが、犬士が「犬士」たる所以となっている伏姫由来の気は、伏姫と八房の相感によって生成された。通常の出産では、肉親によって肉体も気も共に授けられるが、八犬伝世界に於いては、肉体と気を峻別するが故に、それぞれ別に発生したものが組み合わせられ得る。伏姫由来の気は、予め富山で生成され、器となる肉体を得るまで関八州を浮遊、恐らくは伏姫によって厳選された父母のもとへと託された。此の場合、肉親としての父母は肉体のみ授けたのか、気も授けたが伏姫由来の気によって排除・廃棄されたか上書きされたか、それとも支配・被支配の関係を含む共存であったかは、未だ詳らかではない。ただ云えることは、犬士は物語末尾で仙化したと思しい。即ち活躍を終えても、特殊な精神レベルを維持しているようだ。よって伏姫由来の気が消滅せず存続したと考えられる。

 玉梓末期の呪詛「殺さば殺せ。児孫まで、畜生道に導きて、この世からなる煩悩の、犬となさん」{第六回}により、八房が伏姫に執着し妻にする事件を、玉梓怨霊の仕業と読むことも可能だ。八犬伝読者として、怨霊の存在を感じながら読み進むことは正当であるし、馬琴の期待に添う。が、馬琴の構想では

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扨犬となりたるはこのうへ乃恥やある犬となりしといふにて八房玉梓か応報はこゝに尽せり玉梓既に八房乃犬となりては里見に功あり荘周胡蝶乃喩をもていハゝ八房はをのつから八房にて玉梓にはあらすこれを玉梓か後身也といふは文辞の仮称にして世俗乃き論を借ルものなりよし実に{ヒ:朱}既に犬乃大功を賞するのあまり伏姫をもてゆるせしは禍にしてこの禍は安西をうち滅せし福ひより来れりこの禍又一転して後に八士出現して里見乃佐となるものは淮南子に所言塞翁か馬にひとし是順逆奇伏の義也彼水滸乃発端洪大尉■リッシンベンに呉/テ走魔君は禍を醸セし也一百八乃豪傑世に出現セしは宋国乃福也こ連を用ひることを得せず賊中に義士をあらせしは蔡京光■ニンベンに求/{高球:朱}等かなセし禍也後に宋江等国乃為に方臘を討て大江を建しハ亦宋国乃福と也加ゝ連は魔君は百八人にあらす蔡京高球等にあり志■一字欠:かカ/るに水滸乃作者百八人を魔君とセしものハかれらか忠義ハ聖人乃道と齟齬す譬は小説乃実録とお那しからさるか如しこゝをもて魔に托セし也玉梓乃後身八房乃犬となりかは里是より八人乃豪傑を出す事水滸乃発端と同意也されはこそ実学者流実録をよむ眼目をもて小説を閲すれは作者乃体面を見かたかるへしと古人もいへり志かるを彼も玉梓か祟也これも玉梓か祟也とこと/\にことわることは伏姫孝にして賢美にしてよく淫ならずかゝる禍を受ること勧懲乃かたには疎なるに似たり故にその祟をいふものは文中の仮也意中乃仮にハあらす伏姫は犬乃気を感して孕るを羞これか為に自殺しみつからそ乃肚を裂て胎乃なきをよろこへり{犬夷評判記第二編稿料}
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であった。斬首によって肉体から離れた玉梓の怨霊は、八房犬の肉体に移った。此の時点で、悪女玉梓の因果応報は完了したことになっている。母犬は殺されたが、玉面嬢狸によって育まれた。或いは、玉面嬢の授乳によって玉梓の霊が八房に注入されたのかもしれない。そして八房は、獣らしい犬畜生として雄々しく成長した。何故だか敵将/安西景連を討ち里見家を救ったため、豪華な調度や食事を与えられたが満足せず、伏姫に纏わりついた。……当たり前だ。人間が豪華だとか旨いとか悦ぶからといって、犬が悦ぶとは限らない。安い鶏肉と高価なキャビアを並べたら、犬は多分、鶏肉を選ぶ。其れに不審を抱くことこそ、人間のトンチンカンだ。また、ヒトとイヌにも相性があり、合えばイヌはトコトン懐いてくる。執着と表現して良い程だ。また日本犬は自立心が強いので、トコトン懐いていても、反抗したりする。散歩時、唯々諾々と跟
いてくるとは限らない。嗅ぎたい所を嗅ぎたがるし、行きたい方向を主張したりもする。恐怖心を植え付け、反抗しないよう育てることは可能なようだが、「仁君」である義実が、其処迄エゲツなく調教したとは思えない。イヌは棒状のものを警戒するから、鎗を振り回す義実に吠え掛かることも当然だ。飼い主だからって、いきなり鎗を突き出されて、大人しく刺し殺されるイヌなんているものか。更にまた、牡イヌは発情した牝イヌの微妙な臭いに触発され、狂い立つ。猫と違って、イヌは仲々交通事故に遭わないものだが、それでも発情期には、突如として一目散に牝へと駆け出し、車に撥ねられ死亡する事故が後を絶たない。こうしたことはイヌを飼いイヌ好き同士で情報交換すれば、容易に得られる知見である。日本犬の性質が、数百年で変わるとも思えないので、八房の行動は、何故だか誤またず安西景連を討って生首を咥えてきたこと以外、まさにイヌらしいものに過ぎず、特殊なものとは思えない。其れを何か因縁めかして解釈してしまうのは、八房を何処かしら擬人化して読むからだ。情が移ればイヌさえ擬人化してしまうのが、人情だ。酔っ払って語り掛けることもあろうし、自分の危機を救ってくれると夢想する者すらいるかもしれない。其れは其れで、イヌの迷惑にならぬ限りで許される【甘え】だとは思う。
 八犬伝中、八房の擬人化を行った者は、義実を嚆矢とする。落城の危機に陥り、敵将/安西景連を倒す一発逆転を夢想して、八房に出撃するよう持ち掛ける。成功報酬は、伏姫との婚姻であった。藁にも縋る思いがあったかもしれないが、冗談に過ぎない。実現不可能な筈の夢想に、逃避しただけではあった。
 通常なら実現しない筈の戯言が、何故だか履行されてしまった。此の一点にこそ、超越的な何者か、恐らくは役行者が関与していよう。しかし此の後、八房の行動は、上記の如く、イヌから逸脱してはいない。豪華な食物を与えたり、身分の高い者として遇したり、常軌を逸しているのは義実の方なんである。景連を殺すよう命じたとき、義実は八房を擬人化しているが、其れは飽くまで、現実逃避の戯言であった。しかし戯言が現実となったとき、義実は明らかに確信犯として、八房を擬人化して遇し始めた。そして伏姫さえ、八房の執着を、自分を妻にする約束の履行を迫るものだと思い込んだ。自意識過剰と云えなくもないが、父である義実が八房を、意思もつ存在として擬人化しているのだから、仕方がない。何時の間にか伏姫も八房を擬人化して、人間モドキとして扱うようになっていたのだ。

 八房は伏姫を富山の奥へ連れて行く。富山は、物語の主宰神/役行者によって封鎖され、何人をも寄せ付けなくなる。当初、伏姫に脅されたとはいえ、景連を単独で討ち取る暴力性を露も見せず、八房は機嫌良く木の実を採ってきたりして過ごす。既に玉梓の記憶があるわけでもなく、怨霊に憑依されているとも言い難い、単なる獣として生きてきた八房は、伏姫の読経で更に浄化されたよう描かれている。伏姫と八房は、ヒトとイヌ、二つの生命として共存し、短い蜜月/ハネムーンを過ごした。突如として富山封鎖が解かれ、金碗大輔が闖入し八房を殺害する。挿絵では此の時、玉梓が成仏している。即ち八房が成仏している。八房になることで、即ちイヌの肉体に押し込められることで玉梓怨霊の応報は果てている。怨霊の余波は玉面嬢狸に影響を及ぼし後の事件へと繋がっていくが、玉梓本人は単なるイヌとなっている。多分、役行者の導きで景連を討つのだが、その他は猛々しいイヌに過ぎない。義実と伏姫によって擬人化され結局は、伏姫の夫に祭り上げられる。八房としては、お気に入りの伏姫と群れを成しているだけで御機嫌だ。単なる御機嫌な獣/八房の【気】は、伏姫の読経を聴くうち、成仏レベルまで浄化される。こうなると、もうイヌとか獣とかではなく、純化された霊だろう。そして伏姫の気と相感し、八犬士の気/精を新たに生成する。獣としての欲、イヌとしての欲、八房としての欲、すべて浄化され成仏しつつある霊とは即ち、獣でもイヌでも八房でもなくなっている。其の生命/霊は個体としての特性を完全に剥落させ、無垢な生命そのものとなっている、と想定し得る。

 気と気が相感し、新たな気/生命が生まれる。牛飼童子/役行者が語った天理である。通常は、気と気の相感、そして肉体と肉体の相姦が、同時に行われる。且つ、様々なレベルで個性を有する個体同士として配偶する。しかし伏姫と八房の配偶は、気レベルの相感のみであり、且つ八房の気からは個性が完全に払拭され浄化され単に純粋な生命そのものとなっている。其れは八房由来のものであっても、既に「八房のもの」とは云えない、生命一般に共通するものだと想定し得るのだ。だからこそ、八犬伝は八房を犬士の「父」とは表記しない。馬琴の立場は飽くまで

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この書乃主人公は八犬士也伏姫大輔等は八士を引出すの楔たり伏姫薄命云々大輔も亦薄命云々にして而後に八士あり八士をうむものは伏姫にして八士を汲引するものはヽ大也志からは此烈女義男は八士乃父母かく乃ことく薄命にあらされは八犬士乃後栄いつ連より来るよしあらん金碗氏後なしといへともおのつから後あり伏姫子なしといへともおのつから子ありそハ全本発兌乃後にこそ志るよしあら免作者といへともいまた志らさる所あり况看官をや
……中略……
八士乃出現ハ八房乃犬より起るといへともそ乃功徳は伏姫と大輔にあり{犬夷評判記第二編稿料}
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なのだ。犬士の気が八房由来である事実を否定しないが、犬士の「父」は大輔/ヽ大である。八房は、伏姫の夫であると迄は云えるかもしれない。其れとて人間側の擬人化による仮の関係性に過ぎない。八犬士の気/霊レベルの父であるかといえば、確かに気の生成に関与してはいるものの、八房としての個性を完全に剥奪され生命一般共通のものにまで純化されているのだから、犬士の気には八房としての何かは全く混入していない。犬士の霊的な父は、「八房」という固有名詞を以て語られる者ではなく単に生命そのものだ。八房にとっては、父たる甲斐のない状況であり、父と名乗る意味はない。如斯き議論の範疇に於いて、犬士の気が、八房犬に由来する気の関与で生成されたと云えるので、犬士は「犬士」と呼ばれるのだが、八房は何等かの特性を与えた者としての「父」ではない、と云えるのだ。伏姫の側からすれば、「八房」の個性が剥落した生命そのものと相感し、犬士の気を生成したことになる。普く開かれた門、生きとし生ける者すべてに開かれた処女は、何ら個性づけられていない生命そのものと配偶し孕むことで、生きとし生ける者すべての母となる。言い換えると、母であるにも拘わらず、生きとし生ける者すべてに愛を向ける者/処女の資格を有し続ける。但し「資格を有し続ける」のみであって、当初は犬士を偏愛する。里見家のみを擁護する。犬士たちの苦闘は、伏姫の霊的レベルが、観世音菩薩にまで向上する過程でもある。犬塚信乃・犬阪毛野による二度に亘る五十子城攻略や、結城大法会に当たって「小乗屋」に犬士が宿泊すること、犬江親兵衞が敵にまで伏姫の神薬を与えて甦生させること、洲崎沖で敵兵を祀る大法会を催すなど、幾つかの画期を経て、漸く伏姫は、【悪】なる存在を除き敵味方を超え万物を愛する、観世音菩薩として完成する。こうなると、伏姫が犬士を偏愛する理由はない。犬士から牡丹形の痣が消え、玉から八行の文字も消える。伏姫は犬士の母ではなく、万物の処女母/観音となる。

 結論である。伏姫が処女懐胎する意味を探る。卵子は到達してきた最初の精子を受け容れた直後、その他の精子を拒絶し始める。このメカニズムは、母なる者が配偶者ではなく、胎児と排他的な関係を結ぶこととパラレルである。生理上、母は子と排他的に結び付く。配偶者は、生命発生の契機を与えるに過ぎない。しかし子どもの遺伝子は半分、配偶者のものだ。子どもは、個性によって特定される何者かの性格を受け継ぐ。そして子どもは個性を有ち、外ならぬ特定された個人となる。特定個人としての子どもと排他的な関係を、母は結ぶ。裏返せば、母は子ども以外の者を排除する。此の意味で、普く開かれた門/観音菩薩のような【万人の母】は存在し得ない。但し、卵子をして新たな生命たらしむるものが、全く無個性で、ただ生命そのものとしかいえないなら、如何か。八房犬は玉梓の後身であるが、そもそも犬となった時点で応報は完了しており、玉梓ではなくなっている。あくまで八房であるに過ぎない。しかも八房は、富山で伏姫の読経を聴くうち、浄化される。成仏とは、現実界に生きる上で必然として身に負う穢れを、全く浄化されることを意味する。ならば、八房が死ぬ前後、玉梓が成仏したとは、玉梓/八房が、俗垢/個性を全く払拭され、仏のように清浄な生命そのものになったことを意味する。結局するところ、伏姫が授精した八房の生命は、玉梓としても八房としても個性を払拭された無垢な生命そのものであった。処女は万人に開かれている。しかし個性ある配偶者を得て、何者かの妻として、新たな生命を孕むことは、其の何者かと繋がることである。しかし其の「何者」かが、全く個性というものを有せず、生命そのものであれば、如何か。個性によって特定されず、万人に共通する生命そのものと繋がれば、其れは特定者ではなく万人と繋がることと等しい。いまだ誰かに拘束されず、万人に開かれた処女が、生きとし生けるもの総ての子を孕む。もとより伏姫は、八房と肉の交わりを行わなかった。其れが故に肉体は「処女」の儘であった。気は相感した。しかし、気の相感も、個性を以て特定される次元ではなく、全く無垢な生命そのものとなった八房との間に行われた。八房と特定すべき存在ではなく、生きとし生けるもの総てと置換可能な、生命そのものと相感したのである。気の側面に於いても、万人に開かれているという意味で、伏姫は処女の儘であった。何処かの家に、誰かの妻として組み込まれるのではなく、ただ処女と同じく万人に開かれた状態のまま懐胎し母になる。出自による敵/味方といった関係性から全く自由に、万人を包み込む普門の菩薩/観音になるための必要条件だ。
{お粗末様}

 

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